長い夜だった。
マクゴナガルがハリー、ロン、サラの三人を連れて行った先は、校長室だった。ハリーとサラが見たものは事実、その時起こった出来事で、アーサー・ウィーズリーは直ちに発見され聖マンゴ病院へと運ばれた。ロンの他の兄妹達も校長室に呼ばれ、サラとハリーはウィーズリー兄妹と共に移動キーでグリモールド・プレイス十二番地へと帰った。
何も出来る事はなかった。サラ達はただ、待つしかなかった。ウィーズリー氏は一命を取り留めた。しかし、ウィーズリー夫人からの手紙は彼の峠を匂わせる内容だった。
サラはただテーブルの前に座り込み、時々、バタービールの瓶に口をつけるだけだった。ナミはしばしば席を立ち、シリウスは魔法で呼び寄せていたバタービールのおかわりを厨房まで取りに行ったり、どこからかチョコレートを持って来て皆に配ったり、うとうとと舟を漕ぎ出したフレッドの肩にブランケットを掛けたりと、静かに動き回っていた。ナミが席を立つ度、隣のハリーが顔を上げ目で追うのが分かったが、サラはひたすら手元の瓶に視線を落とし、誰とも目を合わせようとはしなかった。
――ハリーは、蛇の視点からウィーズリー氏が襲われるのを見たと話した。
それは、サラも同じだった。しかし、ハリーの夢とサラの夢は、違っていた。見たものは同じだが、感じたものは全く違っていた。
「僕が蛇でした」
そう、ハリーは言った。その時のハリーの顔は蒼白で、手は小刻みに震えていた。
サラも問われ、答えた。同じく、蛇の視点のようだったと。
そう、蛇の視点だ。それは、あくまでも視点でありそれ以上でもそれ以下でもなかった。テレビや映画で見るような、近付く不穏な影を示しながらも、その犯人を明示しないために視点の主とする演出。それによく似ていた。噛みつく瞬間もカメラが引かなかった点では、テレビや映画とはやや異なるが、しかしサラにとってそれは映像でしかなかった。牙が肉を抉る感覚も、浴びたであろう返り血の感触も、サラに伝わる事はなかった。
――ハリーは恐らく、それらの感覚も自分のものとして感じた。
でなければ、自分が蛇だったなどという印象に繋がりようがない。サラが見た夢は、ハリーが見た夢だったのだ。
以前にも、似たような事があった。その時は逆に、映像はなく感触のみであったが。「賢者の石」が隠された部屋で、ハリーとクィレルが取っ組み合った時。二年生のバレンタインの後、アリスが冷水を浴びせられた時。サラは、彼らが感じた痛みや冷たさを、自分のものとして感じた。
これも、祖母から受け継いだ能力なのだろうか。親しい人の危機を察知する事が出来る? しかし、今回についてはいまいちよく分からなかった。過去の例にならうなら、噛まれた瞬間のウィーズリー氏の痛みで飛び起きるものではないのか。しかし今回は被害者の痛みではなく加害者の映像で、それも同じものをハリーが見ている。サラが見る必要はどこにもない。むしろ。
(ハリーが見たから、私が見た……?)
