目が覚めたエリは、いくつもの話し声と慌ただしい足音に囲まれていた。咄嗟に杖を構えて身を起こし、きょとんと辺りを見回す。エリがいるのは、戦いの渦中ではなかった。行き交う人々は、エリが目を覚ました事にも、杖を構えている事にも気付いていない様子だった。「ダンブルドア」や「例のあの人」と言った単語が、会話の端々に聞こえた。
 皆、どこに行ったのだろう。アリスは無事なのだろうか。戦いは、どうなったのだろう。
「大丈夫か、リーマス」
 聞こえて来た名前に、エリは振り返る。人ごみの中、ルーピン先生とキングズリー・シャックボルトの姿が見えた。キングズリーは知らない魔法使いに呼ばれ、どこかへと去って行く。
「ルーピン先生!」
 急に立ち上がったせいか、ふらりと眩暈がした。何とか踏ん張り、ルーピンへと駆け寄る。ルーピンの顔はいつもより青白く、一方で目は赤く、疲れ果てているように見えた。
「ああ、エリ。目が覚めたのか……」
「先生、皆は!? 死喰人が現れて……罠だったんだ。それで、皆逃げてる内にバラバラになって……アリスが魔法使えないからって狙われて……」
「アリスも、皆も無事だ。死喰人は皆、奥の部屋で捕まっている。ああ、そうだ……アリスを迎えに行かないと」
 ルーピンは、心ここにあらずと言った様子だった。エリは目を瞬き、首を傾げる。
「どうしたの? 何かあった?」
 ルーピンの表情が強張った。目を伏せ、慎重に彼は言葉を紡ぐ。
「エリ……落ち着いて聞いてほしい」
「うん?」
「……シリウスが、いってしまった」
「行く? どこに?」
 ルーピンは言い淀む。ややあって、彼は口を開いた。
「……ベラトリックス・レストレンジの呪文が胸に当たって……シリウス・ブラックは、亡くなってしまったんだ」
「……え」





No.73





 魔法省への、死喰人の侵入。聞こえて来る会話からして、ヴォルデモートも姿を見せたらしい。役人達がてんやわんやで行き交う中、エリとルーピンの所だけ、ぽっかりと闇の中に取り残されたかのようだった。
「リーマス!」
 人混みの中から、一人の魔法使いが二人の所へとやって来た。
「ロナルド・ウィーズリーを見てやってくれないか。どうやら、神秘部に置かれた厄介な物に触れてしまったらしい……他の子達も、よく知る大人が一緒の方が安心だろう。マッド-アイも、キングズリーも、魔法省の方で手一杯らしくてな……」
「ああ……うん。あ、でも、アリスが……」
「じゃあ、アリスはあたしが迎えに行くよ。先生はロンの治療に行って。ここに連れて来ればいい?」
 エリは、明るく言った。いつもと同じ調子で。何事もなかったように。
「ああ……じゃあ、頼めるかな。四階から三階の間の階段にいた。隠れるように言ったから、他へ移動しているかも知れないが……」
「オーケー、分かった!」
「エリ……大丈夫かい?」
 ルーピンの言葉に、エリは一瞬固まる。それから、くしゃりと笑った。
「大丈夫だよ。先生こそ、親父と仲良かったんだろ? 悲しいのは、皆一緒だもん。あたし一人が挫けてる場合じゃないもんな」
 少し、早口だったかも知れない。
 エリは、グイと顔を上げる。うつむいてしまうと、そのまま暗い感情に侵食されてしまいそうだった。
「アリスだよな! それじゃ、あたし、行って来る!」
 一息に言うと、エリはルーピンに背を向け、エレベーターの方へと走って行った。
 ――シリウスが、死んだ。
 ジャラジャラと言う鎖の音だけがエレベーター内に響く中、ルーピンの言葉が胸中で反芻される。彼が冗談を言っている訳ではない事ぐらい、彼の顔を見れば分かった。冗談だろうなんて返す事さえできなかった。
