麻理亜は、二人の男の横を通り過ぎた。
二人は振り返らず、気づいた素振りさえ見せない。麻理亜の姿が見えていないのだ。麻理亜は魔法を使い、姿を透明にしていた。
――行けるわ。
麻理亜は口の端を上げて笑う。
麻理亜には、魔法という武器がある。マグルなどに負けるものか。
No.11
順調だった。誰に見つかる事も無く、麻理亜は建物の中を闊歩する。ガス室は、地下の奥――最初にここへ来た時、ジンがそう説明してくれた。
奥まで歩き、麻理亜は階段を降りて行く。
階段の先には、冷たい扉があった。くすんだ白色の、重々しい扉。麻理亜は固唾を呑み、杖を取っ手に当てる。鍵は、かかっていない。そのまま手では触れずに、そっと扉を押し開いた。
薄暗い廊下だった。ホグワーツの地下牢教室の辺りを彷彿とさせる。ただホグワーツとは違って、廊下は狭く、そしてホグワーツのような親しみは一切沸かなかった。
廊下には誰もいない。扉には、麻理亜の視線より少し高い位置に、看守が覗く為の小さな窓が取り付けられていた。
一つ、傍の窓を覗いてみたが、中には誰もいなかった。今全てを覗いている時間は無いが、他の牢も同じなのかも知れない。だから今、見張りが誰もいないのかも知れない。
突き当たりの扉を開く。直ぐにまた、今度は横滑り式の扉があった。扉の前には四角い機械が置かれている――指紋か、カードか。何にせよ、麻理亜には開けられない。機械のプログラムを弄ろうにも、マグルの機会に対してそこまでの知識は持っていない。
そっと扉に耳を押し当てる。何も音は聞こえない。人の気配は無い。殺気も、組織の者の臭いもしない。あるのは、死体そのものの臭い。被害者の血の臭い。
「……アフリアート」
ひそひそと呪文を唱える。辺りに耳塞ぎ呪文を施し、麻理亜はその場から姿くらましした。
直後、麻理亜は扉の向こう側に姿を現した。同時に素早く杖を振る。バンと大きく弾けるような音は、響き渡る前に遮られた。
息を潜め、辺りを見回す。
同じように、薄暗い廊下だった。照明を必要最低限に絞っているのだ。暗さも狭さも先程の廊下と同様だが、壁にある扉の数は減っていた。その内の一つ、やけに頑丈な扉の前に麻理亜は歩み寄った。ぴったりと閉ざされた扉。決して、中の空気が外へ漏れる事は無いだろう。
――ここか……。
麻理亜は唇をキュッと結ぶ。
ガス室に入れられる事になった。そう、ジンは言った。志保はここにいるのだ。否、人の気配が無いから、これから連れて来られるのかも知れない。
突如、ガス室の扉が開いた。流れ出てきた臭いに、麻理亜はうっと息を詰める。
ガス室に何かが積み重なっているのが見えたが、確認する気にはなれなかった。鼻と口を手で覆い、ふらふらと後退する。
背中が壁に当たった。瞬時に、銃声が響いた。壁にぶつかり音を立てた丁度その位置に、銃弾は直撃する。
「う……」
呻き、麻理亜は蹲る。弾の当たった衝撃にしては、この切り裂くような痛みは何か。庇うように腕を押さえる。その手に、ぬるりとした感触が触れた。
――え……?
