日は完全に沈み、闇が町を包み込む。昼間に降り出した雨は強さを猶増し、二人の身体から体温を奪って行く。サイズの合わない靴はとうに脱ぎ捨て、そこらに捨てても危険なので橋の上から川に向かって並べて来た。服も引きずってしまっているが、流石にこちらは脱ぐ訳にもいかない。
 駆ける麻理亜の横で、志保は白衣の丈にけつまずき転倒する。麻理亜は急ブレーキをかけ、志保の所に駆け戻る。
「大丈夫!?」
 麻理亜の差し出した手に重ねられた彼女の手は、冷え切っていた。
 志保の息は荒い。肩を上下させながら、麻理亜の手を借りて立ち上がる。
「……少し、休憩する?」
 麻理亜の問いに、志保は無言で首を振った。
 ふらふらとした足取りで、前へと急ぐ。
「志保ぉ……」
「彼らがいつ追いつくか分からないわ……さっきの追っ手は運良く誤魔化せたけど、若しあれがジンだったならぶかぶかの服を着た女の子二人組なんて、疑ってかかるでしょうね……その二人が着ているのは、逃亡中の裏切り者の衣服なんだもの。少女達の特徴的な髪や目の色も、彼女達と同じ……偶然にしては出来過ぎてるわ」
「……」
 返せる言葉など無かった。戦闘経験のある麻理亜でさえも、幼児化によって身体能力が低下し、疲労を感じているのだ。研究一辺倒だった志保の身体は悲鳴を上げているだろう。
 解っていても、追っ手の事を考えるとぐずぐずしている猶予など無いのも確かだった。
「せめて何処か、人のいない建物で休めるといいのだけど……」
 麻理亜は苦笑する。
「無いわよね、そんな場所」
 廃ビル、廃屋。組織は真っ先に探すだろう。けれども、贅沢は言えなかった。せめて、この雨を凌げたら。まさか、見知らぬ人の家に特攻して匿ってもらう訳にもいくまい。例え家に入れてくれる親切な人がいたとしても、当然親はどうしたのかと訝る事だろう。志保も、麻理亜も、答えられない。幼児化なんて話して、信じてくれるとも思えなかった。
「あるわ」
 ふと志保は立ち止まり、道路の青い案内標識を見上げている。
「米花町二丁目二一番地……」
 麻理亜はきょとんと志保を見つめる。
「私達と同じく幼児化した可能性の高い人物――工藤新一の自宅よ」





No.12





 工藤新一。今、日本中にその名を轟かせる高校生探偵。有名な推理小説家と女優である両親は海外で暮らしていて、現在日本の家には新一一人が住まっていた。しかしその新一も、組織の手にかかって以来消息不明。
 つまり、家には誰もいない。例え戻って来るとしても、それは幼児化したであろう本人。彼なら、麻理亜達の境遇を理解してくれる筈だ。これ程にも都合の良い場所は他に無かった。
 麻理亜は案内標識を見上げる。米花町までは、ここから三キロ。子供の足でも、一時間もあれば着くだろう。――しかし。
 麻理亜は志保を見つめる。彼女の足元は既にふらついている。姿現しを使えれば良いが、麻理亜は工藤新一の家を知らない。行き先のイメージが曖昧だと、「ばらけ」の危険性がある。かと言って、麻理亜の知る場所は米花町から離れてしまう。また路頭に迷うのが落ちだった。
「志保……行ける?」
「ええ」
 頷いて、一歩踏み出す。途端に、志保の身体は大きく傾いた。麻理亜が咄嗟に支える。
「ありがとう、麻理亜……」
 言って、志保は突き放すように麻理亜の腕を離れる。足をひきずるようにして、前へ前へと進んで行く。
「志保……」
 麻理亜は、その後を追った。
 志保を突き動かすのは、恐怖心だ。若し、ここで彼らに捕まりでもしたら……。彼ら――ジンの冷血さを、彼女は人一倍知っている。
 それでも、麻理亜に縋る事はしない。支えてもらう事はしない。彼女は、ずっと一人で生きて来たのだ。戦って来たのだ。
 麻理亜は志保の手を、ぎゅっと掴んだ。夏場にも関わらず凍えるように冷たい、小さな手。
「大丈夫……大丈夫よ。私は、いなくなったりしないから」
 志保の瞳が揺れる。
 志保は何も答えなかったが、その手を振り払おうとはしなかった。
 きっと守る。
 そう決めたのだ。もう二度と会う事の無くなってしまった友に誓って。信用なんて言葉を免罪符に、ただ待つばかりで、何もしなくて。気付いた時にはもう遅くて。
 もう二度と、そんな間違いは犯さない。
 彼女が守ろうとしたものは、麻理亜が代わりに守り通して見せる。絶対に。

