「メリー・クリスマス」
 掛けられた声に、サラは振り返る。
 外の日差しが入りにくく、薄暗い廊下。壁や棚には、永久粘着呪文のせいでまだ片付けられていない絵画や不気味な装飾が残っている。禍々しい屋敷の中でも、彼がいるとまるで陽気の射し込む学校の廊下のようで、昼下がりのホグワーツを思い起こさせた。
「メリー・クリスマス、シリウス。素敵な腕時計をありがとう」
「時間を確認する時、いつもその場の時計を探していて、不便そうだったからな。時計は別で買ってやって、プレゼントは他の物にしようかとも思ったが……」
「ううん、十分よ。箒を乗る時に役立ちそう。これがあれば、ちょっとした遠出とかも出来そうね」
「実は、私が学生時代に使っていた物なんだ。この家で受け継がれて来た、数少ないまともな品さ。これを使って、ジェームズとちょっとした小旅行なんかもしたものだ」
「ハリーのお父さんだっけ。本当に仲が良かったのね」
 ジェームズの話をする時のシリウスは懐かしそうで、そして本当に楽しそうだった。家の者とそりが合わない中、彼との学校生活はシリウスにとってかけがえのない時間だったのだろう。サラにとってのハリー、ロン、ハーマイオニーがそうであるように。
「空を飛ぶバイクを持っていてね……もっとも、それはもうハグリッドに譲ってしまったが。あちこち行ったもんだ。サラも確か、箒に乗るのは得意だったな? 今度、箒で旅行するか。ハリーも誘って」
「良いわね! 楽しそう。でも、ダンブルドアが許すかしら? あなたもここから出られないでしょうし……」
「今はな。でもいつまでもこの状況が続きはすまい。いずれ私の汚名が晴れ、君達を表立って正式に引き取る事が出来るようになったら……」
 ずっと、自分には存在しなかった「父親」。
 いつの間にか、彼の存在は「当たり前のもの」となっていた。何かあれば、話を聞いてくれる。気に掛けてくれる。家に帰れば、彼がいる。
 他愛の無い話をして、時には反抗したりもして。
「友達の敵討ちを優先して娘を放ったらかしにしたくせに、後からあれこれと詮索するのが父親だって言うなら、そんな父親、私は要らないわ」
 感情任せに発した、よくある親への反発でしかなかった。また夏が来れば否応無しに会わざるを得ないし、何だかんだでいつも通りに接するようになるのだろうと思っていた。

 大切な人が突然失われる事があると言う事も、その痛みも、よく知っていたはずなのに。





No.69





「ステューピファイ!」
 肩越しに背後へと呪文を放ったエリは、同時にもう一方の手でアリスの肩を掴みを引き寄せる。間一髪、赤い閃光がアリスの横を通り抜けて行った。
 どこをどう走っているのか分からなかった。ただただ必死に、死喰人から逃げる。息は切れ、肺がキリキリと痛んだが、弱音を吐いている場合ではない。エリは常にアリスの横または後ろにいて、アリスを守ってくれていた。
 ――エリ一人なら、もっと早く走れるだろうに。
 魔法を使えないアリスは、来るべきではない。戦えるだけの技量がない。
 神秘部に侵入する前に言われたサラの言葉が、痛いほど身に染みていた。今、アリスはただのお荷物にしかなっていない。
 アリスを置いて行って。エリだけでも逃げて。そうアリスが言ったところで、エリは聞き入れはしないだろう。無駄な議論をしている余裕は無い。
(……本当に? それは、言い訳じゃないの? 私はただ、置いていかれるのが怖くて言い出せないだけじゃないの?)
