新学期の宴会から一週間が経ち、漸く木曜日になった。サラはハーマイオニーと一緒に、「闇の魔術に対する防衛術」の教室へと急いでいた。
「ハーマイオニーがギリギリまで調べてるから……」
「サラだって、本を沢山借りてたじゃない」
「貴女を待つ間にね。何を調べてたの?」
「屋敷僕妖精の事よ。私、考えてみたの。もう直ぐ出来るわ。貴女には副会長をやって欲しいの。貴女だって、屋敷僕妖精の奴隷労働は理不尽だって言ってたでしょう?」
「ええ、まあ……」
 ハーマイオニーの話に同調するように相槌を打っただけだが、嫌な予感がしてならない。そもそも、「もう直ぐ出来る」とは何の話なのか。
「……断食も暴食も嫌よ」
「そんな事じゃないわ」
 ハーマイオニーは、やけに自信ありげに言った。
 教室の前まで来ると、既に生徒が集まり列になっているのが見えた。その先頭の方にハリーとロンを見つけ、二人はそちらへと駆け寄る。
「私達、今まで――」
「図書館にいた」
 ハリーが、ハーマイオニーの言葉に続けた。
「早く行こう。良い席が無くなっちゃうよ」
 サラ達四人は、そそくさと最前列、真正面の席に並んで座った。教科書を準備し待っていると、やがてムーディが姿を現した。
 教室に入り椅子に座るなり、ムーディは唸るように言った。
「そんな物、しまってしまえ」
 きょとんとする生徒達に、彼は繰り返す。
「教科書だ。そんな物は必要無い」
 サラは、教科書を鞄にしまった。ロンが嬉しそうにしているのが、ありありと伝わってきた。
 生徒全員が教科書をしまい終えたのを確認し、ムーディは出席簿を読み上げ始める。普通の目で名簿を辿りながら、魔法の目はぐるぐると回って生徒一人一人を見つめていた。
 サラの名前が呼ばれ、返事をする。一瞬、普通の目もサラの方を向いた気がした。サラは言い知れない居心地の悪さを感じる。
 出席を取り終えると、ムーディは教室を見渡した。
「このクラスについては、ルーピン先生から手紙を貰っている。お前達は、闇の怪物と対決するための基本をかなり満遍なく学んだようだ――ボガート、レッドキャップ、ヒンキーバンク、グリンデロー、河童、人狼など。そうだな?」
 生徒達はガヤガヤと同意した。
 ムーディは話を続ける。どうやら彼は、一年間しか受け持たないらしい。ロンの事は、先日の事件で知っているらしく、ここで初めて笑顔を見せ皆を安心させた。
 ロンから視線を外し、ムーディは節くれだった手をパンと鳴らした。
「では――すぐ取り掛かる」





No,9





 小さな蜘蛛が教卓の上で踊っている。宙返りをしたり、タップダンスをしたり、その滑稽な様子に生徒達の間からは笑いが起こっていた。
「面白いと思うのか? わしがお前達に同じ事をしたら、喜ぶか?」
 ムーディの一言に、教室中の笑いはぴたりと止んだ。
 サラは笑っていなかった。ただ無表情で、蜘蛛を見つめる。ムーディに言われる前から深刻に受け止めたと言う訳ではない。ただ、特別面白可笑しい情景とも思えなかったのだ。
 サラにとってそれは、見慣れたものだった。小学生の頃に、それとは知らずによく使ってきた魔法。
「完全な支配だ。わしはこいつを、思いのままに出来る。窓から飛び降りさせる事も、水に溺れさす事も、誰かの喉に飛び込ませる事も……」
 便利な魔法だ。特に、飼育小屋の世話には役立った。小屋の外に動物を出しておけば、掃除や餌の取替えがしやすい。この魔法を使って、元通り小屋に帰す事が出来た。
「何年も前になるが、多くの魔法使い達がこの『服従の呪文』に支配された。誰が無理に動かされているのか、誰が自らの意思で動いているのか、それを見分けるのは魔法省にとって難題だった」
 人は動物とは違い、自我が強い。魔法は一気に高度なものとなる事だろう。
 本を読んで、人に対してこの魔法を使用する事が禁じられていると知った。それからは、動物に対しても使用を控えている。