 ……今は、駄目だ。考えちゃ駄目だ。
 チンと軽い音がして、エリは我に返る。開いた扉から急いで乗って来ようとした人達が、降りる客がいるのを見て慌てて下がる。明らかに学生のエリを見て、彼らは囁き合っていた。「例の噂の」「ハリー・ポッターの仲間」などの声が聞こえたが、相手をする気にはなれなかった。
 アリスは、直ぐに見つかった。魔法省は、階数が多い。ほとんどの魔法使いや魔女は、エレベーターを使う。さすがに、建物内で箒を乗り回すような者はいないらしい。階段の方へと向かう途中の、人気のない廊下の中心にアリスは立ち尽くしていた。
「アリス!」
 エリの声に、アリスの肩がびくりと揺れる。振り返った彼女は、怯えた顔をしていた。
「エ、エリ……」
「ルーピン先生の代わりに迎えに来たんだ。死喰人は捕まったよ。魔法省の人達も戻って来たみたいで、皆、そっちで手一杯で。皆、下にいる。行こう」
「皆、無事なの?」
「え。あー……」
 当然の問いかけだった。戦いの中、離れ離れになって。死喰人は殺す気でエリ達を追って来た。誰が死んでもおかしくない、そんな状況だったのだ。
「エリ……?」
「えっと……親父が――シリウス・ブラックが、死んだって」
 答えた声は、掠れていた。
 アリスは息をのみ、目を丸くしてエリを見上げる。エリはその視線から逃れるように、ふいと背を向けた。
「行こう。皆、待ってる」
 アリスは、何も言わずにエリについて来た。神秘部へと向かうエレベーターの中でも、何も聞こうとはしなかった。
 地下八階まで降りると、神秘部にいた仲間達は別の部屋へと移動させられたとの事だった。一つ上の階の部屋に、皆はいた。羊皮紙が積み重なった部屋の奥に、ハーマイオニーとルーナが寝かされていた。ロンは何があったのか、へらへらと締まりのない笑みを浮かべていて、ルーピンが様子を見ている所だった。足を骨折したジニーが彼らの直ぐそばの椅子に座り、ロンを心配そうに見やっていた。ネビルだけは鼻の周りこそ血塗れなもののそれ以外は無事なようで、戸口のそばに立っていて、エリとアリスが入るとパッと顔を輝かせた。
「エリ! アリス! 良かった、無事だとは聞いていたけど、心配だったんだ。アリスが助けを呼んでくれたんだよね? ルーピン先生から聞いたよ。ありがとう」
「魔法省自体には、既に騎士団の皆が来ていたの……私は、ただこっちだって呼んだだけだから……」
「それでも十分、お手柄だよ。僕達誰も、自力では外に出られなかったんだから」
「ああ、二人とも来たか。ちょうど良かった、怪我人だけでも先に帰そうかと思ってたところなんだ。魔法省がポートキーを用意してくれた。医務室へ一直線だ。医務室に他に患者がいたらマダム・ポンフリーは嫌がるかもしれないけどね、この人数を校庭から運び込むほどの人数は割けそうにないから」
「ロンはどうしちゃったの? それに、ハーマイオニーとルーナは……」
「二人は失神しているだけだ、大丈夫。ハーマイオニーの方は失神呪文とは別の呪いだから、目が覚めるまで少し時間はかかるかもしれないけど。ロンは、脳に触れてしまったらしい。マダム・ポンフリーなら治せるだろう」
 エリはホッと安堵の息を吐いた。
「そっか……良かった。サラとハリーは? ここにはいないみたいだけど……」
「彼らがここにいると、皆、話を聞きたがるだろうからね。ダンブルドアが先に、学校へ送ったよ。さあ、こっちへ。後の話は医務室だ。まずは怪我人を手当てしないと。ロン、立てるかい……ネビル、ジニーに手を貸してやってくれ」
 ハーマイオニーとルーナが寝かされている横へとエリ達は集まる。エリはハーマイオニーの、アリスはルーナの手を取り、ポートキーへと手を重ねた。
