「きゃあっ」
手に持ったグラスが何の前触れもなく割れて、パンジーは悲鳴を上げた。
不可解な破壊が行われているのは、パンジーの手元だけではなかった。皿が割れ、瓶が割れ、大広間は騒然となる。
「いったい何が……!?」
パンジーは不安げに辺りを見回す。
不意に、パンジーの隣でドラコが立ち上がった。その視線の先を追い、アリスはこの騒動の元凶を察した。
「ドラコ? どうし――」
パンジーが皆まで言わぬ内に、ドラコは駆け出していた。大広間を飛び出して行ったサラ、ハリー、ロン、ハーマイオニーの後を追うようにして。
アリスも席を立つと、ドラコの後を追いかけて行った。
ドラコが辿り着いたのは、温室の前だった。サラ達がいるのだろう。ドラコは、温室の角から森の方を覗き込んでいた。
温室の横には、マンドラゴラの育成に使う堆肥の山があった。アリスはその陰に隠れ、様子を伺っていた。
サラやハリー達が何かを話しているのは分かるが、アリスの所までは聞こえて来ない。聞こえなくても、小学校で散々サラの報復の話を聞いていたアリスには、大広間でのあれがサラの仕業で、ハリー達がなだめているのだろうと言う事は想像に難くなかった。
ぼそぼそと聞こえていた会話が途切れ、ドラコが引き返して来た。背後を気にしながら、一目散に城の方へと駆け戻って行く。
ドラコの姿が見えなくなると同時に、ハリーが温室の角から顔を覗かせた。
「ハリー?」
ロンの呼び掛ける声がする。
「今、ここに人影が見えた気がしたんだけど……」
探るようにもう一度温室の前を見回し、それからハリーはロン達の方へと戻って行った。
アリスは、ドラコが去って行った方をじっと見つめていた。
No.60
モンタギューがトイレに詰まっていたと言う話は、スリザリン、特に尋問官親衛隊に選ばれた生徒達にとっては大事件だった。
「モンタギューはいったい、誰にやられたんだろう」
「誰に? そんなの決まってるじゃない。絶対、ポッター達一味の誰かよ。私達に一斉検挙されたのを逆恨みしてるんだわ」
「そのメンツの誰かって話だよ」
「面倒だし、全員連帯責任でいいんじゃないか? それか、リーダーのポッターに責任を取らせるとか」
「ドラコが見つけたんだよな。モンタギューは何か言ってなかった? ――ドラコ?」
ノットに呼ばれ、ドラコはハッと我に返る。
「どうしたんだ? いつもなら、こう言う時嬉々としてポッターを陥れようとするのはドラコじゃないか」
「ドラコ、大丈夫? 顔色が悪いんじゃない?」
「ん。ああ――ちょっと、寝不足で。昨日もOWLの勉強をしていたから」
「ふくろうかあ……魔法薬学が鬼門なんだよな。そりゃもちろん、ふくろうは取れるだろうさ。でも、スネイプ先生が教えてくれるのってOを取れた生徒だけだろう?」
ザビ二が渋い顔で話す。ノットが、パンジーの方を振り返った。
「魔法薬学と言えば、パンジー、君、魔法薬学だけ勉強している様子が無いけど……」
「私、魔法薬学は捨てたの」
パンジーはあっさりと言った。
「だって、O・優なんて取れるはずないもの。その分、他の教科の勉強に当てようと思って。別に、全科目の平均値なんて就職には関係無いのだし」
「平均は関係無くても、A・可以上を取れたふくろうの数は関係あるだろう。5ふくろうとか、6ふくろうとか」
「えっ」
パンジーが固まる傍らで、ドラコが席を立った。
「……僕、やっぱり調子が悪いみたいだ。先に寮へ戻ってる」
クラッブが、反応するように顔を上げた。食べかけのキッシュと、ドラコとを困ったように見比べる。ゴイルの方は、一つでも多く腹に収めておこうと食事のペースを上げていた。
「ああ、いいよ。お前達は
「大丈夫? 私も――」
「大丈夫だよ。それに、パンジーは今日もこの後、ふくろうに向けて勉強だろう?」
「勉強なんていつでも出来るわ! そんな事より、ドラコの方が――」
「本当に大丈夫だから。これぐらいの事で君の時間を奪いたくないんだ。なるべく多く、一緒の教科を受けるって約束したじゃないか」
パンジーは口を噤む。そして、アリスに視線を向けた。
「そうだわ、アリスがいるじゃない。四年生だもの、課題も試験勉強もそんなに大変じゃないわよね? ドラコを寮まで送り届けてくれない?」
まさか自分に降り掛かるとは思わず、アリスは目を瞬く。
「パンジー。アリスだって試験勉強が――」
「ええ、いいわよ」
アリスはにっこりと微笑って言った。――ちょうど、ドラコに聞きたい事もあったところだ。
「行きましょう、ドラコ」
スリザリン寮へ戻る間、ドラコはずっと無言だった。
まだ夕食の時間の真っ只中。大広間を離れ地下へと向かう道に、人影はない。アリスは耳を澄ませ、遠くの大広間の喧騒しか聞こえない事を確認すると、口を開いた。
「――サラの事?」
ドラコはパッと振り返る。
