一定の距離を保って、こそこそとコナンの後を尾行ける。駅へと入って行った彼に続こうとした麻理亜の首根っこを、元太が引っ張って止めた。
「おい、麻理亜! 切符買わねぇと……」
 ピンポーンと大きな音がして、麻理亜は改札を振り返る。一人の男性の前で改札の扉が閉まり、男性は駅員のいる窓口へと向かっていた。
「そっか。切符どっかに入れるんだっけ……」
 マグルの電車に乗った事はあるにはあるが、数ヶ月前、それも短い期間だった。組織に入ってからは、姿現しに頼りっぱなしになっていた気がする。
「彼、160円の切符を買っていたわね……」
 哀が券売機を横目で見て言う。光彦はその上にある図を見上げた。
「160円区間と言ったら、ここからだと大渡間駅だけですね!」
 切符を買い、電車に乗る。幸い、コナンが電車に乗り込むところに追いつき、隣の車両に乗る事が出来た。
「何だかわくわくしちゃうね!」
「いつも彼ばかり抜け駆けしてしまいますからね」
「安心しろよ! 俺達がお前の兄ちゃん、見つけてやるからな!」
「う、うん……」
「少年探偵団、出動ー!」
「おー!」
 元太、光彦、歩美の三人は大声で拳を突き上げ、隣の車両の方を見て慌てて互いに「しーっ」と言い合う。微笑ましい光景に、麻理亜はクスクスと笑う。
 哀は無表情で、隣の車両を見つめていた。





No.14





 大渡間駅はそれなりに降車客の多い駅だった。子供の背丈では、大人達は大きな壁になる。車両を降りたものの、麻理亜らはコナンの姿を見失ってしまっていた。
 駅前に立ち止まり、六人は途方に暮れる。
「若しかして、この駅じゃなかったんじゃ……」
「いいえ。ここで降りるところまでは見たわよ。その後は、人ごみで見えなくなっちゃったけど……」
 言ったのは哀。歩美も頷く。
「私も見たもん! コナン君、階段降りてこっち側に行ってたよ」
「じゃあ、俺達が後つけてるのに気付いて隠れっちまったんじゃねーか?」
「いえ。彼の性格からして、気付いたのなら一度手前の駅で降りる様子をわざと見せるでしょう。ここで降りた姿を目撃しているならば、まだ気付いていない可能性は高いです」
「光彦君、すごーい! コナン君みたい!」
 歩美の賞賛に、光彦は満更でも無さそうに頭を掻く。
「兎に角、探しましょう。まだこの近くにいるはずよ」
 言って、麻理亜はふとロータリーの向こう側に見えるビルに目を留める。根岸不動産と看板の掛かったビル。
 わっと解散しようとした子供たちを、麻理亜は止めた。
「待って。彼、偽札を作ってるかも知れない男を捜してここへ来たのよね……だったら、まず……」
「印刷所……それとも、倉庫かしら。人目に触れたくない事をするのならば……」
 麻理亜の言葉の後を、哀が継ぐ。麻理亜は大きく頷いた。
「一先ず、不動産屋にそう言うところを売った心当たりが無いか聞いてみるってのはどう? 若し彼がいなくても偽札の方の手掛かりが掴めるかも知れないし、行ってみて損は無いんじゃないかしら」
 横断歩道を渡り、ビルへと近付く。店舗となっている一階は明るく、大きな窓からは中の様子がよく見える。平日と言う事もあって、客の少ない店内。その場にそぐわぬ小さな子供の姿を見つけるのは、容易な話だった。元太、光彦、歩美の三人は駆け出し、窓にぴったりと額をくっ付ける。
 従業員がこちらを指差し、コナンは振り返り驚き顔になった。元太らは直ぐ横の自動扉から店舗へと入って行く。麻理亜と哀も、戸惑う俊也を引き連れ彼らに続いた。
「やったー、ビンゴ〜」
 手を叩いて喜ぶ麻理亜とは対照的に、子供達は不服そうだった。コナンの抜け駆けに対する不満を吐露する背後で、哀は待合席の横にある雑誌に手を伸ばしていた。
 俊也は、従業員に近隣に小説家が住んでいないかと尋ねていた。何でも、兄が一度電話を掛けて来たとき、「漱石みたいな人と一緒にいる」と言っていたらしい。兄の声は震えていて、電話も途中で切られていたとの事。
 連中の目を盗んで電話を掛けたが、見付かって切られたと言う所か。そんな行動を取って見付かったのであれば、あるいは既に……。