「さあ、帰ろう……三、二、一」
 ルーピンがカウントすると共に、地面から足が離れた。雑多な部屋が色の渦の中に消え、ぐんぐんと身体が引っ張られて行く。
 そして、エリは医務室の床へと落下した。どうにも、ポートキーでの移動は慣れない。

 突然病棟に現われた大所帯に、マダム・ポンフリーは顔を真っ赤にして目を吊り上げていた。
「いったい何事ですか! ここは病室で――」
「患者を連れて来たんだ。魔法省で死喰人にやられた。明日朝にも、新聞へも載るだろう」
「魔法省で――? 死喰人――?」
 マダム・ポンフリーは困惑の声を上げたが、患者たちの容態を見るなり、話は後回しにして看病に徹する事にしたようだった。
 気を失っているハーマイオニーとルーナは、奥のベッドへと寝かされた。薬を飲まされたロンの顔からは笑みが消え、みるみると青白くなっていった。
「僕、いったい……僕……」
「ええ、眠ると良いでしょう。あなた方には、休息が必要です」
 ジニーの踵も、ネビルの鼻も、あっと言う間に元通りになった。その段になってようやく、エリ達は口を開く事を許された。
「皆とはぐれちゃった後、僕はハリーとハーマイオニーと一緒だったんだ。ハーマイオニーは、何か紫の炎にやられて……。最初の扉がたくさんある部屋に戻ったところで、ロン達と合流した。でもベラトリックス・レストレンジに追われて、また奥の部屋に戻っちゃって」
「二人とはぐれた後に、ネビル達と会ったのよ。死喰人は予言を狙っていたわ。それで、ハリーが死喰人を私達から離そうとして、予言を持って一人で奥の部屋へ行ってしまって、その後をネビルとサラが追い駆けて……」
「僕達、ハリーに追い付いたけど、どこにも逃げ場はなくて。そこに、ルーピン先生達が来てくれたんだ」
 不死鳥の騎士団の到着で、戦況は一変した。更にダンブルドアも登場して、死喰人達は一網打尽となった。しかし、まだ混乱の残る中、シリウスは――
「そっか。ほんと、危機一髪ってところだったんだな。ありがとう、ルーピン先生! 他の皆にも、よろしく言っといて」
 エリはルーピンを振り返り、笑顔で話す。
「エリ……」
「最初の扉いっぱいの部屋かー。あたし達もそこまで行ったのにな。入れ違いになっちゃったのかな。でもこれで、ヴォルデモートが戻って来たってのが嘘じゃないって事も、魔法省はちゃんと理解した訳だよな。死喰人もたくさん捕まった事だし。……ベラトリックス・レストレンジも、捕まったの?」
「いや、彼女はヴォルデモートと共に逃げ出した」
 答えたのは、ルーピンだった。
「二人が逃げるところを、大勢の魔法省の役人が目撃した。アトリウムで戦いがあったらしい」
「……そうなんだ」
 思いの外暗い声が出て、エリは我に返った。
「そっかー。それじゃ、次こそ絶対に捕まえてやらないとな! 親父の仇をとってやる!」
「え?」
 ネビルが目をパチクリさせる。
「ああ、そっか。ネビルは知らないんだっけ。シリウス・ブラックってさ、あたしのお父さんでもあったんだよ。あたしは父親側の連れ子なんかじゃなくて、正真正銘、サラの双子。だいたい、あたしの誕生日、サラと同じ晩だしな。その時点では既に、お母さんと今のお父さん、結婚してたし。まあ、新聞も読者もそのままお母さんの事を叩く方が面白くて、日本のマグルの婚姻届けまで調べようなんて奴はいなかったみたいだけど」
 ネビルは、驚きと憐みの入り混じった目でエリを見ていた。エリは腕時計へと視線を落とす。
「うっわ、もう朝だよ。四時半だってさ。そんなに長く魔法省にいたんだな。あたしもう、ヘトヘトだ。皆も怪我してるんだし、そろそろ休まないとだよな」