「『服従の呪文』と戦う事は出来る。これからそのやり方を教えていこう。しかし、これには個人の持つ真の力が必要で、誰にも出来る訳ではない。可能な限り、呪文を掛けられぬようにする方が良い。油断大敵!」
 最後の言葉でムーディは突然声を大きくし、サラはびくりと肩を揺らした。
 ムーディは蜘蛛をつまみ上げ、ガラス瓶に戻した。そしてまた、クラス中に問いかける。
 次に答えたのは、驚いた事にネビルだった。ネビルは小さな声で、しかしはっきりと呪文の名を挙げた――磔の呪文。
 ムーディは、それが皆に見えやすいように肥大させた。ロンが、椅子ごと身体を遠ざける。
 蜘蛛は呪文に身を痙攣させ、激しく捩る。実に、滑稽な姿だった。
 若しこの呪文を掛けられている対象が人ならば、サラお得意の首絞めと似たような感じだろう。あれは、ピンポイントで狙った魔法だから良かった。若しもあの頃『磔の呪文』を知っていたら、サラは今ここにはいなかったかも知れない。アズカバンで、早々に父と再会していた事だろう。
「――やめて!」
 突然、ハーマイオニーが叫んだ。
 サラは驚いてハーマイオニーを振り返った。ハーマイオニーが見ているのは、蜘蛛ではなかった。その視線はネビルに向けられ、ネビルは膝の上で拳を握り締めていた。その目は、大きく見開かれている。
 ムーディは杖をそらした。蜘蛛の足が、パタンと机に落ちる。それでもまだ、ひくひくと痙攣していた。
「レデュシオ」
 ムーディが唱え、蜘蛛は元のサイズになった。それを、ムーディは瓶に戻す。
「苦痛」
 ムーディは静かに言った。
「『磔の呪文』が使えれば、拷問に親指締めもナイフも必要ない……これも、かつて盛んに使われた。
よろしい……他の呪文を何か知っている者はいるか?」
 サラの隣で、震える手が挙がった。他に手を挙げた者はいなかった。
 ムーディの目が、ハーマイオニーに向けられる。
「何かね?」
「……『アバダ ケダブラ』」
 ハーマイオニーの声は震えていた。
 サラは、真っ直ぐにムーディと蜘蛛を見つめる。「アバダ ケダブラ」――死の呪文。
 不意に、波の音が聞こえた気がした。
 サラはぎょっと目を見開く。鼓動が高鳴っていた。決して忘れない、誕生日のあの日。崖の上に現れた、二つの影。落ちていく金色の光。
 無自覚の内に、サラは胸元のネックレスを握り締めていた。
 ゆっくりと、ムーディが杖を振り上げる。
「アバダ ケダブラ!」
 ムーディの声。次いで見たのは、眩いばかりの緑色の閃光。そして、轟音。
 次の瞬間、蜘蛛は仰向けにひっくり返っていた。ぴくりとも動かない。
 落ちて行った。何も出来ずに。
 呪文の勢いで、蜘蛛が机の上を滑る。なすがままに。
 ふわりと浮いた身体。崖の向こうへと消えた祖母。
 死んだ蜘蛛は机から床に払い落とされた。
 落ちて行った。死喰人の呪いを受けて。サラを守るために、防御出来ずに。
 ムーディが何か話している。サラは、床の上の蜘蛛を呆然と見つめ続けていた。
 ……祖母と、同じ。
 ――これと同じ事を、私はしようとした。
 祖母を殺した死喰人は、絶対に許さない。確実にしとめるつもりだった。ワールドカップの晩のキャンプ場。サラも、彼も、何の躊躇いもなくこの呪文を使おうとした。
「油断大敵!」
 突然大声がして、サラはハッと我に返った。
 ムーディが、クラスに向かって話していた。
「さて……この三つの呪文だが――『アバダ ケダブラ』、『服従の呪文』、『磔の呪文』――これらは『許されざる呪文』と呼ばれる。同類であるヒトに対してこの内どれか一つの呪いをかけるだけで、アズカバンで終身刑を受けるに値する。お前達が立ち向かうのは、そう言うものなのだ。そう言うものに対しての戦い方を、わしはお前達に教えなければならない。備えが必要だ。武装が必要だ。しかし、何よりもまず、常に、絶えず、警戒する事の訓練が必要だ。