「モンタギューが見つかった後から、あなた、おかしいわ。……何か、あったの?」
閉心術の訓練中にドラコが研究室を訪れたと、ハリーは言っていた。魔法薬学の補習だとスネイプは言ったが、上手く誤魔化せたかそれとなく確認して欲しいと。
「それから……」と言いかけて、ハリーは口ごもった。何を言おうとしたのか促すアリスに、ハリーは戸惑いながら言った。
「いや……マルフォイは、もしかしてまだサラを好きだったりするのかなって……」
――何があったのか、だいたい察した。
ドラコは、サラを気にかけている。サラがハリー達と仲違いしていれば心配し、力を暴発させて大広間を飛び出せば後を追う。
でも、ドラコは恐らく、パンジーに告白され、受け入れた。二股なんてするような性質でもないだろう。
彼を動かしているのは、サラへの贖罪の気持ち。
アリス達の祖母を殺害したのは、ルシウス・マルフォイだ。ここまでは、サラも、ハリーも知っている。
ルシウス・マルフォイがシャノンを殺害したのは、ドラコがリドルの日記に書き込んだためだった。これは、サラも、ハリーも知らない。アリスとドラコだけが、知っている。
ドラコは、自分のせいでシャノンが殺害されたと――自分のせいで、サラが孤独を抱える事になったのだと思っている。それを知らないハリーから見れば、ドラコの行動は不可解なものに思えるだろう。
ドラコはアリスを見つめていたが、やがてうつむき、逃れるように視線をそらした。
「この前の大広間の騒ぎ……アリスも、あれがサラの仕業だって事は、予想がついてるだろう」
「……ええ」
「モンタギューが見つかったあの日……スネイプ先生の研究室に行ったら、ポッターとサラがいたんだ。……サラは、暴走していた。たぶん、スネイプ先生がまた二人に何か言っていて、それがサラの暴走を誘発しちゃったんじゃないかと思うけど……」
どうやら、ハリーの心配はスネイプの日頃の行いのおかげで難なく誤魔化せたらしい。
心の奥で安堵の息を吐いていたアリスは、ドラコの次の言葉で表情を強張らせた。
「――サラは、僕を殺そうとした」
「そんな、まさか……!」
アリスは叫ぶ。
ドラコは暗い瞳をしていた。胸がざわつく。彼のそんな顔は見たくない。殺そうとした――そして、いったい、ドラコはどうした? 彼は、何を話そうとしている?
「……僕は、それでもいいと思った。サラには、僕を殺す権利があると」
「ドラコ……!?」
アリスはドラコの肩に手を掛け、振り向かせる。一瞬、潤んだ瞳がアリスを見つめ返した。
見た事のない表情に戸惑い、固まってしまう。ドラコはアリスの手を強く振り払い、完全に背を向けてしまった。
「だってそうだろう!? シャノンが殺されたのは、僕のせいだ! 僕がいたから、サラは独りになってしまったんだ。サラが憎むべきは父上じゃない。本当は、僕なんだ……! だけど僕は、それをサラに言う事が出来ない……!」
ドラコの声は震えていた。
アリスはどうして良いか分からず、ただその場に立ち尽くしているしか出来なかった。いつも見つめていた彼の背中は、今はとても小さく見えた。
「ずるいのは分かってるんだ……。だから、いい機会だと思った。今こそ、罰を受けるべきなんだって。でも……」
ドラコの声に、苦々しさと屈辱が染み出る。
「でも、ポッターに守られた……! サラを人殺しにする気かと、そう怒鳴られた……! そんなの、僕だって嫌に決まってるじゃないか! でも、だったら、どうすればいいんだ!? 僕は、どうしたらサラに償う事が出来るんだ……っ」
ドラコは、その場に崩れ落ちる。アリスは呆然とその後ろ姿を見つめていた。
――彼が、ここまで思い詰めているとは思わなかった。
ドラコのせいとは言っても、あくまでも人質のようなものだ。ドラコは、リドルの日記がどう言うものかなど、全く知らなかった。自分でも覚えていなかったぐらい、幼い頃の話だ。誰も、ドラコを責める事など出来ないだろう。そもそもの元凶を言うのであれば、ヴォルデモートがルシウス・マルフォイを脅したりしなければ、八年前の悲劇は起きなかった。
でも、ドラコにとってはそんな理屈、関係ないのだろう。
間接的であれ、自分の行動によって生じた一人の人間の死は、彼には荷が重過ぎた。ルシウスとナルシッサも、自分の息子がその重みに耐えられない事を知っていたから、事実を隠し通そうとしていたのかも知れない。
――でも、シャノンの死と日記の繋がりには、もう一つ、秘密がある。
これは、サラも、ハリーも、そしてドラコも知らない。アリスだけが、知っている。
ドラコがサラに自責の念を抱いている限り、アリスは彼の「特別」でいられる。唯一の相談役でいられる。――だけど。
アリスは、年下のアリスに悟られまいと声を殺し肩を震わせている後ろ姿を見つめる。……彼のこんな姿を見て、どうして黙っていられるだろう。
「……シャノンのおばあさんの死は、ドラコのせいじゃないわ」