ポタリ、鮮やかな鮮血が灰色の廊下の上に落ちる。魔法の範囲を超えた血液は、麻理亜の居場所をはっきりと敵に告げた。
続けざまに響く銃声。やがて辺りが静かになった時、魔法の効果は切れ、血染めになった麻理亜の姿はジンとウォッカの眼前に晒されていた。
「無様だな、ストレガ――これなら効くとは、本当に化け物みたいな女だ」
ジンは冷たい瞳で麻理亜を見下ろしていた。
息遣い荒く、麻理亜はその瞳を睨み返す。どうして――麻理亜には、銃弾は効かない筈なのに。
麻理亜が杖腕を動かそうとした途端、銃声が響いた。
麻理亜は衝撃に目を見開く。何百年と言う間、ずっと使い続けて来た杖。気がついたときから手にしていた杖。相棒とも言えるそれは、粉砕し真っ二つになっていた。
カチャリ、と頭上で音がする。
「馬鹿な女だ……自ら罠に飛び込んで来るとはな……。お前ほどの女なら、気づいていただろうに」
「志保……は……?」
「安心しろ、直ぐにお前の後を追わせてやるさ。今はまだ牢で待っている所だ。この通り、ガス室はお前を怯ませる為に惨殺死体を積んでいたからな。――お前が弱っている事に、気づいていないとでも思ったか?」
「……」
麻理亜はただ、俯いていた。
ガス室に詰まれた死体の山。組織ならば、これを用意する事ぐらい躊躇しない。死体となったあの者達は、どういった者達なのだろう。麻理亜を怯ませる為だけに、殺されてしまったのだろうか。そうだとしたら――
俯いた後頭部に、銃口が当たる。
「終わりだ、ストレガ」
血飛沫が舞う。
ジンの瞳に、動揺の色が現れた。麻理亜はただ拳を握り締め、痛みに耐える。
「し、死なないだと……兄貴、一体……!?」
ウォッカが狼狽した声を上げる。
ジンは答えなかった。ただ無言で、次の銃弾を打ち込む。
ウォッカは口を閉ざした。ジンは何も言わず、麻理亜も身動き一つせず、ただ銃声だけが連続する。
狂気の静寂の後、ジンは拳銃を降ろし呟いた。
「効果はあっても、致命傷とはいかないか……。
ウォッカ、運べ」
麻理亜は、自分の体が担ぎ上げられるのを感じた。成す術も無く、何処かへと運ばれて行く。
間も無く、麻理亜は硬い床へと投げ捨てられた。何か、薬を取り出すような音が聞こえる。
「兄貴、それ……」
「ああ、あいつの作っていた薬だ……姉の親友への止めには、丁度良いだろ……」
朦朧とした意識の中、何かが麻理亜の口に入れられた。続けて水を流し込まれ、口の中の異物は喉の奥へと流れて行く。
二人の黒い影は麻理亜の視界から去る。鍵を掛けられた音は、麻理亜の耳には届いていなかった。ぎゅっと胸の辺りを鷲掴みにする。心臓が激しく波打っていた。毒物を飲まされた事は明白だ。体中が熱い。骨の溶けるような痛みが全身を襲う。
迸る悲鳴を最後に、麻理亜の手は力無く床に落ちた。
ジンから告げられた報せに、志保は言葉を失った。
――麻理亜は、志保を助けようとした。裏切り者として、始末した。
志保はふっと笑みを漏らす。
「嘘ね。彼女、有名じゃない。拳銃も、刃物も効かないって……それが本当なら、貴方達に殺せる筈が無いわ」
「お前の作った薬さ、シェリー」
「……っ」
俯く志保を残し、ジンとウォッカは牢を出て行った。
もう直ぐだ――もう直ぐ、志保は殺されてしまう。姉や麻理亜の所へ行くのだ。
――結局、お姉ちゃんの仇は取れなかったな……。
組織に殺されてしまった姉。麻理亜が一枚噛んでいるものと思っていたが、その予想は外れていた。麻理亜もまた、明美の復讐を誓って組織へと潜入していたのだ。否、彼女の事だ。復讐とは違うかも知れない。
馬鹿な麻理亜。志保を助けようとなんてしなければ、殺される事も無かったろうに。明美の殺害について、調べ続けていられただろうに。
壁に繋がれた片腕からは血の気が無くなり、感覚が無くなって来ていた。志保は、もう一方の手で懐を探る。その指先に触れたのは、志保が研究に携わっていた薬の試薬品。一匹を除き、全てのモルモットが死亡している。
赤と白のカプセルに入ったそれを、志保は生気の無い瞳で見つめる。
どうせもう、死んでしまうのだ。ならば最後だけでも、組織の思惑からは外れたい。
志保はそれを飲み込んだ。
途端に、激しい動悸が志保を襲う。全身が熱く燃え滾り、苦痛に顔を歪ませる。――こんな苦しい毒物を、麻理亜は飲まされてしまったのか。
やがて、突然に苦しみは終わった。身体の熱ももう無い。志保は冷たい床に倒れ、牢の中を見つめていた。
「生き……て……る……?」
掠れた声で呟く。発した声は、いつもよりやや高めに聞こえた。
頭を抑え、起き上がる。そして気がついた。繋がれていた右腕が、手枷から外れている。壁に宙吊りになったそれを振り返るが、鍵が壊れた様子も無い。
外れた右手は、やけに丸みを帯びて見えた。
――え……?
