空には鈍色の重い雲が広がっていたが、その日のエリの心は、清々しく晴れ渡っていた。今年最初のホグズミード休暇。そして、セブルスとの初めてのデートだ。
出発時にフィルチが「詮索センサー」で生徒を念入りにチェックしているのを見た時は肝が冷えたが、「詮索センサー」がポンコツなのか、元々魔法薬には反応しない代物なのか、セブルスから受け取った老け薬が見つかる事はなかった。
午前中はハンナやスーザン、アーニー、ジャスティンと共にハニーデュークスやマエストロ音楽店を見て周っていた。残念ながら、ゾンコの悪戯専門店はダイアゴン横丁で見かけた閉ざされた店々のように、窓に板が打ち付けられていた。
時間が経つにつれ天気はますます怪しくなり、昼前には霙が降り始めた。朝から吹き続けている冷たい風と相まって、みるみると全身の体温を奪って行った。
「今日はもう帰ろう」
アーニーが根を上げて言った。
「今から帰れば、大広間で昼食を食べれる。こんな中でゆっくり店を見て回る気にはなれないよ」
「そうですね。これと言って欲しい物がある訳でもないし……」
「エリは、午後に他の人と約束があるんだっけ」
スーザンがマフラーを口元まで上げながら、エリを振り仰ぐ。エリは頷いた。
アーニーが手を擦り合わせながら眉を顰める。
「こんな天気の中、まだここにいるつもりか? そっちもまた今度になるんじゃない?」
「でも、特にそういう連絡は来てないから。三本の箒にでも入って、時間潰してるよ」
「アー、別に帰らなくても、三本の箒で食べるのでもいいかな……」
「あたしの事は気にしないでいいって。一人でぶらついてる方が時間調整しやすいし」
エリは慌てて言う。このまま時間までアーニー達と一緒では、老け薬を飲むタイミングが無くなってしまう。
「でも――」
「それじゃあ、私達は先に帰ってるわね」
アーニーの言葉を遮るようにしてハンナが言った。それからエリの耳元に顔を近付け、囁いた。
「――頑張って」
「……ッ!?」
言葉にならない声を上げ、エリはハンナを見やる。ハンナは意味深な笑みを浮かべていた。その後ろでは、スーザンも同じような笑みを浮かべて小さくガッツポーズをして見せる。
「え……な……」
「さっ、私たちは帰りましょう」
男子二人を引っ張って、彼女らはホグワーツへの坂を登って行った。エリは目を白黒させて去っていく四人の背中を見つめていた。
(……もしかして、バレてる? いつから? どうして?)
ハンナにも、スーザンにも、セブルスとの事を話した覚えはない。学年の違うフレッドやジョージはもちろん、サラも彼女らと話すような仲ではあるまい。ハンナとスーザンなら他の人へ吹聴するような事はないだろうが、それにしたって隠していたつもりが隠せていないと言うのは、大問題だ。
(セブルスに知られたら、殺されそう……)
身震いしながら、駅へと向かう。天候もあってか駅の利用者はまばらで、トイレも全個室が空いている状態だった。
セブルスから受け取った瓶を取り出す。炎のゴブレットの年齢線を潜る時はコップ一杯だったが、今回はそれよりも更に多めだ。
一気に呷ると、焼けるような熱さが喉を通っていく。手足が熱を持つ。鏡に映る自分の顔が、歪み、皮膚の動くような感触を覚える。
やがて、鏡にはいつも見る顔よりも少し老けた、大人の女性の顔が映り込んでいた。思っていたほど、ナミには似ない。父親似かと思っていたが、男女の肉付きの差か、大人にもなるとシリウスとも面影はあれども見間違うほどではない。
ハンナとスーザンに教わっておいた化粧を施すと、すっかり別人のようだった。
(これでいいのかな……変じゃないかな……)
一応、教わった通りにはやった。できたとは思うが、練習していた時はもちろん、老け薬なんて飲んでいない十六歳の顔だ。全く同じにはならず、どうにも不安は拭いきれなかった。
とは言え、修正の術も分からないし、どう修正すれば良いのか、修正すべきなのかも分からない。恐る恐るトイレを出て、メインストリートへと戻る。悪天候の中、人気も少なく、ぽつぽつといる人々も皆、目的地へ足速に向かっていて他人の顔なんて気にしていないのが幸いだった。
腹の虫が鳴くままに、エリは三本の箒へと入る。すっかりかじかんだ指先が暖かさに溶けるようだった。
寒さと言う厳しい環境から解き放たれると、周囲の客がチラチラと自分を見ているような気がした。バレないかと心配しているから、そう感じるのだろうか。それともやっぱり、化粧が濃過ぎただろうか。
「一名で良いかしら?」
かけられた声に、エリはギクリと肩を震わせる。
マダム・ロスメルタとは、面識がある。普通の生徒ならば学校に許された休暇に訪れる大勢の客の一人だが、エリはフレッドやジョージと連んで、休暇に限らず店を訪れていた。もちろん、顔と名前は覚えられているし、彼女はこう言う事に目敏そうなタイプの人間だ。
「え……アー、はい。一人です」
せいいっぱい、ナミが電話を取る時に出していたような、ちょっと澄ました声を出してみる。
「空いている席へどうぞ。注文が決まったら呼んでくださいね」
言って、マダム・ロスメルタは両手に抱えた六本のジョッキを暖炉脇のテーブルへと届けに行った。……気付かれずに済んだのだろうか? あのマダム・ロスメルタに?
