ねえ、おばあちゃん。私、涙が流れないの。
 ねえ、おばあちゃん。私、悲しさとか、寂しさとか、そう言う感情が沸いて来ないの。

 神秘部での戦いから数日。ヴォルデモートが大勢の魔法省役員に目撃されて、日刊予言者新聞は瞬く間に手の平を翻した。これまでの態度を弁解するかのように、ハリーとサラ宛ての手紙が連日大広間を舞った。二人に向けられていた奇異の視線は、元通り、「生き残った子」「ヴォルデモートと一線を交えた英雄」に向けられるものに変わった。
 後は、全部、いつも通り。試験が終わり、後は夏休みを待つだけと言う解放感に校内は満ち溢れ、外の世界の事は話題にこそ上がれども、どこか遠くの出来事のようだった。
 そして、それはサラも。
 当事者のはずなのに、自分でも驚くほどに、何の感慨も沸かなかった。シリウスの無実の罪は晴らされ、彼が父親であると知っている生徒達はサラに同情した。その同情が申し訳なくなるほどに、彼らが期待するほどサラは悲しみに耽る事ができなかった。
 ただ、時が流れて行く。ふわふわと覚束ない感覚。まるで、サラ一人がこの世界から切り離されてしまったような。

 ねえ、おばあちゃん。私、おばあちゃんが死んだ時はどうだったかしら?
 ねえ、おばあちゃん。私、心が無いのかしら。





No.75





「サラ」
 ハッフルパフの生徒達に呼び止められ、サラは振り返った。この数日で、もう何回目になるだろうか。もう、数えるのも億劫だった。
 彼らの顔に浮かぶのは、同情と憐憫の表情。立ち止まったサラを取り囲み、彼らは口を開いた。
「あの……僕たち、謝りたいんだ。君を、誤解していた事……」
「シリウス・ブラックは死喰人だって、ずっとそう言われていたから、それで……」
「大丈夫? 父親が亡くなって、つらいでしょう。何か力になれる事があれば協力するから――」
「ごめんなさい。あなた達、どなた?」
 サラに声をかけてくる知らない生徒達。さすがに、他の寮の他の学年の生徒まで把握していない。
 シリウスの冤罪払拭から、何人もの生徒がこうしてサラに謝って来たが、ホグワーツ生にしても、学校外からの手紙にしても、個々を認識していない相手に謝られたところで、どうして良いか分からなかった。
「僕達、君に酷い事を言った。それを謝りたくて……」
「……周りにあれこれ言われるのなんて、慣れてるわ。今の私は、誰に何を言われたかなんて気にしていないし、覚えるつもりもない」
 サラを取り囲んでいた生徒達は、言葉を詰まらせる。輪の向こうから、またサラの名を呼ぶ声が聞こえた。
「見つけた! サラ! サラー!」
 大きく手を振りながら駆けて来たのは、コリン・クリービーだった。
「マクゴナガル先生が呼んでるよ。――あ、ごめん。何かお話し中だった?」
 無言で自分を見つめる複数の目を見回し、コリンは尋ねる。サラは首を左右に振った。
「大丈夫、終わったところ。ありがとう、コリン。直ぐに行くわ」
 サラはハッフルパフ生達の間をすり抜けるようにして、二階階へと向かう。
 マクゴナガルの部屋に呼ばれたのは、サラだけではなかった。扉を開けるとマクゴナガルの他にエリがいて去年のちょうど今頃を思い出したが、他のメンバーはアリスとナミではなかった。代わりにハリーとキングズリー・シャックボルトが、サラの到着を待ち構えていた。
「お待たせしました、先生」
 部屋に集まる面々を見回しながら、サラは言った。
 予言に関する話なら、マクゴナガルではなくダンブルドアが呼ぶだろうし、この場にエリはいないだろう。寮監としての話でも、やはりエリがいる理由が分からない。キングズリーもいる理由が分からない。
