スリザリン寮の寝室と遜色ないほどに広い部屋。黒や緑を基調とした落ち着いた色の壁や家具、質の良い絨毯、高価な調度品の数々もやはりホグワーツとよく似ていたが、そこに置かれた天蓋付きベッドは一つだった。窓の外に見えるのは禁じられた森ではなく、手入れの行き届いた庭と噴水の水を飲もうとする孔雀。
 控えめに叩かれた扉の音を、ドラコは無視する。ノックの主は、再度叩き声を発した。
「ドラコ。いるんだろう?」
「……ノット?」
 ドラコは目を瞬く。それから我に返り、窓際を離れて鍵を開けに行った。そこに立つのは確かに、背の高い同級生。学期末に別れてから、また少し伸びた気がする。
「来てたのか」
「父親同士が、話があるみたいでね。家に僕一人になるからって、君のお母様が夕飯に招待してくれたんだ。あの招集に僕の父さんもいたって、ポッターが大臣に吹き込んでくれたみたいだからな」
「ポッターの発言なんか、魔法省は相手にしていない。新聞を読んでいないのか?」
「それは知ってるさ。世間は彼の話なんて眉唾物だと思っている。でも、ダンブルドアはそう思っていない。警戒するに越した事はないさ。まあ、それを言ったら僕らは学校にも行けなくなる気がするけれど」
 言って、セオドールは肩を竦める。
 セオドールが黙り込み、部屋に静寂が訪れる。ややあって、セオドールは口を開いた。
「……最近、ご両親と口を利いていないそうじゃないか」
 それを聞いて、途端にドラコは不機嫌な顔になる。ふいと背を向け、再び窓の方へと去った。
「珍しいな。君が反抗期なんて」
「そんなんじゃない。話をしようとしないのは、あちらの方だ。聞いてる事にだんまりで話そうとしない」
「シャノンの事か?」
「……」
 セオドールは軽く息を吐く。
「グリフィンドールの、それも『生き残った女の子』なんかと関わる時点で、いずれこう言う日が来る事は予想出来ただろう。まさか、全く考えなかった訳じゃないよな?」
「スリザリンとグリフィンドールの仲がどうであろうと、父上が他の――ウィーズリーみたいな連中から本心から死喰人をしていたと疑われていようと、サラはそんな事気にしていなかった。彼女は、他のグリフィンドール生とは違ったんだ。君だって、話した事があるだろう? 寮同士が敵対していようと、親が死喰人だろうと、彼女は気にしない」
 そう、彼女はそんな事を気にしたりはしなかった。彼女がスリザリンに所属する事を拒んだ理由は、ただ一つ。親代わりでもあった祖母の仇が、死喰人であったから。スリザリンは、死喰人を多く輩出した寮であったから。
 スリザリンに入りたいと言うドラコに、四年前、彼女は問うた。
『過去に『例のあの人』や死喰人みたいな闇の魔法使いを多く排出しているのに、どうしてあなた達はスリザリンに入りたいの?』
 そしてドラコは答えたのだ。父親の出身寮であるからだと。父親を尊敬しているのだと。
 サラの祖母を殺したのが父親だと分かった今でも尚、ドラコのその気持ちに変わりはない。だからこそ、ドラコらは破局した。ルシウス・マルフォイの命を奪わんと復讐の炎を燃やす彼女につき、家族を差し出す真似など出来ようはずがなかった。
 だがそれでも、サラにも情はあった。離別の原因となった事、絶望し憎悪に蝕まれた彼女を猶も追い詰めようとしている事、微塵も怒りが沸かなかった訳ではない。
 だから尋ねたのだ。
 何故、サラの祖母を殺したのかと。
 ルシウスは黙り込んだ。やがて口を開き言った言葉は、いつか我が君が力を取り戻した時のため。彼にしては珍しく分かりやすい嘘だった。
 セオドールはまた、溜息を吐いた。今度は、一度目よりもはっきりとした深い溜息だった。
「ドラコ。君は一体、どうしたいんだ? 今はまだ、家族以外でも僕らやクラッブ、ゴイルのような近しい間にしか知れていないが、万一このまま広まって闇の帝王の耳に入ったりでもしたら……」
