ウィーズリー一家とハーマイオニーが来て、グリモード・プレイスは一気ににぎやかになった。フレッドとジョージは毎朝のように厨房まで「姿現し」し、その度に「むやみに魔法を使うな」とウィーズリー夫人の怒号が飛んだ。時には、突然の出現に驚きのあまり誰かがスープの皿を引っ繰り返してしまう事もあった。
八月にもなると、屋敷は生活に支障が無い程度にはきれいになった。かつてヴォルデモートに対峙したダンブルドアの率いる仲間、不死鳥の騎士団も本格的に活動を始めたようで、本物のムーディやその他色々な魔法使いが出入りするようになった。敵はまだ、目立った動きを見せないまま。
新聞を運んで来たふくろうに、ハーマイオニーが銀貨を持たせる。パラパラと紙面をめくる彼女に、アリスが尋ねた。
「何か書かれてる?」
「いつもと同じよ」
ハーマイオニーは顔をしかめた。
「魔法薬の研究者の自宅から爆音がして魔法省が駆けつけてみれば、調合ミスによる爆発でも何でもなく、爆音そのものが目的のはた迷惑な開発……『ポッターが喜んで手を貸しそうな悪目立ちである。シャノンが近所に住んでいなくて、彼は喜ぶべきかも知れない。彼も、唐突に首を絞められたくはないであろうから』」
読み上げ、ハーマイオニーはフンと鼻を鳴らす。
ここ最近の日刊予言者新聞は、ずっとこの調子だった。何か突拍子も無い事件があれば、ハリーにお似合いだの、サラがいたら危なかっただのと付け加える。ダンブルドアに関しても、まるで老いぼれて事実の判断が覚束なくなったかのような印象操作を行っていた。ヴォルデモートが蘇ったと主張を続けたダンブルドアは、国際魔法使い連盟の議長職やウィゼンガモットの主席魔法戦士と言った地位をを剥奪されている。
「今日も、サラは出て来ないのかしら……」
ぽつりと、ジニーが呟いた。
フレッドやジョージと共に騒いでいたロンが、ふと黙り込む。
「あ……あたし、ちょっと見て来るよ!」
エリは食べかけの朝食もそのままに席を立つと、厨房を飛び出して行った。
向かうはもちろん、サラの部屋。元々家では自室に引きこもる事の多いサラだったが、今年の夏、それもロンやハーマイオニーが来てからはそれが顕著だ。
このままで良いはずが無い。今は、皆で力を合わせなければならない時だと言うのに。
「サラ!」
呼びかけ一気に扉を押し開こうとしたがしかし、かけられた鍵に阻まれそれは叶わなかった。
仕方無しに、エリはドンドンと部屋の戸を叩く。
「サラ、開けてよ! いつまでそうやって引きこもってるつもりなんだ? 皆、サラを心配してるよ!」
扉を叩くのをやめれば、しんと廊下は静まり返る。階下から幽かに物音は聞こえるが、広いこの屋敷では厨房の話し声までは聞こえなかった。
ややあって、中から声がした。
「……皆って、誰の事を言っているの?」
「誰って……」
「スリザリンの血を引くなんて、ただの危険人物でしかないわ。あまり顔を合わせたくないでしょう」
「あのなあ。何があったか知らないけど、ロンやハーマイオニーがそんな事でサラを嫌う訳がないだろ。血筋なんて関係ない。サラはサラだって、二人とも解って――」
「あなたには解らないわよ」
きっぱりと突き放すような言葉。
徐々に、苛立ちがこみ上げて来る。ロンもハーマイオニーも、血筋で親友を見放すような人達ではない。どうして解らない?
「解ってないのは、サラの方だろ! あいつらはサラの友達だろ。親友だろ。なのに、親友をそんな酷い奴らだと思うのかよ? それはあんまりなんじゃないか?」
「――あなたに何が解るって言うのよ!」
「解るよ! あいつらがそんな奴じゃないって事ぐらい! お前、あたしよりもっと長く、もっとずっと一緒にいたんだろ。なのになんで、解らねえんだよ? なんで、友達をそんな酷い奴だと思うんだよ!