 シャノンの話なら、彼女と親しくナミの後見人でもあったマクゴナガルや、同じ闇祓いであるキングズリーがいるのもうなずけるし、エリも関係がある。しかしその場合は、ハリーがいる理由が分からない。
 いったい何の話なのか、検討のつかない人選だった。
「問題ありません、サラ。――扉を閉めていただけますか」
 言われた通り、サラは後ろ手に扉を閉める。ハリーも、エリも、自分達がなぜ呼ばれたのか分からないと言った顔をしていた。
「まずは、今回のシリウスの件について……お悔やみ申し上げます。突然の事で、あなた達も酷くショックを受けている事でしょう……」
 突然、きゅっと首を絞められたかのようだった。
 そして同時に、合点がいった。ここに集められのは、シリウスの「子」だ。
 つらそうな表情で話すマクゴナガルを、サラはじっと見つめていた。ハリーやエリの顔を見る事はできなかった。
「彼は非常に勇敢な魔法使いでした。勇敢で、仲間思いでした。私もグリフィンドールの寮監として、誇りに思います。きっとあなた達にとっても、父親として、後見人として、良き存在であった事でしょう」
 エリが、妙に白々しい咳をしながら顔を壁の方へと背けた。洟をすするような音が聞こえた。
「あの、用件は何でしょうか?」
 ハリーがマクゴナガルの話を遮るように言った。これは、サラにとってもありがたかった。一刻も早くこの耐えがたい空気から解放されたかったし、こうして呼び出したからには、ただ思い出話をするだけが目的ではあるまい。
「ええ、そうですね」
 マクゴナガルはローブの袖口で目元を拭い、続けた。
「……シリウスの遺言が、見つかりました。彼は自身の所有する財産や資産について、その相続先を明確にしていました。サラ、エリ、そしてハリー、あなた達三人に」
「僕、何も要りません」
 ハリーが即座に返した。
「何も要らないんです、本当に。サラとエリが相続するべきだ。シリウスの子なんだから」
「同じように、あなたの事も実の子と等しく思っていたと言う事ですよ、ハリー」
 優しく諭すマクゴナガルの声は次第に涙声になっていき、最後にハンカチで大きく洟をかんだ。
 マクゴナガルの肩に慰めるように手を置き、キングズリーが後を続けた。
「金貨は三人で等分だが、問題は所有物の方だ。シリウスは、屋敷をハリー、ヒッポグリフの――アー――君達の知る名前とは異なるだろうが、私の立場ではウィザウィングズと呼ぶ事になっている――をエリ、屋敷内の道具などその他の所有物をサラに遺した」
 サラの脳裏に、グリモールドプレイスの屋敷が思い起こされる。狂ったように叫ぶ肖像画、闇の魔術に満ちていそうな調度品の数々、ブラック家の意匠が刻まれた食器。サラが欲しいと思うような物は何一つなさそうだった。むしろ、シリウスを縛っていたあの屋敷の物を見るのは、今後も可能な限り避けたかった。きっと、ハリーもサラと同じような表情をしている事だろう。
「エリの元ならば、ナミが世話をする事ができる。そう思って、ヒッポグリフはエリに遺したのだろう。あの屋敷を撤去した後から、今はハグリッドが面倒を見ているが――」
「たぶん、今後もその方がいいと思う。その方がハグリッドもバックビークも嬉しいだろうし」
 キングズリーはマクゴナガルに目をやる。マクゴナガルはうなずいた。
「ええ。伝えておきましょう」
「僕、屋敷なんて要りません。これからも騎士団の本部として使っていていいです」
「それは非常に嬉しい申し出だ」
 キングズリーは言った。
「しかしながら、そのためにはまず確認しなければならない事がある。ブラック家では代々、ブラックの姓を持つ直系の男子があの屋敷の当主となる決まりだったらしい」
