――アズカバンから、十人もの死喰人が集団脱獄した。

 そのニュースをアリスが知ったのは、火曜日の朝の事だった。日刊予言者新聞の一面を飾る記事。魔法省は、この大失態を脱獄中のシリウス・ブラッグに罪として擦り付けていた。
 アリスは新聞から視線をを外し、グリフィンドールのテーブルをちらりと見る。グリフィンドールのテーブルにも、ふくろう便は届いていた。サラはハリー、ロン、ハーマイオニーと一緒に、額を突き合わせて新聞を読み、真剣な顔でひそひそと話し合っていた。
 それはサラ達に限らず、教職員テーブルも同様だった。ダンブルドアとマクゴナガルが深刻な表情で話し込み、アンブリッジは気に入らない様子でちらちらと二人の方を見やっていた。
「やあ、おはよう。アリス」
「アリスってば、相変わらず早いのね」
 ドラコが、スリザリンのテーブルへとやって来た所だった。背後にはいつものごとくクラッブとゴイルが付き従い、隣にはパンジーが寄り添うように立っていた。
「おはよう」
 アリスはにっこりと人好きのする笑顔を浮かべ、挨拶を返す。
 休暇が明けて、ドラコとパンジーの距離は以前よりも縮まっているように思えた。ドラコはぱったりとサラの話をしなくなり、アリスにこっそり声を掛けるような事もなくなっていた。
「そう言えば、アリス。聞いたかい?」
 アリスはドキリとドラコを振り返る。
 手元にある新聞の一面。死喰人が脱獄した記事。……ドラコの父親は、死喰人だ。
 ドラコの表情は、生き生きとしていた。
「あの森番が、魔法生物飼育学教授を停職になったらしいんだ。昨日の晩、アンブリッジ先生が教えてくださって……」
「え……」
 全く重要度の異なる話に拍子抜けしてしまい、アリスは咄嗟の返答が出来ずぽかんとドラコを見つめ返していた。
 ドラコは特に気にする事もなく、パンジーや他のスリザリン生達と一緒に盛り上がっていた。近くの席に新聞を取っている生徒は他におらず、誰も死喰人の集団脱獄に触れる様子はなかった。
 アリスは、日刊予言者新聞をそっと折り畳む。
 ……今はまだ、これでいい。
 どうせ、一日も経たない内に集団脱獄の話は学校中に広まる事だろう。その手引きの罪を着せられてしまったシリウス。サラがシリウスの娘だという話は、昨年、第三の課題の朝にリータ・スキーターの記事によって知られている。サラには、またしても厳しい視線が向けられる事になるだろう。
 その引き金を、わざわざアリスが引いてやる必要はない。
 アリスは何食わぬ顔で、何の記事も読まなかったかのように皆の話をにこにこと聞いていた。





?.56





 死喰人がアズカバンから集団脱獄したという話は、あっという間に城中に広まった。日刊予言者新聞を購読していないエリも、ハーマイオニーから聞いたと言うハンナの話で、その事実を知った。
 廊下は何処も死喰人脱獄の噂で持ち切りで、身内に犠牲者のいる生徒は望まぬ注目の的になっていた。
「――ああ、もう、いや! ノイローゼになりそう!」
 変身術の授業を終え、談話室へと戻りながら、スーザンが言った。彼女もまた、脱獄した十人の内の一人におじ、おば、いとこを殺害された「被害者遺族」で、すれ違った他の寮の生徒たちから質問攻めにあったばかりだった。
「エリ。私、今、あなたにとっても謝りたい気分だわ」
「え? あたし? なんで?」
「入学したばかりの頃、サラと暮らしているってだけで、色々聞いて――」
「スーザンは、そんなに質問とかして来なかったと思うけど。あたしもあの頃はサラとは仲が悪かったから、嫌な話は嫌だって突っぱねてたし」
「直接声を掛けなくても、ヒソヒソされるのって嫌じゃない? エリも――それに、ハリーやサラ自身も。よくこれまで、こんなのに耐えて来たわね」
 スーザンは、こちらを見ながらこそこそと耳打ちする二人組を胡乱げに見ながら言った。