(まあ……助かったか)
エリはなるべく物陰になる席にしようと、店の奥へと進んで行った。
No.14
ロンの機嫌は、またしても最悪だった。
ハニーデュークスで、スラグホーンと遭遇したのだ。スラグ・クラブの食事会を逃れ続けているハリーを、彼はここぞとばかりに誘ったが、これはロンにとっては面白くない話題だったし、その後にハーマイオニーがスラグホーンへのフォローを入れたのもまずかった。
「次は私も欠席の口実ができて良かったわ。いっそ、毎回ダンブルドアの授業と重なってくれないかしら」
「サラもクィディッチを続ければ良かったんだよ」
「今度も逃げおおせたなんて、信じられない。そんなに酷いと言う訳でもないのよ……まあまあ楽しい時だってあるわ……」
この言葉で、ロンは完全にすねてしまった。ハリーとハーマイオニーは慌てて砂糖羽根ペンへと話題を移したが、ロンは興味なさそうな様子だった。
「次はどこに行く? ねえ、ロン。行きたい所はある?」
ハーマイオニーが問う。ロンは無視こそしなかったが、肩をすくめただけだった。
「『三本の箒』に行こうよ。きっと、暖かいよ」
ハリーの提案で、四人はハニーデュークスを後にした。冷たい風に、ニット帽を耳たぶまで隠れるように調整する。
誰もが足速に通りを歩き去る中、二人だけ、三本の箒の前で立ち尽くしている者達がいた。一人は、ホッグズ・ヘッドのバーテンだった。彼は、サラ達四人が近付くと、マントの襟を締め直し立ち去った。もう一人は彼とは対照的に背の低い男で、よく見知った人物だった。
「マンダンガス!」
ハリーの声に彼は飛び上がり、腕に抱えていたトランクを取り落とした。地面に落ちたトランクはパカっと盛大に開き、中に入っていたガラクタの数々をその場にぶちまけた。
「ああ、よう、アリー。構わず行ってくれ」
マンダンガスは這いつくばり、地面に転がった品々を掻き集める。銀製のゴブレット、緑の宝石が輝く指輪、金の鞘に収められた宝剣――
「こういうのを売ってるの?」
「ああ、ほれ、ちっとは稼がねえと――」
答えかけたマンダンガスの言葉は、途切れた。這いつくばる彼の腹にサラが蹴りを入れていた。バランスを崩した彼に覆い被さるようにして、サラは杖を取り出す。
「サラ!」
ハーマイオニーが悲鳴を上げる。
構わず、サラは杖先をマンダンガスの喉へと食い込むほどに押し付ける。
「誰の許可を得て、これらを売り捌いているのかしら」
「シリウスの屋敷から盗んだな」
頭上から、怒りに満ちた声が降って来る。
ハリーも気付いたようだ。突き倒されたマンダンガスの頭の傍らに仁王立ちしていた。
「あれには、ブラック家の家紋が付いている」
「俺は――うんにゃ――何だって?」
「何をしたんだ? シリウスが死んだ夜、あそこに戻って根こそぎ盗んだのか?」
「俺は――うぐ……っ」
「サラ、駄目!」
マンダンガスが白目を剥き始め、サラは強い力で彼から引き剥がされた。自由になった一瞬を、マンダンガスは逃さなかった。
「待て!!」
彼へと伸ばしたハリーの手が、赤い閃光に弾かれる。そして、彼はいくつか回収し損ねたままのトランクを掴み、「姿くらまし」した。サラは吠え猛り、ハーマイオニーを振り払ってマンダンガスを捕らえようとしたが、その手は空を掴んだだけだった。ハリーが叫ぶ。
「戻って来い! この盗っ人――!」
「無駄だよ、ハリー、サラ」
七変化は、透明にもなれるのだろうか。何もなかった場所に、トンクスが現れ言った。彼女の髪は、相変わらず暗い茶色だった。
「マンダンガスは、今頃たぶん、ロンドンにいる。吼えても喚いても無駄だよ」
「あいつはシリウスの物を盗んだんだ! 盗んだんだ!!」
「そうだね」
トンクスは全く落ち着いた様子だった。
「だけど、寒い所にいちゃ駄目だ」
