麻理亜らが家を訪れた時、広田は既に息を引き取っていた。頭から血を流し、本棚の下敷きになった姿。部屋の扉も、その上に連なる窓も、全て鍵が掛かっていた。
直ぐに警察が呼ばれ、事故だろうと予想された。死因は床にあった置物。部屋の鍵は、本の下。状況を見れば、事故死としか考えられない。しかし。
「事故じゃないわ……これは他殺……」
ぽつりと麻理亜は呟く。
現場を検めていた横溝は、きょとんと麻理亜を振り返る。麻理亜は死体から離れた所で壁にもたれていた。阿笠が、自分の親戚だと説明する。
「ほら見てよ、この電話!」
コナンの声が会話に割って入った。床に落ち、本の下に隠れた電話を指差している。
「それならきっと、その電話台が本棚と一緒に倒れたからじゃあ……」
「だったら、なんで受話器が外れてねーんだ? 電話を引っくり返し、上に本を被せてカモフラージュしてあるが、これは誰かが作為的に部屋を散らかした跡……」
「……」
麻理亜は目を瞬き、コナンを見つめる。
コナンは口の端を上げ、麻理亜を振り返った。
「――そう言う事だろ?」
「え、ええ……」
とりあえず、頷いておく。
電話の状態など、麻理亜は気付いていなかった。ただ解ったのは、臭い。
麻理亜は血の臭いに人一倍敏感だ。組織にいながらも、血に慣れる事は無かった。寧ろ、体調を崩すほど。血の臭い――それも殺傷があると、怨詛の臭いが充満する。それが、麻理亜は駄目だった。
当然、麻理亜にしか分からない事。マグルの世界において、何の証拠にもなり得ない。
麻理亜は、開いた己の掌を見つめる。小さくなってしまったそれ。杖は折られ、もう使えない。この世界に、麻理亜が知るような魔法界は無い。かろうじて、紅魔術と言う魔法を使う女の子が一人いたのみ。その彼女も、もう会う事は出来ない。
麻理亜は、部屋のパソコンを操作する哀に目をやる。
――この小さな手で、彼女を守り通す事が出来るのだろうか。
No.15
コナンの提案で、横溝らは留守番電話の録音を聞き始めた。十三件と言うメッセージの最後に、その声は流れた。
『えー……黒……生命です……』
途切れ途切れの音声。機会で多少声は変わっているが、間違いなかった。
「ウォッカ……」
哀がその名を呟く。
「お、おい……じゃあ、やっぱりこの事件……」
うろたえる阿笠に、コナンはその可能性を否定する。
「もし奴らがフロッピーを取りに来たのなら、自分の声の入ったこのテープを現場に残すヘマはしねーよ……」
「そうね……。彼らならこんな密室を作り上げるより先に、テープを回収してるはずだもの……」
哀も後に続けて言う。そして、くすりと笑った。
「留守番電話の伝言はもしも広田教授が在宅してた場合、彼の警戒を和らげ、目的を遂行しやすくする手段の一つ……。今頃、彼ら焦ってるでしょうね……。回収できなくなったから……」
「じゃ、じゃが……そうだとしたら奴らは……」
「ああ……。博士のワーゲン、他所に移動させて正解だったぜ……。
奴らはもう既にこの近くに……来てるかもしれねーからな……」
麻理亜は壁に寄りかかったまま、扉の外へと咄嗟に視線を走らせた。今、この家には警察がうじゃうじゃといる。家の前だって、警察が監視しているはずだ。そんな所に、組織が近付くとは思えない。それでも、不安がないとは言い切れなかった。
数年前のフロッピー。何故、今になって回収に訪れた? 薬品会社の炎上と同じく、志保からその情報が外部に流れる事を恐れたのだろうか。だとすれば、志保がここへ来る事を想定しているかも知れない。警察がうろつく中、彼女を捜して張り込まれる可能性はどれくらいあるだろう。家の中にいる限りは、恐らく心配無い。しかし、この家を出た時万一にも彼らに見付かってしまったら? 麻理亜はともかく、志保の方は幼い頃の顔も知られているのだ。