 もし、万が一にもエリが聞き入れてしまったら。実際、誰か一人でも助けを呼びに行ければそれは皆のためになる可能性も高い。エリがその事を理解してしまったら。
「アリス!!」
 不意に、アリスは強く突き飛ばされた。エリと二人折り重なるようにして、扉の向こう側へと倒れ込む。身を起こすと、何メートルか後ろに、死喰人の姿が見えた。アリスはエリの身体の下を抜け出し、急いで扉を閉めると震える手で小瓶の中身を扉の淵にかける。魔法薬の掛かった箇所が一瞬溶け、そして壁と一体化して凝固する。同時に、ドンと扉に体当たりする音が聞こえた。
 そして、扉が横へとスライドするように回り出す。アリスは息をのみ、部屋を見回した。
「ここって……」
 最初の部屋だった。黒い壁に取り囲まれた円形の部屋。部屋の中央には、一人の死喰人が伸びて倒れていた。誰か、ここを通ったのだ。――皆、もう逃げてしまったのだろうか。アリス達は、置いて行かれてしまったのだろうか。
「どうしよう……ハーマイオニーの焼印は消えてるわ……エリ?」
 ようやく、アリスはエリの異変に気が付いた。エリは返事がないどころか、起き上がる様子もない。
「エリ……エリ!!」
 アリスは、エリの身体を強く揺する。外傷は見当たらない。幸い、息はあるようだ。失神呪文だろうか。
 ドン、とまた音がしてアリスは飛び上がった。すぐそばの扉の向こうで、男の声がした。
「こっちも開かない! 別の扉へ回れ!」
 アリスはじりじりと後ずさる。
 死喰人は、この部屋に来ようとしている。ここにいては、捕まるのも時間の問題だ。
「逃げなきゃ……でも、どれが……待って」
 こっちも開かない。今し方、死喰人はそう言った。つまりあの扉は、アリスが閉ざした扉とは別の物だという事。しかし見たところ、こちらからも魔法がかけられている様子はない。
 考えられるのは、元々の施錠。最初に部屋を探していた時、一つだけ、アロホモラでも開けられない扉があった。
 同じ扉だと言う確証は無い。でも、もしあの扉が、一度確認した扉だったなら。
(えっと……脳みその部屋と……ベールの部屋と……正解の扉……確か印が付いていた位置関係は……)
 曖昧な記憶を何とか捻り出し、アリスは一つの扉の前に立つ。
 間違いだったら。開けた途端、扉の向こうに死喰人がいたら。危険な部屋だったら。
 嫌な考えばかりが浮かび二の足を踏んでいると、部屋の反対側で扉が開く音がした。
「いたぞ!」
 死喰人が叫ぶ。
 迷う暇などなかった。アリスは、目の前の扉を開く。
 そこにあったのは、無機質な白い廊下――出口だ。
「逃すな!」
 アリスは振り返る。死喰人がこちらへと走りながら、杖を振りかぶっていた。その向こうには、倒れ伏すエリの姿。
(……ごめんね、エリ……絶対に、助けを呼んで来るから……!)
 アリスは部屋を出ると、急いで扉を閉めた。大きく悪態を吐く音が聞こえた。壁が回転を始めたのだろう。しばらく、死喰人達はこの扉を引き当てる事は出来ない。
 アリスは真っ直ぐに廊下を駆け抜け、エレベーターに飛び乗る。エントランスのある階のボタンを押すと、鎖がジャラジャラと音を立てエレベーターは動き出した。
 神秘部を、離れて行く。
 安堵するのもつかの間、突然、エレベーターは止まった。目的の階はまだだ。まさか誰か乗って来るのか、死喰人か。身構えたが、開いた扉から人が乗って来る気配は無い。エレベーターの扉を閉じようとボタンを押すが、うんともすんとも動かない。
 恐る恐るエレベーターを降りると、そこは奇妙な空間だった。壁がたわんでいる。天井に階段がある。一歩歩くごとに上下左右が反転し、自分がどこにいるのか分からなくなってしまいそうだ。
「そんな……」
 アリス達が神秘部を抜け出しても逃げられないように、あるいは外部からの助けを妨害するように、死喰人達が仕掛けたのだろうか。
