幽かに聞こえた水音。服部が懐中電灯を持って行ったと聞いたコナンは、彼が外に出ていた可能性に思い当たりデッキへと飛び出したが、彼の姿は見つけられなかった。代わりに見つけたのは、舳先の旗の下に倒れた麻理亜の姿。船尾からレストランに皆で戻って来た際に発見され、彼女の身体は部屋へと運ばれた。蘭が傍につき、彼女を看ている。
コナンは顎下に手をやり、考え込む。麻理亜が倒れていた直ぐ傍に使用済みの弾丸が転がっていたが、拳銃そのものは発見されなかった。そして弾痕もまた、辺りに見当たらなかった。もっとも、直ぐにレストランに呼び集められてしまったため、弾痕については十分に捜索出来た訳ではないが。
服部の姿は一向に見つからないままだ。麻理亜は何か知っているだろうか。何故、あんな所に倒れていたのだろうか。何者かに襲われた? 弾丸が落ちていた事から、銃を向けられた可能性は十分にある。しかし、撃たれた弾はどこに当たったのか。麻理亜の身体に、怪我は見られなかった。威嚇として発射されただけなのだろうか。しかし、サイレンサーを付けて?
それに、乗客達の妙な素振りも気になる。恐らく、二十年前の事件で何かあったのだろう。服部がいれば事件の事を聞き出してもらう事が出来るが、彼は見つからないまま。麻理亜も部屋で眠っている。子供の姿であるコナンが聞いたところで、まともに答えてはくれないだろう。
情報を求め、コナンが電話を掛けた先は阿笠だった。幸い、彼は家に帰って来ていて、直ぐに電話に応じた。深夜をとうに回った時間。当然といえば当然かもしれない。最初に銃声が聞こえたのが、零時八分。事件発生からもう、一時間が過ぎようとしていた。
「一時間……」
何だろう。何か忘れている気がする。阿笠の話を聞きながら、コナンは思いを巡らせる。そして、ハッと息を呑んだ。
『効果は前回と同じであればほんの一時間程度ってところかしら……』
「――ヤベェ!!」
「ん? どうしたんじゃ、新一君?」
「悪い、博士! 何か気付いた事があったら、また連絡してくれ!」
イヤリング型携帯電話を切り、コナンはトイレを飛び出す。向かった先は、麻理亜の客室だった。
「あら、コナン君。服部君、見つかった?」
「あ、いや……蘭姉ちゃん、小五郎のおじさんが呼んでるよ」
「でも、小泉さんが……」
蘭は、ベッドの方へと視線をやる。ベッドに寝かされた麻理亜は、うなされているようだった。まだ、子供の姿には戻っていないようだ。
「寝ているだけだし、大丈夫だよ」
「犯人がうろついてるかも知れないのよ? 一人にして行く訳には……私達が鍵を掛けて行っちゃったら、小泉さんが目を覚ました時に困るだろうし……」
「じゃあ、僕が残ってるよ! 蘭姉ちゃんは、レストランに戻って」
半ば押し出すようにして何とか蘭を部屋から退かせ、コナンは息を吐く。しかし、あまりゆっくりはしていられない。
船に乗った麻理亜は、度々手持ちの薬を飲んでいた。恐らくあれが、麻理亜の言っていた試薬品だろう。最後に飲んでいるのを見たのは、レストランでポーカーをしていた時。そろそろタイムリミットである一時間が経過しようとしている。もしかしたらその後コナンの見ていない所で服用した可能性もあるが、事件が起こってからの慌しい中でまだ時間も近付いていなかったのに飲んでいたとは考えにくい。
ちょうどその時、麻理亜の身体に異変が生じた。布団の膨らみがみるみると縮み、顔つきはいつもの見慣れた子供の顔へと変化していく。
間一髪。やはり、この一時間の間、薬を飲んでいなかったようだ。コナンは、麻理亜の肩を揺する。
「紫埜! おい、起きろ、紫埜!!」
いつ蘭や他の人がこの部屋に来るか知れない。それまでに、彼女を起こして薬を飲ませなくてはならない。事態は一刻を争っていた。
No.20
左右を林に挟まれた坂道を、麻理亜は上っていた。風呂敷を大切そうに両腕で抱え、強い風に煽られながらも女の後に続く。
前を行く女は、見慣れた魔法使いのローブ姿でもなければ、マグルの洋服姿でもなかった。形としては、日本の着物や浴衣が最も近いか。しかしそれらとも決して同一ではなく、帯は細い紐を括っただけ、袂はローブと変わらないほどに短く、丈も着物よりずっと短くその下にスカートのように布を巻いていた。そして麻理亜もまた、彼女と似たような服装をしていた。