サラの能力が、危険を察知するものだと仮定するなら、今回の「危険」の対象はウィーズリー氏への襲撃ではない。ハリーが見た夢そのものだ。ウィーズリー氏ではなく、ハリーに危険が差し迫っているという事になる。
サラは顔を上げ、チラリとハリーの横顔を見る。ハリーはただ無言で、溶けていく蝋燭を見つめていた。
テーブルに並べられたチョコレートは、誰も――持って来たナミ自身でさえも――手を付けていなかった。
No.51
昨晩何があったのかをエリが知ったのは、朝になってからの事だった。早い朝食を終えた後、一度談話室へ戻ろうとするエリに、ダンブルドアが呼んでいるとザカリアス・スミスから伝言があった。ザカリアスはいったい何の用なのか執拗に聞き出そうとしたが、エリ自身も心当たりはなく答えようがなかった。
校長室には他に、ハーマイオニーとアリスがいて、ウィーズリー氏が襲われた事、ハリー達が一足先に学校を出た事を聞かされた。
「おじさんの容体は?」
ダンブルドアの話が途切れた隙をついて、エリは尋ねた。
「一命を取り留め、峠も超えた。早期に発見出来たのは、不幸中の幸いじゃった。後は、怪我の回復を待つのみじゃ」
三人の口から、安堵の息が漏れる。それから、ハーマイオニーはキッと顔を上げた。
「先生。私もハリー達の所へ行っても良いでしょうか」
「君が望むのであれば、そうしてやると良いじゃろう。しかし、今はまだ駄目じゃ。学期が終わるまで、待たねばなるまい。明日、皆が帰るのに合わせて学校を出て、『夜の騎士バス』で向かうが良いじゃろう」
「先生」
アリスが、几帳面に手を挙げながら声を掛けた。
「私とエリも、汽車ではなくハーマイオニーと一緒に夜の騎士バスで帰った方がいいですか?」
「そうじゃな。姿現しの使えない出入りは、可能な限り回数を減らした方が良い。今回の襲撃で、騎士団もハリーとサラの護衛をつけるので手一杯じゃ。キングズ・クロス駅への迎えは行けそうにない」
アリスは真剣な顔でうなずく。
「『夜の騎士バス』って?」
「魔法使いのバスよ。どこにでも迎えに来てくれるし、どこにでも送ってくれる――乗り方とか詳しい事は、ハーマイオニーなら知ってるんじゃないかしら?」
アリスは問うようにハーマイオニーへと視線を移す。ハーマイオニーはうなずいた。
「ええ。実際に呼んだ事はないけど、本で読んだから……」
「よろしい。それでは、出発は明日じゃ。汽車に合わせて城を出て、人気がなくなるまでは君達の祖母の家に身を潜めるが良いじゃろう。庭先に入ってしまえば、彼女の血を引く者以外は中の様子が分からぬ。汽車が発車した後に、バスを呼ぶのじゃ。くれぐれも、何処へ向かうかは悟られぬよう」
「はい」
エリ、アリス、ハーマイオニーの声が重なった。
かつてこれまで、ホグワーツでの一日がこれほどにも長く感じられた事があっただろうか。ウィーズリー氏は一命を取り留めたと話には聞いても、一刻も早く病院へ見舞に行き、この目で無事を確認したかった。フレッドやジョージ達に会いたかった。
ハリーやサラを逃した事で、アンブリッジはカンカンだった。エリの神経を逆撫でする発言はいつにも増し、ホグワーツ最後の夜もエリはマートラップの液に世話になる事となった。
翌朝、エリはアリスとハーマイオニーと待ち合わせて学校を出た。土産物を買う生徒達に紛れてホグズミードのメインストリートを散策し、そのまま村の外れへと向かう。周囲に誰もいない事を確認すると、三人は手を繋いでシャノンの家の門を通り抜けた。
「汽車が発車するのは、午前九時。――あと十分ほどね」
ハーマイオニーが腕時計を確認しながら言った。
「ねえ、ハーマイオニー。サラとハリーも、ジニー達と一緒に先にグリモールド・プレイス十二番地へ帰ったのよね? サラとハリーに何があったの? サラは、あなたと同室でしょう?」
エリは、きょとんとアリスを振り返る。
「どういう事?」
「襲われたのは、ウィーズリー氏よ。フレッド、ジョージ、ロン、ジニーが帰されたのは、もちろん、彼の子供達だから。でも、サラとハリーは違うわ。事情を知ってるからついて行った訳でもない。それなら、ハーマイオニーだって一緒に向かったはずだもの」