お前が気付いてないなら教えてやるけどな、あたしだって同じなんだ。ヴォルデモートの親戚で、スリザリンの血を引いてる。アリスだって、母さんだって。でも、あたしが逃げたか? アリスや母さんが引きこもったりしたか!?」
しんと部屋の中は静まり返っていた。
会話さえも拒絶し、奥へ引っ込んでしまったのだろうか。扉越しにも、いないのかもしれない。
「おい――」
言いかけたところで、ぽつりと言葉が返って来た。
「……あなたは、誰も怯えたりなんてしないじゃない」
酷く弱々しい声だった。震えているようにさえ感じられた。
「私は、あなた達とは違うもの。私だって、解っているのよ……私が彼に、最も近いって事」
「サラ……そんな――」
大きな金属音が、エリの言葉を遮った。続いて聞こえ出す、甲高い悲鳴のような声。
ガチャリと音がして、当然のように扉が開いた。ロン達が来て以来初めて出て来たのを見たのに驚く事もなく、エリとサラは顔を見合わせる。
叫び声はいつもの絵画だろう。問題は、その前の騒音。何事かあったのか。
二人はバタバタと階段を駆け下りて行く。階下では、厨房からも物音に驚いた一同が飛び出して来ていた。サラが階段の上にいる事にも気付かず、皆の視線は傘立てを慌てて直している魔女へと集中していた。緑色の髪の、見覚えの無い若い女。
「ごめんなさい――ごめんなさい、ちょっとこれに引っかかって――」
絵画の叫びに負けじと、女は叫ぶ。
「あっ」と声を上げたのは、シリウスだった。
「君、もしかしてアンドロメダの所の――?」
玄関扉が開いて、本日二人目の客人が姿を現した。義眼に義足、傷だらけの顔が特徴的な闇払い。
「先に来ていたか」
ムーディは中まで入って来ると、呆然とする一同を見回し、ぽんと派手な髪色の女の肩を叩いた。
「ニンファドーラ・トンクス。わしの後輩で、若いがなかなか腕が立つ。
今日から、彼女も不死鳥の騎士団の一員だ」
No.35
「もう、どうしていいのか判んねえよ……」
テーブルの上には、豪勢な食事が並んでいる。トンクスの騎士団加入祝いにと、腕によりをかけて作られたのだ。主役であるトンクスに合わせたのか、今夜の夕飯は日本食の面影が一切見られない。
トンクスの七変化披露に皆が注目している傍ら、エリはテーブルの隅に座るシリウスにぼやいていた。
今夜も、サラは部屋から出て来ない。シリウスが、夕飯の一部をクリーチャーに持たせていた。
「あたしが行くと、どうも喧嘩になっちまうんだよなあ……。今朝もさ。そんなつもり無かったのに」
「エリはよくやってるよ」
ぽんぽん、と慰めるように大きな掌が机に突っ伏したエリの頭を撫でる。
「今は時間が必要なんだろう。あの子は一人じゃない。同じ境遇の家族が、三人もいるんだ。それはきっと、大きな心の支えになるはずだ」
「……『同じじゃない』って言われた」
エリは、スープをスプーンでぐるぐるとかき混ぜる。
「サラは、あたしとは違うってさ。
あー……何か、ヤな事思い出した。小学生の頃、サラに言った事あるんだよな。あたしはお前なんかとは違うって。引きずってんのかなあ……」
「そんな古い話は関係無いだろう」
「やー、案外そうでもないかも。小学生の頃さ、サラの奴、自分に敵対する奴らを当たり前のように魔法でこらしめてて……多分、その事言ってるんだろうと思うんだ。自分がヴォルデモートに一番近いって。だから、ロンやハーマイオニーも自分を嫌うんだって」
「……ん? 待て。それじゃ、ハリー達の態度は血筋のせいだとサラは思っているのか?」
エリは軽く頷く。
「みたい。そんな訳ないのにな。だいたい、あたし達には今まで通り普通に接してるんだ。血筋なんか、あいつらは気にしちゃいねぇよ」
「……そうだな」