「……少し、外の空気を吸ってくる」
 セオドールはドラコを止めようとはしなかった。
 友人を残し、ドラコは一人部屋を後にした。柔らかな絨毯を踏みしめ、蝋燭の灯りに照らされた廊下を突き進む。時折壁に現れる肖像画の中にホグワーツのような干渉好きな類はなく、ただ目が左右に動いて通り過ぎるドラコを追うだけだ。
 死喰人としての父親の行動に反発するなんて、馬鹿げている。それはドラコも、重々承知している。万が一「例のあの人」の耳に入ろうものなら、反駁の意有りと捉えられかねない。そうなれば、ドラコのみならず家族をも危険に巻き込んでしまう可能性もある。二人ともドラコを守ろうとするだろうし、特にナルシッサはなりふり構わないであろう。
 階下へ降りるが、広間に続く扉の前は素通りする。そして、ドラコは庭へと出た。
 月の綺麗な晩だった。日本からも、この月は見えるのだろうか。もっとも、サラが今日本にいるのかどうかは定かではないが。夏休みの頭に、アリスからのふくろう便があった。事情が変わった。手紙は送れないし、恐らく受け取れない。急ぎの用があれば、このふくろうに返信を持たせて欲しい。サラも私も無事だから心配しないでと、アリスにしては素っ気無く簡素な内容の短い手紙だった。家族の目を盗み、急いで書いたのかも知れない。ふくろうはエフィーでも、エリの持つふくろうでもなく、小さなコノハズクだった。おおかた、ダイアゴン横丁辺りで借りたのだろう。
 ふと横に気配を感じて振り返り、ドラコは飛び上がった。
「しっ! あっち行け!」
 餌でも貰えると思ったのか擦り寄って来た孔雀を、ドラコは杖で突いて追い返す。ルシウスの趣味で飼われているペットだが、ドラコはお菓子を奪われたり噴水に突き落とされたりとあまり良い想い出はなかった。ぞんざいに扱っている所をルシウスに見られれば大目玉を食らうだろうが、彼はノットの父親と共に広間か応接室にでもいるはずだ。
 そう思っていたから、聞こえてきた声にドラコは再び飛び上がった。
「――がこの屋敷に来る事はもうあるまい。そう言う魔法を施した。恐らく彼女の家も、シャノンが防御魔法を掛けてあるのだろう。ドラコや運転手には見えていたようだが、私にだけ何も見えなかった」
 ドラコは慌てて、噴水の裏手に回りこんだ。
 ルシウスとノット氏は立ち止まり、話を続けていた。噴水を挟んで反対側にいるドラコには、気付いていない様子だ。
「己に万が一の事が起こった場合に、手を掛けた人物から家族を守れるようにしておいたのだろう」
「そうだ。その事で、一つ気になっている事がある。――何故、シャノンに手を掛けた?」
 ルシウスは能面のような表情でノット氏を見つめ返す。
「あの頃、闇の帝王は完全に敗れたと我々は思っていた。お前だってそうだったはずだ。例え生き残っていたにせよ、我が君が力を失い死喰人が解散していたあの頃にシャノンを殺し闇の印を打ち上げるなど、あまりにもリスクが高過ぎる」
 ドラコはハッと息を呑んだ。
 何故サラの祖母を殺したのか。ドラコが尋ねたのは、ただやりきれない感情をぶつけたかっただけだった。ルシウスの反応から嘘だと分かったに過ぎない。しかし考えてみれば、ノット氏の言う通り、矛盾が生じる。ルシウスが「例のあの人」が完全に力を失ったと信じて疑っていなかった事を、ドラコは知っている。父親も母親もそう思い込んでいたから、ドラコもそう思っていたのだ。ここ数年「あの人」が裏に潜んでいたと噂の事件はあったが、それもドラコがホグワーツに入学してから。ルシウスがシャノンを殺したのは九年も前だ。当然、生存の根拠とはならない。
 静寂の中、ルシウスは重々しく口を開いた。
「この事は、決してドラコの耳には入れないでくれ。そう、妻と約束したのでね。私が我が君からその分身とも言える物を預かっていた事は、知っているだろう――」