「なるほど」
エリはつぶやき、アリスと共にハーマイオニーへと視線を向ける。ハーマイオニーは、少し困ったような顔をしていた。
「私も詳しくは分かっていないの。ただ、あの晩、サラが凄く苦しんでいて……悪夢にうなされているみたいだったわ。それで、起こしたら『ハリーに会わなきゃ』って。そう言うなり寝室を飛び出して行って、そのまま。ネビルから聞いた話だと、男子寮に飛び込んで来て、ハリーとロンと一緒にマクゴナガル先生に連れて行かれたそうよ」
「それだけ? なんでハリー? 襲われたのは、ロンの親父なのに」
「夜って……ちょうど、襲われていた頃って事よね。もしかして、『視た』……? ハリーも? サラはそれを悟って、ハリーに確認しようとしたって事? 夢の中で、二人で現場に居合わせていたとか……」
アリスが考えながら、途切れ途切れに話した。ハーマイオニーはうなずく。
「私も、そんなところなんじゃないかと思っているわ。もちろん、本人達に確認しなきゃ分からない事だけど……」
時計の針が九時を回ったのを確認し、通りに人気がないのをくまなく確認して、エリ達は門から出た。通りに出るなり、ハーマイオニーは少し緊張した面持ちでタクシーを停める時のように手を高く上げた。
次の瞬間、超特大の花火を爆発させた時のような音が、静かな通りに響き渡った。思わず怯んだ三人の目の前に現れたのは、派手な紫色をした三階建てのバスだった。フロントガラスの上には、これまた派手な金文字で「夜の騎士バス」と書かれている。
「ようこそ、夜の騎士バスへ! 迷子の魔法使い、魔女たちの緊急お助けバスです。杖腕を差し出せば参じます。ご乗車ください。そうすればどこなりとお望みの場所までお連れしましょう。車掌は私、スタン・シャンパイク。運転手は、アーニー・プラング。僅かの間ながら、目的地までの旅をご案内致します」
紫の制服を着た車掌は、流れるように一息に話した。
「ロンドンまでお願いします。グリモールド・プレイスの広場へ」
ハーマイオニーが緊張しながら十一シックルを支払い、行先を告げた。
バスの中は、エリが知るどんなバスとも違っていた。座席はよく知る路線バスのような固定されたものではなく、形も大きさもてんでバラバラな物がバラバラに置かれていた。停車した折にひっくり返った椅子が、窓際の方まで転がって行っていた。
ハーマイオニーは窓際に転がった椅子を直し、そのままその椅子に座った。エリとアリスも、スタン・シャンパイクに運賃を支払い、彼女の隣に腰掛ける。
二人が座るのを待つ事もなく、バスは急発進した。アリスが踏み止まれず、座ろうとした椅子ごと引っくり返る。
バスの運転はてんで滅茶苦茶だった。時には歩道に乗り、時には徒歩でさえ通れるか危ういような細道を構わず突き抜ける。衝突こそしないが、急発進・急停車の衝撃は緩和される事なくバスの中に伝わり、アリスはずっと窓枠を掴んでいた。
いつしか窓の外の雪はなくなり、小高い丘や草原、やがて街中へと景色は移り変わって行った。汽車では丸一日かかる道のりだ。夜の騎士バスはあり得ない速度で飛ばしていたが、それでも一瞬で到着とはいかなかった。昼食時も経過したが、とてもバスの中で何かを食べようという気にはなれなかった。
「あたし、ここからでも箒で帰りたい……」
何度目かの急停車でぼやいたエリの言葉は、急発進により最後まで続ける事は出来なかった。
夕方になり、バスはグリモールド・プレイスへと到着した。スタン・シャンパイクに手伝ってもらって荷物を下ろし、三人は念入りに辺りを確認しながら十一番地と十三番地の間へと向かった。三人が近付くと、二つの建物の間が開き、そこにずっと存在していたかのように十二番地が姿を現した。
ハーマイオニーが玄関の呼び鈴を鳴らす。少しして、扉が開いた。三人を迎えたウィーズリー夫人は、三人を順番に抱きしめ、朗らかに微笑った。
「そろそろ着く頃だと思っていたわ。お帰りなさい」
「ただいま! おじさんの様子は?」
エリは急き込んで尋ねる。夫人は、エリ達を家の中へと通しながら答えた。
「ええ、もう大丈夫ですよ。もう起きて元気に話す事だって出来るわ。昨日は、ロン達も見舞に来たの」