エリはスープから顔を挙げ、ちらりと横目でシリウスを見る。シリウスの返答に、妙な違和感を覚えたのだ。
何か知っているのだろうか。尋ねようとしたその時、厨房の扉が開いた。
入って来た人物を見て、ポチャンとスプーンがスープ皿に落ちた。
「――ダンブルドア先生!」
そう叫んだのは誰か。ダンブルドアの後から、ナミとルーピンも厨房に入って来る。
ガタッと音を立て、シリウスが腰を上げた。
「何かあったのでしょうか?」
「いや。突然の訪問で驚かせてすまなんだ。ちょっと、ナミを送りに来ただけでの。――おお、これはなかなか美味しそうなチョコ・プディングじゃな」
「どうぞ、ゆっくりしてらしてください。今、先生の分もお持ちします。ご連絡くだされば、もっとご用意できたのですが……」
ウィーズリー夫人が慌てて席を立つ。
「送りに? ナミ、お前、外に出掛けていたのか?」
シリウスの語調は、やや責めるようだった。ナミはすました顔で、肩を竦める。
「まあね。大丈夫、リーマスもダンブルドア先生も一緒だったから」
「一体何処に?」
「日刊予言者新聞本社」
厨房は静まり返っていた。一同の視線を受け、ナミは事も無げに言った。
「最近、サラやハリーへの誹謗中傷が酷いでしょう。親として、抗議を入れに行っただけ」
「『親として』って……」
ハーマイオニーが息を呑む。ナミは頷き、言った。
「明日の新聞は、二人の中傷なんて無いかもね。抗議を受け入れた訳ではなくても、他の話題でいっぱいで」
「そんな……ナミ、あなたはそれで良かったの?」
「どう言う事?」
きょとんとするエリ達を代表して、ロンが尋ねた。
「いい? サラの母親は、今まで伏せられていたのよ。サラの母親――つまり、シャノンの娘ね。『あの人』は、その命を狙うでしょうから。
それだけじゃないわ。今は、サラの――その、父親がシリウス・ブラックだって事も、周知されているわ。私達はもちろん、シリウスは無実の罪を着せられただけって知っているわ。だけど、一般の人達はそうじゃない……ナミ、あなた、大変な事になるわよ」
シリウスの件はやや言いにくそうに、フォローを交えながら、ハーマイオニーは説明した。
彼女の鬼気迫る様子とは対称的に、ナミはあっけらかんとしていた。
「私がシャノンの娘だって事は、ワームテールの口から『あの人』に知られてしまっているもの。今更世間一般に隠す意味も無いでしょう」
「そんな事、勝手に……どうして一言相談してくれなかったんだ?」
厳しい口調で言ったのは、シリウスだった。つかつかとナミに歩み寄る。ナミは腕を組み、ずいと彼を見上げた。
「言ったところで、あなた、反対したでしょう」
「当たり前だ。ハリーとサラを守るにしたって、他の手立てがあっただろう。わざわざお前が身代わりになる必要なんて無かったはずだ」
「他の手立て? 赤の他人が何を言ったところで、ただの『反響』でしかない。それともシリウスは、何か考えがあったの?」
シリウスはぐっと言葉に詰まる。考えなど、あろうはずがない。あれば、真っ先に動いていただろう。彼は、そう言う人だ。
「……私はね、もう逃げたくないんだ」
ぽつりと呟くように、ナミは言った。
「こんな事で今までの償いになるなんて思ってないけれど、それでも、サラの母親として何かしてやりたい。今まで守られてばかりで、それに気付きさえせずにいて……それじゃ、駄目なんだ」
それからナミは、エリ、そしてアリスに目を向けた。
「あなた達の事は、圭太の連れ子って事にするから。またややこしくなるけど、そうすれば、シリウスの娘だとか『例のあの人』の親戚だとかで、あなた達にまで直接火の粉が飛ぶ事は無いと思う」