 その後従業員からの情報で漱石に似た男がやっていると言う店に行ったが、何ら関係無く失礼極まりない疑いに怒られただけだった。麻理亜らが怒られている間に、コナンはちゃっかりと倉庫を調べて来ていた。偽札を刷れるような印刷機は無かったらしい。
「印刷機って言や……駅前の新聞社が、こないだ新しいヤツ入れてたなあ」
 ふと、不動産の男性が一人ごちる。コナンに問われ、彼は向かいの通りを指差した。
「ほら、交番の横のビルの三階にある新聞社だよ……。あそこも、二年前にうちが扱った物件さ!」
 縁の広い黒い帽子を被った女社長の新聞社。しかし幾ら何でも、警察の横で偽札は刷らないだろう。そう言って、彼は不動産へと帰って行った。
 コナンは、その新聞社に目を付けたらしい。だが、ただ黒い帽子だけが理由ではなかった。
「石に漱ぎ流れに枕す……」
 突然呟くコナン。きょとんとする麻理亜らに、彼は言った。
「漱石がその名の由来にした有名な故事だ……。意味は『偏屈』……普通、水の流れで口をすすぎ、石を枕にするだろ? それを逆にするって事は、相当な変わり者って訳さ……

「つまり、今回の偽札アジトもそれと同じって事?」
「ああ」
 麻理亜の問いかけに、コナンは頷く。
 人目を避けた場ではなく、人通りの多い交番横。普通とは異なった偏屈な行動を取ることによる盲点。コナンはそう、子供達に説明する。
 俊也の兄も、恐らくこのビルに捕らえられているだろう、と。

 肝心の警察官は、全く話を信用してくれなかった。自分達の真横で偽札が作られている、人が監禁されている。ただでさえ思いつきもしない話だ。それを持ちかけたのが子供ばかりでは、信用されずとも仕方あるまい。
 不意にコナンは駆け出した。
「おい、おめーら! そこから絶対、動くんじゃねーぞ!! いいか! 絶対だぞ!!」
 しつこい程に念を押しながら、彼は通りの向こうへと駆け去って行った。
 動くなと言われると動きたくなるのが、人の性。元太を筆頭に、麻理亜らは隣のビルへと潜入を開始した。
 元太を筆頭に、麻理亜らはビルの階段を上って行く。辿り着いた事務所に、人の姿は無かった。一見、何の変哲も無い普通の事務室。
「ニセ札なんてどこにもありませんねぇ……」
「コナンの奴、間違えてんじゃねーのか?」
 麻理亜はきょろきょろと室内を見回す。やはり、誰もいなかった。偽札を作っているにしても、普通の事務所にしても、無人で鍵が開いているだなんて無用心過ぎやしないだろうか。何処かで隠れて麻理亜達の姿を見ているのではないか。そんな気がしてならない。
 ふと、部屋の奥に扉がある事に麻理亜は気付いた。扉にある窓には白い枠がはめ込まれ、その向こうを見て取る事は出来ない。
 表向きの新聞社。その向こうにある部屋。麻理亜は固唾を呑み、そちらへと歩み寄る。
 不意に、子供達の間で歓声が上がった。
「わぁー! 一万円札がいっぱーい!!」
「すげー!!」
 光彦が一枚の紙を広げて持っていた。そこに印刷されているのは、敷き詰められた紙幣の図柄。
「でも、変ですねー。この一万円札、福沢諭吉の左目が入ってませんよ……」
「ダルマと一緒さぁ……」
 答えたのは、子供達の誰の声でもなかった。麻理亜の背後。扉のあった場所。
 振り返れば、扉の向こうから黒い帽子を被った女性と追い駆けていたあの男性が立っていた。女性の手には、黒光りする拳銃。縄に縛られた男性が、その後ろから身を乗り出す。
「と、俊也!」
「お兄ちゃん!!」
 彼は咄嗟に駆け寄ろうとしたが、叶わなかった。子供達も皆、羽交い絞めにされ捕らえられる。麻理亜はその場に立ち尽くしたまま、じっと銃口を睨み吸える。
 コナンは何をしているのだろう。かつて高校生探偵と呼ばれた名探偵。流石の彼でも、この状況を打破する事は不可能か。そもそも、この場にいないのでは話にならない。
 麻理亜はぐるりと犯人一味を見回す。リーダー格と思われる女が一人、男が二人。内一人は片腕に白い包帯を巻いている。拳銃を持っているのは、恐らく女のみ。