羽ペンを出せ……これを書き取れ……」
 その後は、ただひたすらノートを取るだけだった。
 サラは手を動かしながらも何処か上の空で、気が付けば手も止まり床の上の蜘蛛を見つめていた。





 授業が終わった途端、教室はワッと沸きかえった。
 呪文を恐ろしそうに、けれど何処か楽しみながら、興奮した様子でぺちゃくちゃと喋る。まるで、面白いホラー映画でも見た後のようだ。
 サラは羽ペンや羊皮紙を鞄にしまい、机の前に視線を落とす。蜘蛛はまだ、そこに転がっていた。
「早く」
 ハーマイオニーに急かされ、サラは蜘蛛から視線を外す。ハーマイオニー、ハリー、ロンの後に続き、教室を出て行った。
 ロンがうんざりしたようにハーマイオニーを見る。
「まーた図書館って奴じゃないだろうな?」
「違う。ネビルよ」
 ハーマイオニーが示す先には、ネビルが一人で佇んでいた。『磔の呪文』を見たときと同じように目を見開き、何もない石壁を見つめている。
「ネビル?」
 ハーマイオニーが、そっと声を掛けた。
「やあ」
 振り返ったネビルの声は、いつもより上ずっていた。
「面白い授業だったよね? 夕食の出し物は何かな。僕――僕、お腹ペコペコだ。君達は?」
「ネビル、貴方、大丈夫?」
「ああ、うん。大丈夫だよ。とっても面白い夕食――じゃないや、授業だった。夕食の食い物は何だろう?」
 やはり何処かおかしい。
 ロンがハリーを振り返る。
「ネビルは一体――?」
 サラは後ろを振り返っていた。足音に気づき、ハリー達も振り返る。ムーディが、足を引きずりりながらこちらへ歩いて来ていた。
 五人は緊張してムーディを見つめていたが、ムーディの声は存外に優しいものだった。
「大丈夫だぞ、坊主。わしの部屋に来るか? おいで……茶でも飲もう……」
 気遣いとも思われるその言葉は、返ってネビルを怖がらせたように見えた。
 ムーディはサラを見る。
「シャノンも、大丈夫か?」
「大丈夫です。……お気遣いなく」
 どうにも、突き放すような言い方になってしまう。
 彼に言われた言葉が、再びサラの脳裏に蘇っていた。
『知っているのか? そやつの父親が何をしたのか――』
 サラは、ぎゅっとネックレスを握り締める。
 ムーディはサラをじっと見つめていたが、ハリーへと視線を動かした。
「お前は大丈夫だな? ポッター」
「はい」
 また少し、間があった。そして、ムーディは言った。
「知らねばならん。惨いかも知れん、多分な。しかし、お前達は知らねばならん。知らぬふりをしてどうなるものでもない……。
さあ、おいで……ロングボトム。お前が興味を持ちそうな本が何冊かある」
 ネビルは救いを求めるような目をサラ達に向けたが、誰も何も言わなかった。ムーディの手を肩に乗せられ、ネビルは観念したようについて行った。
「ありゃ、一体どうしたんだ?」
 ムーディとネビルが角を曲がると同時に、ロンが言った。
「わからないわ」
 答えたのはハーマイオニーだ。
 四人は、大広間へと歩き出した。
「だけど、大した授業だったよな、な? フレッドとジョージの言った通りだった。ね? あのムーディって、本当に、決めてくれるよな? 『アバダ ケダブラ』をやった時なんか、あの蜘蛛、コロッと死んだ。あっと言う間におさらばだ――」
 ロンは急に黙り込んだ。
 四人とも重苦しく口を閉ざしたまま、大広間まで歩いて行った。大広間の喧騒の中に紛れ込んで、漸くハリーが口を開いた。
「トレローニーの宿題さ、今夜にもやっちゃった方がいいと思うんだ」
「ンー……ああ、そうだろうな」
 ロンが、頷いた。
 それから、ハリーとロンは再び話し始めた。ハーマイオニーは会話に加わらず、ここ最近毎度ながらの速さで食事を掻き込み、図書館へと去って行った。