 ドラコは身を凍らせて、ルシウスの話を聞いていた。
 思いも寄らない話だった。いてもたってもいられなくなり、ドラコは噴水の陰から姿を現した。ルシウスの表情が凍る。
「父上、今の話――」
「聞いていたのか……」
 ドラコに、ルシウスを責める資格など無かったのだ。
 ……サラの祖母の死は、ドラコが主たる原因だったのだから。





No.36





 扉の向こうからは、賑やかな話し声と皿やフォークの触れ合う音が聞こえて来る。サラはドアノブに手を掛けたまま、立ち尽くしていた。何しろ、ずっと部屋に篭りきりで人と会うのを避けていたのだ。ロンとハーマイオニーとは、彼らが来た初日のあの晩以来会っていない。他のウィーズリー一家や騎士団のメンバーとは、ここへ来て以来一度も会っていなかった。
 それに、トンクスの話では騎士団の者達は皆サラの血筋を知らされていると言う。トンクスはスリザリンの末裔だからと臆する事無く接してくれたが、誰もがそうだとは限らない。
「あら、サラじゃない。おはよう!」
 広間へと降りて来たのは、トンクスだった。その頭は、紫色だった。サラのカチューシャの薄いラベンダー色とは対照的な強烈な色である。
「おはよう……染めたの?」
 トンクスの頭を見やり、サラは訪ねた。確か、昨晩はオレンジ色だったはずだ。
「私、七変化なのよ」
「七変化? 凄い! 本で読んだ事があるわ。先天的な能力で、すっごく珍しいって……」
「サラは変身術に興味があるのね」
「え、ええ……まあ……」
 サラは返事を濁らせる。
 サラの直ぐ横まで来たトンクスは、何の気なしに扉へと手を伸ばした。
「あっ……」
 構える間もなく、ダイニングへの扉は押し開けられた。振り返った面々が、ハッとした顔つきになる。
 次の瞬間、見開かれたいくつもの目はふくよかな体躯に覆い隠された。ウィーズリー夫人が、サラを抱きしめたのだ。
「お久しぶり、サラ。やっと姿を見せてくれたわね。
 少し痩せたんじゃない? さあ、座って。朝ご飯はたくさんありますからね。部屋にこもりきりで、あまり食べていなかったでしょう」
「あの、大丈夫です。クリーチャーが部屋に運んでくれていたので……」
 スクランブルエッグが目の前の皿にてんこ盛りにされて行くのを見て、サラは慌てて言った。そして、隣に座る、クリーチャーに食事を持たせていたのだろうと思われる人物を見上げた。
「……ありがとう」
 シリウスは、僅かに微笑みうなずいた。
「これで、サラのおかわりの分が無駄にならなくなったな」
 フレッドが茶化すように言う。アリスが、サラの方へと身を乗り出した。
「お母さんもウィーズリーさんも、サラがいつ来ても良いようにって毎日サラも数に入れて食事を用意していたのよ」
「ま、その分あたしらのおかわりが増えてた訳だけどなー。ご馳走の日は引きこもってていいぜ?」
「よく言うわよ。一番心配して、部屋にまで押しかけていってたのはエリじゃない」
 ジニーが呆れたように言う。皆、何ら変わりなかった。もっとも、フレッド、ジョージ、ジニーは騎士団ではないからサラの血筋を知っているのか定かではないが。
「皆、心配掛けてごめんなさい」
 微笑みかけたサラは、次の言葉で表情を強張らせた。
「そんじゃ、あんたなんだな? 『例のあの人』の身内ってのはよぅ」
「マンダンガス!」
 ウィーズリー夫人が咎めるように叫ぶ。
「でかい声を出すなよ。俺はただ、事実の確認をしただけじゃねぇか」
 マンダンガスと呼ばれた男を、サラはまじまじと見つめていた。
 間違いない。あの男だ。昨年のクリスマス、マルフォイ邸へ向かうためにノクターン横町を経由したサラ。そこで、怪しい物品を売りさばく男に声を掛けられた。マンダンガスは、間違いなくその時の男だった。どうして、そんな男がここに。
 マンダンガスは、怪訝げな顔をする。