「それなら、やっぱりサラかエリが相続するべきなんだ」
「恐らくシリウスは、あえて屋敷の後継人をあなたにする事で、あなたを自らの子として迎えていると言う事を示したかったのでしょう」
 マクゴナガルが口を挟んだ。彼女の涙声は、サラの胃に非常に悪かった。
「それに、サラとエリはその血を引いているが、男子ではない。屋敷に呪文や呪いがかけられていて、このしきたりに沿った者しか所有できないようになっている可能性もある。最悪の場合を想定するのであれば、シリウスの親族の中で最も年長の者――従姉妹のベラトリックス・レストレンジに所有権が移っているかもしれない」
「そんな!」
 ハリーとエリの声が重なった。
「当然、我々としてもあの屋敷は死喰人に相続されたくない。シリウスの遺言通りに相続が行われたかを確かめなければならない」
「どうやって?」
 エリが首をひねる。キングズリーはうなずくと、足元に置いていたトランクを開けた。同時に、けたたましい叫び声が室内に響き渡った。
「しない! しない! しない!! クリーチャーはそうしない!!!」
 サラは息をのむ。
 キングズリーがトランクに手を突っ込み、引っ張り出したのは、ぼろ切れに身を包んだ年老いた屋敷僕妖精だった。
「そんな目で見ないでくれ、サラ。前科がある以上、野放しにはしておけなかった。心配しなくても、このトランクは見た目より中はずっと広い。何十匹もの魔法生物を保護していた学者が昔使っていた物を、借りて来たんだ」
「ああ! サラお嬢様! 新しいご主人様!! クリーチャーはあなた様のものです、ポッター小僧には仕えないのです、どうかクリーチャーをお見捨てにならないで――」
「シリウスが屋敷の相続人をサラではなくハリーに指定したのは、幸いだった」
 暴れるクリーチャーを床へと放し、キングズリーは言った。クリーチャーは地団駄を踏み、コウモリのような大きな耳を引っ張っていた。
「元々サラの命令は聞いていたそうだから、当主がベラトリックス・レストレンジになっていた場合でもサラの命令は聞いただろう」
「サラ様! サラお嬢様!」
 クリーチャーはこけつまろびつ、サラの方へと駆け寄って来た。
「どうか、どうか――」
 縋るように、手が伸ばされる。節くれだったその手がローブに触れようとした間際、サラは思わず一歩下がった。
 クリーチャーの叫び声が途切れる。彼は、驚きと絶望に満ちた顔でサラを見上げていた。
「……シリウスは……あなたが魔法省に送り込んで喜んだその人は……私の父だったのよ、クリーチャー」
「サラお嬢様……?」
 酷く憐れみを誘うその顔から、サラは目を背けた。サラに見捨てられた事を察し、クリーチャーは更に酷く叫んだ。
「嫌だああああああああ!! しない、しない、しない!! それならクリーチャーは、ミス・ベラトリックスの元に行きます! そうですとも! クリーチャーはブラック家のものです! ポッター小僧になど――」
「ハリー、彼に何か命令してみてくれ。屋敷僕妖精は、その屋敷に依存する。君が屋敷を相続したならば、彼は君の命令を聞く事だろう」
 大声で喚くクリーチャーの声に掻き消されまいと、キングズリーが声を張り上げて言った。
「クリーチャー、黙れ!」
 ハリーの戸惑うような声が聞こえ、途端に叫び声は無くなった。横目でクリーチャーを確認すると、死に物狂いで口をパクパクさせていた。やがて、どうあがいても声が出ない事を悟ると、クリーチャーは床に身を投げ出しまるで駄々っ子のように両手両足で激しく床を叩き出した。
「無事、グリモールド・プレイス十二番地はハリー・ポッターへと継承されたようだ」
「僕――僕、こいつをそばに置かないといけないのですか?」
