ピストンの音と共に、ゆっくりと汽車がホームを滑り出る。遠ざかるホームを横目で見ながら、サラは膝の上に出した本を開いた。
 真っ白なページに、さらさらと文字を書いて行く。
『やっぱり、日刊予言者新聞の影響は大きいわね。皆、あの記事を読んでるみたい』
『駅に着いたの? 今、書き込んで大丈夫なのかい? 皆は?』
『皆とは別のコンパートメントだから大丈夫。今、私一人しかいないわ』
 護衛のメンバーがなかなか集まらず、サラ達一行がキングズ・クロス駅に着いたのは発車時刻ギリギリだった。しかし、発車合図の汽笛が鳴るまでホームで家族との別れを惜しむ生徒達は少なくない。直ぐにハリー達と別れ席の確保に向かったサラは、空いているコンパートメントを見つけるのにそう苦労はしなかった。
 駅では嫌な視線だけで済んだが、学校に着いたらそうもいかないだろう。外よりも互いの距離が近い学校生活の中で、どんな言葉を浴びせられどんな扱いを受ける事か。
『おばあちゃんがいてくれて、本当に良かった……』
『サラ。学校に着いてからも、私との会話を続けるつもりかい?』
『もちろんよ。どうして?』
 一時の間。そして、ゆっくりと躊躇うような文字が浮かんできた。
『私が言うのもなんだが……この日記には、あまり書き込まない方が良いのかも知れない』
 サラは目を瞬く。
『どうして? リドルの日記と同じ仕様だから? でもおばあちゃんはリドルとは違う。私から力を吸い取ったりしないし、私を操ったりもしない。悪意は無いって、アリスにもそう言ったんでしょう?』
『私も敵視されるのは辛いからね。でも、正確には違う。悪意が無いのは確かだが、君はこの日記に書き込むと同時に徐々に力を注いでしまっている。私とこうして会話が出来ているのも、君の力をエネルギーとしているんだ。これは、私にもどうしようも無い』
『でも私、ジニーやエリみたいに倒れたりしないわ。苦しくも何ともない』
『彼みたいに意図的に吸い取ろうとはしていないからね。日記でのやり取りに使われるのは、微々たる力だ。体調に影響が出るほどのものではないだろう』
『だったら、何も問題ないじゃない』
『多少ならば、構わない。でも君は……少し、書き込み過ぎだと思うんだ。私は確かに君の祖母と同一人物だが、所詮は日記だ。記憶を魔法で残したものでしかない。それなのに君は、まるで私が生きた一人の人間であるかのように扱う。
 マグルの電話とは違うんだ。ここにあるのは用意された記憶であって、君の祖母が生きて紙の向こうにいる訳じゃない』
『おばあちゃんはおばあちゃんよ。それがどんな存在の仕方であっても』
 サラの文字が消えてしばし、ページは白紙のままだった。
 日記に書き込むななど、どうして突然そんな事を言い出すのか。訝るサラに答えるように、再び文字が浮かんできた。
『それから、幼かったから覚えていないかも知れないが、君は以前にもこの日記に書き込んだ事があるんだ』
 これは初耳だった。もちろん、サラ自身にそんな記憶は無い。もしこの日記の存在を知っていたなら、迷わず探していただろう。
『書き込んだと言っても、文章にもなっていなかったけどね。君はまだ一歳だったから。ただ、面白いおもちゃを見つけたと思ってはしゃいでいるのは手に取るように分かった。
 でも、君と一緒にいた本体の方の私はそれを良く思わなかったらしい。君からこの日記を取り上げた。それから私は、ホグズミードのあの小さな家に移された。彼女は私にも理由を説明しようとしたんだが、急用が入ってしまってね。当時はヴォルデモートが猛威を振るっていたんだ。いかに緊急性を要するかは私にも理解出来た。だから、説明はまた後日と言う事になったんだが……それ以来、私があの家に戻って来る事はなかった』
 一歳の頃。サラは、白紙の中に浮かんだその文字をじっと見つめる。
 祖母があの家に帰らなく――帰れなくなったのは、当然の話だった。その年のハロウィーンの晩に、サラ達はヴォルデモートの襲撃を受けた。それ以来、祖母はサラと共に日本に身を隠していたのだから。