「な……何だよ、それ! あたし、別に構いやしないよ! 母さんが本当の事話したなら、あたしだって……」
噛み付くエリに、ナミは首を振った。
「駄目。少なくとも今は、話すべき時じゃない。シリウスの無罪が知れ渡るか、あの人の台頭が明るみになるまでは、黙っておいた方がいい」
「あたしは何を新聞に書かれたって、気になんかしない!! 母さんが逃げたくないって言うなら、あたしだって一緒だ! そんな嘘ついて自分だけ逃げるなんて卑怯な真似、出来るもんか!」
「エリ」
いきり立つエリを諌めたのは、アリスだった。
「日刊予言者新聞は、ハリーとサラ……そしてダンブルドア先生の信頼を落としにかかっているのよ。サラと同じだと分かった連中が、あなただけ放っておくはずない。敵が何を仕組んでいるか分からない今、こちら側が世間的信頼の無い人ばかりになる訳にはいかないの。ここは、我慢しなきゃ。あなた、言ったじゃない。私達には私達にしか出来ない事があるはずだって」
エリは黙り込むしかなかった。逃げたくない。だが、アリスの言う事も筋が通っている。
「ごめんね、エリ」
ナミの言葉に、エリは椅子に戻りそっぽを向くだけだった。
「……自分は好き勝手しておいて、同じように『逃げたくない』と言うエリの言葉は無視する訳か」
「シリウス」
「私も、エリやアリスの血筋について今公にすべきでないというのは賛成だ。だが、それはナミ、お前についても同じはずだ。第一、お前は今、隠れるべき身のはずだ。何処で死喰人の連中が狙っているのか分からないのだから」
「だから、先生とリーマスが一緒だったんじゃない。もしかしてあなた、その事に怒ってるの? いい年して拗ねないでよ」
「拗ねてる? 俺が?」
吠えるような声で、シリウスが言った。
「拗ねてるじゃない。自分は閉じ込められたままなのに私だけ出掛けて、公の場に姿を現して、それが気に食わないんでしょう。仕方ないじゃない。隠れるべきという結果面は同じでも、その理由は私とあなた、全然違うんだから」
「誰もそんな話をしてるわけじゃない。お前が誰にも相談せずに、勝手な真似をするから――」
「別に一人で突っ走ってなんかないよ。私だって私なりに相談して、周りの意見もちゃんと聞いた上で――」
「俺はされてないぞ?」
二人の言い争いを、エリ達はおろおろと見守るばかりだった。ダンブルドアはと言えば、ウィーズリー夫人の持って来たプディングを幸せそうに平らげている。
「だから、最初に言ったじゃない。あなたに相談したところで、あなたは反対するだけでしょうって」
「だから俺だけに黙ってたって言うのか? 何が相談だ。それならお前は、自分の意見を後押ししてくれる人に話しただけじゃないか」
「私が賛成していたと思うのかい、シリウス?」
激しい口論もものともせず、穏やかな口調が割って入った。
「私だって、反対した。それでも、ナミの意志は固まっていたんだ。それにナミの言う事ももっともだ。ワームテールの口からヴォルデモートにナミの事が伝えられた今、それを隠す意味はあまり無い。――モリー、私の分は残っているね?」
おかわりをするダンブルドアを見て不安に思ったのか、ルーピンはウィーズリー夫人に尋ねた。
「ええ、大丈夫ですよ。たくさん作ってありますから」
真剣な表情で頷き、ルーピンは話に戻る。
「君に何も言わなかったのは、私もすまないと思っている。話したら、君もついて来てしまいそうだったから」
シリウスが口を開きかけたのを片手を挙げて制し、ルーピンは続ける。
「二人とも、少し熱くなりすぎだよ。子供達がびっくりしているじゃないか。今は言い争っても仕方が無い。せっかくのご馳走なんだ。まずは食べて、それからゆっくり今後の事を考えよう。――君の歓迎の席だったのに、悪い事をしたね、ニンファドーラ」
