魔法省の喧噪から離れ、ヴォルデモートやベラトリックスの危険も無くなると、再びあの虚無感がサラを襲って来た。
 ただ流れる時間を、どこか別の世界から眺めているかのような感覚。シリウス・ブラックは、死んだ。頭では理解しているのに、未だにその実感が沸かない。彼が呪文に撃たれ倒れる姿を、この目で見たと言うのに。
 最後に訪れた時、ダンブルドアによるアンブリッジらへの反撃によって嵐が過ぎ去った後のように荒らされていた校長室だが、今は何事もなかったかのように整然としていた。
 ふと、肖像画の一つがひときわ大きないびきをかき、声が聞こえた。
「ああ……ハリー・ポッター……それからそっちは、サラ・シャノンか……」
 フィニアス・ナイジェラスが伸びをしながら、サラとハリーを見下ろしていた。
「こんなに朝早く、なぜここに来たのかね? この部屋は正当なる校長以外は入れない事になっているのだが。それとも、ダンブルドアが君達をここによこしたのかね? ああ、もしかして、また私のろくでなしの曾々孫に伝言じゃないだろうね?」
「シリウスなら、死んだわ」
 喉まで出かかった言葉は、どう言う訳か言葉にする事が出来なかった。
 ハリーは逃げるように校長室の扉へと足早に歩いて行く。取ってをガチャガチャと回すが、鍵が掛かっているらしく開く様子はなかった。
 肖像画達が次々と身動きし、目を覚まし始める。サラはぼんやりと、寝起きの彼らを見上げていた。サラの曽々々祖父とは別の肖像画が、ハリーとサラとを交互に見ながら聞いた。
「もしかして、これはダンブルドアが間もなくここに戻ると言う事かな?」
「ええ」
 今度は、声が出た。
「それはありがたい。あれがおらんと、まったく退屈じゃったよ。いや、まったく」
 その魔法使いは同じ絵画の中に描かれた大きくて豪華な肘掛け椅子に座り直し、にっこりと微笑んだ。
「ダンブルドアは、君達の事をとても高く評価しておるぞ。わかっておるじゃろうが。ああ、そうじゃとも。君達を誇りに思っておる」
「ありがとうございます」
 サラは淡々と応える。
 ダンブルドアが戻って来るまで、三十分。その三十分は、酷く長くて空虚に感じられた。





No.71





 突然暖炉に緑色の炎が灯り、ダンブルドアが校長室に現れた。彼はサラとハリーの顔を見るなり、ダンブルドア軍団のメンバーに後遺症が残るような怪我を負った者はいなかった事を告げた。
「エリとアリスは?」
 オウム返しにサラは尋ねる。他の誰かの身を案じる時だけ、急に現実へと引き戻されるかのようだった。
 ダンブルドアは微笑んだ。
「二人とも、君達より先に騎士団によって保護された。エリは失神させられておったが、わしらがアトリウムにいた頃に、目を覚ましたそうじゃ」
「良かった……」
 ハリーは何も言わず、じっと黙したままだった。
「マダム・ポンフリーが、皆の応急手当てをしておる。ニンファドーラ・トンクスは少しばかり聖マンゴで過ごさねばならぬかも知れんが、完全に回復する見込みじゃ」
 サラはホッと安堵の息を吐く。ハリーは、うなずいただけだった。
「……ハリー、気持ちはよくわかる」
「わかってなんかいない!」
 校長室に戻って、ハリーは初めて言葉を発した。突然の大きな声にサラはびくりと肩を揺らし、隣に立つハリーを見る。
 ハリーは怒りに震えていた。夏休みに初めてグリモールド・プレイスへ来た時と同じだった。ただ、あの時と違うのは、彼の怒りの対象はダンブルドアでもなければ、サラや他の誰かでもなかった。――ハリー自身だ。
 事の経緯を考えれば、彼が責任を感じているであろう事は想像に難くない。ヴォルデモートの罠にはめられて、夢を現実だと信じたがために、仲間たちを危険にさらす事になったのだ。……そして、シリウスも。
 しかし、それはサラだって同じだ。