「良かったです。私達も、見舞に行っても?」
アリスが尋ねる。
「ええ。ぜひ、そうしてちょうだい。何か食べた? もう直ぐ、夕飯が出来ますからね。子供達は皆、部屋にいるわ」
中に入ると、シリウスが階段を下りて来たところだった。母親の肖像画を黙らせていたのだろう。シリウスは、夏休みに会った時に比べて何倍も上機嫌な様子だった。
「おかえり、エリ、アリス! ハーマイオニーも、よく来たね」
「ただいま、親父!」
シリウスは、ウィーズリー夫人がやったのと同じようにエリを抱きしめ、アリスとハーマイオニーに笑いかけた。
「ナミは今、厨房にいる。ケイタは、次に来られるのは年末になるらしい」
シリウスとウィーズリー夫人に手伝ってもらって、三人は荷物を二階の寝室へと運び込んだ。夏休みと同じく、エリとアリスは二人で一室、ハーマイオニーは隣でジニーと同室だった。
荷物を運び終え、シリウスとウィーズリー夫人が階下へと降りて行くと、エリとアリスは部屋を出た。隣の部屋へ行こうとしたのだが、ハーマイオニーとジニーもちょうど出て来たところだった。
「ジニー! ハリーとサラも、それぞれの部屋か?」
「サラはたぶんそうだけど、ハリーは違うみたい」
答えたのは、ハーマイオニーだった。ジニーは暗い顔をしていた。
「何かあったの?」
アリスが気遣うように問う。
「ええ、まあ……昨日、お父さんのお見舞いに行ったの。そこで、大人達の会話を皆で盗み聞きしたんだけど……」
三階へと上がりながら、ジニーは病院で聞いた事をエリ達に話した。その中には、エリ達も知らなかった襲撃の詳細も含まれていた。ウィーズリー氏は蛇に噛まれて重傷を負った事。それが、不死鳥の騎士団の任務中であった事。ハリーとサラが襲撃現場を夢に見た事。サラは祖母から継いだ力だろうと推測されている事。一方で、蛇の中からその現場を見ていたと言うハリーには、『例のあの人』がとり憑いている疑惑がかかっている事――
「なんだって!?」
思わず大きな声を出したエリに、ジニーは「しーっ」と人差し指を立てて注意した。
「この話、私達は知らないはずなんだから」
エリは慌てて口を押える。
三階の部屋にいたのは、案の定ロンだけだった。
「ハリーのやつ、病院から帰って来てから、僕達を避けてるんだ。口もきこうとしない」
「きっと不安なんだわ。そんな話を聞いたら、誰だって――」
「ハーマイオニー!」
ハリーとロンの部屋に、六人目が訪れた。サラは部屋に飛び込んでくると、ハーマイオニーへと駆け寄り抱き着いた。
「サラ、大丈夫? あなたも、見たのでしょう――」
「ハリーが危険なの。でも、私、どうしていいのか分からなくて……」
「話なら、ロンとジニーから聞いたわ。あなた達が見た事と、病院で聞いた話……」
「違うの。私も夢を見たのよ。私はウィーズリーさんの危険を視た訳じゃないわ。ハリーが見たものを視たのよ」
必死にまくしたてるサラを、エリはぽかんと見つめていた。アリス、ジニー、ロン、ハーマイオニーも、サラが何を言っているのか分からない様子だった。ロンがなだめる。
「サラ、落ち着けよ。そりゃ、『あの人』に憑かれてるってのは危険な状態かもしれないけど、まだそうと決まった訳じゃ……」
「違うわ。これまでにもあったのよ。ハリーの傷が痛んでいる時に私も頭痛を感じたり、アリスが水を掛けられた時に私も水を浴びたような感触を感じたり……」
ハーマイオニーがハッとした顔つきになった。
「それじゃ、サラ……あなたが『視た』のって、つまり……」
サラはうなずく。
「ハリーを一人にしちゃいけない。でも、私、どうしていいか分からなくて。何て声を掛ければいいのか、分からなくて……私じゃ、余計な事を言ってしまいそうで……」
「私に任せて」
ハーマイオニーはきっぱりと言うと、ロンを振り返った。
「ハリーはどこ?」
「たぶん、上の階じゃないかな。とにかく誰にも会わないようにしているみたいだから」
ハーマイオニーはうなずくと、颯爽と部屋を出て行った。
エリは、困惑顔でハーマイオニーが出て行った扉とサラとを交互に見る。
「どういう事? ハリーが危険って? 憑かれてるかもってのとは、別の話?」