「あの屋敷は、騎士団の本部として使用しているのよね?」
サラは冷たい視線をトンクスへと向ける。理不尽だと分かっていても、ぶつける先を失った怒りを何処かに向けなければ気が収まらなかった。
「管理責任はどうなっているの? 善意により本部として提供したところ、その騎士団に裏切られ家財を荒らされた。こういう事になるのだけど」
「サラ」
ハーマイオニーが咎めるように腕を引く。サラは構わずトンクスを睨みつけていた。
「そうだね」
トンクスはもう一度言った。
「マンダンガスの事は、騎士団も放置はしない。あなた達の家の物はもちろん、騎士団としても、彼はこちらの内部事情を色々と知ってしまっているのだから。彼を抑えて置けなかった手前、信用しづらいかもしれないけど、それでも、私達を信じて任せてくれないかな」
「彼はシリウスの家を荒らしたのよ。私たちの――私の――」
ただ一言。その言葉は、声に出すことができなかった。
ずっと、結局最後まで、呼べなかったその言葉。
「……うん」
トンクスは静かに言った。
「――ごめんね」
ハーマイオニーがサラの腕を引く。今度は優しく、気遣うような引き方だった。サラも今度は振り払わず、彼女に促されるままに、三本の箒の中へと入って行った。
トンクスはサラ達四人が中へと入るまで、じっと入り口を見張っていた。
「こう言うことが起こっているって、ダンブルドアに言おう。マンダンガスが恐がるのは、ダンブルドアだけだし」
バタービールを飲みながら、ハリーが言った。室内に入ってからもまだいきりたっていたハリーも、次第に落ち着きを取り戻してきていた。
サラはバタービールのジョッキを手にしたまま口をつけず、ぷつぷつと消え行く泡の表面をぼんやりと見つめていた。
シリウスの家を荒らされた。シリウスの物を盗まれた。その事実自体は許しがたく腑が煮え繰り返るような思いだったが、ダンブルドアがどうしてくれればその気持ちが収まるのか、分からなかった。全ての物が返ってきたとしても、そもそも、あの屋敷に残っていた物は呪いがかかっていたり、クリーチャーが拾っていたりで、捨て損ねた物ばかりだ。シリウスは、あの家も、そこにある物も、嫌っていた。そんな物にシリウスの影を見て執着なんてされたくないだろう。
「ロン、何を見つめてるの?」
ハーマイオニーの声に、サラは顔を上げる。ロンは、バーカウンターの方へと目を凝らしていた。
「何でもない」
「『何でもない』さんは、裏の方で、ファイア・ウィスキーを補充していらっしゃると思いますわ」
ロンは答えず、無言でバタービールを呷った。その視線がちらりと店の奥の方に送られ、そしてぽかんとした表情になった。フラー相手に何度か見た表情だった。
「『何でもない』さんがいらっしゃったのかしら」
ハーマイオニーの刺々しい声が飛ぶ。
「いや、別に」
ロンは視線を机へと落とし、再びバタービールに専念する。
ハーマイオニーはイライラと指で机を叩きながら、ロンと店の奥とを交互に睨んでいた。
三本の箒でバタービールを飲んでいる間に、天気はますます悪化の一途を辿っていた。今日はもう切り上げる事にして、四人はマントやマフラーを身につけ直し、ちょうど同じタイミングで店を出たケイティ・ベルと友達の後に続いて学校へと戻って行った。
異変が起きたのは、学校への坂を半分ほど上った頃だった。前方から風に乗って流れて来る声が、口論、そして叫ぶような大声へと変わった。
「リーアン、あなたには関係ないわ!」
叫ぶケイティの声色は、クィディッチの練習では聞いた事がないものだった。
激しく吹きつける霙の中、サラは前方へと目を凝らす。リーアンが、ケイティの持つ包みへと手を伸ばした。ケイティも盗られまいと引っ張る。包みが、地面に落ちる。
同時に、ケイティの身体がゆらりと揺れた。