 ガタン、と背後でエレベーターが動いた。神秘部の階へと下がって行く。追っ手が来たのだ。
 アリスは逃げるように、捻れた空間の中へと踏み込んで行った。

 ダンブルドアがアリス達の家を訪れたあの日、ホグワーツへと誘われたのはサラとエリだけだった。本当の父親は別にいる――これまで疑う事すらしなかった自分達の出自に秘密があると判明したのは、サラとエリだけだった。
 まるで、今までとは違う自分になれる事を告げられたかのよう。アリスは、それが何だか少しだけ羨ましかった。
 一年生の時、秘密の部屋が開かれた。アリスが医務室に横たわっている間に、サラとエリは部屋へと辿り着き例のあの人と対峙した。
 二年生の時、サラとエリの父親が判明した。サラ、エリ、そしてナミまでもが彼と会い、ハリーの両親をヴォルデモートへ差し出した真犯人を暴いた。
 三年生の時、三代魔法学校対抗試合が行われた。今年こそ、アリスも何か特別な冒険を。そうしてアリスがホグズミードの祖母の家へ行っている間に、サラはヴォルデモートの復活を目の当たりにしていた。エリは、ホグワーツに潜入していた死喰人と対峙していた。
 四年生。今年こそ、と思った。もう置いてけぼりにはならないのだと決意した。同じ寮の仲間を裏切って、サラやエリ達について来た。
 しかしその結果は、ただの足手まとい。魔法を使えないアリスは、死喰人達の格好の標的でしかなかった。
 アリスがいなければ、サラが囮にならずとも、各自が自分の身は自分で守って逃げる事が出来たかも知れない。アリスがいなければ、エリは盾になる事もなく、アリスよりも早く助けを呼びに行けただろう。そもそも、ロン達とはぐれる事すら無かったかも知れない。
 ふと声が聞こえて、アリスはピタリと立ち止まった。アリスは階段にいた。上っているつもりだが、自信は無い。声は、頭上から聞こえていた。ぼそぼそと会話する声と、ローブが床に擦れる音、足音……二、三……いや、五、六人はいる。
 助けが来た? それとも、追手? 死喰人によって閉ざされている現状を考えれば、可能性が高いのは後者だ。死喰人に捕まれば、ただでは済まないだろう。
 でも、もし味方だったら。彼らもこの空間で迷っている。一刻も早く、神秘部へ導かねばならない。
 だけど、もし――
 アリスの脳裏に、倒れ伏したエリの姿が浮かぶ。皆を引っ張り導くハリー。迷いなく単独、死喰人へと挑んで行ったサラ。混乱の中、死喰人の真横をすり抜けてまで妹の方へと戻って来たロン。
 誰もが、誰かのために戦っていた。そこに迷いはなかった。なのに、戦いの場を離れてまで、アリスは自分の事ばかり。
 また、逃げ隠れるのか。
 また、自分の身を守る事を選ぶのか。
 アリスはぎゅっと拳を握りしめると、顔を上げた。
「――ここよ! お願い、皆を助けて!」
 めいっぱい大きな声を出したつもりなのに、その声は引きつり、震えていた。
 もし、物音の正体が死喰人だったら。もし、今ので敵に居場所を教えてしまったのだとしたら。
 バタバタと足音が近付いて来る。アリスは身を硬くして、相手が目の前に現れるのを待っていた。隠れて様子を見た方が良かったかも知れない。そんな考えが脳裏を過ぎったが、今更どうしようもなかった。震える足でどこかに隠れる事など到底出来そうになかった。
 前方の踊り場の角から、先頭の魔法使いが出て来た。その顔を見て、アリスはその場に崩れ落ちる。涙が溢れ、頬を伝った。
 次々と、後から魔法使いや魔女が姿を現わす。彼らは一目散に、アリスの元へと駆け寄って来た。
「お前一人か? ハリー達は一緒じゃないのか? どうした、奴らに何をされた?」
「怖い顔が出て来てビックリしちゃったんじゃない?」
 軽口を叩くのはトンクスだ。