「えっ。あ、いや、大丈夫よ、気にしてないから……」
「ごめんなさいね、空気悪くしちゃって。さ、皆、食べよう。私もう、お腹ぺこぺこ」
明るい調子で言って、ナミは机へと向かう。それからふと、思い出したようにロンを振り返った。
「そうだ、ピッグ借りれる? 借りると言うか、一緒に送ってくれれば良いや。出かけついでに、ハリーの誕生日プレゼント買って来たんだ。ロンも贈るでしょう?」
「あ、うん。まあ……」
「おお、そうじゃ。その事で一つ、言っておかねばの」
三杯ものチョコレート・プディングを平らげ、満足したダンブルドアは帰り支度をしながら言った。
「手紙に、ここの事や騎士団の事を書いてはならぬぞ。絶対じゃ」
「え……でも、ハリーは何が起こってるのか知りたがってると――」
「『絶対』じゃ。マグルの家に箱詰めにされたハリーが例えどんなに魔法界の情報を欲しようとも、手紙に書いてはならぬ。ふくろうは検閲される可能性があるからの。特にここ――グリモードプレイスと、不死鳥の騎士団については、その名前もそれを匂わす内容も書いてはならぬ」
ロンはそれ以上反論しようとはしなかった。ダンブルドアはそれを見て取ると、椅子にかけていたきつい紫色の外套を羽織った。
「ありがとう、モリー。美味しかったぞ。――おお、ありがとう」
扉を開けたトンクスは軽く会釈し、そしてふとあらぬ方を見上げた。
「――あら?」
「どうしたのかね?」
「今、そこに女の子がいて……直ぐに走って行っちゃったけれども」
――サラだ。
直ぐに、その場の誰もが思い当たった。ダンブルドアが来たと知ったか、ナミとシリウスの喧嘩が聞こえたか。とにかく、階下の様子が気になって二階の踊り場から覗いていたのだろう。
今なら、サラは外に出ている。
駆け出そうとしたエリの肩を、大きな手が軽く引き戻した。
「私が行く」
短く言って、シリウスは階段を駆け上がって行った。
エリはただ呆然と佇んで、その背中を見送っていた。
部屋に戻るなり鍵を掛ける。机へ向かう間も無く、ノックの音が響いた。
「サラ。そろそろ出て来ないか。皆、心配してるぞ」
シリウスの声に、サラは何も言葉を返さずただ扉を背に佇む。
「サラ」
言い含めるように、父の声が呼びかける。それでもやはり、サラは答えなかった。
ふうっと軽く溜息が聞こえる。ドン、と言う音で、シリウスが扉に寄りかかったのだと分かった。
「この家を見て気付いたかも知れないが、私の実家は純血主義で根っからのスリザリン一族だった」
闇の魔法使いの巣窟のような屋敷。「血を裏切る者」と喚く母親――サラにとっては祖母と言う事になるが――の肖像画。シリウスの話は、容易に予想される事だった。しかしサラには、何故彼が今そんな話をする気になったのか解らなかった。
「もちろん、私は違う。むしろ、家族の純血主義思想を馬鹿馬鹿しいと思っていたし、嫌悪さえしていた。当然、スリザリンにも入る気は無かったし、現に帽子は私をグリフィンドールに選んだ――だが、それでも家と言う物はついて回るものなんだ。初対面の相手に、まずは名前を名乗る。馬鹿馬鹿しい事だが、私の人となりなどまるで知らないのにブラックと聞いただけで判断する者は少なくなかった。一時は、自分の名前を名乗るのも躊躇うようになったほどだ」
「……解るわ」
小さく、サラは呟いた。
サラ・シャノンと名乗っただけで、向けられる奇異の視線。賞賛の眼差し。事実ヴォルデモートが力を失ったのはハリーによるものだったであろうに、同じ場にいて同時に襲われ逃れたと言うだけで、サラまでもが英雄であるかのように語られる。向けられる感情はシリウスの場合とは真逆だが、それでも居心地が悪い事には変わりない。サラもまた、初めの内は戸惑い名乗る事を躊躇った。