「本当にこの道で合っているの?」
麻理亜は、前を行く女に尋ねる。女が振り返る。しかしどう言う訳か、その顔は靄がかかったように判然としなかった。
「ああ、この先だよ。もう直ぐだ」
「でも、この先は……」
海しかない。それも、砂浜ではない。切り立った崖になっているはずだ。崖から降りて行く道は、今麻理亜らが上っているこの道しかない。
女は笑った。麻理亜を安心させようとしているようだった。
「言っただろう。あなたは呪術が使えると。鳥のように空を飛ぶ事も出来る」
「でも私、どうやって良いのか分からない」
「大丈夫。仲間が迎えに来る事になっている。向こうへ行っても、元気でね」
麻理亜は、言葉を詰まらせる。
ずっと迷惑ばかり掛けていた。麻理亜がいる事で、彼女達が村でどんなに肩身の狭い思いをしていた事か。それでも彼女達は、麻理亜を見捨てようとはしなかった。いつも、麻理亜を庇ってくれていた。
感謝の気持ちはあれども、言葉にならなかった。こみ上げて来たものを飲み込むように、麻理亜はうつむいた。
間もなく、視界が開けた。左右に迫っていた木々は無くなり、潮の匂いが風に乗って流れてくる。荒れ狂う海の上には、鈍色の空が広がっている。嵐が近付いているのだ。
女は崖の先まで行くと、麻理亜を振り返り手招きした。
「おいで。あれだよ」
言って、彼女は下方を指し示す。
麻理亜は少し足早に、彼女の所へと駆け寄る。女の指差す先は、同じように崖先へ行かなければ見えない。
何の疑いも、持っていなかった。
「どこ?」
女の隣に並び、恐々と崖先を覗き込む。黒い岩肌に荒波が打ち寄せるばかりで、人影らしきものは見えやしない。
顔を上げた麻理亜の隣に、女はいなかった。探すように振り返る。
途端、麻理亜は強い力で肩を押された。
身体が宙に投げ出される。最後に見た女の顔には、怒りも憎しみも、苦渋の色さえも見られなかった。そこにあったのは、安堵。人を突き飛ばすと言う大層な事をしながらも、彼女の表情は酷く穏やかなものだった。
――いや、人ではないのだ。
麻理亜は人ではない。化け物だ。化け物を殺すのに、罪悪感も何もない。
これでようやく、彼女は解放されるのだ。ずっと辛い思いをして来たのだ。彼女達には、自らの苦しみを終わらせる権利がある。
――それでも、信じていたかった。
『麻理亜は、私達の立派な家族だよ。本当の娘のように思ってる』
その言葉を信じていたのに。
あなたは味方なのだと、思っていたのに。
伸ばした腕を、掴もうとする手はない。激しく波打つ水面へと、麻理亜は落ちて行った。
目を覚ました麻理亜の視界に飛び込んで来たのは、焦り顔で肩を揺するコナンの姿だった。麻理亜の覚醒に、コナンはホッと息を吐く。
「目が覚めたか。蘭はおっちゃんの所に向かわせたから、今の内に薬を……」
麻理亜はきょとんと、辺りを見回す。
「海じゃない……?」
「大丈夫か? 俺が分かるか?」
困惑顔の麻理亜に、コナンは尋ねる。麻理亜はぼんやりと虚空を見つめていたが、次第にその目が見開かれて行った。がしっとコナンの腕を掴み、麻理亜は叫んだ。
「工藤! 大変なの! 犯人に襲われて、平次が海に……!」
「な……! それじゃ、オメーやっぱり犯人を……」
麻理亜は首を左右に振った。
「顔は見てないわ。背後から襲われて……正面にいた彼は見たでしょうけど、私を庇って代わりに殴られて海に落ちてしまったから……。私、その後、気絶してしまって……。検討はついているけど、論理的実証は出来ない……」
不可解気なコナンに、麻理亜は僅かに口元に笑みを湛えて言った。
「臭いがね、するのよ。血の臭い……殺生の罪を犯した者には、つきまとって離れない……」
「は……?」
その時、パァンと言う大きな音が鳴り響いた。音は連続して四回。
一発目の音で、コナンは部屋を飛び出していた。麻理亜も後に続きかけ、自分の姿が小さくなっている事に気がつく。このまま外へ出る訳にはいかない。
「えーと、老け薬、老け薬……」
ポケットを探り、麻理亜は凍りついた。
薬を入れた小瓶が、無い。何処かに落として来てしまったのだろうか。もしや、デッキで犯人に襲われた時に?