『そんな訳だから理由は聞けなかったが、何か書き込んではならない理由があるんじゃないかと思うんだ』
『でも、思い当たる節はないのね?』
 返答は無かった。真っ白なページに、サラは続けて書き込む。
『……あるの?』
 祖母の返事を見る事は出来なかった。その時、コンパートメントの扉が開いてマグルの服に身を包んだ男の子が二人、入って来たのだ。
 背丈からして、新入生だろうか。二人はサラを見ると少し緊張した様子で問うた。
「ごめんなさい……あの、他に空いてる席が無くて……ここ、座ってもいいですか?」
「どうぞ」
 サラは日記を閉じ、正面の席を指し示す。二人はホッとした様子で、荷物を運び込み席に着いた。
「ねえ、聞いた? ホームに、ハリー・ポッターがいたって」
 一人が、もう一人へと話しかける。今までも、よく聞く事の多かった言葉。しかしその口調は、これまでに何度も聞いた好意的なものとは真逆のものだった。
「そりゃあ、いるだろうさ。彼も、ホグワーツに通っているんだろう?」
「嫌だなあ。僕、グリフィンドールに入りたいんだ。でも、彼もなんだよなあ……」
「ハリー・ポッターはまだいいさ! ただ目立ちたがりの法螺吹きってだけだろ? 問題はサラ・シャノンだよ。彼女がマグルの学校に通ってた頃の話、知ってるだろ。何が彼女の逆鱗に触れるか分からない。うちの母さんも随分と心配してさ、ホグワーツへの入学をやめてマグルの学校に進学したらどうかなんて言われたぐらいだよ。ほら、うちの母さん、マグルだからさ……」
 サラはただ黙り込んで、窓の外を流れていく景色を眺めていた。
 膝に置いた日記の表紙を、そっと撫でる。祖母に何と言われようとも、日記への書き込みを控える気など毛頭無かった。
 この日記だけが、サラの支えなのだから。





No.39





 ホグワーツ特急に乗るなり、フレッドとジョージはエリを連れてリー・ジョーダンのいるコンパートメントへと去って行った。サラに至っては、ホームに着いて直ぐに別れの挨拶もせずに汽車へと姿を消していた。残るアリス、ジニー、ロン、ハーマイオニーを見回し、ハリーは言った。
「それじゃ、コンパートメントを探そうか?」
 しかし、これにロンとハーマイオニーはうなずかなかった。互いに目配せし合い、ハーマイオニーが気遣うように言った。
「私達――えーと――ロンと私はね、監督生の車両に行く事になってるの」
「あっ。そうか、いいよ」
 そう言うハリーは努めて明るい声を出そうとしているようだが、気落ちしているのがアリスにはよく分かった。自分ではなくロンが監督生に選ばれた事について、ハリーは納得していない。本人は決してそれを表に出すまいとしているようだが、気にしているだろう事は明白だった。
「ずっとそこにいる必要はないと思うわ。手紙によると、男女それぞれの主席の生徒から指示を受けて、時々車内の通路を巡回すればいいんだって」
「いいよ」
 ハーマイオニーの急いだ口調に釣られたように、ハリーはあまりに早い返事をした。
「えーと、それじゃ、僕――僕、また後でね」
「うん、必ず」
 それまで自分の爪を一心不乱に見つめていたロンが、おずおずと言った。
「あっちに行くのは嫌なんだ。僕はむしろ――だけど、僕達しょうがなくて――だからさ、僕、楽しんではいないんだ。僕、パーシーとは違う」
 最後の言葉はそれまでのたどたどしさとは異なり、強い口調だった。
「解ってるよ」
 ロンとハーマイオニーが前の方の車両へと去り、ジニーがきびきびと言った。
「行きましょ。早く行けば、あの二人の席も取っておけるわ」
「そうだね」
 ハリーの後に続き、アリスもうなずいた。右手にトランクを引き、左肩に黒猫のリアを乗せて、アリスはハリーとジニーと共にコンパートメントを一つ一つ覗きながら歩く。あいにく何処も満席で、ようやく空いた席を見つけたのは最後尾の車両だった。