 ムーディー、トンクス、ルーピン、シリウス、それからサラを校長室へ連れて行った時に見かけた魔法省のキングズリー・シャックボルト。不死鳥の騎士団の者達が、アリスを取り囲んでいた。
「ハリーはどこだ? 他の皆は? 無事なのか?」
 シリウスが急き込んで尋ねる。
 ルーピンが、アリスの横にしゃがみ込んでそっと背を撫でた。
「もう大丈夫だ。私達が来たから、心配無い。チョコレートを食べるといい。気分が落ち着くよ」
 ルーピンは流れるような動作で懐から大きな板チョコレートを出し、アリスに差し出す。
 アリスは差し出されたチョコは受け取らず、その腕を掴んだ。
「ありがとうございます、先生。大丈夫です、ホッとしたら力が抜けちゃって……エリを助けて」
 ルーピン、それから自分を取り囲む騎士団の者達をアリスは見回す。声はまだ震えていたし、これ程にも「大丈夫」でない事なんて未だかつてなかったが、それでもハッキリとした声で事態を伝えた。
「エリはまだ神秘部にいます。私をかばって失神しています。他の皆は分からない……途中で、はぐれてしまって。入口の部屋に通った痕跡はあったけど、外へ出られたのかは分からない……。ロンとジニーは怪我をしているわ。死喰人の呪文が当たって……」
「分かった。直ぐに行こう。道は分かるか?」
 ムーディーの質問に、アリスはうなずく。
「曲がった角には、魔法薬を垂らして来ました。そのままだと分かりにくいけど、ルーモスで照らすと赤く反射します」
「良い備えだ――ルーモス」
 ムーディーが先頭に立ち、階段を駆け下りて行く。シリウス、シャックボルト、トンクスが後に続いて行く。ルーピンも彼らに続こうとしたが、アリスが立ち上がらないのに気付き振り返った。
「私は大丈夫です。皆をお願い。神秘部には、死喰人がたくさんいるの」
「隠れていなさい」
 短く言い置いて、ルーピンも仲間の後を追って神秘部へと去って行った。
 五人が去るのを見送り、アリスはその場にうずくまる。まだ、身体が震えていた。
 良かった、味方だった。
 間もなく彼らは、神秘部へと辿り着く。きっと、エリを助けてくれる。ハリー達も、もしまだ神秘部にいるならば、彼らが助けてくれるだろう。
 良かった。
 これでもう、何も心配は要らない。





「一人じゃないぞ!」
 鼻の骨が折れ少しくぐもった声が、薄暗い部屋に朗々と響き渡った。
「まだ僕らがいる!」
「それを渡しちゃ駄目よ、ハリー!」
 ハリーが逃げ込んだのは、ベールのかかったアーチがあるあの部屋だった。中央の窪みに置かれた台座。ハリーはその台座の上に立ち、アーチを背に死喰人たちに取り囲まれていた。
「ステューピファイ!」
 石段の上に立つサラとネビルを背後から取り押さえようとにじり寄っていた死喰人に、失神呪文を放つ。
 そして杖を死喰人たちに向け、冷たい目で彼らを見下ろした。
「ハリーを釈放しなさい」
「子供が二人増えたところで、同じ事だ。君達だけで、我々に立ち向かえるとでも?」
 ルシウス・マルフォイがせせら笑った。
「愚かな真似はしない方が良い。君の身体に傷が付くのは、帝王もお望みでない」
「あら。リサ・シャノンを殺めた人が、そんな事を気にするの? ――ステューピファイ!」
 サラは失神呪文を放ち、階段を駆け下りる。一発目の呪文は弾かれたが、続けて放った無言呪文はルシウス・マルフォイの横にいた細身の男を失神させた。
 死喰人たちの杖が、一斉にサラへと向けられる。その隙を、ハリーは逃さなかった。背を向けた死喰人の一人を、ハリーの呪文が襲う。
 避けきれなかった呪文が、サラの頬を掠めて行った。右の頬がズキリと痛む。額の傷も開いたのか、また目の方へと血が流れて来てサラはローブの袖口でグイと拭った。
「やめろ――やめるんだ! 彼女を傷付けるな! 指示を忘れたのか!」