手を見下ろしたと同時に、自分の身体も視界に入った。だぼだぼになってしまった服。これは一体、どういう事か。
……その判断に至るのに、そう時間は要らなかった。
実験の中、一匹だけ生き残ったモルモット。そのモルモットは、幼児化していたのだから。続けて、あの新聞に写っていた少年がどう言う事なのかも見当がついた。工藤新一の家から無くなっていた服と同じ物を着た少年。明美が言っていた、頭が切れると言う話。
皮肉なものだ。この毒薬を作ってしまった志保が、生き残るだなんて。
生き残った人間の例は、彼のみだった。通常ならば、彼も志保も死んでいた筈なのだ。
自嘲めいた笑みを浮かべる。
その時、何かが破裂したような大きな音が辺りに響いた。
志保は目をパチクリさせる。目の前に降り立った小さな女の子――髪は黒く染められていたが、その愛らしい顔立ちと赤みの強い瞳。
「麻理亜……?」
「お久しぶり、志保……よね?」
麻理亜は明るく言って笑う。今の志保には、眩しい程の笑顔だった。
どうして彼女は笑えるのだろう。志保の所為で、彼女もこんな目に遭ってしまったと言うのに。
でも――
「……良かったわ……無事だったのね」
麻理亜は目を瞬き、それからまた笑った。
魔法使いのような黒いローブをたくし上げ、長過ぎるその裾を括る。
「兎に角、早くここを出なくっちゃね。――志保」
差し出されたその手を、思わず志保は取った。
突然、周囲が歪む。くすんだ色の渦の中を、志保は何処かへと引っ張られて行っていた。
やがて、生暖かい風の吹く中に二人は降り立った。志保は、目をパチクリさせて辺りを見回す。何が起こったのか解らなかった。ここは、何処かの建物の裏側のようだ。ついさっきまで、牢の中にいたと言うのに。
「麻理亜……一体……」
「しっ」
麻理亜は人差し指を口に当て、少し先を示す。それから志保の手を引き、傍の茂みに駆け込んだ。
幽かに話し声が聞こえる。組織の者の匂い。彼らは志保達に気づく事無く、遠ざかって行った。
「……姿現しよ」
「え?」
「瞬間移動みたいなものよ。敷地内からは出たわ。直ぐここを離れた方が良いと思う。きっと、私達がいなくなった事に彼らも気づくわ」
歩き出す麻理亜の横顔は、真っ青だった。薬の影響が残っているのだろうか……。
志保はぎゅ、と両の拳を握り締め、俯く。
「ごめんなさい……」
麻理亜はきょとんと振り返る。
「その姿――貴女も、例の薬を飲まされたのでしょう?」
「姿って……」
「気づいてないの?」
志保は麻理亜の横に並ぶ。殆ど同じ――寧ろ、麻理亜の方が背丈が低い事に、麻理亜は息を呑む。
麻理亜は、見目明らかに動揺していた。
「私の姿が幼くなっている事には、気づいているでしょう? 私も飲んだのよ。同じ薬を……」
「私も小さくなってる……って、事? あの薬は、毒薬じゃなかったの?」
「毒薬……に、なってしまっていたわね。だけど、あの薬を試したモルモットの中で、一匹だけ死なずに幼児化した物があったの……。そしてもう一人、これを投与された人間も恐らく死なずに幼児化した者がいるわ……」
言って、志保は麻理亜に目を向ける。
「……それ程驚かないのね、貴女」
「似たような薬を知っているのよ……ここでも作れるとは思っていなかったけれど」
「似たような薬?」
「それよりも、もう一人幼児化した人間って? 同じように、あの薬を飲まされた人がいるの? 『恐らく』って――」
