昔、動物たちと鳥たちは戦争をしていました。
動物たちに、コウモリは言いました。自分には手足があるから、動物たちの仲間である、と。
鳥たちに、コウモリは言いました。自分には翼があるから、鳥たちの仲間である、と。
両方に良い顔をしていたコウモリは、ある日、戦争の最前線に巻き込まれてしまいます。
コウモリに戦う力はなく、逃げ回るばかりでした。動物たちの方へ寝返ったと思われるのではないか、鳥たちの信用を失うのではないかと不安に思うと共に、ただただ戦いが恐ろしく、そして何もできない自分を情けなく思いました。
戦線離脱し、もう大丈夫だと思ったコウモリの元に、鳥たちを支配している帝王が現れました。そして、彼は――
No.74
役人達が一人もいない魔法省。人気のない廊下。駆け付けた騎士団の者達は、皆、神秘部へと行ってしまった。今更どんなに騒いだところで、何階も下の部屋まで声が届くとは思えない。
目の前には闇の帝王、ヴォルデモート卿。絶望的な状況に、手も足も硬直して動かず、アリスはただ彼を見上げているしかできなかった。
「そう、緊張する必要はない」
真っ白な顔に切れ込みが開き、甲高い声が流れ出る。
「私は、君に協力を求めに来たのだ、アリス・モリイ」
「協……力……?」
何とか、掠れた声が出た。同時に、片手でポケットの中をまさぐる。指先に触れたネックレスを、アリスはぎゅっと強く握った。
協力? アリスが、「例のあの人」に? 魔法も使えないアリスに、いったい何ができると言うのか。ハリーやサラを騙してつれて来いとでも脅されるのだろうか。
――渦の中心にいるのは、いつもサラやエリ。
「私は君を必要としている。君に、我が右腕となって欲しいのだ、アリス」
アリスは目を見開き、闇の帝王を見上げる。
「特別な血を引き、その才覚を示すようにスリザリンに入った君だからこそできるのだ、アリスよ。他の姉二人では務まらないだろう。直ぐに答えよとは言わぬ。どうか、考えてみてほしい」
闇の帝王。恐怖の支配者。その彼が、アリスに懇願していた。脅しではない。アリスを対等に見ているのだ、彼は。――マグルの血を引き、魔法を使う事すらできない、アリスを。
すっとアリスは再び目を伏せた。
「でも……私は、魔法が……」
あの日記がある限り、アリスとナミは魔法を使えないままだ。
アリスは、ポケットに入れた手にぎゅっと力を入れる。「例のあの人」に与するためにサラを裏切る事なんて、アリスにはできない。
「私の元に来れば、魔法も使えるようになる」
アリスは顔を上げる。彼は続けた。
「その方法を私は知っている。君の才能を遺憾なく発揮できるようになるだろう」
そう言って、杖を掲げる。彼の顔と同じ、真っ白な杖だった。
アリスは身構えたが、彼はアリスに呪いを掛けた訳ではなかった。彼が杖を振ると、宙に一つの小瓶が現れた。小瓶はゆっくりと、アリスの目の前へと降りて来る。中には、透き通る青白い液体が入っていた。
「意思が固まったら、その液体を器に垂らすと良い。盆でも皿でも、カップでも構わない。君が魔法薬の小瓶を持っていても、誰も不審には思わないだろう。良い返事を待っている――」
そう言って彼が消えると同時に、背後から声が掛かった。
「アリス!」
アリスの心臓がどきりと高鳴る。振り返ったそこには、いつになく真剣な顔で駆け寄って来るエリがいた。
――まさか、見られていた?
どこから? 話も聞かれていたのか? それとも、この距離であれば姿だけ?
話を聞かれていたなら、アリスはただ声をかけられただけで、何とも返事をしていない事が分かるだろう。でも、ただ一緒にいる所を見られただけだとしたら。
「例のあの人」と一緒にいたアリスを、エリはどう思うだろう。
アリスはスリザリンだ。戦いの中、やむを得ずとは言え一人だけ逃げ出してしまった。守ってくれたエリを、傷付き倒れ伏したエリを、戦場に捨て置いて。
自分を見捨てて闇の帝王と会っていたアリスを、エリはどう思うだろう?