「ええ。……たぶんなんだけど、私の力は、誰かの危険を察知するものなのよ。でも、今回、私が見たのは、ウィーズリーさん側の映像じゃなかった……ハリーの見ていたものを、視ていたの」
「危険が迫っている被害者側の感覚を受信すると考えると、サラが察知したのは、ハリー側の危険って事になる訳ね?」
アリスの言葉に、サラはうなずく。
ロンは不安気な顔をしていた。
「それじゃあ、やっぱりハリーは……?」
「憑依されているかどうかなら、直ぐに確認出来るわ。本人がちゃんと私達と話をしてくれれば」
ジニーがロンの隣に座りながら言った。アリスがサラを振り返る。
「とにかく、サラ。あなたは、ハリーの前では不安そうにしない事ね」
「どうして?」
「わからない?」
アリスは、じれったそうに言った。
「自分が例のあの人に憑依されているかもしれないって話を聞いてから、ハリーはあなた達を避けているのでしょう? 当然、彼が今気にしているのは、その事だわ。憑依されている可能性があるから、あなた達が自分を怖がっているんじゃないかと思っている」
「私、ハリーを怖がってなんかいないわ。怖がるはずないじゃない」
「ハリーはそう思っているのよ。サラだって、分かるでしょう? ずっとそれで、ハリー達を避けていたのだから」
サラは黙り込む。アリスは更に畳みかけるように続けた。
「あなたが不安そうにしたら、ハリーは当然、憑依疑惑の事で不安がっているのだと思うわ。しかも、あなたはハリーと同じ光景を見ている上に、シャノンのおばあさん譲りの力だってある。あなたの不安は、信憑性を高めてしまうのよ。自分は本当に『例のあの人』に取り憑かれているんじゃないかって。
危険かもしれないって話は、ひとまず置いておいて。話がややこしくなってしまうから。ハリーと同じ夢を見たのは、あなただけなの。あなたが一番ハリーの近くにいるの。あなたがハリーを支えてあげなきゃ」
「……分かった」
サラがうなずいたその時、部屋の扉が開いた。
ハーマイオニーに連れて来られたハリーは、そこにジニーとエリとアリスとサラもいるのを見て、驚いた顔をしていた。ハーマイオニーはジニーの横に腰掛け、ハリーを見た。
「気分はどう?」
「元気だよ」
「まあ、ハリー。無理するもんじゃないわ。ロン達から聞いたわよ。聖マンゴから帰ってから、ずっと皆を避けているって」
「そう言ってるのか?」
ハリーはロンとジニーを見た。――サラの方は見ようとはしなかった。
ロンは視線をそらしたが、ジニーは怯みはしなかった。
「だって本当だもの! それに、あなたは誰とも目を合わせないわ!」
「僕と目を合わせないのは、君たちの方だ!」
「もしかしたら、代わりばんこに目を見て、すれ違ってるんじゃないの?」
ハーマイオニーは若干の苛立ちを漂わせながら口を挟んだ。エリは戸惑い、ハリーとジニーとを交互に見ていた。
「そりゃ、おかしいや」
「ねえ、全然分かってもらえないなんて思うのはおよしなさい。皆が昨夜『伸び耳』で盗み聞きした事を話してくれたんだけど――」
「へーえ? 皆、僕の事を話してたんだろう? まあ、僕はもう慣れっこだけど」
「私達、あなたと話したかったのよ、ハリー。だけど、あなたったら、帰って来てからずっと隠れていて――」
「僕、誰にも話しかけて欲しくなかった」
「あら、それはちょっとお馬鹿さんね」
ジニーは今や、口調に怒りが染み出ていた。
「『例のあの人』に取り憑かれた事のある人って、私以外にいないはずよ。それがどういう感じなのか、私なら教えてあげられるわ」
ハリーの表情から、一瞬でイライラと怒りが抜け落ちたのが分かった。目をパチクリとさせ、それからハリーはジニーを振り返った。
「僕、忘れてた」
「幸せな人ね」
「ごめん」
ハリーは心底、申し訳なさそうだった。
「それじゃ……それじゃ、君は僕が取り憑かれていると思う?」
「そうね、あなた、自分のやった事を思い出せる? 何をしようとしていたのか思い出せない、大きな空白期間がある?」
ハリーはしばらく考え込んだ末、答えた。
「――ない」
