磨き上げられた調度品。床には、ふかふかの絨毯。壁沿いに並ぶは、歴代当主たちの肖像画。
 肖像画たちの視線はどれも厳しく、彼らの話す言葉は幼い彼には難しかった。広い廊下を、彼は肖像画たちの視線から逃れるようにパタパタと駆けていく。
 応接間の前まで来て、彼はぴたりと足を止めた。部屋の中からは、幽かに話し声が聴こえてくる。彼の両親と、それからお客さん。
 大事な話をしている大人たちの邪魔をしてはいけない。そろり、そろりと足を忍ばせて、彼は応接間の前を通り過ぎる。
 広い屋敷を、奥へ、奥へ。窓のない廊下は仄暗く、未知の世界を想起させて彼の胸を高鳴らせた。幼い彼にとってこの広い屋敷はまだ知らない部屋も多く、毎日が冒険だった。
 ふと、彼は廊下の向こうの扉に目を留めた。他の部屋と同じ、何の変哲もない扉。しかし彼は、妙にその部屋が気になって仕方がなかった。
 扉に鍵はかかっていなかった。そっと扉を押し開く。中は、物置のようだった。見たことのない魔法道具が雑多に置かれている。
 様子を伺うように、廊下を振り返る。誰もいない。応接間からここまでは遠く、話し声も聞こえない。この廊下には肖像画もない。誰も、見ていない。
 彼はするりと部屋の中に忍び込んだ。ちょっとだけ。少し、見るだけ。自分の家なのだ。それぐらいは、許されるはずだ。
 好奇心と怯えがせめぎ合う中、彼は部屋を見て回る。何に使うのかよくわからない物ばかりだった。謎の小さな三角柱、大きな棺桶のような物、ガラスケースに入れられた花のような何か、光も無いのに輝く金貨の山、大きな宝石がはめ込まれたネックレス。どれもどこか禍々しく、普通の店で買うことはできないだろうことは、幼い彼でも容易にわかった。
 いかにも闇の魔術がかけられているであろう品が並ぶ中、それはぽつんと奥の棚に一冊だけしまわれていた。
 黒い表紙の一冊の日記。表紙に刻まれた古い日付は、かろうじて読み取れるような状態だった。
 彼はもう一度背後を振り返り、日記に視線を戻す。ドキドキと心臓が高鳴る。恐る恐る手を伸ばし、ちょん、と触れてすぐに手を引っ込めた。
 ……何も、起きない。
「何だ、ただの日記か」
 彼は強がるような高慢な口調で言って、日記を手に取った。
 誰の日記だろう。父親のものか、あるいは祖父や、もっと昔の先祖の物か。
 おもむろに開いたページには、何も書かれていなかった。表紙とは対照的に、真っ白なページ。次のページも、その次のページも、結局最後まで、文字の書かれたページはなかった。
 ガサ、と物音がして、彼は飛び上がった。その表紙に取り落とした日記が、埃をかぶった床の上に落ちる。
 なんでちゃんと掃除をしていないんだ。屋敷僕妖精がサボってるって、父上に言いつけてやらなきゃ。
 慌てて拾い上げた日記のページは、何ら汚れていなかった。
 ――これは、何かあるぞ。
 彼は、廊下に誰もいないのを慎重に確認すると、そっとその部屋を出た。日記を、上着の内側に忍ばせたまま。
 足早に自分の部屋へと戻り、日記を広げる。明るい部屋で見ても、やはり真っ白だ。こんなに昔の日付なのに。
 羽ペンを取り出し、ぽたりとインクを垂らす。インクはすぅっと日記の中に吸い込まれるようにして消えていった。
 そして、文字が浮かび上がってきた。
『こんにちは。君は、誰ですか?』
 鼓動が高鳴る。面白いおもちゃを見つけたぞ。
 彼は、意気揚々と羽ペンを走らせた。
「僕はドラコ・マルフォイ。君は?」





No.1





 イギリス、ウィルトシャー州。高い生垣に囲まれた屋敷の庭に、一人の少年が佇んでいた。ラッパのような声で鳴きながら擦り寄ってくる孔雀を、彼はしっしっと追い払う。