 最後尾の車両で、アリス達はネビルに遭遇した。彼もまた、席を見つけられずにいる様子だった。
「何言ってるの? ここが空いてるじゃない。ルーニー・ラブグッド一人だけよ」
 その名前を聞いて、アリスはネビルがそのコンパートメントを空席としてカウントしなかった理由を理解した。
 ルーナ・ラブグッド。レイブンクローの女子生徒。会話こそした事はないが、同じ学年で薬草学の授業では何度か近くの席になった事もある。決して害のある生徒ではないが、アリスは彼女が苦手だった。
 ジニーは全く気にする様子もなく、彼女に微笑みかけた。
「こんにちは、ルーナ。ここに座ってもいい?」
 窓際に座っていたルーナは上下逆さまの雑誌からジニーに視線を移し、それからその後ろにいるネビル、アリス、そしてハリーを見た。
 ルーナがうなずき、ジニーは「ありがとう」と言ってコンパートメントに入って行った。アリスも仕方なく後に続き、ハリーとネビルに手伝ってもらってトランクを棚に上げ、席に着いた。ここで「寮の友達との約束が」なんて切り出そうものなら、明らかに彼女を避けていると思われるだろう。
 幸い、ルーナは同学年のアリスよりもハリー・ポッターの方に興味を示しているようだった。
「あんた、ハリー・ポッターだ」
 ジニーと話しながらもハリーを見つめ続けていたルーナは、出し抜けに言った。
「知ってるよ」
 ハリーは困惑気味だった。それからルーナは、アリスの方を見た。
「あんたは、アリス・モリイ」
「ええ、そうよ。こうして話すのは初めてよね。よろしく、ルーナ」
 内心あまりよろしくしたくはないなと思いながら、アリスはにっこりと笑った。
「だけど、あんたが誰だか知らない」
 そう言ってルーナが目を向けたのは、ネビルだった。
「僕、誰でもない」
「違うわよ」
 ジニーが言って、ルーナに向き直った。
「ネビル・ロングボトムよ――こちらは、ルーナ・ラブグッド。ルーナは私やアリスと同学年だけど、レイブンクローなの」
「計り知れぬ英知こそ、我らが最大の宝なり」
 ルーナは歌うように言って、それきりまた雑誌に集中し始めた。

 汽車はいつの間にか町中を抜け、窓の外には田園風景が広がっていた。燦々と日が照ったり、重々しい雲が垂れ込めたり。くるくると移り変わる空模様を眺めながら、アリスはハリーとネビルが話すのを話半分に聞いていた。
 ネビルが誕生日に貰ったと言って取り出した鉢植えを見て、アリスは目を丸くした。サボテンのような姿で、針の代わりにおできのようなものに表面を覆われた植物。ネビルは得意げな顔で、問うた。
「これ、何だか分かる?」
 ハリーは「さあ」と肩をすくめる。
「ミンビュラス・ミンブルトニア」
 ネビルとアリスの声が重なった。ネビルは、顔を輝かせてアリスを振り返った。
「アリス、知ってるんだ?」
「ええ、まあ……私も、実物を見たのは初めてだけど。凄く貴重なものよね」
 強い防衛機能を持つ植物。アリスはこれを、魔法薬学の本で見かけた事があった。荷物に悪戯された場合に防衛する魔法薬は、この植物の機能を参考にして調合したものだった。
 ネビルは話の解る相手を発見して、嬉しそうだった。
「うん。ホグワーツの温室にだってないかもしれない。僕、スプラウト先生に早く見せたくて。アルジー大伯父さんが、アッシリアから僕のために持って来てくれたんだ。繁殖させられるかどうか、僕、やってみる」
「繁殖させられたら、少し分けてもらってもいいかしら? 魔法薬の材料としても、とても希少なものだもの……」
「うん、もちろんだよ! 僕、頑張る」
 まともに買えば、何ガリオン、何十ガリオンになるか知れない。しかしネビルに売買をしようなどと言う考えはこれっぽっちもないらしく、彼は無邪気な顔でうなずいた。
「これ――あの――役に立つの?」
 話について行けず困惑した表情で、ハリーが尋ねる。ネビルは得意げにうなずいた。