 ハリーが困惑気味に問うた。答えたのは、マクゴナガルだった。
「そうしたいのであれば、そうする事も可能です。しかし、ダンブルドア先生は、ホグワーツの厨房で彼を雇う事も可能だと仰っていました。あそこには、他の屋敷僕妖精もいます。彼らが監視してくれるでしょう」
 ホッとハリーは息を吐いた。
「そうですね。そうします。えーと……クリーチャー、この城の厨房で、他の屋敷僕妖精と一緒に働くんだ」
 クリーチャーの動きがぴたりと止まる。ハリーをひと睨みすると、バチンと大きな音を立てて彼は消えた。
「さて、残るは彼の所有物だが――」
 サラは静かに首を振った。
「要りません。グリモールド・プレイスの屋敷と共に、そのまま本部の備品として扱ってください」
「まあ、大移動するのも難儀だからその方が良いだろう。だが、屋敷の備品の他にも、遺された物があった」
 サラは目を瞬く。
 シリウスは、アズカバンを脱獄し逃亡していた身だ。着の身着のまま、あの屋敷に戻る前は洞穴で鼠を食べて生活していた彼に、他に何があったと言うのか。
 キングズリーはサラの正面まで歩み寄る。そして懐から、一本の杖を取り出した。
 平坦な面に細かい彫刻が彫り込まれた、黒く真っ直ぐな杖。持ち主の手を離れ、ゆっくりと床へと落ちて行った情景がサラの脳裏に蘇る。
「……シリウスの杖だ」
 キングズリーが静かに言った。
 サラは無言でキングズリーを見上げる。彼はうなずき、サラを促すように杖を差し出す。サラは恐る恐る手を上げ、その杖を受け取った。サラの物よりも長いその杖は、見た目以上に重く感じられた。
「一般的には持ち主と共に眠りにつかせるものだが、彼の場合は……」
 キングズリーはそれ以上続ける事を憚ったが、何を言わんとしているかは分かった。シリウスは、ベールの向こうへ「逝って」しまった。だから、彼には墓が無い。
 サラはただ押し黙って、手の平の上の杖を見つめ続けていた。
 本来、魔法使いが手放す事なんて決して無い物。ましてや、誰かに譲渡される事なんて。

 ――シリウスは、本当にいなくなってしまったのだ。

「私から伝えるべき事は、これで以上になる。後の手続きは我々でやっておく。二、三日の内に、君達の口座に遺産が振り込まれるだろう。エリについてはグリンゴッツの口座開設が完了次第になる」
「……うん」
「サラ、エリ。騎士団があの屋敷を一時撤退したに当たり、あなた達の住まいは別の場所に移っています。明日、キングズ・クロス駅で騎士団の者達があなた達を迎え、新しい隠れ家へと送り届ける予定です。アリスにも伝えておいてください」
「分かった」
 震えを抑えようとしているような、か細いエリの声が答えた。サラはただただうつむき、杖をじっと見つめていた。
 マクゴナガルの部屋から解放されるなり、サラは脇目も振らず足早にその場を離れた。どこへ行こうという宛もなかった。ただ、誰とも口を利きたくなかった。
 学期最後の放課後を、生徒たちは思い思いに過ごす。開放感を求めて外へと向かう者、暑さを凌いで城内に留まる者。人の流れに逆らうようにして、サラは奥へ奥へと足早に歩いて行く。
 人気もなくなって、明るい話し声も聞こえなくなって、サラはふらりと近くの教室へと入った。ただ机と椅子が並ぶだけで他に何も置かれていない空き教室だった。
 ……これまでずっと、何の実感も沸かなかった。
 目の前で倒れ行く姿を見ても。取り乱すハリーを見ても。日刊予言者新聞に神秘部で起こった事が洗いざらい書かれても。大勢の知らない人達に、憐憫の目で見られても。