ぼうっとする頭を、麻理亜は必死に働かせる。
現在、麻理亜の手に杖は無い。あるのは、古き友から譲り受けた大剣のみ。彼が持つ物と連作となるそれは、麻理亜には勿体無いほどの素晴らしい造りだった。刃は平たく、弾はじきも可能だろう。だがしかし、今の身体で、腕力で、あの剣が使いこなせるだろうか。
いざとなれば、姿くらましをするしかあるまい。いっその事、この家から直接阿笠邸へと帰った方が安全なのだろうが、いかんせん姿くらましは大きな破裂音を伴う。音を防ぐ手段は、もう無いのだ。
それから、もしも今組織の者と遭遇したら、哀だけでなく阿笠やコナンを巻き込んでしまう可能性もあった。無関係……とは言い切れないかも知れないが、少なくとも阿笠は関係無い。何の疑いも無く麻理亜らを救ってくれたお人好しなこの人を、危険な目に遭わせたくない。彼らの安全も考えねばならない。
腕力と脚力、共に退化したこの身体で、杖も無く、どうすれば彼らを守り通せるだろうか。
「おい、紫埜」
名前を呼ばれ、麻理亜は顔を上げる。
コナンの顔が直ぐ傍にあった。
「先に博士の車行っとけ。刑事さんに付き添い頼んでやっから――」
「あら。私、あなたの推理の邪魔はしてないつもりだけど?」
「ちげーよ。おめーが具合悪そうにしてるから言ってるんだよ。いくら組織の女って言ったって、そんな状態の奴放っておく訳にはいかねぇだろ」
麻理亜は橙色の瞳をパチクリさせる。
そして、にっこりと笑った。
「あら、気が利くのね。でも、心配ご無用。そこまで酷くないから。
それより、事件の方は解けたの?」
現場は密室。手掛かりはノイズの酷い留守番電話のメッセージだけ。怨詛の臭いで麻理亜は犯人が分かるが、そんなもの警察には説明出来ない。コナンにそんな能力は備わっていない。トリックについても、手掛かりが少な過ぎる。いくら高校生探偵工藤新一といえども、厳しかろう。そう思ったのだが。
「ああ、全部解けたぜ」
返って来たのは、あっさりとした肯定の言葉だった。
「解けたって……犯人も、密室のトリックも?」
「ああ。車戻らないなら、その辺座ってろよ。直ぐに事件を解決して、博士の家に帰してやるからよ」
唖然とする麻理亜の前で、コナンは推理ショーを開始した。
阿笠の背後に隠れ、彼の声を使って推理を話すコナン。その表情たるや、自信に満ち溢れたものだった。阿笠に手伝いを頼まれたように自演して、堂々とした態度でトリックの説明に取り掛かる。
ふっと、麻理亜の脳裏に少し前の事件が思い起こされる。新幹線の中。爆弾を空高く蹴飛ばした少年。
『江戸川コナン――探偵さ』
子供らしからぬ不敵な笑みを浮かべ、彼はそう名乗った。
――あの時の……。
麻理亜は既に、彼と出会っていたのだ。この様子だと、コナンの方も気付いていないようだが。
そして、彼は例の記事に映っていた人物。十億円強奪犯自殺――明美の死を報せた、あの新聞記事。
「どうして……?」
事件を解決し、帰ろうとするコナンに哀の言葉がかかる。
「どうしてお姉ちゃんを……助けてくれなかったの?」
コナンはきょとんとしている。
「お、お姉ちゃん……?」
「まだ分からないの!? ヒロタマサミは広田教授から取ってつけた、お姉ちゃんの偽名よ!」
そこまで言われて、コナンはやっと合点がいったらしい。
哀はコナンに詰め寄る。その瞳には、涙が溜まっていた。
「あなた程の推理力があれば、お姉ちゃんの事ぐらい簡単に見抜けたはずじゃない!! なのに……なのに……どうしてよ……!!」
哀の涙声は、悲痛に部屋に響いていた。