志保は頷く。
「組織の実験用の人物じゃないわ。恐らくジンは、彼を殺すつもりであの薬を使用した――幼児化なんて信じられないような事が起こるなんて、思いもしなかったでしょうね。だから、貴女に対してもまた使ったんじゃないかしら……」
志保はそっと下唇を噛む。
志保を助けようとしたから、麻理亜は捕まった。志保の作った薬で、麻理亜はこんな姿になってしまった。
――全て、私がいた所為。
不意に、麻理亜が志保の腕を引いた。そして、志保も気づく。――組織の者が、近づいて来ている。
――裏切り者。
志保は、組織を裏切った。彼らは――彼はきっと、執拗に志保を追う事だろう。
「振り向かないで!」
麻理亜の鋭い声が、志保を止まらせた。
振り返っている場合ではないのだ。逃げなくてはいけない。見つかる訳にはいかない。
辺りに店や住宅が増えて来た。息を切らして、二人は角を曲がる。麻理亜に引っ張られるようにしてしゃがみ込み、通りの様子を伺う。組織の者と思われる二人組は、辺りをきょろきょろと見回しながら通りをこちらへ歩いて来る。
志保は麻理亜に引き戻された。そして麻理亜は、通りに背を向けるようにして志保の頭を抱きかかえる。
足音は、麻理亜の背後で止まった。
「おい」
動こうとする志保を、麻理亜は強く抱きしめる。
「そこで何をしている?」
「愛ちゃんがね、痛い痛いって。先生が来るのを待ってるの」
麻理亜は舌っ足らずな口調で話す。志保の顔と髪を隠そうと、尚更強く抱きしめていた。
「こっちに、女が二人来なかったか? 魔女みたいな格好をした白髪の――その服……」
男の言葉が途切れる。志保はぎゅっと麻理亜の服を握った。――気づかれたか。
鼓動はあまりにも早く、息が詰まりそうだ。震える志保を宥めるように抱きしめる麻理亜の腕も、やや硬い。
「貰ったの。お姉ちゃん、あっちに行ったよ。先生迎えに行ってくれるって」
「学芸会か」
麻理亜の声はしなかった。ただ、僅かに肩が揺れ、頷いたのだと分かる。
「ジン、俺だ。――目標の服を見つけた。あの目立つ服は着替えたらしいな……」
話し声は、志保達の傍から離れて行った。
足音も聞こえなくなって暫くして、麻理亜は恐る恐る志保を放した。麻理亜から身を起こし、志保は厳しい口調で言う。
「声を掛けられる前に逃げるって判断は思いつかなかったの?」
「今の私達の身体で、逃げ切れると思う?」
「それは……。でも、貴女、顔を見られたわよ」
「構わないわ。貴女は分かったみたいだけど、小さくなったなんて普通誰にも思いつきはしないわよ。それに、貴女は幼い頃の姿も知られているだろうけど、私の幼い頃を知る者はいないしね」
「組織なら、貴女の幼少期を調べるくらい造作も無いと思うわよ」
「無理よ。組織のデータにも、貴女以外の人の記憶にも、私の本名さえ残っていないのだから」
それに、と麻理亜は続ける。
「私の幼少期なんて、私自身が知りたいくらいだわ……」
ぽつり。落ちてきた雫は、地面を小さく丸く濡らした。
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Different World
第3部
黒の世界
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2010/04/29