 シリウスは逝ってしまった。そう頭では理解しているのに、感情が追い付かなかった。堰き止められた水面を堤防の上から眺めるように、どこか別世界の出来事のような感覚だった。
 サラはシリウスの杖を両手で握り、その手に額を押し当てるようにしてうずくまる。
 突然目の前に提示された杖は、サラを現実に引き戻した。持ち主がいなくなったと言う事実を、まざまざと見せつけられたようだった。
 堰が決壊する。闇が溢れ、サラを飲み込んで行く。
 一筋の雫が、頬を伝って行った。





 ヴォルデモートの復活。神秘部での戦いに参じた一部の生徒達。昨晩、こっそりホグワーツを撤退したアンブリッジ。今やホグワーツはハリー達の活躍の話で持ち切りで、彼らと共に魔法省へ行ったアリスも、話をせがまれる事は少なくなかった。
「私は、特に何もしてないわ……ただ、逃げ回っていたばかりで。魔法を使えない私が一番弱いから、死喰人は私から殺そうとしたの」
 決して死喰人側になどついていないと分かるように。決してダンブルドア軍団側として死喰人を捕えようとした訳ではないと主張するように。どちらに聞かれても大丈夫なように、アリスは慎重な答えを返した。
「ごめんなさい。詳しく話せるほど覚えてないわ。逃げ回るので精一杯で。どこをどう走っていたのかすら……」
 次第にアリスから話を聞こうとする生徒は減って行ったが、それでも話題が潰えた訳ではなかった。人が大勢集まる場所に行けば決まって神秘部の戦いの話が耳に入って来たし、それは学年末の宴会の場でも変わらなかった。
(……主役の二人は、いないみたいね)
 ハリーもサラも、グリフィンドールの席に見当たらなかった。もっとも、父親や後見人を喪った彼らに質問の雨を浴びせようなどと言う無慈悲な生徒は、さすがにいないようだが。彼らに仔細を聞く事が出来ないからこそ、他のDAメンバーに野次馬の矛先が向いていると言うのもあった。
「あっ。アリス! ちょうど良かった」
 大広間の入口で立ち尽くしていると、エリが入って来た。
「さっき、マクゴナガル先生に呼び出されてさ。あたし達、また引越しらしいよ。明日は、騎士団の人達が迎えに来てくれるって」
「そう、分かったわ。マクゴナガル先生に呼ばれた用件って、それだけ?」
 当主を失った屋敷から撤退する事も、不死鳥の騎士団が迎えに来る事も、予想の範疇だ。そのためにわざわざ呼び出すとは思えなかった。
「あー……えーと、遺産の話。バックビークが、うちの家族になったよ。でも、実際にはハグリッドに世話をしてもらう。その方が二人とも嬉しいだろうし」
「そうね……。それじゃ、ハリーとサラもまだ先生の所?」
「いや、もう解散したよ。いないの?」
 エリはグリフィンドールのテーブルを見回す。
「まあ、宴会なんて気分にはなれないのかもなあ……。じゃあ、また明日な、アリス」
 エリは軽く手を振ると、ハッフルパフのテーブルへと去って行った。
 ダンブルドアが立ち上がり、大広間が静まり返る。アリスは急いでスリザリンのテーブルへ向かい着席した。
「今年も一年が過ぎた」
 ダンブルドアの声が、大広間に響き渡る。
「今年は実に、変化の大きな一年じゃった。魔法界に危機が迫っているこの大事な時において、一時でも皆の元を離れなければならなかった事については、非常に遺憾に思う。しかし今は過去の事を責める時でなく、現在の事、そしてこれからの事について考える時じゃろう。
 この一年、何が起こっていたのか、何が真実であるのか、気になっている生徒も多い事じゃろう……。わしから申し上げる事は、一つじゃ。そしてそれは、一年前にも、痛ましい知らせと共にこの場で君達に伝えた事じゃ」
 誰も、何も言わなかった。スリザリン生達ですら、押し黙ってダンブルドアの話を聞いていた。