「何だ? 俺の顔に、何か付いてるか?」
「いいえ……その……あなたの質問に、びっくりしたものだから」
 そう言って、サラは誤魔化す。あの時、サラはフードを目深に被っていたのだ。大丈夫だ。彼が気付くはずがない。
「身内と言っても、血の繋がりがあると言うだけだろう」
 そう口を挟んだのは、ロンの一番上の兄のビルだった。グリンゴッツに異動になった彼は、彼の父親やその他の一部の騎士団員と同じく、ここから通勤している。
「一緒に暮らしていた訳じゃないどころか、初めて会った時から敵対しているんだ。彼は赤ん坊だったサラを殺そうとしたし、サラも彼と手を組むような理由なんて無い。血の繋がりだけを気にするなら、魔法使いなんてどこで誰と親戚だか分かったものじゃないよ。魔法族は特にね」
「わあってるよ。むしろそのせいで狙われてるから守れってのが、ダンブルドアの言い分なんだろう。守ると言えば……」
 マンダンガスは、朝食を食べ始めたばかりのトンクスを振り仰いだ。
「なあ、トンクス。今日の午後、俺の担当変わってくれないか?」
「午後? 駄目。私も、あれの警備があるの。何か問題でもあるの?」
「相手にしないで。ただ、盗品販売に出かけたいってだけなんですから」
 ウィーズリー夫人が厳しい口調で良いながら、スープを運んで来た。どうやら彼女は、マンダンガスの事があまり好きではないようだ。
「良い皿が手に入ったんだよ。またと無いチャンスなんだ」
「やめときなよ、ダング。モリーには逆効果だから」
 ナミが、ウィーズリー夫人と共に朝食にありつきながら言った。
「ダンブルドアが与えてくれた重要な役回りじゃない。私やシリウスが、どんなに代わってやりたい事か」
「そりゃあ、信頼してくれてるって事は分かるけどよぅ。何も今日じゃなくても……」
 マンダンガスはぶつくさと不満を垂れていたが、ウィーズリー夫人に睨まれると黙ってスープに手を伸ばした。
 しかし、彼がスープを飲む事はかなわなかった。スープ皿目掛けて、年老いたふくろうが突っ込んできたのだ。
「エロール!」
 ロンが叫び、皿から引っ張り出す。ピッグウィジョンが来ても、ウィーズリー家のふくろうとしてはまだまだ現役として活躍中のようだ。エロールは、日刊予言者新聞を携えていた。
 ロンがスープ皿から哀れな年老いたふくろうを救い出し、その足にある新聞を外した。エロールをかわかすロンに押し付けられ、ハーマイオニーが新聞を開く。そして、顔をしかめた。
「ああ、やっぱり! ナミ、あなた大変な事になったわよ」
「私も一躍有名人?」
「笑い事じゃない」
 茶化すナミに、シリウスが唸った。むっつりと不機嫌になって、席を立つ。
「バックビークに餌をやって来る」
 短く言い残し、彼は厨房を出て行った。ナミは軽く肩をすくめる。
「おー、怖い怖い」
 アリスの元へも、日刊予言者新聞が届いていた。サラはシリウスのいた席へとずれ、アリスの手元を覗き込む。
『育児放棄に犯罪者の手引きか? サラ・シャノンの母親、自白!』と言う大見出しが一面を飾っていた。
「自白って……これじゃナミが、犯罪者みたいじゃないか!」
 同じようにハーマイオニーの横から新聞を覗き込んでいたロンが叫ぶ。サラは、その下に続く文章へと視線を滑らせた。
『シリウス・ブラックの娘であるサラ・シャノンの事は、読者の皆もご存知の事だろう。では、『例のあの人』の支持者たるブラックなどと関係を持ち、サラをこの世に生んだ母親は誰なのか? 長年闇に覆われていた謎は、昨日午後五時頃、当社にて解き明かされた。
 当社を訪れた女性は、ナミ・モリイと名乗った。母親譲りの金髪に日系人らしい顔立ちの彼女は、自分がサラ・シャノンの母親であると宣言した。サラと言えば、産まれて間もなく孤児院に捨てられ、祖母であるシャノンに引き取られ育てられていたと言う事は周知の事実である。シャノンが死亡し、サラはシャノンの再婚相手の息子一家に引き取られた――と我々は認識していたが、この息子の妻がナミ・モリイ、つまりはサラの実母だったのだ。シャノンは何故、サラを一度は子供を捨てた母親の元に返したのだろうか。