だとすれば、早く見つけなければ。誰かにこの姿を見られたら、言い訳が出来ない。
部屋を出ようと扉に手を伸ばした矢先に、ガチャリと取っ手が回された。
「!?」
扉が外へと開かれる。部屋へ押し入る男の手にあるのは、黒光りする拳銃。バァンと言う大きな音が船内に響いた。
客室の音は、デッキに出ていたコナンらの所へも届いていた。
「今度は中か!?」
「そんなはずはない、今こっちで銃声がしたばかりだぞ!?」
小五郎と鮫崎が焦りを見せる。ふと、小五郎が足元にある隙間に気付いた。船尾の床は一部が正方形に切り取られ、通路への扉になっていた。
「け、警視殿! まさか奴はここを通ってまた船内に……」
二人と共に、コナンもまた駆け出していた。
コナンの頬を汗が伝う。音が聞こえたのは、船内。恐らく、客室のある方。麻理亜は、犯人と接触している。麻理亜自身は犯人の顔を見ていないと言っていたが、それを犯人も確信しているとは限らない。もし、犯人が口封じをしようとしたならば……。
「おい、扉が一つ開いてるぞ!」
「ま、まさか……あそこは小泉さんの……」
部屋は蛻の殻だった。ベッドと、棚のようになった壁の窪みに金庫が置かれているだけの小さな部屋。隠れるような場所も無い。
麻理亜の姿も、犯人の姿も、部屋の中には見当たらなかった。
「クソッ、平蔵の所のせがれの次は、あの若い姉ちゃんか……」
「そ、そんな……小泉さん……」
「叶だ……犯人は叶に間違いない! あちこちで発砲して、ワシらを撹乱しているんだ!」
「でも、一体何のために……」
「わ、私だ……」
呟いたのは、鯨井だった。
振り返れば、レストランにいた他の者達も部屋の戸口へと集まっていた。青ざめ、涙目になりながら、「死にたくない」と鯨井は口走る。全てを話すと言う彼の話を聞くため、一行は再びレストランへと戻る事になった。
「工藤……工藤!」
囁くような声に、振り返る。
レストランの横のトイレの扉が僅かに開き、身を隠すようにして麻理亜が手招きしていた。
「紫埜!? オメー、まだ薬飲んでねーのかよ? 誰かに見られたりでもしたら……」
「その薬を、落としちゃったみたいなのよ。船の舳先辺りで、これくらいの小さな小瓶、見なかった?」
「いや、見てねーな……。ったく、犯人に襲われたのかと心配したんだぞ?」
麻理亜は肩をすくめて苦笑する。
「ごめんごめん。まあ、襲われた……と言うか、犯人が部屋に来たのは確かなんだけど……」
「な……」
「でも、大丈夫。その前に、逃げたから。あと、私の部屋からした音も気にしないで。犯人が仕掛けたんじゃなくて、私が出した音だから」
「それじゃあ、やっぱりオメー……」
「顔は見てないわよ。だけど、犯人の方はそうは思ってないみたいね……。薬が見つかったとしても、元に戻ったらかえって危険かも」
元の姿に戻っても、命を狙われるのでは迂闊に姿を現せない。今の小さな姿なら、元の姿よりも隠れやすい。
ハタと、麻理亜は思い出したように言った。
「そう言えば工藤、あなたの幼馴染って、あなたの正体を知っているの?」
「蘭の事か? んな訳ないだろ」
「そう? それにしては……」
「コナン君、何してるの?」
レストランから蘭が顔を覗かせ、麻理亜はサッとトイレの中へと身を隠した。
コナンは慌てて蘭の方へと駆け寄る。
「ねえ、蘭姉ちゃん。小さい小瓶見なかった? 小泉さんが、探してるみたいで……」
「小泉さん? 小泉さん、見つかったの?」
「う、うん。さっきまでいて、また探して来るって……」