 サラも同じ夢を見て、現実だと信じ込んでいた。閉心術を身に着けず、訓練を再開してもらおうともしなかった。
 サラは、あの夢を見る事が危険だと解っていたのに。
「どうだい? ダンブルドア」
 フィニアス・ナイジェラスが嫌味に満ちた口調で言った。
「生徒を理解しようとする事なかれ。生徒が嫌がる。連中は誤解される悲劇の方がお好みでね。事故憐憫に溺れ――」
「黙りなさい」
 サラの冷たい声が、肖像画の言葉を遮った。サラは鋭い視線で曽々々祖父の肖像画を睨みつける。
「さすが、スリザリンの末裔は恐ろしい」
 皮肉るように冷たく言って、フィニアス・ナイジェラスは口をつぐんだ。
 ハリーはダンブルドアに背を向け、窓の外をじっと見つめていた。
 ハリーはシリウスを慕っていた。シリウスがサラやエリと同列に実の子のようにハリーに接していたのに対し、ハリーもまたシリウスを親のように思っていた。実の親がいないハリーにとって、シリウスは唯一の家族と呼べる大人だった。
「ハリー、君の今の気持ちを恥じる事はない」
 ダンブルドアが、ハリーの背中へと優しく声をかけた。
「それどころか……そのように痛みを感じる事が出来るのが、君の最大の強みじゃ」
「最大の強み。そうですか?」
 強い語調で返すハリーの声は、震えていた。
 サラは、ハラハラとハリーとダンブルドアを交互に見ていた。ハリーがダンブルドアに対してこんな態度をとるなんて、初めての事だった。
「何にもわからないくせに……知らないくせに……」
「わしが何を知らないと言うのじゃ?」
 ハリーは振り返り、叫んだ。
「僕の気持ちなんて話したくない! ほっといて!」
「ハリー、そのように苦しむのは、君がまだ人間だと言う証じゃ! この苦痛こそ、人間である事の一部なのじゃ――」
「なら――僕は――人間で――いるのは――いやだ!!」
 ハリーは叫ぶと、そばのテーブルに置かれた細やかな銀の道具を引っ掴み、部屋の向こうに投げつけた。壁に当たった道具は、粉々に砕け散る。サラは驚き叫んだ。
「ハリー!」
 肖像画達も怒りや恐怖の叫び声をあげる。ハリーは次に望遠鏡を引ったくり、暖炉に投げ入れた。ダンブルドアは、止めようともせず静かに佇んでいた。
「たくさんだ! もう見たくもない! やめたい! 終わりにしてくれ! 何もかもどうでもいい――」
「ハリー! ハリー、落ち着いて!」
 銀の道具が載ったテーブル自体も放り投げようとするハリーを、サラは止めに掛かる。暴れるハリーを止めようとするには、ほとんど抱き着かなければならなかった。
「放して!」
 ハリーは強く身をよじる。放り出されたサラはテーブルへと倒れこみ、銀の道具が壊れる音が響いた。額の傷に当たったのか、また視界へと血が流れて来た。
 サラの怪我に、ハリーは息をのみ固まっていた。
「ああ、大丈夫よ。死喰人につけられた傷なの。ちゃんと治してないから、開きやすいみたい……。先生、ごめんなさい。道具が……」
 ハリーに投げられるのを逃れた残りの道具達も、結局、サラの身体でほとんどが押し潰されてしまっていた。
「かまわぬ。むしろ少し多過ぎていたぐらいじゃ」
 ハリーはバツの悪そうな顔でふいと背を向け、出口の方へと向かった。扉はやはり、鍵が掛かったままだ。
「出してください」
「駄目じゃ」
 ダンブルドアは短く答えた。しん……と校長室は静まり返る。
 ややあって、ハリーはもう一度言った。
「出してください」
「わしの話が済むまでは駄目じゃ」
「先生は――僕が聞きたいとでも――僕がそんな事に――僕は先生が言う事なんかどうでもいい! 先生の言う事なんか、聞きたくない!」
「聞きたくなるはずじゃ」
 ハリーが再び怒鳴りだそうとも、ダンブルドアはやはり穏やかな口調のままだった。