通常、あり得ない光景に、サラは思わず足を止めていた。ケイティの身体は宙に浮いていた。誰かに魔法で持ち上げられている様子でもない。両手を広げ、目を閉じ虚ろな表情。
二メートルほども飛び上がったかと思うと、空を切り裂くような悲鳴が彼女の口から迸った。両目は見開かれ、恐怖と苦渋に満ちた表情で叫び続ける。
リーアンも悲鳴を上げ、ケイティの足首を掴み地上へと引き戻そうとする。サラ達も手伝おうと駆け寄る。
全員で足を掴んだ瞬間、ケイティを持ち上げていた力がふっと消えたかのように、彼女は五人の上へと落ちて来た。間一髪、ハリーとロンとで彼女の身体を受け止めた。ケイティは激しく身を捩っていて、とても抱き止めておく事はできず、地面へと下ろされた。ケイティは叫び、のたうち回っていた。サラは彼女の横に手と膝をつき叫ぶ。
「ケイティ! ねぇ、ケイティ、聞こえる? 私が分かる?」
ケイティは答えず、叫び続ける。
「ここにいてくれ!」
ハリーが叫んだ。
「助けを呼んで来る!」
言うなり、彼は校門へと駆け去って行った。
「ケイティ! 大丈夫よ、皆ここにいるわ――」
暴れるケイティの手を何とか掴み、握りしめる。
「どうしたの? 痛いの? 苦しいの? ――あなた、ケイティと一緒にいたわよね? 何があったの?」
リーアンを振り返り、サラは問う。リーアンは泣きじゃくっていた。
「分からない――どうして、こんな――」
「下がっとれ!」
太い叫び声に、サラは振り仰ぐ。ハリーとハグリッドが、坂を駆け下って来ていた。
「見せてみろ!」
サラはケイティの手を放す。ハグリッドは一瞬立ち止まってケイティを見つめ、それからすぐに彼女を抱き上げ、城の方へと走り去った。ケイティの叫び声は次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
「リーアン、だったわね?」
ハーマイオニーはリーアンの肩を抱きながら尋ねた。
「突然起こった事なの? それとも――」
「包みが破れた時だったわ」
二人が取り合っていた包みは、地面に落ちてぐしょ濡れになっていた。茶色い紙の間から、緑色がかった光る物が見える。伸ばしかけたロンの手を、ハリーが掴み引き戻した。
「触るな!」
ハリーは慎重に、包み紙の横にしゃがみ込む。
「見た事がある。随分前になるけど、ボージン・アンド・バークスに飾ってあった。説明書きに、呪われているって書いてあった。ケイティはこれに触ったに違いない」
ハリーは、リーアンを見上げる。
「ケイティはどうやってこれを手に入れたの?」
「ええ、その事で口論になったの――」
ケイティがどうやって呪われたネックレスを手に入れたのかは、分からない。『三本の箒』のトイレから出て来た時に包みを持っていたらしい。ホグワーツの誰かを驚かす物だと、自分が届けなければいけないと言っていたそうだ。
「きっと、『服従の呪文』にかかっていたんだわ。私、それに気付かなかった……!」
「リーアン、ケイティは誰から貰ったかを言ってなかった?」
「ううん……教えてくれなかったわ……それで私、あなたは馬鹿な事をやっている、学校には持って行くなって言ったの。でも全然聞き入れなくて……そして……」
「皆、学校に戻った方がいいわ」
再び泣き出すリーアンの肩を抱きながら、ハーマイオニーが言った。
「ケイティの様子が分かるでしょう。さあ……」
サラは杖を抜き、ネックレスへと向ける。ロンが息を呑んだ。
「何をする気だ?」
「触らない方がいいでしょう」
サラの杖先の動きに合わせ、ネックレスが宙へと浮かび上がる。霙が吹き荒ぶ中、ネックレスは毒々しい光を放っていた。
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2022/02/12