 また、一昨年ホグワーツ魔法魔術学校にはナミ・モリイと同名の少女が転入していた。学校は子供たちが学ぶ場であると言う常識を捻じ曲げ、校長のアルバス・ダンブルドア自ら転入を認めたのだと言う。一昨年と言えば、かのシリウス・ブラックが逃亡した年である。彼からハリー・ポッターとサラ・シャノンを守るためだったとダンブルドアは話すが、結果的にブラックの侵入を許しとり逃した事を踏まえると、彼の判断が正しかったとは言えないだろう。また、魔法省さえも厳戒態勢に当たっていた中で、果たして一介の主婦でしかなく、マグルの職につき日常的にさえ魔法を使わないモリイを呼ぶことに意味はあったのだろうか。
 長年、その存在を隠し通してきたシャノンの娘。何故、彼女は今更名乗り出て来たのか。今度は一体、何を企んでいると言うのか。疑念は募るばかりである』
「何故、今名乗り出てきたのかだって? 自分達がハリーとサラを叩いてたからじゃないか!!」
 ハーマイオニーの方の新聞を読んでいたロンが、憤慨した。ハーマイオニーは読み終えた新聞をロンへと返す。
「自分達の書いてきた内容については、棚上げ。相変わらずね」
 ふと、ハーマイオニーとサラの目が合った。どう応えれば良いのか分からなくて、サラはふいと視線を外す。
「……ごちそうさま」
 呟くように言って、サラは席を立った。
 新聞はナミに対象を切り替えた。そしてそれにより、ハリーやサラを叩く内容は書かれなくなった。それどころか、ナミを非難しようとすればサラを被害者として書かざるを得ない。例えサラの過去の所業を論おうとも、ナミにその責任を問いサラへ同情の目を向ける者は少なくないだろう。ナミがそれを想定したのであろう事は、想像に難くなかった。しかし、過去にナミが悪意をもってサラに接していた事もまた事実で、素直に感謝を述べる事はできなかった。
 ――決して、その事でナミを許さないと思っている訳ではないのだけれど。
 サラの複雑な胸中を知ってか知らずか、ナミは何事もなかったかのように訪ねた。
「デザートは?」
「結構よ」
 短く言って、ダイニングを出ようとする。その背中にまた、声が掛かった。
 マンダンガスだった。
「……なあ、あんた、俺とどこかで会った事があるか?」
 サラはぴたりと立ち止まる。
 答えた声は、落ち着いたものだった。
「さあ……覚えがないわね」
「あなたが行くような所に、サラが行くはずがないでしょう」
 扉を開けると、バックビークの餌やりから戻って来たシリウスが立っていた。マンダンガスの声は聞こえていたのだろうか? サラはシリウスの視線を避けるようにして、彼の横をすり抜け部屋へと戻って行った。





 皆と協力しての大掃除は、クリーチャーと二人で行うよりも断然楽だった。クリーチャーは魔法のようなものが使えるが、それでも彼一人で同時に出来る事は限界がある。何より、クリーチャーは物を捨てようとしなかった。どんなに怪しい調度品でも、思い出の品として取っておこうとするのだ。その度に説得して、かさばらず害も無さそうな写真立てや食器などだけを残させるのは骨だった。
 皆と掃除をしているところへもクリーチャーは来て処分品として分別されたものを持って行こうとしたが、シリウスは片っ端から取り上げ捨てさせた。その度にクリーチャーはぶつくさと文句を言い、それを主であるシリウスに咎められて何も言えなくなるのだった。
「ねえ、シリウス。そんなに全部取り上げる事ないじゃない。その楯なんて、取っておいてもそんなに場所を取る訳じゃないでしょう? あなたは家族が嫌いだったそうだけど、クリーチャーにとっては大切な存在だったのよ。その人が何か賞を得た記念でしょう?」