「エ、エリ……」
「ルーピン先生の代わりに迎えに来たんだ。死喰人は捕まったよ」
エリは、「例のあの人」について何も言わなかった。
見られていない……そう判断して、良いのだろうか。彼女が何も見なかったのであれば、下手に自分から確認して墓穴を掘る訳にもいかない。ここは、話を合わせた方が得策だろう。
「……皆、無事なの?」
「え。あー……」
エリの言葉が途切れた。茶色い瞳が左右に揺れる。柄にもなく憂いを含み伏せられた瞳は意外と睫毛が長く、彼女が父親似なのだと気付かされる。
「エリ……?」
なぜ、言い淀むのか。
……まさか。
「えっと……」
そうして告げられたのは、シリウスの死。
エリの声は震え、一瞬見せた表情は今にも泣き出しそうだった。
エリの背中を追って廊下を歩きながら、アリスはあろう事か安堵していた。
エリは、何も見ていない。父親の死と言う不幸に遭って、アリスの不審な様子にも気付いていない。
(……つくづく最低ね、私)
こんな時にも、自分の保身ばかり。
エリは明らかにショックを受けた様子だったが、アリス達に決して涙は見せなかった。いつも通りに振舞おうとしていた。
皆に心配を掛けないように。同じく彼の死に傷付いている他の人達に、気を遣わせるなんて事をしないように。
アリスには何も出来なかった。ただ、「大丈夫?」と声を掛けるしか出来なかった。大丈夫だと、そう返って来るだろう事を知りながら。
(私もエリみたいに強ければ、誰かを守る事も、「例のあの人」に毅然と立ち向かう事も出来たのかしら――)
スリザリンの談話室で、アリスはじっと手の中のネックレスを見つめていた。
ヴォルデモート卿の勧誘。信じられない出来事だった。サラでもエリでもなく、アリスが声を掛けられるなんて。今思い返してみても、夢でも見ていたのではないかと思ってしまう。しかし確かに、アリスの手元には自分で作ったものではない魔法薬の小瓶が一つ増えていた。
闇の帝王に誘われた事は、まだ誰にも言っていない。アリス自身も、どうするべきか決めかねていた。
……いや、ダンブルドアに報告するのが正しい判断だろう。そして、この小瓶を預けてしまう。ダンブルドアは騎士団を動員し、サラやハリーと同じようにアリスの事も守ってくれる事だろう。
報告するなら、一刻も早い方が良い。頭では分かっているのに、アリスの足が校長室へ向かおうとする事は無かった。
君だからこそできる。
彼は、アリスを対等に扱っていた。同じ血を引く者として。同じスリザリンに選ばれた者として。
例えサラザール・スリザリンの血を引いていようともアリスの場合はマグルの血も混ざっているし、アリスがスリザリンに入ったのは、サラとの比較を恐れてグリフィンドールを拒否したからに過ぎない。しかし彼は血筋や寮のみならず、アリスの才能にも一目置いていた。アリスが魔法薬を得意とし自分で調合した薬を持ち歩いている事を知っていた。
……だからと言って、飛んでもない話だ。例のあの人に協力するなんて。マグルを人とも思わない死喰人達と同じ事をするなんて。
アリスの脳裏に、クィディッチ・ワールドカップのキャンプ場で見た光景が思い起こされる。死喰人になると言う事は、ああ言う事をアリス自身も行うと言う事だ。闇の帝王が復活した今となっては、宙に浮かばせて遊ぶだけでは済まないだろう。
例のあの人が失脚した後、彼を探そうとしなかったルシウス・マルフォイは、彼の怒りを買った。息子を人質に取られ、アリス達の祖母を殺害せざるを得なかった。そしてそれは、一人の少女に復讐心と憎しみを植え付けた。
……死喰人になるとは、そう言う事だ。
「どうしてそれを、君が持っているんだ?」
アリスはびくりと肩を揺らす。ドラコが男子寮の入口に立ち尽くし、アリスの手元に視線が釘付けになっていた。
「……いつもみたいに、パンジーたちと図書室に行ってると思ってたわ」
「ふくろうは昨日で終わったからね。……どうして、そのネックレスをアリスが持ってるんだ?」
「その……落ちてたの。家に……」
ゴミ箱の中に、と言う事実は口に出来なかった。
それを知ったら、彼はいったいどう思うだろう。傷付く? 贈り物を捨てたサラに腹を立てる? それとも……。
「それは、僕が以前サラに贈った物だ」
「……知っているわ。でも……今のサラに渡して良いのか迷って……」
二人の間に沈黙が流れる。他の生徒達も皆出払っていて、談話室にはアリスとドラコの二人しかいなかった。
一応、筋は通る言い訳だ。ドラコは納得してくれただろうか。不審に思われてはいけない。気付かれてはいけない。彼の「特別」でいるためにも。――例え、それによって「女の子」として見られる事はなくなるとしても。
ややあって、ドラコが口を開いた。
「……僕が、預かる」
「……っ」
――渡したくない。
これは、アリスが拾ったのだ。サラは、これを捨てたのだ。今更ドラコが持っていて、どうする? サラに返すつもりなのか?