「一年生の頃のホグワーツ特急では、わざと名乗らないでやり過ごしたりもしてなあ。家に来る奴らとは違う、まともな考え方をした新しい友達が出来るかもしれないのに、ブラックと言う名前を聞いて遠ざけられるのが怖かった。どんなに家のやり方が気に食わなくても、その家で私は育っている。列車の中で会話しただけでも、それまで当たり前だと思っていた事が彼とはずれていたりもして、名前を聞いて『ああ、やっぱり』なんて思われるのが嫌だったんだ。その後、組分けの儀式で名前を呼ばれると言うのにな」
「……それで、彼は?」
隠そうとしたのだ。
知らなければ、そのまま親友でいられるから。恥ずべき血筋を、知られたくはなかったから。反応が、怖かったから。
だからサラは、話さなかった。自分が話さなくても、他者から告げられる事があると言うのに。
「何も」
サラは目を瞬く。シリウスは軽く笑った。
「『シリウスって言うのか、よろしく』――ただ、それだけだった。彼も魔法使いの家系だったから、ブラックを知らないはずがない。それで尋ねてみれば、『でも、君は違うだろう?』とこう来たもんだ。『そんな事を言うなら、僕も母親がブラックの分家の出だ』とな」
「……」
「そう言うものだ。自分が思うほど、皆は血筋なんて気にしていない。その人を知っていれば、尚更だ」
「でも……」
「サラ。例えば、リーマスは狼人間だがお前は彼を危険な人物だと思うか?」
口ごもるサラの言葉を遮り、シリウスは尋ねる。
サラは無言で首を振り、それから自分と彼との間を隔てる扉の存在を思い出して声を発した。
「思わない……」
「同じだ。背景なんて関係無いんだ。自分は気にしないような事を、どうして他人は気にすると思う? お前の友達は、そんな人達ではないだろう」
「……」
一時の沈黙が流れる。
ややあってサラは、ぽつりと呟いた。
「ハリー達の態度が、スリザリンの血筋のせいではないならば……一体、どうしてだと言うの?」
シリウスの返答には、少し間があった。
「……それは、サラ、お前が自分で気付かなくてはならない。私がいくら言葉で説明したところで、それは表面上の理解にしかならない。それでは、お前はまた繰り返してしまうだろうから」
決して責める風でもなく、優しい言い方だった。
シリウスは、直ぐにサラを引っ張り出そうとはしなかった。その晩もサラはクリーチャーが持って来た夕飯――ウィーズリー夫人が作ったのだろう、日本風味の物はなくホグワーツの食事に近い献立だった――を食べ、皆がまだ下にいるのを確かめ首尾良く風呂を済ませる。部屋に戻る時には、もう子供達は皆部屋へ引き上げた後らしく、一階からは大人達の話す声がぼそぼそと聞こえるだけだった。
ふと階下に目をやり、サラは足を止める。そこに、人影があったのだ。
ウィーズリー一家の赤毛とはまた違う、まるでペンキを引っ繰り返したように鮮やかなオレンジ色の髪をした女性だった。
屋敷は人を招ける程度には片付き、最近では騎士団の者達も多く出入りしている。その内の一人だろうか。見覚えの無い姿だが、そもそもサラは部屋からあまり出ていないのだ。会っていない人がいても不思議ではない。
ぼんやりと見つめていると、不意に彼女の身体が傾いた。傘立てに蹴躓いたらしい。
傾いた傘立ては、隣の棚に引っかかって転倒を免れた。とは言え、大きな傘立てだ。その重みを横から受けた棚は、僅かにスライドする。その衝撃で、棚の上にあった何かの褒賞と思われる楯が落下した。楯が、体勢を立て直そうとした女性の後頭部を直撃する。追撃を食らってしまった彼女はもう踏み堪えられず、その手が支えを掴もうとするように伸びる。その先にあるのは、壁沿いに長く掛けられた鎖状の飾り。肖像画を覆い隠すカーテンの直ぐ横まで続いている。ブラック夫人の、あの肖像画だ。この鎖が落ちれば、次に何が起こるかは容易に想像できた。