 サラはその隣で、ハーマイオニーとは対照的になかなか食事が進まずにいた。のろのろと少量を食べ、ハリーとロンに並んでグリフィンドール塔へと向かった。
 談話室へと入り、ハリーが言った。
「それじゃ、『占い学』の奴、持って来ようか?」
「それっきゃねえか。じゃ、またこの辺で――」
 ロンは言いながら、サラを振り返った。
 サラは無表情で、言った。
「……私、今日はもう寝るわ。宿題は後にする……おやすみなさい」
 静かに言って、サラは女子寮への階段を上って行った。
 螺旋状の階段を上って行き寝室へと辿り着くと、サラは自分のベッドへと倒れこんだ。ハーマイオニーは戻って来ておらず、ラベンダーとパーバティもいない。
 靴を足で脱ぎ捨て、そのまま枕まで這いずって行く。ぼすんと枕に顔を埋めた。
 ――おばあちゃんの仇なのよ。
 躊躇う価値なんてない。殺らねばならない。仇をとらなくてはならない。
 ここへ来て、今更躊躇うなんて馬鹿げている。
 祖母の仇なのだ。殺す呪文。それによってアズカバン行きになるくらい、何て事ない。ずっと、ずっと心に決めていたのだ。祖母を殺した死喰人が逃げおおせたと知った、あの日から。必ず仇をとる。ずっと、それを思い続けてきた。
 だから、スリザリンを拒んだ。だから、エリと戦ってまで死喰人の群れを目指した。だから、『アバダ ケダブラ』を唱えようとした。
 一度は使おうとした、その呪文。――なのに。
 思い出してしまった。祖母が死んだあの情景――あの呪文を再び見て、サラの決意は大きく揺らいでしまっていた。
 ほんの一瞬が、永遠の時間のように感じられたあの瞬間。緑の閃光、低い轟音。あれを、また見なくてはならない。己の手で行わなくてはならない。
 祖母を殺した、あの情景を。
 ――おばあちゃん……。

 どれくらい経っただろう。ラベンダーとパーバティが戻り、やがてハーマイオニーも寝室へと帰って来た。サラは枕に突っ伏したまま、びくともしなかった。
 ごそごそとパジャマに着替え終え、ハーマイオニーはサラのベッドの横に立った。
「……サラ? 起きてる?」
「……」
 サラは、のそのそと顔を上げる。
 ハーマイオニーはラベンダーとパーバティの方を警戒するように一瞥し、サラの顔の横にしゃがみ込んだ。
「さっきね、ハリーの所にシリウスからの手紙が届いたの。――どうやら、こっちへ戻って来るみたい」
 ハーマイオニーは、サラの反応を伺うようにじっと見つめた。サラは、「そう」と短く答えただけだった。
「サラ――あの――大丈夫?」
「ええ」
 放心状態で、サラは頷いた。
 ハーマイオニーはどうして、こんなに心配気な顔をしているのだろう?
「ハリーは憤慨してたわ。自分が手紙を送ったから、シリウスが戻って来る――また捕まったらどうしようって。『何でもなかった』なんて嘘まで吐いて」
「……」
「サラ、本当に大丈夫?」
 今度は無言で、頷いた。
 ――大丈夫……きっと、その時になれば躊躇わない。
 仇を目の前にすれば。
 そして、憎しみで心を満たせば良い。他の事なんて考えなければ良い。
 そうすればきっと、今まで通り躊躇わずに出来るはずだ。
「大丈夫よ」
 今度は、はっきりと言った。
「一度来るって言ったなら、私達が何を言ったってあの人は来るでしょうね。私達に出来る事なんて無いわ」
「……そうね」
 ハーマイオニーは頷いた。サラがはっきりと言葉を発した事に、ホッとしている様子だった。
「おやすみ、サラ」
「おやすみなさい」
 ハーマイオニーはベッドに入り、カーテンを閉める。
 サラもパジャマに着替え、再び布団に潜り込んだ。
 ――大丈夫、きっと。その時になれば、迷ったりなんてしない。


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2010/08/16