「お前はこの家の事をよく知らない」
 取り上げた楯をぞんざいにゴミ袋へと投げ込みながら、シリウスは言った。
「一見何の変哲もない物に見えても、厄介な呪いが掛けられている事がある。魔法族の家――それも闇の魔法使いを崇めるような家なんてのは、そう言った物がゴロゴロしている。安全かどうかなんて、一々確かめていたらキリが無い」
「なら、それをクリーチャーに説明すればいいじゃない。あんな、意地悪で取り上げているかのような真似をしないで……」
「説明したところで、あれは理解しない。
 悪い事は言わないからサラ、クリーチャーにはあまり構うな。あれは狂ってるんだ。もう何年も、狂った肖像画の狂った命令ばかり聞いてきた。まともなはずがない」
「クリーチャーは狂ってなんかいないわ! ねえ、シリウス。あなたがもう少し優しくすれば……」
 屋敷僕妖精に対するシリウスの発言に、ハーマイオニーがいきり立った。
「ハーマイオニー。あれが君を何と呼んでいるか、聞いただろう?」
 隣の部屋で大きな調度品の処分をする男子組に呼ばれ、シリウスは部屋を出て行った。
「サラもハーマイオニーも、クリーチャーの事なんて放っておけよ。確かに親父はあいつに対して冷たいかも知れないけど、それ相応の態度をクリーチャーが取ってるからだろ? あいつ、根っからの純血主義じゃねーか」
「根っからじゃないわ。自分のご主人様が純血主義で、そう言う人達の話ばかり聞いていたから。それだけよ。一種の洗脳だわ」
 ハーマイオニーの言い分にエリは少し肩をすくめただけで、それ以上反対意見を述べようとはしなかった。ハーマイオニーの屋敷僕妖精中毒は、エリもよく分かっているのだろう。
「シリウスがもっと優しくすれば、彼もあんな態度は取らないはずだわ」
「シリウスも、ずっとこの家に閉じこもりっぱなしで参ってるのよ。元々、実家をあまり好きじゃなかったみたいだし……」
 アリスが、ハーマイオニーを刺激しないよう、シリウスの事も庇いつつ言った。

 掃除もあらかたきりの良いところまで進み、そろそろ夕飯にしよと言う時にそれは起きた。階下から響く、大きな声。
「ハリー・ポッターが襲撃された。現在は無事が確認されているが、問題が発生した。動ける騎士団員は、即時集まって欲しい。私も可能であれば向かう」
 聞き覚えの無い声だった。
 声が皆まで言い終わらぬ内に、サラは部屋を飛び出していた。隣の部屋も同様で、シリウスを先頭に一行はドタバタと階段を駆け下りて行った。階段の踊り場から、銀色のオオヤマネコが靄となって消え行くのが見えた。
 ダイニングからも、ナミとウィーズリー夫人が飛び出して来た。二人の顔は蒼白だ。
「ハリーが襲われたって……!」
 ふらりとよろめくウィーズリー夫人を、シリウスが支えた。
「落ち着くんだ。キングズリーは無事だと言っている。今は彼が来るのを待って――」
 シリウスの言葉が終わる間もなく、玄関扉が開きルーピンが入って来た。彼が入ってくる間に、扉の前にウィーズリー氏、そして見知らぬ魔法使いも現れ、後に続いて入って来た。麦わら色の豊かな髪の魔法使いだ。ウィーズリー夫人が夫へと駆け寄る。
「ああ、アーサー! ハリーが……ハリーが……!」
「キングズリーは来られそうにない」
 ウィーズリー氏が皆まで言わぬ内に、また別の魔法使いが現れた。彼は、見覚えがあった。初めて漏れ鍋に言った時、話しかけて来た魔法使いだ。確か、ディグルと言ったか。
 続けてビル、それから黒髪の魔女が姿現ししたところで、ナミが言った。
「とにかく、皆中へ。このままだと玄関が詰まってしまうよ」
 ぞろぞろと大勢の魔法使いや魔女がダイニングに移動する間にも、玄関先にはまた別の魔法使いが「姿現し」していた。