「いっぱい!」
 そしてネビルはミンビュラス・ミンブルトニアの防衛機能を証明しようと、羽ペンを取り出した。アリスは彼が何をしようとしているのかを悟り、腰を浮かせた。
「え……あ――駄目よ。ここでやったら……」
 アリスの忠告は遅く、ネビルはペン先で植物を突いていた。
 おできのような膨らみ全てから、どっと暗緑色の液体が噴出した。幸いアリスは防衛用の魔法薬に保護され液体を被らずに済んだが、コンパートメント内は天井も窓も緑色に染まってしまっていた。それに、酷い臭いだ。
 ほとんど顔を覆うような姿勢で雑誌を読んでいたルーナは、臭液が雑誌にかかる程度で済んでいた。ジニーも間一髪腕で顔を守ったが、髪は覆いきれず普段の赤毛とは正反対の緑色に染まってしまっていた。ネビルからトレバーを預かっていたハリーは、顔面にまともに臭液を食らっていた。
「ご、ごめん。僕、試したことがなかったんだ……知らなかった。こんなに……でも、心配しないで。『臭液』は毒じゃないから」
 液体を噴出させた張本人であるネビルは、アリスから跳ね返った液体も被り、一段と酷い有様だった。
 最悪の状況の中、コンパートメントの扉が開いた。
 戸口に立つのは、黒髪の女子生徒。チョウ・チャンだ。レイブンクローのシーカーで昨年は三大魔法学校対抗試合の選手であるセドリックと踊っていた相手ともなれば、アリスも名前ぐらいは知っている。
 そしてどうやらハリーは彼女に気があるらしいと言う事も、アリスは薄々勘付いていた。
「あ……やあ」
 眼鏡を拭いて相手が誰だか確認したハリーは、気まずげに挨拶をした。
「えっと……あの……挨拶しようと思っただけ……じゃあ、またね」
 チョウの方も気まずそうな様子で、直ぐにまた扉を閉め立ち去ってしまった。ハリーは明らかに落ち込んだ様子で、椅子にぐったりともたれかかって呻いていた。
 アリスはちらりとジニーを盗み見る。確か、ジニーはハリーを好きだったはずだ。ネビルはともかく、この様子を見てジニーが気付かないとは思えない。
 ジニーはアリスの予想に反して、あっけらかんとしていた。
「気にする事ないわよ。ほら、これだって簡単に取れるわ。――スコージファイ!」
 ジニーが杖を一振りし、コンパートメント中の「臭液」を拭い去った。

 それから一時間ほど経って、ようやく、ロンとハーマイオニーがアリス達のいるコンパートメントへと入って来た。監督生はものを食べる時間もなかったらしい。ロンは疲れ果てた様子で倒れこむように椅子に座った。スリザリンの監督生がドラコとパンジーだったと言う話も踏まえると、監督生のコンパートメントでひと悶着あったのかも知れない。
 そしてそのスリザリンの監督生となったドラコも、しばらくして姿を現した。毎度お馴染み、ハリーへのご挨拶だ。
 いつものごとくクラッブとゴイルを両脇に引きつれたドラコは、扉を開けてハリーを確認するなりさっとコンパートメント内に視線を走らせていた。
「何の用だい?」
 ハリーに冷たい口調で問われ、ドラコは彼へと視線を戻した。
「礼儀正しくだ、ポッター。さもないと、罰則だぞ。お分かりだろうが、君と違って、僕は監督生だ。つまり、君と違って、罰則を与える権限がある」
「ああ。そして君は、僕と違って、卑劣な奴だ。だから出て行け。邪魔するな」
 ロン、ハーマイオニー、ジニー、ネビルが笑った。アリスは困ったような表情を作って、ハリーとドラコとを交互に見ていた。
 ドラコの顔からは高慢なニヤニヤ笑いが消えていたが、それでも引き下がろうとはしなかった。
「教えてくれ。ウィーズリーの下につくと言うのは、ポッター、どんな気分だ?」
「黙りなさい、マルフォイ!」
 ハーマイオニーが鋭く言った。ドラコの顔に、笑みが戻る。
「どうやら、逆鱗に触れたようだねぇ。まあ、気を付ける事だな、ポッター。何しろ僕は、君の足が規則の一線を踏み越えないように、犬のように追け回すからね」