 女の指示で、歩美が女の正面へと連れて行かれる。女は、歩美に銃口を突きつけた。
「お、おい何する気だ!?」
 俊也の兄が顔を真っ青にして叫ぶ。女は口元に笑みを浮かべた。
「あんたの作業を早めてあげるんだよ……。一匹ずつ死んでいけば、あんたもやる気になるんじゃない?」
 歩美は驚愕に目を見開く。大きな瞳に涙が浮かぶ。ぎゅっと目を瞑り、彼女は叫んだ。
「コナン君、助けてー!!」
「コナン? ああ……階段の所をうろついてた眼鏡の坊やなら、もう死んでるよ……」
 麻理亜の表情が強張る。
 死んだ? 工藤新一が? 彼女は彼の特徴をはっきりと述べた。ただの張ったりではない。
 咄嗟に、麻理亜は動いていた。歩美と拳銃との間に、割って入る。一瞬、その場の誰もが言葉を失った。
「お、おい! 麻理亜!?」
 元太が声を上げる。駆け寄ろうとする彼を、麻理亜の鋭い声が制した。
「来ないで!」
「麻理亜ちゃん……」
 包帯の男に羽交い絞めにされたまま、光彦が不安げに声を上げる。
 麻理亜は口の端を上げて微笑った。
「大丈夫。私は死なないから」
「ふうん、随分と肝の据わった子だねぇ? そんなに死にたいなら、あんたから先にあの坊やの元へ行かせてあげるよ」
 麻理亜は女を睨み上げる。
 弾丸なんぞで、麻理亜は死にはしない。傷一つ付かない麻理亜に、彼女は怯むだろう。チャンスはその一瞬。拳銃を彼女の手から奪う。
 女の指が、引き金に掛かる。麻理亜は後ろ手に歩美を庇い、じっと銃口を見つめる。
 突如、横から飛んで来た何かが女の手元を襲った。
 拳銃は女の手から吹っ飛び、床に転がる。飛んで来たのは、別の拳銃だった。麻理亜は目を瞬く。女は、拳銃の飛んで来た戸口を振り返った。
「だ、誰だい!?」
 そこには、壁に背を預けて佇む小さな影。足に履いたスニーカーが、僅かな電流を放ち光る。
「ダルマと一緒だと? 笑わせんな! 福沢諭吉の左目が無いのは、彼を彫ってた掘り師が怪我しちまっただけの事……」
 狼狽する女達相手に、彼は推理を披露する。彼女らの取った行動、企てている計画。
「だ、誰……? 誰だよ、あんた!?」
 キィと扉が開かれる。
 彼は、不敵な笑みを浮かべていた。
「江戸川コナン……探偵さ……」
 子供達の間から歓声が上がる。コナンを手にかけたはずの犬山と言う男は、麻酔銃で眠らされていた。平然と説明をしながら、コナンはごそごそと足元の段ボール箱を探る。
「さっきお姉さんにぶつけたのは、犬山さんの拳銃だよ……。蹴って命中させたんだ……」
「け、蹴った?」
「ああ……」
 頷きながら、コナンはペンキの缶を床に置く。そして、大きく足を振り上げた。
「このキック力増強シューズでな!!」
 彼の蹴った缶は途方も無い勢いで男達の顔へと命中し、二人は揃って倒れる。
 フッと麻理亜の脳裏に少し前の出来事が蘇った。大阪での任務中に、ジンによってかけられた鎌。新幹線を爆破する。それを食い止めるために、麻理亜は奔走した。その時にいた少年。――彼だ。江戸川コナン。爆弾を蹴って空へと遠ざけた子供。
 女は舌打ちし、床に転がった拳銃へと手を伸ばす。しかしその手が届く前に、哀の小さな手がそれを拾い上げた。ぽかんとする女目掛けて、哀は拳銃を構える。
 響き渡る銃声。
 放たれた弾丸は、女の顔の真横を通って事務所の窓を割った。
 女は腰を抜かして座り込む。哀は無表情のまま、拳銃を下ろす。子供達は皆、呆然としていた。
「は、灰原……さん?」
「きゃーっ、哀すごーい! かっこいーい!」
 麻理亜一人が、手を叩きはしゃいでいた。





 その後、コナンの呼んだ警察が現場に到着し、偽札を作っていた三人組は逮捕された。コナンは女に組織について問いただしていたが、見当違いも良いところ。人違いが判明し、気抜けした様子だった。
 警部と思しき人に哀は発砲を叱られ、泣き真似を続けていた。困ったようにあやしながら、コナンは帰路を同伴する。麻理亜はそ知らぬ顔でその後に続く。阿笠邸の近くまで帰って来た所で、コナンは哀を麻理亜に託し逃げるように手を振った。