女性の身体が傾いた時点で、サラは動いていた。二段飛ばしに階段を駆け下り、彼女へと手を伸ばす。
間一髪、鎖に触れる寸でのところでサラはその手を取り、肩で頭を受けるようにして倒れんとするその身体を支えた。
「……大丈夫ですか?」
サラに寄りかかったままなかなか動かない女性に、恐る恐る声を掛ける。彼女は、我に返ったように身体を起こした。勢い付いて傍にあった外套掛けにぶつかり、サラは咄嗟に倒れ掛けたそれを彼女から放れた右手で押さえた。
「もしかして……あなたが、サラ・シャノン!?」
オレンジ色の髪の彼女は目を輝かせて叫び、ハッと気付いたように肖像画の方を一瞥する。幸い、カーテンは開かなかったようだ。気圧されながらも、サラは頷く。トンクスは声を低くして、それでもやはり嬉しそうに話した。
「やっぱり。良かった、会えて。一人だけ部屋にいるって言うから、体調が悪いのかなって心配だったのよ」
「えっと……」
「私は、トンクス。ニンファドーラ・トンクスよ。皆には、トンクスって呼ばれてるわ。私の母が、あなたの父親といとこなの。だから……私とあなたは、またいとこって事になるのかな?」
サラの困惑を他所に、トンクスは尚も話し続ける。
「エリはシリウスと似ていたけれど、サラはあまり似ていないのね。おばあさん似だわ。私自身は彼女と会った事は無いんだけどね、ムーディに若い頃の写真を見せてもらった事があるの。素晴らしい闇払いだったって聞いたわ。
あなたもここにいるって聞いて、私、会えるのを楽しみにしてたのよ――」
「あなたは何も知らないから、そんな風に言えるんだわ……」
思わず口をついて出たのは、そんな言葉だった。サラに会えた事を喜ぶトンクスが、あまりにも眩しかったのだ。生き残った女の子としてハリーと並び称され、向けられる眼差し。
サラは、それに値する人物ではない――むしろ、真逆の存在だと言うのに。
「あなたは……私の血筋を、知らないから……」
「シャノンが『例のあの人』のいとこに当たるって事なら、知ってるわよ」
思いがけず返って来た言葉に、サラは目をパチクリさせる。
トンクスは軽く肩を竦めて言った。
「騎士団に入った人達は、皆知らされているわ」
「皆!?」
「ダンブルドアの考えみたいよ。いずれ、あちら側があなたの孤立を狙って公表しようとするだろうから、変に包み隠さず周知しておいた方がいいって。あなたを狙う動機にも絡んでいる事みたいだし」
サラは視線を左右に泳がせる。
それでは、トンクスは知っていた上でサラに好意的に接していたと言うのか。何の信頼関係も築いていない初対面だと言うのに。
トンクスは「あっ」と声を上げた。
「私、お風呂入るんだった。人数多いから、早めに済ませなきゃ。そっちで合ってる?」
「え、ええ……」
「さっきはありがとう、サラ。助かったわ。おやすみ」
トンクスはそう言うと、階段を上がって行った。一段目でまた、蹴躓いていた。
『自分が思うほど、皆は血筋なんて気にしていない』
彼の言う通りなのかも知れない。
サラの血筋を知った上で受け入れてくれるは意外といるのかも知れない。
「おやすみなさい……」
呟いたサラの表情は、久しぶりに穏やかなものだった。
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The Blood
第2部
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2012/12/31