「やめろ、僕は父上じゃない」
 彼の腕に死喰人の紋章が刻まれたのは、ほんの数日前の事。死喰人と言えば闇の帝王の腹心の部下。魔法界では恐るるにたる存在だが、そんな事は、孔雀にはわかりようがなかった。
 空気の割れるような音に、ドラコは振り返った。
 馬車道の先、鍛鉄の門をすり抜けるようにして、女性と少年が現れた。ドラコは、二人の方へと駆け寄る。
「お帰りなさい、母上。ようこそ、ノット」
「……世話になる」
 セオドール・ノットは、短く控えめに答えた。
「ドラコ、部屋に案内してあげて」
「はい。ノット、こっちだ」
 ドラコは威高々に言って、背を向けて歩き出す。セオドールは無言で、トランクを引きドラコの後に続いた。
「いつもみたいに煙突飛行を使えば僕も迎えに行けたんだけど、あれ以来、煙突飛行ネットワークは監視されているから。ただ友達を家に呼ぶってだけなのに、一々出入りを誰かに見られるなんて、虫酸が走るね」
「……ああ、うちもだよ」
「それじゃあ、関係者の家全部って訳だ。ご苦労な事だね」
 ドラコはフンと不満げに鼻を鳴らす。
 いつもピカピカに磨き上げられていた屋敷は、今や、所々うっすらと埃が積もっていた。マルフォイ家に仕えていた屋敷僕妖精は、三年前に、憎っくきハリー・ポッターの企みによって解放されてしまった。その後も魔法で清潔さを保っていたが、ルシウスがアズカバンに投獄され、ナルシッサも最近は心労が溜まっている様子で、効力の切れかけた呪文を掛け直すどころではない。
「休みの間は、どうしてた?」
 階段を上り、角を曲がりながらドラコは尋ねる。
「これと言って面白い話はないな。毎日送られてくるふくろう便を爆発する前に焼却処分して、ご飯を食べて、寝て……ただそれだけだ」
 セオドールは淡々と答える。
 ドラコは何と返して良いか分からなかった。死喰人である父親を糾弾するふくろう便は、マルフォイ家にも届いていた。世間からは人殺しと詰られ、死喰人からも大失態を犯した恥さらしと鼻つまみ者にされ。当のルシウスは遠く離れたアズカバンに放り込まれ、今どうしているのか、まだ正気を保っているのかも分からない。
 ノット家とほとんど同じ状況であるが、セオドールの家は、母親がいない。厳しい風当たりを一人で受けるのは、どんなに辛い事だったろう。
「ここだ」
 客用の寝室に辿り着き、ドラコはセオドールを中に案内する。部屋の中には天蓋付きベッドが一つ、机と椅子が一組、壁沿いにはキャビネットが一つ。キャビネットの横にトランクを置きながら、セオドールは室内を見回す。
「相変わらず広いな」
「そうか? スリザリンの寝室も同じくらいだろう」
「あれは五人部屋じゃないか」
「まあ、初めて寮の寝室に入った時は狭さに驚いたな」
「そんな感想を抱いたのは君ぐらいだろうな。スリザリンって、他の寮と比べても広いらしいぞ。代々の寄付やら何やらで」
「他の寮の連中は、鶏小屋にでも住んでいるのか? よくウィーズリー以外の生徒たちが我慢出来るな」
 フッとセオドールは微笑う。
 ドラコは怪訝に思い、眉を上げる。セオドールの笑みは、ウィーズリー家に対する嘲りとはまた違う種のものに見えた。
「何だ?」
「いや……安心したよ。相変わらずのようで」
「僕が、父上の事でめそめそ泣いているとでも思っていたのか? ポッターに負かされたままでいるとでも? 奴らには、今に思い知らせてやるさ。ポッターも、ダンブルドアも、このままにしておくものか。……今の僕には、それだけの力がある」
 ドラコは十分に間を置き、意味ありげに片頬を上げて言った。
 セオドールは目を丸くするでもなく、茶化すでもなく、真剣な瞳でドラコを見つめていた。