 時間が経つにつれ、二人の歩みは次第に遅くなっていった。足は鉛のよう。それでも二人は、ひた走る。ここで立ち止まってはいけない。立ち止まる訳にはいかない。
 東都タワー前の商店街まで来ると、遅い時間や強い雨にも関わらず人々が往来していた。人気を避けるようにして、路地裏へ。工藤邸まで、後少し。
 それからどれ程だったのか、時計を持たない二人には判らない。
 大きな家の並ぶ通り。一つの家が留守だと、そこにぽっかりと暗がりができる。闇に浮かぶようにして、その洋館は立っていた。大きな門扉。その横には、工藤と書かれた表札がある。
 麻理亜が壁に手をついて、その肩に志保が上ってインターホンを押す。反応は、無い。もう一度志保はインターホンを押し、麻理亜の肩を降りる。
 やはり反応は無かった。麻理亜は門の下方を持ち、がちゃがちゃと揺らす。
「ごめんくださーい! 工藤さーん!」
 張り上げたつもりの声は、弱々しかった。雨音に掻き消されてしまう。
 留守だろうか。せめて、中で休ませてもらおう。
 姿くらましをしようと振り返った麻理亜の目の前で、志保の身体が崩れ落ちた。咄嗟に、麻理亜は受け止める。志保は麻理亜に寄りかかった状態のまま、身動きをしない。
「……志保?」
 覗き込んで見た顔は、これ以上無いほどに真っ青で、目は堅く閉じられていた。
「志保――志保!」
 マントを下敷きに地面に寝かせ、肩を揺する。
「志保! 志保、聞こえる!?」
 志保の返答は無い。息は、ある。走ってきたのが嘘のように、弱々しいけれども。
「嘘……嘘よ! 志保……!」
 麻理亜はキッと洋館を見つめる。
 家の主には悪いが、中に入らせてもらおう。志保は早急に、暖を取る必要があった。
 志保の身体の下に両腕を入れ、身体を寄せる。持ち上げようとした腕には、力が入らなかった。
「……っ!?」
 重い。
 志保の身体が重くなっているのではない。麻理亜の腕力が、低下したのだ。志保の身体は、持ち上がりそうに無い。地面に寝かせたこの体勢では、姿現しで連れて行く事なんて出来ない。
 杖が無ければ、麻理亜は何にも出来ない。
 ただひたすら、志保を抱き寄せるしかなかった。杖があれば。杖さえあれば、志保を屋根の下まで運ぶ事が出来るのに。この雨を遮る事が出来るのに。。
 その時、ばしゃばしゃと駆け寄る足音がした。麻理亜は、振り返る。豊かな腹と寂しい頭を持つ白衣の男性が、傘を放り投げて駆け寄って来た。彼は麻理亜の傍らに膝を着き、志保の顔を覗き込む。
「どうしたんじゃ!? この子は――?」
 彼は志保の首に手を当て、脈を確認する。
「……ずっと、走ってきたの」
 ぽつりと呟いた麻理亜を、彼は見つめる。
「私達、逃げてきたの……ずっと、ここまで走って……でも彼女、倒れちゃって……。
 お願い、この子を助けて……!」
 彼は強く頷くと、志保の身体を軽々と抱き上げた。麻理亜に目で合図して、隣の家へと駆け込んで行く。麻理亜はどろどろになったマントを拾い、その後に続いた。
 ――良かった……本当に良かった……!
 絶望の淵にいた麻理亜と志保にとって、彼は雲の切れ間から差し込んだ希望の光だった。


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「 Different World  第3部 黒の世界 」 目次へ

2011/06/22