蘭も老け薬の入った小瓶は拾っていないようだった。コナンは蘭に手を引かれながら、レストランへと去って行った。
二人がいなくなり、麻理亜はそっとトイレの扉を開けレストランの戸口を見つめる。
『小泉さん、コナン君の事、よく知っているんですか?』
『どーしてそんなにコナン君の事、解っちゃうの?』
蘭から投げかけられた言葉。
事件に巻き込まれた古城で、歩美が哀に投げかけていた言葉。
その二つは、似た印象を麻理亜に与えた。
「まさか……ね」
誰もいない廊下で、麻理亜はひとりごちるように呟いた。
平次が海に落ちた。それを知るのは、麻理亜と犯人のみ。犯人が誰かに告げるはずもなく、麻理亜も人前に姿を見せる事が出来ない。となれば、麻理亜自身が彼を捜索するしかない。
掃除用具入れから拝借した箒を片手に女子トイレを出ようとした矢先、今日で何度目かの銃声が船内に響いた。続いてレストランから聞こえる、呻き声。
誰か撃たれたのだろうか。呻き声を上げていると言う事は、死んではいないようだ。
麻理亜は、扉を細く開けヤキモキとレストランの方を伺い見る。ここにこもっていては、状況が掴めない。しかし、今、音がしたと言う事は、恐らく鮫崎辺りがまた飛び出して来るだろう。
予想通り、間もなくレストランから人が駆けて行く足音がした。従業員も向かっているのだろう。廊下をバタバタと走る足音が重なる。
一通り足音が過ぎ去って、麻理亜はそっとトイレを出た。船から飛び立つなら、皆が舳先の方に集まっている今の内だ。
時折廊下を行き交う従業員から身を潜めながら、麻理亜は皆が集まるのとは反対側へと向かう。船尾に出て、麻理亜は足を止めた。
デッキの端に安置された焼死体。
胸を突かれるような思いで、麻理亜はそれを見つめる。事が起こってからではなく、殺意を抱く者の匂いを嗅ぎ分ける事が出来れば。そうすれば、彼の死を防げたかも知れないのに。平次が突き落とされる事もなかったかも知れないのに。
――それに、明美も……。
「でも坊や……本当にこうしろって毛利探偵が言ってたのかい?」
近づく声と足音に、麻理亜は我に返った。声が近づいて来るのとは船室を挟んで反対側へと回り込む。
船尾へとやって来たのは、コナンと二人の従業員だった。従業員は、大きなトランクを引いている。あれは確か、海老名が持っていたものではあるまいか。
従業員は、海老名のものと思われるトランクを船尾の手すりから繋いだゴムボートに乗せ、船から降ろした。彼らは焼死体を気味悪そうに見やりながら、早々に船内へと引き上げて行った。
「誰か、撃たれたみたいね……」
コナン一人になり、麻理亜は物陰から姿を現す。
「まだ薬は見つかってねーのか?」
「この通り」
麻理亜は軽く肩をすくめる。
「それで、さっきの銃声は?」
「ああ……鯨井さんが撃たれたんだ」
「鯨井さんが!?」
麻理亜の驚きを取り違えてか、コナンは安心させるように笑った。
「でも彼は大丈夫、腕に当たっただけで命に別状は無い……。それより、舳先で蟹江さんが死んでいたんだ……頭部に銃痕、手には拳銃を握ってな……」
コナンは、短パンのポケットから一枚の紙切れを取り出す。このツアーの募集記事を切り取ったもの。
「もし犯人が蟹江さんでこの古川大の正体も蟹江さんだとしたら、ほとんど事件の辻褄は合うけど……納得いかねーんだよな……」
言って、コナンは考え込む。彼の手から紙切れが飛び、コナンは慌ててそれを追い駆ける。再び人がこちらへ来るのに気づき、麻理亜はまた物陰へと隠れた。
次に船尾へと現れたのは、蘭だった。
「もー、いっつもいっつも、心配ばかりかけて……」
「あ、だからね……」