「――ヴォルデモート卿が復活した」
 今年は、ざわめきは起こらなかった。ほんの数日前に、魔法省もその事実を認め、日刊予言者新聞でも報じられたばかりだ。
 今や、闇の帝王復活の話は、事実としてホグワーツ中に広まっていた。
「ヴォルデモート卿が不和と敵対感情を蔓延させる能力に長けておると言う話は、去年もしたじゃろう。彼は早くも、その能力を我々に見せつけてくれたと言う訳じゃ。
 一つ、忠告しておきたい事は、この一年、ヴォルデモート卿の陰謀が渦巻く中で誰が何を信じていたにせよ、過去を責め友を失うような事だけは決してあってはならぬと言う事じゃ。そして、この過ちを胸に留め、不和を招こうとする囁きを鵜呑みにせず、自らの目で見、自らの耳で聞き、自らの頭で考え、真実を見極める事が求められる。
 正しき事から目を背け、易き事を選択した先に待つのは、身の破滅じゃ。そして失われるのは、罪なき人々の命じゃ」
 アリスは、膝の上でぎゅっと拳を握りしめる。
 魔法薬の小瓶は、未だ、アリスの懐にあった。
 何が正しい事なのかなんて、分かっている。目を背けているつもりはない。楽になろうなんてつもりはない。もしアリスが易き事を選択するなら、迷わずこの小瓶をダンブルドアへと渡し、守られる事を望んだだろう。
 魔法を使えるようになる。ヴォルデモートが提示した餌は確かに非常に魅力的なものではあるが、そのために死喰人になろうと思うようなものではなかった。
 ――それならなぜ、いったい何を、私は迷っているの?
「それではそろそろ、今年の寮杯を発表するとしよう――」
 結局、ダンブルドアの口からは、ハリーの話も、サラの話もなかった。神秘部で起こった事は、もう十分に新聞に書かれている。今この場であの二人に注意を向ける事もない。そう思っての事なのかもしれない。
「拍子抜けね。結局、いつものただの説教じゃない」
 斜め前の席に、パンジーが座っていた。ダンブルドアの話に魔法省での戦いの詳細を期待していた生徒は、パンジーだけではないようで、煮え切らない不足感が辺りには蔓延していた。
「せめてアリスがもう少し使える子なら、状況だって分かっただろうし、ドラコもつらい思いをしなくて済んだのに」
 パンジーがちらりと横目でアリスを見る。アリスは申し訳なさそうに肩をすくめた。
「ごめんなさい……。ドラコは?」
 パンジーの隣に座るのは、ドラコではなかった。気が付けば、ドラコの姿が見えない。彼も宴会に出て来ていないらしい。ノットやクラッブ、ゴイルはいるので、父親を逮捕された者同士でボイコットと言う訳でもなさそうだ。
「分からないわ。スリザリンの談話室にいなかったから、先に来たのかと思っていたのだけど……」
 パンジーは心配そうに辺りを見回す。
 アリスは席を立った。
「私、教室に忘れ物をしたからついでに周りを見て来るわ」
 なるべく軽い調子で言い置いて、アリスは大広間を出て行った。





「誰かいるの?」
 声がして、サラは顔を上げた。
 いったいどれほど経っただろう。時計を確認する気も起きなかった。きっともう宴会も始まっている頃だろうが、到底大広間に行く気にはなれなかった。
 空き教室の扉が控えめに開く。扉の隙間から顔をのぞかせたのは、ハリーとルーナだった。
「あ……」
 ハリーは気まずそうに声を上げる。サラは慌てて顔を伏せた。
「ルーナ、先に行っててくれる?」
「うん、わかった」
 二人の声が聞こえる。足音の一つはパタパタと廊下を遠ざかり、もう一つは教室へと入って来た。
 サラは袖で顔を拭い、顔を上げた。
「……ごめんなさい」
「え?」
 ハリーは困惑したように返す。