 しんと静まり返ったダイニングで、注目する視線一つ一つを見渡し、ウィーズリー氏は述べた。
「リトル・ウィンジングに、吸魂鬼が現れた」
「奴らの差し金か?」
 ゼイゼイ声の魔法使いが、鋭く尋ねた。ウィーズリー氏は首を振る。
「分からない。ハリーは無事だ。ただ……その吸魂鬼を追い払うために『守護霊の呪文』を使用した事で、魔法省から処分通告が出た」
「ハリーが守護霊の呪文を使った? マグルの町に吸魂鬼が現れたのと言い、どう言う事? ダングは何をしていたの? そうならないように、彼が見張っていたはずでしょう」
「マンダンガスは、プリベット通りにいなかったそうだ」
 ナミの怒りを押し殺したような問いかけに、ウィーズリー氏は静かな声で答えた。
「ムーディが探している。
 ダンブルドアが来て、杖は取り上げられずに済んだ。だが、ハリーは懲戒尋問にかけられる事になった。退学処分についても、それまで保留と言う事らしい。具体的な日取りはまだ分からないが、ダンブルドアがなるべく延ばしてくれているはずだ」
「退学処分? でも、吸魂鬼に襲われたのでしょう? 『未成年魔法使いの妥当な制限に関する法令』の第七条では、命の危険がある場合にはマグルの前で魔法を使っても――」
「もちろん、ハーマイオニーの言う通りだ。しかしそれは、『命の危険があった』と認められた場合に適用されるものだ。少なくとも魔法省は、アズカバンにいなくてはならないはずの吸魂鬼がマグルの町を訪れハリーを襲撃したと言う事実を『はい、そうですか』と認めはしないだろう」
 シリウスが立ち上がった。エリに尋ねる。
「シロを借りれるか?」
「ああ、うん。部屋にいるよ」
 シリウスは、慌しく部屋を出て行った。
 シリウスとちょうど入れ違いに、玄関の方から声が聞こえて来た。
「悪かったって! 痛たたたた、もう少し優しく……本当に反省してるんだ。でもな、今夜はまたとないチャンスがあって……」
 バーンと音を立てダイニングの扉が開き、マッド−アイ・ムーディが現れた。ひきずられるようにして、マンダンガス・フレッチャーも中に入って来る。
「ノクターン横町で見つけた。暢気に皿なんか売っておったわ」
 容姿も、声も、昨年一年間ホグワーツにのさばっていた死喰人と同じで、サラは思わず身構えてしまう。もちろん、ここにいるのは本物の方なのだろうが。
 マンダンガスは投げ捨てられるようにして床に転がり、膝を突いたままテーブルを囲む冷たい視線を見上げた。
「悪かったよ……だけどよぅ、考えても見ろ? 吸魂鬼なんて、俺がいたところで出来る事なんかあったか? 結果としちゃ、ハリーがその、パトー何とかってのを使わなきゃならなかったんじゃないか?」
「ヴォルデモートは、秘密裏に動いている。他の魔法使いがいれば、それだけで抑止力になったはずよ。彼らは、他の魔法使いによる目撃を避けたでしょうから」
 サラの声は、何処までも冷たかった。立ち上がったサラの手を、エリが引っ張る。
「駄目だ、サラ。座れ」
 囁かれた言葉を無視し、彼女の手を振り払い、サラはゆっくりとマンダンガスの方へと歩み寄る。その瞳には、紅い光が見え隠れしていた。
「あなたが見張っているはずだったのね? ハリーの周りを。そして、あなたはハリーの命よりも盗品の取引の方が大切だと判断したと言う訳ね?」
「ちげぇ……俺はよぅ……」
「何が違うと言うの? あなたは、自分の役割を放り出したのでしょう? ヴォルデモートが狙っていると知りながら、ハリーの傍を離れたのでしょう? あなたのせいで、ハリーは吸魂鬼に襲われたのよ。助かったから良かったようなものの、一歩間違えればどうなっていた事か……」
 吸魂鬼の接吻を受けた者は、魂を抜かれてしまう。何を話す事も、考える事も、感じる事もない、ただのもぬけの殻になってしまうのだ。今夜、ハリーはその危険に晒された。