ドラコから再びこのネックレスを差し出されたら、サラはどうする? 受け取る? それとも……。
どの展開も、怖かった。サラに突っぱねられ、ドラコが傷付いてしまうのも。サラがドラコを受け入れ、再び二人の間にアリスの入る余地がなくなってしまうのも。
しかし、今この場で、自分の想いを伝えずに断る術なんて、アリスは持ち合わせていなかった。
気の進まない腕をめいっぱい伸ばして、ネックレスをドラコに差し出す。差し出された手の平に、アリスはネックレスを落とした。
受け取ったドラコは、じっとネックレスを見つめていた。
「……サラの事が心配?」
アリスは、おずおずと尋ねる。ドラコは少し視線を上げ、それからまた手の平へと落とした。
「……分からない。――いや、心配はしているんだと思う。実の父親を亡くしたのだから。でも、だからと言ってどうして良いかは分からない。彼女は、父上をアズカバンに入れたんだ。きっと、君と違って、情け容赦なくこの結末を望んでいただろう」
「……そうね。否定はできない」
涙を流し取り乱すアリスを見て、ドラコ達はこの結末がアリスの望んだものではない事を理解してくれた。パンジーからの評価も、少なくとも「裏切者」から「ドラコの父親を救う事が出来なかった無能」へと変える事が出来た。
実際、アリスだってドラコ達の父親をアズカバンに放り込みたかった訳ではない。そんな事になれば、彼らがどんなに傷付く事か。――しかし、サラは違うだろう。
きっと彼女は、この展開を望んでいた。
ルシウス・マルフォイが、報いを受ける事を。
「ねえ、ドラコは……例のあの人の日記に力を与えた人物を、まだ探すつもりはある?」
伏せられたドラコの瞳が揺れる。
「……分からない」
消え入りそうな声で、ドラコは答えた。
「……彼女を人殺しにしたくない。確かにそう思っていたんだ。でも今は、黒幕は他にいて、父上は巻き込まれただけだってサラが知るのも良いかもしれないとまで思ってしまっている……」
背後に黒幕がいたとなれば、サラの憎しみはそちらへ向かう事だろう。ルシウス・マルフォイへの憎悪も、薄れるかも知れない。
でも、そうなればサラは更なる憎しみを、リドルの日記に力を与えていた人物へと向ける事だろう。
「……正直、彼女に対してこんな事を考える日が来るなんて思わなかったよ」
そう言って、ドラコは自嘲するように笑った。
それから、手にしたネックレスを少し持ち上げて問う。
「君は、これを夏からずっと持っていたのか?」
「……今年のクリスマスよ」
「……クリスマスまで、サラはこれを持ち続けていたのか?」
アリスは一瞬、言葉に詰まった。アリス自身も、疑問に思っていた事。
どうして、あの日だったのか。どうして、別れてすぐに捨てていなかったのか。
まさか、サラは、今も。
「分からないわ……。それを知って、どうするの? あなたは、まだ……」
問いかけて、アリスは口をつぐんだ。
その質問を最後まで聞く事は、憚られた。アリスこそ、それを知ってどうする?
ドラコの口が開かれる。――嫌だ、聞きたくない。
しかし、耳をふさぐ事は出来なかった。
「……分からない」
ぽつりと小さく呟かれた声。
うつむくアリスを残し、ドラコは寝室へと戻って行った。談話室にいるのはアリス、ただ一人。大イカでも通ったのか、窓から差し込む水中の揺らめきが一瞬陰る。
アリスの唇が揺れ、震える声が漏れた。
「馬鹿よ……皆、本当に馬鹿……」
ドラコも、サラも。過去に囚われて、互いに傷付きあって。本当の自分の気持ちを見失って。
――そして。
「一番馬鹿なのは、私だわ……」
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The Blood
第2部
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2018/08/15