「……それじゃあ、本当なんだな? 闇の帝王が? 君を?」
「極秘任務のはずなのに、ずいぶんと広まっているんだな」
 言いながらも、ドラコは得意げだった。
 闇の帝王直々に、ドラコに任務を与えた。それにドラコは、恐らく史上最年少の死喰人だ。この年で重大な任務を与えられるチャンスを得た魔法使いなんて、例が無い事だろう。
 ドラコは今や、蚊帳の外にされるべき対象の子供ではない。大人たちと同じ土俵に立つ、立派な闇の魔法使いの一人なのだ。
 しかし、セオドールの反応はどう言う事だろう。驚くでもなく、疑うでもなく、しかし話を信じるからと言って敬う様子もない。
「どんな任務かまでは聞いていない。……でも、どう言う結果になりそうなものかは、予想がつく」
 ドラコはムッとセオドールを睨む。彼の言い方は、まるでドラコが失敗するのが目に見えているとでも言いたげだった。
「どう言う意味だ?」
「冷静になれ、ドラコ。今の状況を鑑みれば、闇の帝王がどう言う意図で君に任務を与えたのか、解るだろう」
「母上から聞いたのか」
 ドラコはため息を吐く。
「母上は心配性なんだ。何歳になっても、僕の事を子供だと思っている。僕だってもう、子供じゃない。もう十六だ。来年には成人なんだ。与えられた任務くらい、きちんとこなして見せる」
「サラ・シャノンの事はいいのか?」
 予期しなかった名前に、ドラコは言葉を詰まらせた。
 セオドールは畳み掛けるように続ける。
「彼女は死喰人を憎んでいるだろう。彼女の祖母は、死喰人に殺された」
「……どうして今更、彼女を気にする必要がある? 知らないなら教えてやるけど、僕らの父上を捕らえたその場に、彼女もいたんだ」
 サラとドラコは、恋仲にあった。でも、それはもう一年以上前の事だ。
 サラの祖母を殺害したのは、ルシウス・マルフォイだった。
 マルフォイ家に保管されていた、トム・リドルの日記。かつての闇の帝王の日記に、そうとは知らずに幼いドラコは書き込んだ。そして、彼に身体を乗っ取られた。
 己の腹心が主を探しもせずのうのうと平穏な生活をしている事に、彼は腹を立てていた。忠誠の印に魔法使いを殺め闇の印を上げるよう迫られていたルシウスは、不幸にも遭遇したかつての不死鳥の騎士団のメンバー、リサ・シャノンに手をかけた――
 祖母の仇がルシウスだと知ったサラは、ルシウス、そしてドラコを憎んでいる。一連の事件にリドルの日記が絡んでいた事も、ドラコが書き込む前に誰かが日記に力を注いでいたと思われる事も、知らずに。
 更には、神秘部の戦いで、サラの父親であるシリウス・ブラックが命を落としたらしい。――神秘部の罠は、ナルシッサがクリーチャーを使って一枚噛んでいた。
「所詮、彼女は生き残った女の子。ポッターと同じグリフィンドールだ。僕らとは相容れない」
「彼女と話した事は数えるほどしかないけれど、他のグリフンドールとは違う気がしたけどな」
 ぽつりと呟くようにセオドールは言った。
 ドラコは苛立ちを隠すように、からかうような声色で言った。
「やけに彼女の事を気にするじゃないか」
「別に、そんなんじゃない。僕は、君を心配して言っているんだ」
 セオドールの表情が僅かに動く。心外だとでも言いたげな様子だった。
「クラッブやゴイルじゃ、こう言う忠告は期待できないだろう。それなら、僕が言うべきだろうから。
 ――闇の帝王を見くびるな。半端な迷いを抱いたままだと、無事では済まないぞ」
 迷っている?
 誰が? ――僕が?
 ドラコはふいと背を向ける。そして、荒々しく部屋を出て行った。


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2019/06/05