「あなたから気付いてくれて助かりますよ、ミス・モリイ」
 この機会を逃すまいとばかりに、マダム・ポンフリーが会話に加わった。
「彼らには休息が必要です。意識こそあれども、大変な戦いを超えて、怪我をしているのですから」
「それじゃあ、私はこれで。トンクスの様子も見に行きたい」
「あっ。それじゃあ、どんなだったか連絡をもらえますか? もちろん、時間ができた時で構わないので……」
 ジニーが急いで言った。ルーピンはうなずく。
「聖マンゴに行った後に、手紙を出そう。――それじゃあ」
 ルーピンは、足早に病室を出て行った。
 マダム・ポンフリーは、ネビルとジニーを寝かしつけにかかる。エリは、二人へと手を振った。
「それじゃ、またな。朝――は、もう直ぐか。昼休みにまた来るよ。その時にはハーマイオニーとルーナも目が覚めてるといいんだけど」
「お待ちなさい、ミス・モリイ」
 戸口へと向かいかけていたエリとアリスは、足を止め、振り返る。
「お待ちなさい、ミス・エリ・モリイ」
 マダム・ポンフリーは言い直した。
「あなたも呪いを受けたと聞きました。一晩ここに泊まって、様子を――」
「あたしは大丈夫!」
 エリは慌てて言った。
 ……もう、もちそうにない。
「何が大丈夫なものですか。死喰人から呪いを受けたのでしょう。後遺症がないとも限りません。きちんと休息を――」
「でも、ほら、あたし、この通りピンピンしてるし。ただの失神呪文じゃないかな。患者多いんだし、あたしより、ハーマイオニーやルーナを見てやってよ。疲れてて眠るだけだったら、寮のベッドでもできるし。――じゃあ、おやすみ!」
 一息に言い切ると、エリは医務室を出る。実際、エリに目立った外傷がないからか、外にも患者がいるからか、医務室の外まではマダム・ポンフリーも追っては来なかった。
「本当に大丈夫なの? エリ」
 駆けられた声に、エリは振り返る。アリスが、エリの後に続いて医務室を出て来ていた。当然だ。アリスは怪我も気絶もしていないのだから。
 エリはへらりと笑う。
「大丈夫、大丈夫。マダム・ポンフリーって、ちょっと心配症過ぎるところがあるからなー。クィディッチでブラッジャー打ち損ねた時の方がよっぽど重症だよ」
「……エリは、強いわね」
 エリは、ぽかんとアリスを見下ろす。アリスはふいと背を向け、先に立って歩き出した。
「私も、エリみたいな強さが欲しかったな……」
 エリは後を追い、ドンとアリスの背中を後ろから軽く小突く。
「なーに言ってんだよ。魔法が使えなくたって、アリスも十分活躍してただろ。あの劇薬って、前にあたしとサラの喧嘩止めた時に使ってた奴だろ?」
「ええ。よく覚えてたわね」
「なかなか衝撃的だったからなー」

 神秘部での死闘について熱く語り合いながら、エリとアリスは寮へと向かう。同じ階段から地下へと降りようとしたエリを、アリスは怪訝げに振り返った。
「ハッフルパフって、こっちだった?」
「送って行くよ。こんな時間だし、何かあったら嫌だし」
「学校内で何があるって言うのよ」
 アリスは苦笑しながら、階段を降りる。エリも、その隣に並んだ。
「うーん……事情を知らないフィルチに問い詰められたりとか?」
「説明すれば済む話だわ」
「フィルチが説明を聞くと思ってるなら、アリス、お前はちょっとばかしホグワーツでの悪戯の経験が足りないな。奴さんにとっちゃ、今のあたし達は、素敵な素敵なアンブリッジ校長先生を行方不明にして、尋問官親衛隊をぶちのめした極悪集団だよ」
 アリスの笑顔が引きつった。
「そうね……そうだったわね……」
「ジニーに蝙蝠鼻糞の呪いをかけられたマルフォイの顔を見たか? 顔中ねっとりベタベタで――」