本屋のミステリーコーナー。そこに、コナンはいた。本に夢中になっている彼の背後に、じわじわと影が忍び寄る。
二本の腕がそっと彼へと伸び、背後から彼の目を塞いだ。
「だーれだっ」
「わ!?」
コナンは声を上げ、振り返る。
「何だ、紫埜か……」
「背中ががら空きだよ、工藤新一クン」
「何の用だよ?」
コナンは本を棚に戻し、じとっとした視線を麻理亜に向ける。本屋を出る彼の隣に並んで歩きながら、麻理亜は用件を述べた。
「ほら、この前のフロッピーの件。私達が学校行ってる間に返って来たみたい。あなたの家に電話したら、ここじゃないかって言われたから。もちろん、見に来るでしょう?」
「ああ」
コナンらの身体を小さくした薬のデータが入ったフロッピーディスク。殺人事件の証拠品として警察に押収されてしまったそれが、漸く返って来たのだ。哀の話によると、ディスクには薬のデータの他、研究者や出資者のリストも入っているらしい。上手くいけば、組織の壊滅に繋げられるかも知れない。
「……工藤。この前は、ありがとう」
「ん?」
「体調悪いの、気遣ってくれて。あなたの推理のお陰で、早くあの場を離れる事も出来たしね。でも、よく気付いたわね」
「よく似たやつがいるんだよ……辛くても一人で抱えて見せようとしないで、普段通りに明るく振舞うやつがな……」
「ふーん……」
麻理亜はタタタッと少し駆けてコナンを追い抜かし、その正面に向き直って立ち止まる。コナンも、足を止めた。
「高校生探偵、工藤新一。その推理力を見込んで、改めて頼みたい」
麻理亜は真剣な眼差しで、コナンを見つめる。
麻理亜より低い身長、小さな手足。大人用の眼鏡は彼には大きく、顔の輪郭からはみ出ている。何処からどう見ても小学一年生の小さな子供。しかし、その頭脳は大人顔負けの名探偵。
「私は組織を裏切った……ううん。最初から、組織に忠誠なんて誓っていなかった。確かに私は、あなたの言う通り殺人に加担していたわ。言い訳をするつもりは無い。だけど、組織を潰したいと言う気持ちは本当。
私の親友は、組織に殺されたわ。その妹である彼女を、今度こそは守り抜きたい。
私の知る限りの事は、全て話すわ。危険な調査だって、覚悟出来てる。あなたも目的が同じなら、どうか私と手を組んで欲しい。私を信じて欲しいの」
麻理亜は手を差し出す。
コナンはじっと、その手を見つめていた。何度も血に濡れてしまった、その手。
コナンはついと麻理亜の横をすり抜けて行く。
「く――」
「理由はどうあれ、人を殺してたような奴と手を組むなんてできねーよ。灰原の姉の話に関しちゃどうやらおめーらの言う事は本当みてーだが、それだけで直ぐに信用する訳にもいかないしな」
「……」
麻理亜は俯く。言い返す言葉なんて、無かった。
「でも、元組織だからこそ知ってる情報なんかもあるんだろうし、その辺の話は聞かせてもらうぜ。
人が人を殺すのは共感できねーが……大切な人を守りたいって言うのは、俺も同じだからな。利害の一致で、協力してやるよ」
麻理亜は目を瞬く。
佇む麻理亜を残し、コナンは歩いて行く。麻理亜はその背中に駆け寄り、抱きついた。
「ありがとう、工藤!」
「うわっ、おま……放せ!」
コナンはやや赤くなって慌てる。その様子が何だか微笑ましくて、麻理亜は微笑った。
組織に入って以来、初めて安堵感に包まれた心からの笑顔だった。
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Different World
第3部
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2012/01/28