「まあ、あたしはあんまりそう言うの気付かなかったりするし……」
「それにエリの場合、フレッドとジョージとの大暴れで注目の原因を上書きしているものね」
 ハンナが口を挟む。エリは、スーザンの背中をバシバシと叩いた。
「まあ、あまり気にすんなよ。さっきの連中みたいな心ない奴らが来たら、またあたしが蹴散らしてやるからさ」
「でも、放課後はそうもいかないんじゃない? 今日も、補習でしょう?」
「あ、そうだった……ごめん、スーザン……」
「いいわ、気にしないで。ハッフルパフ寮に戻れば、外にいるよりはマシでしょうし……」
 大広間まで下りて来て、エリ達三人は立ち止まった。魔法薬学の教室は、ハッフルパフ寮へ向かうのとは反対側の階段を下りた先だ。
「じゃあ、あたしはここで」
「ええ、またね」
「勉強、頑張って」
 ハンナとスーザンは連れ立って、ハッフルパフ談話室へと向かう階段を下りて行く。
 くるりと背を向け、向かい側の階段に向かおうとしたエリを、二人のグリフィンドール生が両脇から抱えるようにして連れ去った。
「えっ、ちょっ……!?」
 そのまま二人は近くの小部屋へとエリを連行して、ようやく解放した。
「どうだ? 警戒対象に見つかった様子は?」
「いいや、大丈夫みたいだ。玄関ホールには生徒しかいない」
 フレッドに尋ねられ、扉の隙間から部屋の外を確認しながらジョージが答える。
「何? また何か面白い事思いついたの?」
 警戒対象とは、アンブリッジやフィルチの事だろう。この三人が集まっているだけで、彼らはエリ達が何か良からぬ事を企んでいると疑ってくる。実際、その通りではあるのだが。
「ただ、今は、あまり時間がないから手短に説明してくれると嬉しいんだけど」
「なーに、そう時間は取らせないさ。立場や年齢の違いから、恋人同士の時間を満足に送れない憐れなエリとスネイプ先生に、ほんのプレゼントをあげようかと思ってね」
「プレゼント?」
 エリはきょとんとフレッドを見上げる。ジョージも扉を完全に閉め、フレッドの横に並んだ。
 フレッドは、懐から出した小さな袋をエリに差し出した。中に入っていたのは、二つのマフィンだった。
「補習中の休憩にでも食べるといい」
「……何か魔法掛かってるんじゃないだろうな? 嫌だよ、セブルスの舌が伸びて収まらなくなったりするのとか……」
 エリは、疑り深く二人を見る。
「そりゃあまあ、ちょっとばかし二人向けに改良――」
 話し掛けたフレッドの脇腹を、ジョージが肘で小突いた。
「見ての通り、どっちがエリでどっちがスネイプの分か、区別してないんだ。エリが食べるかも知れないのに、俺達が嫌がらせなんてすると思うか?」
「まあ、それはそうだな……でも今、何か言いかけたよな?」
「勉強が捗るように、頭が冴える魔法をかけたんだよ」
「へえ。そんな呪文があるんだ。今度、教えてよ」
「ああ、いいとも。俺達も、二人の仲を応援したいと思っているからね」
 フレッドが得意げに答えた。
 二人に礼を言い、エリはマフィンの入った袋を持って魔法薬学教室への階段を二段飛ばしに駆け下りて行った。

 少し遅れてしまった。セブルスは、もう待っているだろうか。
 魔法薬学教室の扉を開こうとしたエリは、中から聞こえてきた声にハタと伸ばしかけていた手を止めた。
「ハリー・ポッターにサラ・シャノンを関わらせるのは、あまりにも危険ではありませんか」
 セブルスの声だ。もう一つ聞こえて来たのは、ダンブルドアの声だった。
「あの子とハリーは友達じゃ。あの子をハリーに付き添わせずとも、ハリーはあの子にも話をするじゃろう。ロン・ウィーズリーやハーマイオニー・グレンジャーにもそうしているように。
 それに、前にも言うたはずじゃ、セブルス。あの子は、ハリーのそばに置くべきじゃと」