「エリ、ここまででいいわ。もう、直ぐそこだから。一応、他の寮生に入口を教える訳にもいかないし」
「そうか。じゃあ、またな」
「ええ、おやすみなさい」
 互いに笑顔で手を振って、エリは背を向け元来た道を戻って行く。
 廊下の角を曲がり、エリの足は早まる。階段まで来たが、エリはその前を通り過ぎた。燭台の火も消えた暗い廊下を、杖灯りを頼りに進んで行く。
 酷く腰の曲がった老人の像。その像に半ば隠れるように、『セブルス・スネイプ』と書かれた木戸があった。
 取っ手に手をかけたが、扉は開かなかった。エリはコンコンと扉を叩く。眠ってはいないはずだ。神秘部で、騎士団も出動する戦いがあった後なのだから。騎士団へと連絡したのは、恐らく、彼。例え戦い自体には参加できずとも、結果を待たずにグースカ眠るような事はないだろう。
 応答は無い。もう一度、エリは戸を叩く。
「セブルスー……いる?」
 自分でも驚くほどに、か細い声だった。
 気付いてしまうと、もう駄目だった。呼吸が乱れ、引付を起こしたように荒くなる。目頭が熱くなって、エリは額を扉に押し付けた。
 待てども返事はなかった。
 物音一つ聞こえない。……セブルスは、留守だ。
「……ふ……っ、うっ……」
 漏れ出た嗚咽を押さえ込むように、エリは手で口を覆った。そのまま、ずるずると扉の前に座り込む。
 溢れた熱い雫が、手を濡らし腕を伝いローブの袖の中へと入って行く。
「ふっ……」
 声を出しちゃ駄目だ。
 フィルチが通りかかるかもしれない。スリザリンの寮だって近い。まだ早い時間だけど、いつ生徒が起きて来るか分からない。
 医務室に泊まるなんて、到底出来そうになかった。寮のベッドにだって、戻れなかった。ずっと涙を堪えていられるほど、自分は強くない。
 膝を抱え、腕に突っ伏すようにして、エリは声を抑えて泣き続けた。
 ……誰も頼る事が出来なかった小学生の頃、体育館裏の茂みでよくそうしていたように。





 窓の外の水が、白みを帯び明るくなり始める。朝日が昇りだしたに違いない。
 スリザリン寮に戻ったアリスは、寝室へは向かわずそのまま談話室のソファに座って夜が明けるのを待っていた。
 アリスはドラコ達を裏切り、ハリー達について行った。そして死喰人と戦い、ルシウス・マルフォイらはアズカバンに入れられた。
 ダンブルドア軍団や不死鳥の騎士団から見れば、犠牲はあったものの大勝利。ハッピーエンドだ。――でも、ドラコ達からしたら。
 男子寮や女子寮の方から、物音や話し声が聞こえ始める。生徒達が起き始めたのだ。
 アリスは身を固くして、ただただ時が経つのを待つ。ここが正念場だ。今からの振る舞いで、今後のスリザリンにおけるアリスの立場は決まる。
 どれほど経っただろう。やがて、男子寮の方から話し声が近付いて来た。
「――もう終わりだろう。ドラコ達はやられても、魔法省が放っておくはずないよ。退学とアズカバン、どっちに賭ける? 僕は、アズカバンかな――ダンブルドアもいない事だし――」
 楽し気に話す二人組の男子生徒へと、アリスは取り乱した素振りで駆け寄った。
「ドラコは!? ドラコはいる!?」
「え、わっ……アリス!? 君、帰って来てたのか」
「ねえ、ドラコはまだ来そうにないの!?」
「部屋違うから分からないけど、たぶんまだじゃないかな……いったいどうしたんだ? 何があったんだ? 君、スリザリンを裏切ってポッター達について行ったんじゃないのか? パンジーがそう言って怒ってたけど……」
「追ったわよ、もちろん。捕まえなきゃいけないもの。そう……ドラコはまだなの……」
「何があったんだ?」
 繰り返される質問に、アリスは首を左右に振った。