「なぜなら、君はわしに対してもっと怒って当然なのじゃ。もしわしを攻撃するつもりなら――君が攻撃寸前である事は分かっておるが――わしは、攻撃されるに値する者として十分にそれを受けたい」
「いったい何が言いたいんです――?」
「シリウスが死んだのは、わしのせいじゃ」
 サラはダンブルドアを振り返る。ハリーも、何も言い返さなかった。
「それとも、ほとんど全部わしのせいじゃと言うべきかもしせぬ――全責任があるなどと言うのは、傲慢と言うものじゃ。
 シリウスは勇敢で、賢く、エネルギー溢れる男じゃった。そう言う人間は、他の者が危険に身を曝していると思うと、自分がじっと家に隠れている事など、通常満足できぬものじゃ。しかしながら、今夜君が神秘部に行く必要があるなどと、君は露ほども考える必要はなかったのじゃ。
 もしわしが君達に対して既に打ち明けていたなら――打ち明けるべきじゃったのだが――ハリー、そしてサラよ、君達はヴォルデモートがいつかは君達を神秘部に誘き出すかもしれぬという事を知る事ができたのじゃ。さすれば、君達は決して、罠にはまって今夜あそこへ行ったりはしなかったじゃろう。そしてシリウスが君達を追って行く事もなかったのじゃ。
 責めはわしのものであり、わしだけのものじゃ」
 サラはダンブルドアをまじまじと見つめていた。
 ――知っていた? ヴォルデモートが、サラとハリーを――あるいはハリーのみを、神秘部に呼び寄せようとしていた事を?
「二人とも、腰掛けてくれんかの」
 ハリーは一瞬躊躇したが、ゆっくりと部屋を横切り、ダンブルドアの机の前の椅子に座った。サラも、その横へと腰掛けた。
「こう言う事かね?」
 フィニアス・ナイジェラスの声は、驚愕に満ちていた。
「私の曾々孫が――ブラック家の現在の主が――死んだと?」
「そうじゃ、フィニアス」
「信じられん」
 振り返った肖像画に、もうフィニアス・ナイジェラスの姿は無かった。グリモールド・プレイスの肖像画へと確認しに行ったのだろう。
 太陽は地平線から顔をのぞかせ、校長室にも橙色の明かりが差し込んでいた。床に散らばった銀の破片が日差しを受けてチラチラと赤く輝く中、ダンブルドアは語り始めた。

「十五年前、ハリーの額の傷痕を見た時、わしはそれが何を意味するのかを推測した。それが、君とヴォルデモートとの間に結ばれた絆の印ではないかと推量したのじゃ」
「それは前にも聞きました、先生」
 ハリーは大人しく椅子に座りこそしたものの、従順になった訳ではなかった。酷く失礼な物言いだったが、ダンブルドアが気にする様子はなかった。
「そうじゃったな。しかし、良いか――君の傷痕の事から始める必要があるのじゃ」
 ダンブルドアの話は、どれもこれまでに聞いた事のあるものばかりだった。
 ヴォルデモートがそばにいる時や強い感情を抱いている時、ハリーの傷痕が痛み警告となる事。昨年、ヴォルデモートが肉体を取り戻した事で、ますます顕著になっていた事。ヴォルデモートがこの繋がりに気付き、利用する恐れがあった事。
「ああ、スネイプが話してくれた」
「スネイプ『先生』じゃよ、ハリー」
 ダンブルドアは訂正し、続けた。
「しかし君は、なぜこのわしが君にその事を説明しないのかと、訝しく思わなかったのかね? なぜわし自身が君達に『閉心術』を教えないのかと。なぜ、わしが何ヶ月もハリーを見ようとさえしなかったかと」
「ええ……ええ、そう思いました」
 ハリーはためらいがちに言った。これまでの怒りと苛立ちを露わにした口調とは違っていた。
「わしは、時ならずして、ヴォルデモートが君の心に入り込み、考えを操作したり、捻じ曲げたりするであろうと思った。それを更に煽り立てるような事はしたくなかったのじゃ」
 ヴォルデモートが、ハリーの感情を操る可能性。そして、ハリーに憑りつき利用する可能性。今夜、魔法省で行ったように。ヴォルデモート討伐のために、ハリーを犠牲にしなければならない状況。それを避けるために、ダンブルドアはこの一年、ハリーを遠ざけ続けていた。