「それじゃ、『例のあの人』は、あなたに取り憑いた事はないわ。あの人が私に取り憑いた時は、私、何時間も自分が何をしていたか思い出せなかったの。どうやって行ったのか分からないのに、気が付くとある場所にいるの」
ジニーの話は、効果てきめんの様子だった。
それでもハリーはまだ自分に疑いを抱いていたが、ホグワーツから「姿現し」や「姿くらまし」が出来ない事はハーマイオニーとサラが知っていたし、ハリーのアリバイはロンが証言出来た。
筋道の通った論理的な説明に、ハリーも心が軽くなったようだった。
クリスマスに皆が帰って来て、シリウスは最高に機嫌が良かった。この家に閉じ込められる事による不機嫌面を見せるような事はなく、クリスマスの飾り付けや掃除を大はりきりで行っていた。エリ達も彼を手伝い、館は瞬く間に見違えて行った。
彼が騎士団の用事でグリモールド・プレイス十二番地を訪れたのは、そんなクリスマスの準備をしている最中の事だった。
「――セブルス!」
階段下に彼の姿を見かけたエリは、思わず大声を上げて呼び止めた。睨むような目で見上げられ、慌てて付け加える。
「――スネイプ、先生」
幸い、周りに人はいないようだった。シリウスも、上の階の飾り付けをしている。もしここにいたら、また喧嘩になっていただろう。
エリは二段飛ばしで階段を駆け下りて行った。手を引き、食堂へと入る。今日はウィーズリー夫人は夫の看病に行っているし、ナミも上で皆と一緒に大掃除だ。食堂も、厨房も、今は誰もいなかった。
「ちょっとここで待ってて! 直ぐ取って来るから!」
「何を――」
皆まで聞かず、エリは厨房へと駆けて行った。片隅に隠すように置いた風呂敷包みを取り、食堂へと駆け戻る。そして、セブルスへと突き出した。
「――これ!」
「何だ?」
「愛妻弁当ー……なんつって」
セブルスは困惑顔で、エリの差し出す包みを見下ろしていた。
「我輩は、連絡なくここに立ち寄ったはずだが」
「うん。大丈夫! 作り置きじゃないよ! いつ来るか分からないから、毎日作ってた。――あたしも、何かしたくてさ。でも、騎士団の任務の事は何も聞かせてもらえないし、出来る事ってこれくらいしかないから。ちゃんと食べてるのかなって心配だったし……」
返って来たのは喜びでも感謝でもなく、大きな溜息だった。
「君は、これがどんなにリスクの高い事だか解っているのかね?」
彼に会って弾んでいた気持ちが、みるみると萎んでいくようだった。
自分は、何を期待していたのだろう。彼の言うとおりだ。もし、セブルスがこれを持っているところを、誰かに見られでもしたら。
こんな事で、力になれるとでも思ったのか。喜んでもらえるとでも思ったのか。――むしろ、ただの迷惑だ。同情で付き合わせているだけでも、彼に迷惑をかけているのに。
「……ごめんなさい」
「謝ってほしい訳ではない。ただ、もし誰かに知られでもしたら、君も困った事になるだろう。いつ来るかも分からぬ者のためにそこまでする必要などない。君はもっと、自分の時間を大切に――」
セブルスの言葉が途切れた。見上げた彼の顔はかすんで見え、頬を雫が流れ落ちた。
エリは慌てて顔を伏せる。
「えっ、あ……ごめん。おかしいな……」
エリは笑おうとする。しかしエリの意志に反して、涙は次から次へと止めどなく流れ続けた。
「どうした? 何かあったのか?」
セブルスは完全に困惑していた。
当然だ。エリとて、自分でもまさか泣くつもりなどなかった。これでは、ただの面倒くさい女ではないか。これ以上彼に迷惑をかけたくないのに、猶更困らせてしまうだけだ。しかし、一度あふれ出すともう止まらなかった。
「ごめん……迷惑だよね。勝手に逃げ回って、無理矢理告白を受けさせるような事をして。その上、こんな勝手な事もして……」
「エリ? 何を言って――」
「分かってるんだ。二人っきりになっても、触れ合ったりしても、いつもドキドキしてるのはあたしだけでさ。セブルスからすれば、あたしなんて子供だもん。可哀そうだけで告白を受けられるような奴じゃないって最初は思ったけど、でもやっぱり、セブルスはあたしの事、好きな訳じゃないんだって……ごめん……ごめんな、無理させて……」
声が震える。まるで、自分の声ではないかのようだった。
エリは風呂敷を抱え込み、ふいと背を向けた。