「あなたが私を傷付ける事を躊躇うなら、私があなたを傷付けるだけよ、ルシウス・マルフォイ」
 サラはルシウス・マルフォイへと失神呪文を放つ。彼は黒い煙のようにその場から消え、少し離れた所に姿を現した。
「無駄な足掻きだ。余計な邪魔さえしなければ、君は命が保証されている。それを投げ出すつもりか?」
「友を見捨てるぐらいなら、戦って死ぬ方がマシよ!」
 最早、死喰人の包囲網は乱れ切っていた。失神呪文を受けて倒れた死喰人の穴から、ハリーは抜け出そうとする――が、それは叶わなかった。
「そこまでだ!」
 ハリーの逃亡を手助けしようと次の死喰人に狙いを定めていたサラは身動きを停止し、振り返る。少し上の段で、ネビルが大柄な死喰人に羽交い絞めにされていた。
「そいつはロングボトムだな?」
 ルシウス・マルフォイがせせら笑った。ハリーに杖を向けていたベラトリックスが、底意地の悪い笑みを浮かべて振り返った。
「ロングボトム? おやおや、坊ちゃん、私はお前の両親とお目にかかる喜ばしい機会があってね」
「知ってるぞ!」
 ネビルはいつになくいきり立っていた。羽交い絞めにしている死喰人を振りほどこうと激しく抵抗していた。
「誰か、こいつを失神させろ!」
「いや、いや、いや」
 ベラトリックスが頭を振った。ハリーを一瞥し、それからネビルへと視線を戻す。その顔は、興奮に輝いていた。
「両親と同じように、気が触れるまでどのぐらい持ち堪えられるか、やってみようじゃないか……それともポッターが予言をこっちへ渡すと言うなら別だが」
「どっちもさせないわ!!」
「動くな!」
 杖を上げかけたサラを、ベラトリックスの声が制した。彼女の杖は、ネビルへと突きつけられていた。
「お前がとろとろと呪文を唱えるのと、私が磔の呪文をかけるのと、どちらが早いかぐらい考えずとも分かるだろう? ――さあ、どうする?」
 ベラトリックスはネビルに杖を突き付けたまま、ハリーに視線で問う。ネビルが叫んだ。
「渡しちゃ駄目だ、ハリー!」
「クルーシオ!」
「やめて!!」
 サラの叫んだ声は、ネビルの悲鳴に掻き消された。ネビルを羽交い絞めにしていた死喰人が手を放し、ネビルはひくひくと身体を引きつらせながら床に落ちた。
「ネビル!」
 サラはネビルとベラトリックスとの間に割って入る。ネビルは床に伏したまま起き上がれず、苦痛に泣きじゃくっていた。
「次はお嬢ちゃんがお望みかい? 良いだろう。でも、今のはまだご愛敬だよ!
 さあ、ポッター。予言を渡すか、それとも可愛い友が苦しんで死ぬのを見殺しにするか!」
「渡す必要はないわ、ハリー!」
 サラは杖を構える。ベラトリックスも杖を振り上げた。
 呪文が唱えられる前に、階段の上で扉が開いた。駆け込んで来たのは、五人の人影――シリウス、ルーピン、ムーディ、トンクス、キングズリー。
「ステューピファイ!」
 部屋に現れた五人の騎士団に気を取られているベラトリックスに向かって、呪文を唱える。ベラトリックスは身を翻して呪文を避け、杖を振りかぶった。サラも、続けて盾の呪文を展開する。
 二つの呪文が互いにぶつかり合い、空中で弾かれ合い、方々に飛散する。ベラトリックスは強かった。弾かれた呪文が仲間の死喰人に当たろうとも、一切気にせずサラに攻撃を仕掛けて来る。盾の呪文を使っても勢いは殺しきれず、押されて体制が崩れる。一度崩れてしまうともう取り返しは付かず、サラは防戦一方だった。
「プロテゴ! ――ッ」
 まるで正面からブラッジャーを食らったかのように、サラは後ろへと弾き飛ばされる。
 ――早く。着地して。起き上がらなきゃ。杖を……。
 何とか階段の途中で踏みとどまり、身を起こす。顔を上げれば、杖先が眼前にあった。――間に合わない。
「ステューピファイ!」