「あなたが責任を感じているのは分かっていたから、あなたの前では泣かないようにって思っていたのに……」
「……ごめん」
「ハリーのせいじゃないわ。そう言っても、あなたは自分を責めてしまうのだろうけど……だから……」
 言いながらも、声が震えた。
 駄目だ。サラが泣けば、ハリーは更に自分を追い詰めるだろう。責任を感じてしまうだろう。彼を更に苦しめてしまう。分かっているのに、溢れ出る涙を抑える事は出来なかった。
「ごめんなさい……っ」
 サラは再び突っ伏す。足音が近づいて来て、サラの前で止まった。
 ハリーはサラの隣に腰掛けると、慰めるようにサラの肩を抱き寄せた。
「……シ、シリウスに、酷い事を言ったままなの」
「うん」
「父親なんていらないって……シリウスが父親だって知って、無実だったって知って、本当は凄く嬉しかったのに。グリモールド・プレイスで一緒に過ごせるのが、ちゃんとした親子みたいで嬉しかったのに。なのに、私、謝れないままで……っ、酷い事を言ったまま、シリウスは……! それに、お父さんって、一度も呼べなかった……!」
 サラの世界には、「おばあちゃん」しかいなかった。
 ずっと、そうだったのだ。ナミが実の母親だと知っても、「お母さん」なんて呼べなくて。「お父さん」なんていなくて。シリウスと出会っても、「お父さん」と呼ぶのは気恥ずかしくて。
 手紙すらも、何を書いて良いのか分からなくて。どんな風に接すれば良いのか分からなくて。
 時間をかけて、慣れていけばいい。きっとその内、お父さんって呼べるようになる。きっとその内、手紙に書きたい事ができる。きっとその内、普通のお父さんと娘みたいになれる。そう思っていた。
 また今度、謝ればいい。夏にまた会ったら、きっと何だかんだで元のように話すようになる。そう思っていた。
 きっと、その内。
「ごめん……僕のせいだ」
 ぽつりと、ハリーが言った。
「僕が魔法省へ行こうなんて言い出さなければ……閉心術を習得していれば……鏡にだって、気付いていれば……!」
 サラはパッと顔を上げた。苦渋に歪んだハリーの顔が、そこにあった。
 自分を責めて。あの時、ああしていれば。自分があんな事をしなければ。そうやって、自分を追い詰めて。
「……あなたは悪くないわ、ハリー。私だって、あの授業で閉心術を身に着けることはできなかった。魔法省へ向かったのだって、私達も賛同していた。あなた一人が責任を負うような事なんて、何もないのよ……本当に、何も。罠にはまった愚かさを責めるなら、私達全員が愚かだった」
 行き場の無い苦しさを、校長室の道具にぶつけるぐらいしか出来なくて。ただただ自分を責めて、失った事実を受け入れたくなくて、全てを拒絶して押し潰されそうなほどの闇に身を委ねるしかできなくて。
 サラはそっと腕を伸ばし、ハリーを抱き寄せた。ハリーがそうしてくれたように、慰めるように背中を叩く。
「ごめんなさい。あなただって、同じくらいつらいのに……。彼は、あなたにとっても父親だったのに」
 ぎゅ、とハリーの手がサラの腕を強く掴む。痛いほどの力だったが、サラは何も言わずに、肩を震わせているハリーを抱き締め続けた。
 父親の死への悲しみを認識した今、サラとハリーは同じ痛みを抱えていた。





 大広間をずっと離れた城の奥、宴会の喧騒も聞こえない廊下でアリスはドラコを発見した。ドラコの瞳は暗く、じっと一つの扉に注がれていた。
「ドラコ!」
 アリスの声に、ドラコはびくりと肩を揺らして振り返った。酷く沈んだ表情だった。
「ドラコ……どうしたの?」
 ルシウス・マルフォイが投獄されたと知った時でも、蒼褪めはしたものの、落ち込むよりも怒りやライバルに父親が敗れた悔しさの方が強い様子だった。何かあったのだろうか。