「ごめんなさい……まずは本人に話すべき事だから……」
 二人は困惑して顔を見合わせる。
「えーと……じゃあ、僕達はそろそろ朝食を取りに行くから……」
「ええ……ごめんなさい。引き止めてしまって……」
 関わり合いにならない事に決めたのだろう。二人は、談話室を出て行った。
 それからもアリスは、男子寮から人が出て来る度に同じ演技を繰り返した。焦っているように見えるように。取り乱しているように見えるように。何組目かに質問を投げかけた時、相手の男子生徒は困り果てながら言った。
「アー……ドラコの事、起こしてこようか?」
「ありがとう。そうしてくれると、助かるわ……!」
「いったい、何事なの?」
 女子寮から、パンジーとダフネが出て来たところだった。
「あら、ポッター軍団の裏切者さん。もうスリザリンには帰って来ないのかと思ったわ」
 パンジーがアリスの姿を見て、嫌みたっぷりに言った。
「僕、ドラコを起こしてくるよ」
 男子生徒は、そそくさと男子寮の方へと逃げて行く。
 パンジーは、ジロリとアリスを見下ろした。
「ドラコにいったい、何の用なの?」
「ごめんなさい……本人に伝えるべき事だから……。昨日は、本当にごめんなさい……追いかけて行っても、私一人じゃ、捕まえる事なんて出来なくて……」
「捕まえる? 私には、彼らに加わるために出て行ったように見えたわね」
「そんな……私は……」
「まあ、アンブリッジ先生が帰って来れば分かる事だわ。あなたが本当に、尋問官親衛隊としてふさわしい行動をとっていたのかどうか」
 アリスは、おどおどと困り果てた風に目を泳がせる。
 アリスが森でハリーとハーマイオニーに追い付いた時、アンブリッジは既にいなかった。彼女の口からアリスの裏切りが語られる事はないだろう。とは言え、神秘部で死喰人達と決定的な対立をした今、騙し続けられるのも時間の問題だった。
 ――決めなくてはならない。手を取るのか、否か。
「ドラコ、おはよう!」
 パンジーの声に、アリスは男子寮の入口を振り返る。急いだのか、いつもはきっちりセットされている髪が少し乱れたままのドラコが、クラッブとゴイルを従えて談話室に出て来る所だった。
「ドラコ!」
 アリスは可能な限り悲痛な声を上げ、ドラコへと駆け寄る。勢い込んでドラコの胸に飛び込んだアリスを、ドラコは受け止めた。
「ア、アリス? いったい何があったんだ? ベイジーが起こしに来て……談話室でずいぶん騒いでたようだけど……」
 アリスは顔を上げる。アリスの頬を伝う涙に、間近にある彼の顔がギョッとした表情に変わるのが分かった。
「ドラコ、ごめんなさい……! 私一人じゃ、どうにもならなくて……あなたのお父様が……!!」





 外は朝日が上がれども、地下の廊下まで陽射しは届かない。仄暗い廊下を、育ち過ぎた大蝙蝠のような姿が足早に通り抜けて行く。速いテンポで響いていた足音は、サラザール・スリザリンの像の横でぴたりと止まった。
 スリザリンの像の後ろの窪みに、半ば隠れるようにしてある自室の扉。その前に、うずくまる生徒の姿があった。
「――エリ」
 うずくまる彼女の横に膝をつき、躊躇いがちにその肩を揺らす。
 エリは直ぐに眼を覚ました。寝起きのとろんとした目が、セブルスを見上げる。頬に涙のあるのを見て、セブルスの胸がざわついた。
「エリ――」
「セブルス! えっ、今、何時!?」
 叫びながら、腕時計を確認する。時計の短針は、八を僅かに超えた位置にあった。
「うわ! 朝ご飯もう終わっちゃう! あーもー、皆が起きる前には帰るつもりだったのにー」
 いつもと変わらぬ様子で、エリは頭を抱えて嘆く。
「エリ……大丈夫か?」