 横から飛んで来た赤い閃光を避けたために、ベラトリックスの呪文は僅かにそれ、サラの顔の横を鋭い風のように通り抜けて行った。明るいピンク色の髪の魔女が、サラとベラトリックスとの間に割って入った。
「トンクス!」
 ベラトリックスとトンクスは激しい呪文の応酬で、サラに応えているような余裕などなかった。サラは立ち上がり、杖をベラトリックスへと向けた。
「インペディメンタ!」
 サラとトンクス、二人で何とか互角の戦いだった。まるで、杖を二本持ってそれぞれでトンクスとサラを相手にしているかのようだ。十五年間もの投獄によるブランクがあるだなんて、微塵も思わせない動き。まるで、次にサラが何を唱えようとしているのか、どのタイミングで仕掛けようとしているのか、全て見透かされているかのようだ。
「エクス――あっ」
 階段を踏み外し、ガクンと身体が落ちる。何とか踏み止まったが、ベラトリックスがその隙を見逃すはずがなかった。
「サラ!」
 サラは、強く突き飛ばされた。傾く視界の中で、階段の下へと通り抜けて行く緑色の閃光が見えた。階段を何段か転げ落ち、サラは身を起こす。
「トンクス!?」
 辺りを見回すと、トンクスがぐったりとした様子で階段を落ちて行っていた。あの緑の閃光に当たったのか、はたまた別の呪文が後から放たれたのか、わからない状態だった。
「クルーシオ!」
 トンクスを追おうとしたサラの背後から、ベラトリックスの声がした。
 鋭いナイフで背中を抉り引き裂かれるような痛みに、悲鳴が迸った。視界がブラックアウトし、サラは痛みにのた打ち回る。痛みが引き、気が付くとサラは床に倒れ込んでいた。涙でぼやけた視界に、少し先で倒れ伏すトンクスの姿が映る。喉はまだ息苦しく、サラは引付を起こしたように荒い息を繰り返していた。
「威勢が良いのは口だけかい? そうら、もう一度――」
「私の娘に手を出すな!」
 二度目の磔の呪文が放たれる事はなかった。シリウスがサラの前に立ち、ベラトリックスへと杖を向けていた。
「ハリー達と一緒にここを出るんだ、サラ!」
 ベラトリックスの呪文を弾き返しながら、シリウスは叫ぶ。サラは立ち上がろうとして、再び地面に崩れ落ちた。どうやら、階段を転げ落ちた際に左足を挫いてしまったらしい。
 倒れ伏しているトンクスへと、サラは膝立ちでにじり寄る。――大丈夫だ、息はある。
 見回せば、ハリーとネビルは少し離れた位置にいた。二人は階段の下で仰向けに倒れ、一人の死喰人と取っ組み合っていた。
 ……ルシウス・マルフォイ。
「インペディメンタ!」
 ハリーの呪文に、ルシウス・マルフォイの身体が吹っ飛び、部屋の中央の台座へと激突する。台座の上では、シリウスとベラトリックスが戦っていた。
 ――今なら、やれる。
 サラは杖を握りしめ、片足を引きずりながら台座の方へと向かう。間に障害物がなくなり彼の姿がよく見える所まで来て杖を上げたその時、ルーピンが間に飛び込んで来た。
「ハリー、皆を連れて、行くんだ!」
 振り返れば、ハリーとネビルの所まで来ていた。ネビルはタラントアレグラの呪文でも掛けられたのか、足がバタバタと暴れまくっていた。
「サラ! ネビルを引き上げるのを手伝って!」
 サラはハリーとネビルを見て、ルシウス・マルフォイ、それからルーピンを見る。そして、ルシウス・マルフォイへと背を向けハリーとネビルの方へと向かった。
「ええ……分かったわ」
 大丈夫だ。
 まだ、チャンスはある。この場に騎士団が現れた。水晶玉に見たアズカバン投獄へと、間違いなく近付いている。――当初の予定通り、そこで始末をつければ良い。
 ネビルの足のバタつきは止まらず、ハリーは必死でネビルのローブを引っ張っていた。
「頑張るんだ! 足を踏ん張って――」
 暴れる足が裾を踏み、ネビルのローブが避けた。ちょうどポケットの位置だったらしく、ぽろりと小さなガラス玉が零れ落ちる。