 ドラコの答えは淡白だった。
「なんでもない」
 短く一言そう言うと、それ以上の質問を拒否するように足早に大広間の方へと向かう。その後を追おうとして、アリスは教室の中から幽かにすすり泣くような声が聞こえる事に気づいた。ドラコが見つめていた扉の向こうだった。
 ドラコはすでに、角を曲がって行ってしまっていた。アリスはそっと、教室の中をのぞく。そして、全てを理解した。
 教室の中には、抱き合うハリーとサラがいた。離れた二人の頬は、涙に濡れていた。ハリーは眼鏡をはずし、ごしごしと袖口で顔を拭く。サラは涙を拭こうともせず、うつむき立ち尽くしていた。
「……ごめんなさい」
「悲しいのは、お互い様だよ。君が謝る事なんてない」
「違うの。……去年の事」
 サラは顔を上げた。真っ直ぐに、ハリーを見上げる。
「本当にごめんなさい。直前呪文でご両親に出会えた事を嫉妬して、あなたを責め立てるような言い方をして。あなたを酷く傷付けたわ。あの時の私は自分の事ばかりで、あなたの気持ちまで考える事ができなかった」
 ハリーは、二、三度、目を瞬く。それから拭き終えた眼鏡を掛けて、苦笑した。
「いいよ、もう。僕だってふてくされたりして、大人げなかった」
「それじゃ、ずっと様子がおかしかったのは、その事だったの? 言ってくれれば良かったのに」
「言えるはずないよ」
 少し呆れたように笑って、それからハリーはこちらを振り返った。
「アリス」
「え?」
 サラも振り返る。アリスは、大人しく扉の陰から姿を現した。
「えっと……大広間にいなかったみたいだから……。そろそろ、もうデザートかもしれないけど……」
 アリスはおずおずと話す。ハリーは泣いていた事を悟られぬよう、普段通りの様子を取り繕おうとしていた。
 二人の間に、恥じらいやそう言った類のものは見られなかった。抱き合っていたのもきっと、友達として、同じ大切な人を失った者同士として、傷みを分かち合っていたに過ぎないのだろう。
 でも、ドラコは――ハリーを必要以上にライバル視している彼は、きっと、そうは思わない。
「僕はいいよ。明日の片づけがまだ残ってる」
「私も、そうね……」
「そういうかもしれないと思って」
 アリスは、持ってきたバケットを差し出した。中には、大広間のテーブルからこっそりくすねてきたサンドイッチが入っている。
「ありがとう」
「ねえ、アリスの方は、大丈夫?」
「え?」
 自分が言うべきか迷っていた言葉を先にサラに言われ、アリスは思わず尋ね返す。
 サラは頬に涙の痕こそ残っていたが、今や憂いの色はなく、警戒を露わにしていた。
「だって、アリスはスリザリンでしょう? 私達と一緒に、死喰人を捕まえたりして……寮でまたいじめられたりしてない?」
「それは大丈夫。何とか上手くやっているわ」
 アリスはにっこりと微笑んだ。
 ――彼らもだ。
 ハリー、サラ、ドラコ――皆、アリスには弱みを見せようとしない。涙を隠して、強がって。
 皆、アリスを守ろうとする。アリスは年下だから。アリスは魔法を使えないから。戦いの前線に立っても、それが変わる事はなかった。
 サラ・シャノンの妹。
 寮を変えても、結局その立場は変わらない。
 彼らはいつも、前を行く。アリスには背中を向けて。アリスはただ、顔の見えない彼らの後ろ姿を追う事しか出来ないのだ。
 グリフィンドール塔へと帰って行く二人を見送りながら、アリスは言い知れない疎外感に包まれていた。


Back  Next
「 The Blood  第2部 真実の扉開かれて 」 目次へ

2018/09/01