 こいつが――マンダンガスが、盗品売買などと言うくだらないものに現を抜かして持ち場を離れたがために。
 マンダンガスは喉を押さえ、苦しみ出した。その場の多くは一瞬、何が起こっているのか分からず呆然と見つめていた。しかし、そこは騎士団員と言うものか。ディグルが、キーキー声で叫んだ。
「どうした、マンダンガス!?」
「敵襲か!?」
 サラはマンダンガスの前に立ち、見下ろしているだけだ。背を向けている皆からは、その表情さえ見えない。初めてサラと会うような人達が、サラが手を加えているなど気付くはずもなかった。
「おい、やめろ!」
 エリが、後ろからサラを押さえに掛かった。サラは振り払い、マンダンガスを睨み続ける。
 彼が悪いのだ。彼のせいで、ハリーは――
「やめるのじゃ! 仲間にそれ以上危害を加えるのであれば、わしは容赦せん」
 雷のような声が響き、サラはびくりと肩を震わせ戸口に視線を移した。
 ダンブルドアだった。これ程にも怒りに満ちた彼を、サラは未だかつて見た事がなかった。いつも穏やかに笑っている目は鋭く光り、般若の形相とはまさにこれだろうとサラは思った。白い髪は打ち広がり、元々長身である彼を尚更大きく見せていた。
 彼の尋常ならざる怒気を感じ取ったのはサラだけではなく、ざわめいていた騎士団はぴたりと押し黙っていた。エリもサラを取り押さえるのを忘れ、呆然と立ち尽くしていた。
「どうやらわしは、間違った人物を信頼してしまったようじゃの?」
 彼の怒りの矛先は、サラではなかった。未だむせているマンダンガスに、ダンブルドアは畳み掛ける。
「君はわしを手伝いたいと言ったが、その言葉には偽りがあったと言う事じゃな? ん?」
「い、いや……ちげぇ……俺は、そんなつもりじゃ……」
「ならば何故、ハリーの護衛を放棄した? 君はリトル・ウィンジングにいるはずだったじゃろうて!」
 ダンブルドアの怒号に、空気がビリビリと震える。誰も、身動き一つできず、ただ息を詰めて二人を見守っていた。
「すまねぇ……本当に、すまねぇ……」
「君が謝るべき相手は、わしではない」
 そしてダンブルドアは、マンダンガスから視線を外しダイニングに集まる面々を見た。
「アーサーから聞いたであろうと思うが、ハリーは吸魂鬼の襲撃を受けた。その際に守護霊の呪文を使った件で、ハリーは懲戒尋問を受ける事になった。日取りは八月十二日じゃ。わしらは法廷の場で、ハリー襲撃の事実を証明しなくてはならん。また、ハリーもマグルの家から魔法省へ向かうよりも、ここから向かった方が良いじゃろう。伯父伯母夫婦の家じゃと、当日出発に手間取る可能性もあるしの」
「ハリーをここへ呼ぶんですね?」
 シリウスがダイニングへと入って来ながら言った。少し前に戻って来ていたが、ダンブルドアの剣幕にサラ達同様彼も戸口の外で固まっていたようだ。
 ハリーが危険な目に遭ったと言うのに、それによって彼が来ると言う事でシリウスは喜びを隠し切れない様子だった。
「今、ハリーに簡単な手紙を出して来たところです。伯父さんや伯母さんが何を言おうと、家を動かないようにと」
「ふむ。確かに、彼らは魔法界の危険を運んで来るハリーを追い出しかねんの。――アラスター、後を頼めるかの?」
 ムーディがうなずくのを見て取り、ダンブルドアは屋敷を出て行った。
 ちょうど良い区切りだとばかりに、ウィーズリー夫人も立ち上がった。
「さあ、これから騎士団の会議です。あなた達は部屋に行っていなさい」
「ママ! 僕達だって、ハリーの事が心配なんだ!」
「部屋へ行っていなさい!」
 ウィーズリー夫人は繰り返した。二言を許さぬ彼女の剣幕に、まだ騎士団に入れぬサラ達八人は渋々と引き下がるしかなかった。


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2013/04/13