「じゃあな! 後はお前らだけで帰れるよな?」
 ぴたりと泣き止む哀。立ち去ろうとする彼の背中に向かって、静かな声で言った。
「APTX4869……」
 コナンはきょとんと振り返る。
 哀はもう、子供の真似などしていなかった。
「これ、何だか分かる? あなたが飲まされた薬の名称よ……」
「な、何言ってんだよ? 俺はそんな変な薬なんて……」
「あら、名称は間違ってないはずよ……」
 哀はコナンに背を向け、笑みを浮かべて振り返る。
「組織に命じられて、私が作った薬だもの……」
 呆然とするコナン――否、工藤新一に、志保は薬の効能を説明し自分も飲んだと告白する。
「そこにいる麻理亜も同じ……薬を飲んで小さくなった、私の仲間よ……」
「は、灰原……紫埜……お前ら、まさか……」
「灰原じゃないわ……」
 言って、彼女は髪をかき上げる。
「シェリー……これが私のコードネームよ……」
「私はストレガ……尤も私は、薬の製造には携わっていなかったけどね」
 本来ならば白いその長髪を払い、麻理亜は哀の後に続ける。
 くすりと哀は笑い、コナンに向き直った。
「どう……? 驚いた? 工藤新一君?」
 唖然とした表情で麻理亜達を見つめるコナン。動揺を隠し切れない様子だ。哀が自分達の住む場所を仄めかすと、顔色を変えて阿笠邸へと駆けて行った。
 コナンが走り去り、麻理亜はくすりと笑いを漏らす。
「工藤ってば、本当に心配しちゃって。志保も、随分と役者よね」
「あら……麻理亜もなかなかだったわよ?」
「ありがとう」
 麻理亜は肩を竦めてクスクスと笑い、歩みを進めた。
「私達も、行きましょう。生きてる博士にぽかんとしているだろう工藤を追って」
 麻理亜と哀は、歩いて阿笠邸へと帰る。
 コナンは予想通りの表情で、阿笠を見上げていた。その横を、二人は平然と通って行く。
「ただいまー……」
「ただいまーっ」
「ああ。お帰り、哀君、麻理亜君。どうじゃった、学校は?」
「結構楽しめたわ……」
 哀はそのまま奥のソファへと座り、ランドセルから出した雑誌を読み出す。麻理亜はその横にランドセルを下ろした。
「私達ね、少年探偵団に入ったのよ。今日早速、事件を解決したんだから!」
「ほぉ! それは良かったの!」
 麻理亜は「ふふっ」と笑い、哀の隣に腰掛ける。
「何読んでるの?」
「『ConCun』……ファッション雑誌よ……」
 哀は雑誌に視線を落としたまま、短く答える。特にする事も無い麻理亜は、隣で雑誌を覗き込んでいた。イチョウ柄のバッグや小物類の特集が掲載されている。
 コナンと阿笠は、麻理亜と哀の話をしているようだった。会話の中、不意にコナンが怒鳴った。
「んな事聞いてんじゃねー!! なんで黒ずくめの女が博士の家に――」
「拾ってくれたのよ……」
 答えたのは、哀の静かな声。哀は、これまでの経緯を説明する。工藤新一の幼児化に気付いた事。明美の死により組織に歯向かい、投獄された事。
「麻理亜が組織に入ったのは、その頃よ……。麻理亜は、姉と親しかったから……」
「バイト先のお得意さんだったのよね。それがきっかけで、プライベートでも会うようになって。……あんな事になる前に、気付けたら良かったのだけど」
 麻理亜は目を伏せる。
 何度後悔した事だろう。しかしどんなに悔いたところで、明美はもう帰って来ない。
「内側から壊してやるって、組織に入った……結局信用されないまま関西に飛ばされちゃってた訳だけど」
 言って、麻理亜は肩を竦める。
「明美との仲は、知られていたから……疑われていたみたい。何度も鎌かけられて、ばれないように邪魔したりして……哀が投獄されたって聞いて、私は組織を裏切る事に決めたの。私一人で根幹に近付くには、相手が大き過ぎるって悟っていたから。
 だけど私は捕まって……あなたが飲んだのと、同じ薬を飲まされた」
「組織に拘束されて、どうせ殺されるならとその時飲んだのが隠し持っていたAPTX4869……幸運にも、死のうと思って飲んだその薬は、私の身体を幼児化させ手枷から解放した……。麻理亜がガス室に現れて、私達は一緒に逃げ出したわ……。