 ウィーズリー氏が襲撃にあった日、ダンブルドアは恐れていた可能性が着々と現実になりつつある事を知った。そして、ヴォルデモートに対抗するために『閉心術』をハリーに学ばせた。
「先生、あの……いいですか?」
 サラは、小さく手を挙げ控えめに口を挟んだ。
「えっと……それじゃあ、傷痕による繋がりがあるから、閉心術の訓練が必要だったんですよね。でも、私は――」
「さよう。君がハリーと同じ夢を見ていたのは、ハリーの危険を察知していたに過ぎない。君はヴォルデモートと繋がりがあった訳ではなかった。なのになぜ、閉心術の訓練を受けさせられたのか。至極当然の疑問じゃ。しかし、少し待ってくれるかの。君については、こと複雑さを極める。順序立てて説明する必要がある」
「……はい」
 ダンブルドアは説明を続けた。
 ハリーが見た夢の内容。ヴォルデモートが予言を聞きたがっていたという事。予言を取り上げても正気を失わずに済むのは、予言に関わる者だけだと言う事。
 サラは、神秘部にあった予言の球を思い出す。ラベルには、ヴォルデモート、ハリー、そしてサラの名前があった。当然、ヴォルデモート自身が魔法省に忍び込むなどリスクが高過ぎる。そこで彼は、ハリーを神秘部へ向かわせる事にした。
 ――それを防ぐために、『閉心術』の訓練は必要だった。
「でも、僕、習得しませんでした」
 ハリーの声は震えていた。
 その声にはもう、攻撃的な怒りはなかった。ただ、ただ、悲しいほどに自責の念に満ち溢れていた。
「僕、練習しませんでした。どうでも良かったんです。あんな夢を見る事をやめられたかもしれないのに。ハーマイオニーが練習しろって僕に言い続けていたのに。練習していれば、あいつは僕にどこへ行けなんて指図できなかったのに。そしたら――シリウスは――シリウスは――」
 サラは、ローブの上から膝に爪痕を残さんとばかりに握られているハリーの手を握った。
「私も同じよ、ハリー。あの訓練で閉心術なんて、身につきようがなかった。あなただけじゃない」
 ハリーの緑色の瞳が、サラを見つめた。そしてすぐに伏せられる。ハリーは、ぽつりぽつりと続けた。
「僕、あいつが本当にシリウスを捕まえたのかどうか調べようとしたんだ。アンブリッジの部屋に行って、暖炉からクリーチャーに話した。そしたら、クリーチャーが、シリウスはいない、出かけたって言った……」
「クリーチャーが嘘を吐いたのじゃ」
 サラはパッとダンブルドアを見上げた。
「そんな、まさか! だって、クリーチャーは私の――私とシリウスの――」
「さよう。しかし、ハリーは主人ではないから、クリーチャーは嘘をついても自分を罰する必要さえない。クリーチャーは、ハリーを魔法省に行かせるつもりだった」
 サラは愕然とダンブルドアを見つめていた。
 クリーチャーが、嘘を吐いた?
 ハリーをヴォルデモートの罠にはめようとした?
 クリーチャーが? 夏休み、他の誰とも関りを絶って引きこもっていた時に、サラのそばにいてくれた、あのクリーチャーが?
「クリスマスの少し前に、クリーチャーはチャンスをつかんだのじゃ」
 ダンブルドアが言うには、シリウスがクリーチャーに『出ていけ』と叫んだ事で、クリーチャーは部屋ではなく屋敷そのものから出て行っていたらしい。グリモールドプレイスを追い出されたクリーチャーが向かったのは、彼が信頼するブラック家の者がいる場所――ナルシッサ・マルフォイの所だった。
 ダンブルドアの口から告げられた名前に、サラは息が詰まる思いだった。

 ――また、あの家。


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2018/07/01