 アリスはその言葉にハッとしたが、何とか表情は困惑した様子を保ち続けた。
「出て行きなさい!」
 ハーマイオニーは遂に立ち上がった。
「言われずとも、長居する気はないさ。アリス、僕達と一緒に来ないか? 前の方にコンパートメントを取ってるんだ。こんな、穢れた血のいる所よりずっと空気がいい」
「ハーマイオニーをそんな風に呼ぶな!」
 ロンはいきり立ちドラコに掴みかかろうとしたが、ハーマイオニーに首根っこを掴まれてそれは叶わなかった。ハリーも立ち上がっていたが、彼が何か言う前にアリスは急いで答えた。
「ありがとう。でも私、ここにいるわ。理由は必要ないわよね?」
 ドラコはわずかに眉を動かしたが、何も言わずに去って行った。クラッブとゴイルもどすどすと足音を響かせながら、その後に続いた。
 ハーマイオニーはぴしゃりと扉を閉め、ハリーに目配せした。
 ハリーも、ハーマイオニーも、気付いたらしい。ドラコは、シリウスが犬の姿になって駅までハリーについて来ていた事を知っているのかも知れない。
 ヴォルデモートの所には今、ピーター・ペティグリューがいるのだ。ナミやシリウス達と親しかった彼は、当然、シリウスがアニメーガスである事も知ってる。
 シリウスがアニメーガスである事実は、死喰人の間では既に公然の事実となっているのではないか?
 ルシウス・マルフォイはハリーと共にいる黒犬に気付いて、それをドラコに伝えたのではないか?
 アリスは、窓の外を振り返る。汽車の後方には、田園風景と一本の線路が続くのみ。キングズ・クロス駅はおろか、ロンドンの町並みさえもうとうに見えなくなっていた。
 ……大丈夫だ。仮にルシウス・マルフォイがシリウスを魔法省に突き出そうと考えても、彼がアニメーガスであると言う情報をどこから仕入れたのか説明する事ができない。ピーター・ペティグリューの生存、そして彼との繋がりを明かす事は、自らを死喰人だと認める事に繋がる。そんなリスクを、彼が冒すとは思えない。今シリウスを捕まえたところで、リスクに見合う利益もないのだから。
 アリスは自分自身に言い聞かせ、正面へと首を戻す。太陽は再び姿を隠し、弱い雨が窓を濡らしていた。





 ホグズミード駅に着き、混雑する通路を抜けてホームに降りると、アリスはドラコを探した。ジニーは僅かに眉根を寄せたが、「シリウスの件についてどの程度知っているのか探りを入れる」と言うと納得したようにうなずいた。
「そうね……やっぱり、アリスも気になったのね。たぶん、ハリーもハーマイオニーも気付いていたでしょうし……」
「ええ。偶然なら良いのだけど。じゃあまたね、ジニー」
 ハリー、ネビル、ルーナの姿は、人ごみのどこかに消えてしまっていた。ジニーに別れを告げ、アリスはきょろきょろと辺りを見回す。
 一年生達が列になって、グラブリー‐プランク先生に引率されて湖の方へと向かって行く。どう言う訳か、ハグリッドはいないようだった。あの巨体で、この場にいるのに見つからないと言う事はないだろう。
 駅を出て、馬の無い馬車が並ぶ通りでドラコは見つかった。
 あちらもアリスを探していたらしい。クラッブ、ゴイル、パンジーと共に馬車を一台独占して、アリスに手を振っていた。
「ポッター達と別れたみたいで良かった。さっき、グレンジャーに会ったんだ。あの頭でっかちの穢れた血め。監督生になって、尚更生意気になった。なんでサラじゃなくてグレンジャーなんだ?」
「サラは監督生には向いてないわよ。それに、監督生用のコンパートメントに来たのがサラじゃなくて、本当はホッとしたんじゃない?」
 アリス達のコンパートメントに来た時にサラがいないか確認する素振りを見せていたのを思い出し、アリスは少し笑って言った。
「ドラコ、まだなの?」
 パンジーが、馬車から顔を覗かせて問う。クラッブも、ゴイルも、もう馬車に乗り込んでいた。
 ドラコ、そしてアリスが馬車に乗ると、馬車は何に引かれるでもなく走り出した。