「ええ。ですから私は、彼女がポッター達と離れようとしていた時に、共にいる時間を与えた事もありました。しかし、彼女には前科がある」
「その件については、初めから知らせておったと記憶しているが。悪意のある誇張をされているとは言え、その詳細についても、とある新聞記者が散々教えてくれたじゃろう」
「その事実があった事自体は、承知の上でした。しかし、彼女は――サラ・シャノンは、『報復』を楽しんでいた」
 エリは息を潜め、扉に張り付いていた。
 脳裏に、マグルの小学校での出来事が思い起こされる。理科の実験の授業。「報復」の噂が事実であったと、この目で確認した瞬間。困惑するエリに向けられた満面の笑み。
『――大丈夫。これで、きっとあの人達も懲りたでしょう』
「昔の事じゃ」
 ダンブルドアは、きっぱりと言い放った。
「今はもう、彼女も反省しておる。今のサラはそのような真似はしないし、間違いなく我々の味方じゃよ。セブルス、君がそうであるようにの」
 セブルスの返答はなかった。
 ダンブルドアの長いローブが床をこする音がする。
「サラ・シャノンは、ハリー・ポッターのそばに置くべきじゃ。彼女の過去や血筋がどうであろうとも。ハリーと共にいる事が、彼女にも良い影響を与える。闇からは遠ざけねばならない。
 この話は終わりじゃ、セブルス。どうやら、君の客人も来ているようじゃしの」
 ダンブルドアの足音が辿り着くよりも前に、扉が開いた。エリは逃げたり隠れたりする間もなく、その場に立ち尽くしていた。
「待たせてすまなかったの」
「あ、いえ……」
 ダンブルドアは廊下の向こうへと去って行く。その背中を見送っていたエリは不意に腕を掴まれ、教室の中へと引き込まれた。
 大きく音を立てて扉を閉じ、エリの腕を掴んだまま扉へと押し付ける。間近に迫ったセブルスの表情は、鬼気迫るものだった。
「痛っ……」
「我輩の目を見て答えろ。何処から聞いていた?」
「え、あの、サラをハリーに関わらせるのは危険とか何とかってところから……」
 会話の内容を思い出しながら、しどろもどろにエリは答える。セブルスは探るような目つきでじっとエリを見据えていたが、やがて手を放し身を起こした。
「そうか……」
 安堵しているように見えた。もっと聞かれるとまずい会話でもしていたのだろうか。
 セブルスは何事もなかったかのように、背を向け机の方へと向かい、補習の準備を始める。エリは強く掴まれた手首をさすりながら、その後姿を見つめていた。
「……セブルスもサラの事、疑ってるの? 第二の闇の帝王だとか、騎士団の動きを知るために皆を騙しているだとか、馬鹿馬鹿しい噂を?」
 セブルスは、ぴたりと手を止めた。
「……知っていたのか」
「そりゃ、夏の間中ずっと騎士団の本部にいたんだから、大人達がサラを何て言ってるかぐらい、耳に入って来るよ。あたしだけじゃない。たぶん、皆知ってる。サラ自身も……」
 セブルスは答えなかった。ただ背を向けたまま、その場に立ち尽くしていた。
「小学校での事は、そりゃ、酷いと思うよ。あたしだって、ずっと引きずってた。でも、今は違う。……サラのやつ、怯えてたんだ」
 自分がスリザリンの血を引くと知って、ハリー、ロン、ハーマイオニーを避け、皆を避け、部屋に引きこもっていたサラ。
「自分が、ヴォルデモートに一番近いんじゃないかって……震える声で話していたんだ。そんな奴が、闇の帝王になんかなると思うか?」
「君は、何も知らない」
 セブルスは、素っ気なく言った。
 エリはムッと顔を顰める。何も知らない。その通りだ。セブルスはいつも、何か隠し事をしているのだから。話せないだろう。仕方がない。エリの我儘で彼の任務に支障をきたす訳にはいかない。そう思っていた。
 しかし、だからと言ってその言い方はあまりにも酷いのではないか?