 何処にも行く宛の無かった私達の、唯一の頼りは工藤新一……あなただけ……。私達と同じ境遇に陥ったあなたなら、きっと私達の事を理解してくれると思ったから……」
 言いながら、哀は雑誌のページを捲る。
「――ふざけんな!!」
 激しい剣幕に、麻理亜は肩を揺らし彼を見つめた。
 コナンは、憤怒の形相で麻理亜達に詰め寄ってきた。
「人間を殺すのに加担してた奴らを、どう理解しろってんだ!?」
「お、おい新一君……」
「紫埜! てめーは一体何人手に掛けた!?」
 麻理亜に返す言葉など無い。
 人を殺した。人間を殺した。怯える表情。憎む表情。逃げ惑う姿と悲鳴。怨詛は匂いとなって麻理亜の身に染み付き続ける。
 許しを請うつもりは無い。許されるだなんて思っていない。
 ただ一人、親友の死の真相を突き止めたかった。親友の妹を守りたかった。大切な人達を。
 麻理亜は、人の命を天秤に掛けた。
「直接の殺しだけじゃない! 灰原だって、お前が作った毒薬のせいで、一体何人の人間が……」
「仕方ないじゃない……。毒なんて作ってるつもり、無かったもの……」
「あんだと!?」
「まあまあ。彼女達は組織から抜けたんだし……」
 阿笠がコナンをなだめる。そして彼は解毒剤の作成を期待したが、薬の考案者である哀にとってもそれは無理な話だった。先日見つけて除けておいた新聞を、哀は棚の上から取り上げる。薬品会社炎上の大見出し。データは全て、研究所内。恐らく、他の研究所にしても手が回っている事だろう。
 哀の幼少期の顔は、組織に知られている。今後同じような事例が出れば、組織は哀を探すだろう。麻理亜の記憶喪失呪文にしても、完全なものではない。哀や麻理亜が見付かれば、近くにいる者達にも危害は及ぶ。
 しかし、コナンは麻理亜達を追い出そうとはしなかった。
「バーロ、お前の事がばれたら俺の事がばれるのも時間の問題……。博士には悪いが、嫌でもこのままここで小学生しててもらうぜ……。下手に外をうろつかれる方が迷惑だ」
「あら、優しいのね……」
「じゃあ、そう言う訳だからこれからもよろしくね、博士!」
 博士は頷く。しかしまだ浮かない顔だった。
「しかし、君達の親の身の安全の方が……」
「心配ないわ! 私の親も組織の一員……私が生まれてすぐ、事故で死んだらしいから……」
「私もまあ、似たようなものね……。紫埜麻理亜の戸籍は無いし、親だってもういないわ」
「じゃあ、君達の家族は……」
 ふっと浮かぶ、少女の顔。大人びた端整な顔立ちに、艶やかな黒髪。
 しかし組織は、麻理亜が何処に住んでいたかなど知らない。彼女と麻理亜の繋がりなど知らない。
「……いないわ」
「私は、滅多に会えない姉との二人だけだったわ……」
 哀も答える。その「姉」は、もういない。
 アメリカに留学していた哀とは違い、明美の方はごく一般的な生活を送っていたらしい。監視付きとは言え、その行動は自由だった。制限が厳しくなったのは、組織の任務に手を染めてから。麻理亜は、喫茶店に来る監視の者が増えた日の事を思い出す。強くなる怨詛の臭い。そしてそれは、明美自身にも――
「……待って……」
 不意に哀は、言葉を止めた。顎に手をやり、少し考え込む。
「殺される数年前に、姉が旅行の写真を入れたフロッピーを二、三枚送って来たのよ……。研究所のモニターで一通り見て、直ぐに送り返したんだけど……その後、薬のデータを入れたフロッピーが紛失して……随分探したけど、見付かんなくて……」
 哀の話に、コナンはニッと口元に笑みを浮かべる。
「なるほど……。お姉さんに送り返したフロッピーの中に、あの薬のデータが混ざってる可能性があるって訳か……」
 写真のデータをフロッピーに入れたは、明美ではなく大学教授。広田正巳と言うその教授の元を、麻理亜らは尋ねる事になった。
 この時はまさか、今夜二件目の事件に遭遇するなんて思いもよらなかったのだ。


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2011/11/05