「久しぶりね、アリス。夏休みはどうだった? ……って言っても、シャノンと一緒じゃあまり良いものじゃないわよね……新聞、見たわ。あなたの継母も、酷い人だったみたいじゃない。もっとも、あのシャノン相手なら分からなくもないけど……。
 アリスも大変よね。シャノンに、例の継母に、血の繋がってる姉もあのエリ・モリイだし、父親もマグル。家族がそれだから、ウィーズリーやなんかとも付き合わなきゃいけなくて……」
 開口一番に始まった家族への批判に、アリスは曖昧に笑って誤魔化す。スリザリンにいれば、何も珍しい事ではない。むしろ、本人に面と向かって言って来るだけ、清々しいものだ。中には、アリスがドラコやパンジーから気に入られているがために表面上には親しげに接しながらも、グリフィンドールと付き合っているからと陰でこそこそと悪口を言う者もあるのだから。
「アリス。僕達がどうして君を待っていたか、分かるか?」
 アリスはきょとんと目を瞬く。ドラコは察しがつくが、「僕達」と言うからにはサラの話ではあるまい。
「ドラコと一緒に汽車の巡回をしていた時に、聞いたわ。あなた、あのポッターやグレンジャー達と一緒にいたって」
「ええ。でも、何も初めての事じゃないでしょう? 私の姉はサラやエリだし、ウィーズリー家とは家族ぐるみで付き合いがあるんだもの。駅まで一緒だったから……」
「確かにこれまでも君はポッターとも親しかったし、それに口を出すつもりはなかった。でも、状況は変わったんだ。君は、どちらに付くつもりなのか自分の道を選択しなきゃいけない」
 流石のアリスも、表情を強張らせずにはいられなかった。ヴォルデモートが復活した事について、ドラコから話されるのかと思ったのだ。
 しかし、ドラコが続けた話は別の理由だった。
「ドローレス・アンブリッジ上級侍官が、ホグワーツの監査に入る」
「……魔法省の人?」
 役職名から推測し、アリスは尋ねる。
 ドラコはうなずいた。
「魔法省がポッターやダンブルドアを疎んでいる事は、アリスももう知っているだろう? アンブリッジ上級侍官は、中でも特にまともで連中を積極的に批判している人だ。
 わざわざ自ら学校に来るぐらいだから、もちろんポッターの周囲にだって目を光らせるはずだ。君がサラの妹だと言う事は、既に耳に入っていると思う。ポッターやサラほどじゃないけれど、要注意人物の一人に上がっている可能性が高いんだ。もちろん、父上を通してファッジに君はまともだって伝えてもらっているけれど……どこまで伝わっているか分からない。慎重になるに越した事はないし、今年ホグワーツでポッター達とつるんでいれば、どんなにまともだと事前に聞かされていようと、そうは思われないだろう」
「アリス。あなたは、スリザリン生なのよ。家では仕方ないかも知れないけれど、学校でまで彼らと関わる必要は無いわ」
 パンジーも、後押しするようにドラコの後に続ける。クラッブとゴイルも、何処まで話を理解しているか定かではないがコクコクとうなずいていた。
 魔法省による監査。ダンブルドアが魔法省の権力に折れるとは思えないが、魔法省の手の者を潜り込ませる隙があるのも事実だった。
 闇の魔術に対する防衛術――この科目の教師は、毎年何らかの不幸が起こり交代している。秘密を公に明かされ辞職した者やそもそも偽者が入れ替わっていたために長らく監禁されるのみで済んだ者達もいるが、聖マンゴ病院行きとなった者や死亡した者までいるのだ。当然、良くない噂は流れる。
 今年は特に、教師が見つからずダンブルドアが苦労している様子だった。そこへ魔法省から推薦があったりしようものならば、いくらダンブルドアと言えども断れないだろう。
 無駄な争いは避けたい。ましてや、魔法省に目をつけられるなんて言語道断だ。サラやハリーも、大人しくしていてくれれば良いのだが。
 アリスはにっこりと、ドラコとパンジーに笑いかけた。
「ありがとう。気をつけるわ。