「……もう、終わりにしようか。あたしから言い出したのに、勝手で本当にごめん。でも、セブルスに無理させて、負担を増やすのはもう、嫌だからさ……」
厨房へと戻ろうとしたエリの腕を、セブルスが掴んだ。
「待て。どうしてそんな話になった? 何を勘違いしているんだ? その涙は、我輩のせいなのか?」
「違う。セブルスは何も悪くないよ。ごめん。本当に、泣くつもりなんてなかったんだ。気にしないで」
「恋人が突然泣きながら別れ話を切り出して来て、気にするなと言うのか? 本当に、いったい何があったんだ」
「だから、恋人ごっこはもういいって!」
エリはセブルスの手を振り払う。厨房へと駆け込もうとしたが、セブルスが杖を振る方が早かった。ガチャガチャとドアノブを回すが、押しても引いても開かない。
鍵を掛けられたのだと気付いたその時、セブルスの手がエリの目の前の扉にバンと音を立て強く叩きつけられた。
「逃がさんぞ」
「え、え……えぇ……?」
思いもよらない彼の動作に、思わず間抜けな声が漏れる。耳元で聞こえるセブルスの声には、怒りと苛立ちが滲んでいた。
「君が恋人でいるのが嫌になったと言うのなら、無理に引き留めはしない。だが、今の君の話は何を言っているのかほとんど分からん。誰かに何か言われたのか? 負担とは何の話だ? 補習の事であれば、気にする事はない。我輩から言い出した事だ」
「……ずるいよ」
エリはぽつりとつぶやいた。振り返る事は出来なかった。
「いっつも、あたしばかりドキドキしたり浮かれたりしてさ。セブルスは平然としてて、あたしの事なんて何とも思っていないのに。別に、セブルスを嫌いになったとか、そんなんじゃない……優しさに付け込んでるみたいで、嫌なんだ。これ以上、無理させたくない。あたしだって、惨めだ」
しばし、沈黙が流れた。重苦しい沈黙だった。逃げ出したいが、動くに動けない。振り返ってセブルスの顔を間近で見る勇気さえなかった。ただ身を固くして、目の前の扉を見つめ続けるしかなかった。
どれほど無言の時が続いたのか。やがて、セブルスが口を開いた。
「……我輩の本心を言うならば、君にそばにいて欲しい。補習についても、ただ共にいたいと言うエゴと、プライドのためだった。負担ではない。むしろ、君を縛る事になっていないかと不安にさえ思っていたほどだ。我輩なんかのために、君の貴重な時間を奪うべきではないのではないかと。君といられる時間がどんなに癒しになっている事か、君は分かっていない。
それに、我輩は教師で、君は生徒だ。その……我輩があまり感情を露わにするのは、問題かと」
エリは、そっと振り返る。セブルスは、見た事のない表情をしていた。戸惑いと羞恥。いつも平然とエリを見つめ返す黒い瞳は、スッと横にそらされた。
「君が卒業するまでは、決して手を出さないと決めている。間違ってもそのような雰囲気にならぬよう、努めていたつもりだった。……それが、君を不安にさせるとは思わなかった」
「……この状況は?」
「す、すまない!」
セブルスはパッと扉から手を放した。両手を上げ、一、二歩下がる。その様子が何だか微笑ましくて、思わず笑みが漏れた。
感情をそのまま表に出すなら、いつもこんな感じだったのだろうか。無理に押さえつけて、平常心を保とうとしていたのだろうか。
「別に、無理しなくてもあたしには全部見せてくれていいのに」
「……君は、もう少し言葉の選択を考えろ」
エリは目を瞬く。セブルスは、溜息を吐いていた。
エリは、セブルスへと歩み寄る。そして、目を閉じた。
一時の間があり、そして、セブルスの手が恐る恐るエリの頬に触れた。
――そっと、柔らかな感触が額に触れた。
エリは目を開く。そして、クスリと微笑った。
「ほんっと、真面目なやつ」
ガラゴロと物を落とす音に、エリとセブルスは弾かれたように離れ、食堂の入口を振り返った。
色とりどりのクリスマス・オーナメントとそれらが入っていたと思われる籠が床に転がる中、サラが信じられないものを見たという顔で立ち尽くしていた。
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2017/01/28