 おずおずと問いかけると、エリはぴたりと動きを止め、セブルスを見上げた。そして、彼女は微笑んだ。
「うん、もう大丈夫」
 ズキリと胸が痛む。
 彼女は、人前で泣けない。涙を見せられる相手はセブルスだけだと、分かっていたのに。
「あっ。ねえ、水道だけ借りてもいい? 顔洗いたい」
「ああ……構わんが……」
 セブルスは研究室の鍵を開ける。エリはひょこひょこと部屋に入って行き、備え付けの水道で顔を洗う。腕をまくらず、ローブの袖まで水で濡らしてしまっていた。
 セブルスは、無言でタオルを差し出す。こんな時に何と声を掛けて良いか分からない自分の不甲斐無さに腹が立った。
「ありがと、セブルス」
 タオルを返し、水を吸ってしまった袖を絞る。セブルスは思わず呆れた声を出した。
「袖を上げないから……」
「いいんだ、これで。涙の痕が誤魔化せるだろ? どうせ、寮に戻ったらすぐ着替えるしさ」
 セブルスは言葉を詰まらせる。
 いつもと同じ笑顔を見せるけど、それでも、彼女はセブルスにだけは、泣いていた事を隠そうとはしないのだ。……セブルスのそばでなら、彼女は無理をせずに済む。
「……つらいようであれば、今日はここでもう少し休むか?」
 思わず、そんな言葉が口をついて出ていた。
 勉強のためならともかく、必要以上に自分から彼女を誘うような事は、避けていたのに。
 エリも、驚きに目を瞬く。それから、フッと微笑った。
「本当に大丈夫なんだ、ありがとう」
「だが……」
「それに、医務室の入院を断って出て来たのに、寮にも帰ってないなんて話になったら、騒ぎになっちゃう。それで万一にもセブルスの部屋で見つかったりしたら、どうやって言い訳するの? セブルスなら、何か上手い言い訳も思いつくかもしれない。でも、可能な限り疑われるような行動は避けた方がいいだろ?」
「それは……そうだが……」
「それに」とエリは続けた。
「今帰って来たって事は、セブルス、寝てないでしょ。あたしの事はいいから、ちゃんと休みなよ」
 セブルスはまじまじとエリを見つめる。
 袖を絞り終えたエリは、くるりと背を向け、セブルスを少し振り返って手を振った。この地下の研究室には似つかわしくない、眩しいぐらいの笑顔だった。
「じゃあまたな、セブルス」
 そして、彼女は部屋を出て行った。

 彼女がいなくなっても、セブルスはタオルを握りしめたまましばらくその場に立ち尽くしていた。
 ブラックが亡くなったという話は、聞いていた。苦々しい事ではあるが、あんな男でも一応はエリの父親だ。彼女がどんなに心痛めているかは、想像に難くなかった。他人の前では泣けない彼女が、セブルスを頼って来るだろうと言う事も。
 ――分かっていながら、自分は任務を優先したのだ。
 戦いに加わらず死喰人が捕まるのを傍観していた以上、一刻の遅れも許されなかった。闇の帝王の疑念を招く事は許されない。例え、大切な人が最もつらい時に、そばにいられないとしても。
 だから、告白を受けるべきではなかったのだと、心の底で自分の声がする。
 こんな自分が、未来ある少女の大切な時間を奪うべきではない。いったい何度、繰り返された自責だろうか。
 何者であっても、「彼女」より優先する事は出来ない。例え、恋人であっても。ナミに恋心を抱いていた頃でさえ、同様だった。ナミが「彼女」をセブルスの想い人だと誤解していたのも、無理からぬ話だろう。
 何よりも大切だった。何よりも尊く、輝かしい存在だった。そして、それは、今も変わらず。

 ……永遠(とわ)に。


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2018/07/31