 でも、どちらに付くか……って話については、保留にさせてもらっても良いかしら? 私はスリザリン生だし、ドラコもパンジーもクラッブもゴイルも、スリザリンの他の皆も大好きよ。でも、サラやエリだって、私の大切な家族だから……そう、無碍に切り捨てる事も出来ない」
 最後の言葉は真面目な顔つきで、じっとドラコを見据えて言った。
「アリス、そんな悠長な事を言ってる場合じゃないのよ。もう新学期が始まって、この馬車が学校に着いたらもうそこに彼女はいるのよ? グリフィンドールやハッフルパフの人たちなんて――」
 声を荒げるパンジーを、ドラコが片手を挙げて制した。
「……分かった。目立った事さえしなければ、難癖を付けて来る事はないだろう。君には時間があるんだ。よく考えるといい。
 ただ、もし君がポッター達の側に付くと言う答えを出したならば、僕らはもう今までみたいに君をかばう事は出来なくなる。それだけは、心に留めておいてくれ」
「……ええ。解ったわ」
 彼には時間が無かった。
 今まで知らなかった事実を突然突きつけられ、選択を迫られた。そうして家族を選んだ彼が、家族を見捨てる事をアリスに強要する事など出来るはずが無い。

 馬車はホグズミードの町並みを抜け、坂を上りホグワーツ城の校門を潜っていた。やがて馬車は、正面玄関の前で停止した。
 馬車を降り、玄関ホールへ向かおうとしたアリスを、ドラコは呼び止めた。パンジーは、親友のダフネ・グリーングラスが妹と一緒にいるのを見つけ、彼女達に駆け寄っていた。
「アリス、少しいいか? 宴会の後だと、新入生の引率があるから……」
「ええ」
 ドラコとアリスは正面扉へと流れて行く生徒の波を抜けて、開きっ放しになった樫の扉の脇へと出る。そこは人ごみと扉とで松明の明かりが遮られ、二人の姿を気に留める者などいなかった。
「サラの話?」
 二人っきりだろうと、薄闇の中傍の茂みに植わった薔薇の香りが鼻腔をくすぐろうと、アリスはもう何の期待もしなかった。期待するだけ無駄なのだと、よく解っていた。
「サラも関係あるけど……君自身の話だ。
 今後、スリザリン生として僕らの側に付くか、ポッター達の側に付くか……その事で、もし僕とサラの事を気にしているとしたら、もう気にしなくていい。それだけ、言っておこうと思って」
 アリスは目を瞬く。
 アリスがサラやハリーの味方をすれば、スリザリン生との関係は粗悪になるだろう。特にその筆頭であり父親が死喰人であるドラコとは、こうして話す事もなくなるかもしれない。
 アリスがスリザリン生としての立場を選び、ヴォルデモートに寝返ったならば、サラ達はそれを裏切りと捉えるだろう。もうあの家にいる事は出来なくなり、サラとドラコの間を取り持つ事など出来なくなる。
 ……あるいはそうなるのも、気が楽かも知れないが。
 アリスは陰になっているドラコの顔を見上げると、ふっと苦笑した。
「なんだ、そんな事。大丈夫よ。私はちゃんと、私の意志で道を選ぶわ。私にとっても、大切な事だから」
「そうか……それなら、いいんだ。僕はもう、サラとよりを戻そうだとか、どうとなろうと言うつもりは無いんだ。だから……」
「……何か、あったの?」
 不自然なまでに「気にしなくて良い」と繰り返すドラコに違和感を覚え、アリスは尋ねた。
 ドラコの様子は本気でサラの事がどうでも良くなったようにも見えず、かと言って諦めようと自分に言い聞かせているのともまた違っていた。
 言うなれば、負い目や引け目。
 しかし、二人の破局はドラコの浮気でも失態でも何でも無い。ドラコに責任など無いはずだ。彼が負い目を感じる理由など何処にもないはずだ。
 ドラコはしばらく口を噤んでいた。その表情は陰になり、見て取る事が出来ない。
 最後尾の生徒達が馬車を降りて玄関ホールへ消えて行った。湖の方には、小さく明かりが見えている。二年生以上とは別ルートの、一年生達が到着しようとしているのだ。