「我輩は、昔の話を根拠に彼女を疑っている訳ではない。彼女は今も、復讐心を抱いている――」
「マルフォイの事?」
 初めて、セブルスが振り返った。珍しくその目は丸く見開かれ、エリを見つめていた。
「……我輩が思っていた以上に、色々と知っていたようだな」
「あたしとしては、セブルスがその事を知ってた方が驚きなんだけど。アリスかマルフォイからでも聞いたの?」
 サラは決して自らセブルスに話しはしないだろう。スリザリン生であるアリスやドラコであればセブルスにも信頼を置いてそうだが、それでもこの話をセブルスにすると言うのは違和感があった。サラがまた何かしでかすのではないかと、心配しての事だろうか。だとすれば、アリスが?
「……心配なのは分かるけど、サラにマルフォイは殺せないよ」
「随分な自信があるようだな。だが、父親の方はどうだ? 仇であるその本人が自分の身を守る術を失い、彼のいる場所を出入りする術を彼女が知っているとしたら?」
 エリは困惑する。セブルスの話し方は、まるで具体的な状況を想定しているかのようだった。
「どう言う事? セブルス、何か知っている事があるの? アリスから聞いた訳じゃないの?」
「……まあ、いい。とにかく、現在も彼女が内に秘めているものがある以上、その復讐心から闇の帝王のようになる可能性もある訳で――」
「サラは、ヴォルデモートとは違う」
 エリは、きっぱりと言い放った。叫ぶでもなく、怒るでもなく、落ち着き払った声だった。
 黙り込んだセブルスに、エリはニッと笑った。
「――だって、サラは一人じゃないもん」
 サラは、一人じゃない。
 ハリーがいる。ロンがいる。ハーマイオニーがいる。エリがいる。アリスがいる。シリウスがいる。ナミや圭太がいる。ダンブルドア、ハグリッド、ウィーズリー一家、ルーピン、トンクス、DAの仲間――色々な人達が、サラを見守っている。支えている。信じている。
「サラには、親友とか、家族とか、皆がいる。それに、セブルスも」
 ゆっくりと彼へと歩み寄り、正面で立ち止まる。
「何だかんだ、サラの事、気にかけてるだろ?」
「ダンブルドアからの指示にすぎん」
「そうだとしても、セブルスがサラとハリー達の仲を心配したりだとか、あれこれ動いたりだとかしたのは確かなんだからさ。努力は絶対、実を結ぶよ」
 セブルスはふいと顔をそむける。背を向け、補修の準備を続けながら、ぼそりと呟いた。
「腕……さっきは、すまなかった」
「え?」
 エリは目を瞬き、それからクスリと笑った。
「別に、これくらい何ともないよ。クィディッチで結構鍛えてるから! 何なら、腕相撲でもする? 魔法なしの腕っぷしだけなら、地下にこもってばかりのセブルスに勝っちゃうかもよ?」
 ニヤリと笑ってエリも準備に取り掛かる。セブルスの口元が、フ……と微かに緩んだ。
「馬鹿を言うな」
 カチャカチャと、鍋や測りの触れ合う音が響く。
 必要な材料を棚から出していると、セブルスがふと尋ねた。
「それは何だ?」
 エリは振り返る。セブルスの目は、エリの鞄の横に置かれた一つの袋に向けられていた。
「え? ああ、それ? マフィンだよ。フレッドとジョージから貰ったんだ。あたしとセブルスにって……」
 セブルスの行動は速かった。
 杖を出したかと思うと袋に向け、マフィンの入っていた袋は一瞬にして燃え上がり灰となって崩れ落ちた。
「ちょっ……!? 何すんだよ!?」
「あの二人がくれる物が、ただのマフィンであるはずがない」
「そりゃ、魔法はかけたって言ってたけど、ただの頭が冴える魔法だって言ってたよ? 勉強が捗るようにって……」
 セブルスは、杖を持たない方の手で顔を覆い、大きく溜息を吐く。
 エリはセブルスがなぜそんな呆れたような態度を取るのかわからず、ただ困惑して彼を眺めていた。


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2017/05/21