「気休めは止してくれ。僕が書き込んだりさえしなければ――」
「違うの。あなたがリドルの日記に書き込んだのは、ほんの五、六個の質問でしょう。それだけじゃ、リドルはあなたを乗っ取る事なんて出来ない」
ドラコは顔を上げ、アリスを振り返る。涙こそ流れていなかったが、潤んだ彼の瞳に見つめられるのは、何となく居心地が悪かった。
「ジニーから聞いたの。ジニーは毎日のようにリドルに話しかけていた。他の誰にも話せないような事も心を開いて相談して、長い時間をかけて、そうしてリドルはジニーを乗っ取る事が出来たのよ」
「でも――僕は――」
「これは、スネイプ先生の推測なのだけど」
アリスはドラコの反論を遮り、続きを話す。
「力の強い者がリドルの日記に力を与えれば、書き込んだ本人とは別の誰かを乗っ取る事も可能なんじゃないかって……」
「スネイプ先生に話したのか?」
「あなたの事は何も話していないわ。リドルの日記の一つの可能性として、質問しただけ。大丈夫よ、彼は私に詮索する事は出来ない」
それでもドラコは心配そうな顔をしていたが、アリスは構わず続けた。
「もし、あらかじめ何者かがリドルの日記に力を注いでいたなら、状況は全く違った意味を持つ事になるわ。一連の流れは、仕組まれたものだった可能性さえ出て来る。ドラコ――あなたは、何も悪くない。あなたはリドルに力を与えてなんかいなかった。あなたはただ、人質にされてしまった被害者でしかないのよ」
ドラコは、ぽかんとした表情でアリスを見上げていた。
「……本当か?」
アリスはうなずき、微笑む。
「嘘なんて言ってどうするの? 私の話、ちゃんと筋が通ってるでしょう?」
――ああ、話してしまった。
ドラコがサラに罪の意識を抱いている限り、アリスは彼の「特別」でいられた。しかし、もう彼は、自分に「罪」がない事を知ってしまった。
ドラコは立ち上がる。アリスを見据えるその瞳は、もう潤んではいなかった。
「日記に力を与えた真犯人は、他にいる――それじゃ、シャノンの死の引き金となった人物は、そいつって訳だな?」
「ええ。そうなるわね」
「アリス、僕らでそいつが誰だか突き止めよう」
アリスは目を瞬き、ドラコを見上げる。真剣で真っ直ぐな瞳が、アリスを見下ろしていた。
「父上にシャノンを殺害させるため、何者かがリドルの日記に力を与えていた――それをサラが知ったら、どうなる? サラは当然、一番の元凶であるその人物を殺そうとするだろう。僕を父上と錯覚して殺そうとしたように。そうなる前に、僕らで真相を突き止めるんだ。……手伝って、もらえるかな?」
アリスがあまりに唖然としていたため、ドラコはやや弱気になって質問した。アリスは慌ててうなずく。
「ええ、もちろんよ。まさか、ドラコからそんな話が出て来るとは思わなくて……ハリーならともかく……」
ハリーの名前に、ドラコはフンと鼻を鳴らした。
「ポッターは何も知らない。サラを人殺しにしたくないのは、僕だって同じだ。僕に偉そうに説教なんかしやがって。あいつに出来ない事を、僕がやってやる」
(ああ……そう言う事ね)
アリスは思わず苦笑を漏らす。アリスがいつもサラやエリに対して抱いているような感情を、ドラコもハリーに対して抱いているのだと思うと、妙な安心感があった。
ドラコはピクリと眉を動かす。
「何がおかしいんだ?」
「別に。ただ、ホッとしただけよ。いつものドラコに戻って。――そうね。私達にしか出来ない方法で、サラを守りましょう」
「そうと決まったら、まず日記だな。あの日記がいつからうちにあったのか、父上にそれとなく聞いてみるよ。アリスには、シャノンが闇祓いとして逮捕した人達の記録とか、動機のありそうな人物を探ってもらって……」
アリスとドラコは連れ立ってスリザリン寮へと歩いて行く。
ドラコの隣に並んで歩きながら、アリスはそっとポケットの中のネックレスに触れた。かつてはサラの物だったネックレス。彼女がゴミ箱に捨ててしまっていたもの。
――彼がサラを気にかける限り、アリスは彼の「特別」でいられる。彼の隣に寄り添う事が出来る。
「本当にありがとう、アリス。君がいてくれて良かったよ。本当に姉思いなんだな」
「サラには幸せになって欲しいもの。それに、ドラコも。お兄ちゃんのような、大切な存在だもの。早くシャノンの呪縛から解き放たれて、パンジーと幸せになって欲しいの」
私は彼に嘘をつく。彼の「特別」でいるために。
私は私に嘘をつく。彼の「特別」でいるために。
――痛む心は、笑顔の奥に閉じ込めながら。
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第2部
真実の扉開かれて
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2017/10/01