 先頭のシルエットが人の形として認識出来るほどに近付いて来て、ドラコは口を開いた。
「君達の祖母……サラの祖母の死は、僕のせいだったんだ」
 玄関ホールからも人がいなくなったのだろう。扉の内側に閉じ込められた大広間の喧騒が、幽かに聞こえていた。
「どういう事……? だって、シャノンのおばあさんが亡くなったのって、もう八年も前よ。あなたはまだ歳じゃない。祖母を殺したのがあなたの父親だとしても、そこにあなたが関与する事なんて……」
「あったんだ。……君は、秘密の部屋を開いた犯人についての事は聞いているだろう?」
「ええ。私はまだ医務室にいたけれど、ダンブルドアが説明したって友達から聞いたわ。例のあの人だったって……」
「君の事だ。実行犯と、彼女を操った手段についても聞いているはずだ……あの人の日記について」
 ドキリとしたのは、よくにた仕組みの日記の存在を知っていたからだ。リドルの日記は屠られたが、それと同じような魔法を掛けられた日記が、まだ存在している事を。
「どうして父上は、その日記がどう言うものか知っていたのだと思う?」
 ルシウスが仕組んだと認めたような発言だったが、アリスは忠告しようとしなかった。ドラコは、まるで全て吐き出してしまおうと言う様に、早口で話した。吐き出して、少しでも一人で抱えるものが減らせるように。楽になれるように。
「例のあの人から聞いていたんじゃないの? 日記がどう言うものなのか」
 答えながら、違うだろうとアリスは思っていた。
 これはきっと、そんな安直な話ではない。
 ドラコは静かに、首を振った。明かりは、湖の淵まで近付いてゆらゆらと揺れていた。
「父上があの日記の使い方を知っていたのは……前にも、あの日記が使われたからなんだ。日記の中の例のあの人が書き込んだ人を操るのを、見たからなんだ」
 アリスは何も言わなかった。
 先頭の船は湖の淵に到着していたが、まだこちらへは来ない。グラブリー−フランク先生は、最後尾まで全員が船から下りるのを待っていた。
 ドラコは、アリスを正面から見据える。風に樫の扉が揺れ、ちらりとドラコの青白い顔が松明の明かりに照らされた。その瞳が濡れているように見えたのは、光の悪戯だろうか。
「僕が書き込んだんだ。居間の下の隠し倉庫に、あの日記を見つけて。父上がサラの祖母を手に掛けたのは、闇の帝王に忠誠を示すように言われたからだったんだ」
 アリスはただただ、ドラコを見つめていた。
 それは……つまり――
「幼い僕は、それが何なのか理解していなかった。ただ、面白い魔法のおもちゃを見つけたと思っただけだった。彼も、自分が闇の帝王だとは名乗らずにただ返事を返す日記のふりをし続けていた。
 僕との話で、あの人は自分の僕が自分を探しもせずに表世界で生活を続けている事を知ったんだ。もちろん、怒らないはずがない。
 あの人は日記に書き込んだ僕を乗っ取って、父上に脅しを掛けた。誰でもいいから人を殺め、闇の印を打ち上げて、忠誠を示せと……断ればどうなるかなんて、考えるまでもなかった。
 そもそも、あの人がいなくなって何年も経つのに闇の印を打ち上げるなんてリスクの高い事を、父上がするはずなかったんだ。父上はただ、僕を守ろうとしていただけだった。父上はそうせざるを得なかったんだ。シャノンが死んだのは、僕が例のあの人の日記に書き込んだから――僕のせいで、幼いサラは孤独に追いやられたんだ」
 祖母を殺した犯人。スリザリンやヴォルデモートとの血縁。
 そして、祖母の死の真相。
 その無惨な真実から目をそらす事ができたなら、どんなに良かっただろう。耳も目もふさいでしまって、温かな闇に身をゆだねる事ができたなら。
 もう直ぐ新学期の宴会が始まると言う事も忘れ、アリスはただただ、その場に立ち尽くしていた。


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2013/12/01