 手を伸ばす間も、杖を向ける間もなく、ネビルの足がガラス玉に当たり、それは二、三メートルほど蹴り飛ばされ床に落ちて砕けた。あっけない一瞬の出来事だった。
 他のガラス玉がそうであったように、白い靄が立ち上り人型を形作る。何か言っているのであろうが、周囲の戦闘に紛れて全く聞き取れなかった。そして、ふっと靄は消えてしまった。
「ハリー、ごめんね! ごめんね、ハリー、そんなつもりじゃ――」
「そんな事、どうでもいい!」
「レパロ。――やっぱり、駄目みたいね」
 砕けたガラス玉に修復呪文をかけてみたが、何の効果も見られなかった。
「サラも! そっちは良いから早く手伝って!」
「ええ。――フィニート・インカンターテム」
 サラはネビルの足へと杖を振る。それまで暴れ回りハリーの事も幾度となく蹴飛ばしていた足は、ぴたりと動きを止めた。
 二人はポカンとネビルの足を見下ろし、それからネビルが言った。
「ありがとう、サラ」
 ハリーも我に返り、階段へと足をかける。
「よし、それじゃあ、ここを出――」
「ダンブルドア!」
 ネビルは、サラの背後の階段を見上げて叫んだ。
「ダンブルドアだ!」
 サラは振り返る。階段の上、「脳の間」の扉の前にアルバス・ダンブルドアが佇んでいた。
 ダンブルドアはあっという間に石段を駆け下り、サラ達の横を通り過ぎて行った。ダンブルドアの出現に気付いた死喰人が叫び、仲間に知らせる。無駄な事だ。もう彼らは逃げられない。ダンブルドアが逃がすはずがない。反対側の石段を登って行こうとした死喰人は、見えない糸でもひっかけられたかのように、杖を振るダンブルドアの方へと引き戻された。
 ただ一組、ダンブルドアの出現に気付かず戦い続けている者達がいた。シリウスとベラトリックスだ。放たれた赤い閃光をシリウスは笑顔で易々と避け、叫んだ。
「さあ、来い! 今度はもう少し上手くやってくれよ!」

 次の閃光が、シリウスの胸へと当たった。

 まるで、長いスローモーションを見ているかのようだった。
 シリウスの目が、驚きに見開かれる。彼の黒い杖が、ゆっくりとその手を離れ床に落ちて行く。彼の身体は大きく後ろへと傾き、背後にあったアーチのベールへと触れる。彼の顔から笑顔は消え、恐れと驚きへと入れ替わっていた。そのままベールを突き抜け、向こう側へとゆっくりと沈んで行く。
 カランと空しい音を立てて、シリウスの杖が床に着地した。突然の出来事に皆も停止し静まり返っていたのか、あるいはただそう聞こえたように感じただけなのかもしれない。
「シリウス!!」
 ハリーが叫んだ。ベラトリックスの勝ち誇った叫び声が木霊する中、サラはその場に崩れ落ちた。
 ――嘘だ。
 こんなの、嘘だ。ただ、倒れただけだ。だって、失神呪文だ。当たっても、気絶するだけ。きっとあのアーチの向こう側をのぞけば、シリウスがいるはずだ。そうに決まっている。
 シリウスは出て来ない。気絶しちゃったのかな。でも、大丈夫。ダンブルドアが来た。すぐに死喰人は皆捕まって、気絶した人たち、怪我をした人たちも治療される。だから、大丈夫。
 どうして、ハリーはあんなに必死に叫んでいるのだろう。倒れただけなのに。どうして、ルーピンはハリーが確認しようとするのを止めるのだろう。倒れただけなのに。
 周囲はまた動いていた。あちこちで、騎士団と死喰人が戦っている。台座の後ろで、キングズリーと死喰人が戦っていた。
 ――どうしてそこで戦えるの? そこには、シリウスがいるはずでしょう?
 足元の障害物を避けている様子もない。つまずく様子もない。……シリウスは、そこにはいない。

 ――嘘だ。
 シリウスが、いなくなってしまうなんて。


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2018/05/27