「お願いだから、一人にしないで……」
夜風が、蘭の長い黒髪をサラサラと揺らす。
コナンは蘭に手を引かれ、船内へと戻って行った。麻理亜は厳しい表情で、その後姿を見つめる。
――やっぱり、彼女……。
蘭の態度は、小学生の江戸川コナンに対するものではない。気付いているのだ、彼の正体に。
麻理亜はふいと踵を返し、手摺の傍に立つ。彼女の事は後だ。今は、海に落ちた平次を捜索しなければ――
「――紫埜!」
「えっ、わっ!」
手摺へとよじ登っていた麻理亜は、突然声を掛けられ体制を崩す。間一髪、手摺の下部に掴まり落下を逃れる。軽い水音を立て、箒が波に呑まれて行った。
コナンが慌てて駆けて来る。彼の手を借りて、何とかデッキへと這い上がった。
「ったく……やっぱりお前、服部を探す気だったんだな。こんな暗い中泳ぐつもりだったのか? どれだけ泳ぎに自信があるのかしらねーけど、無茶だろ。ましてや今は、子供の体で体力だって落ちてるだろうし……」
「別に、泳ぐつもりはなかったわ……」
かと言って、空を飛ぶのも無謀である事には代わりないが。
「それで? 私を止めるために、戻って来たって訳? 西の高校生探偵君を見付ける手立てでも浮かんだ?」
「いや……あいつなら、心配いらねーよ」
そう言って、コナンは口の端を上げて笑った。
船の操縦から離れられない一部の従業員を除き、全ての船乗員が船の舳先へと集められた。鮫崎が集まった面々を見回す。
「おい、小泉がいないようだが……」
「小泉さんは僕が呼びに行ったんだけど、体調が優れないから部屋で寝てるって!」
言って、コナンは毛利の陰に隠れて蝶ネクタイを口元に当てる。
「彼女ならこの場にいなくても問題ありません。犯人に襲われたものの顔は見ていないようですし、事件には関与していませんから……」
――世話掛けるわね、工藤……。
老け薬の入った小瓶は、未だに見付からなかった。子供の姿の麻理亜は、物陰に隠れるようにしてコナンの推理を聞いていた。
犯人は、己の犯行を認めようとしなかった。指摘された証拠でさえも、その場で揉み消してしまう始末。騒ぎの中、コナンが小五郎の声でゆったりと呟いた。
「星が……きれいですなぁ……」
きょとんとする中、小五郎の顔がコナンの手で動かされる。
「おや? 何ですか? 左舷から近づいて来るあの妙な星は……」
左舷側に隠れていた麻理亜は、海を振り返る。客船へと近づいて来る、一つの光があった。暗闇の中、それは眩く、それこそ輝く星のよう。
そしてその舟の舳先に、身を乗り出すようにして立つ色黒の少年がいた。
「平次……!」
「彼は舳先にくくりつけられた蟹江さんを発見し、あなたに殴り倒された生き証人! もう、申し開きは出来ませんな……」
犯人は顔面蒼白で、観念したようにその場に崩れ落ちた。
海に落とされた平次は、幸運にも通りかかった漁船に持っていた懐中電灯で合図を送り助け出されたらしい。水を吸収する服は脱ぎ捨て、残ったのは下着とお守りだけ。じっとお守りを見つめる平次を、蘭がからかう。どうやら、あのお守りは和葉から貰ったものらしい。
「……あれ? お守りに、何か入ってない?」
呆れたように見つめていたコナンが、ふと声を上げる。コナンの言うとおり、お守りにしてはやけに立体的な形になっていた。口の部分を開けて、無理矢理何か突っ込んでいるようだ。
「せやせや、もう一個あったわ。船ん中で捜査しとった時に拾ったんやけど、もしかしたら事件の手がかりかもしれん思てなァ……」
お守りから出て来たのは、透明の液体が入った小さな小瓶。麻理亜は目を見開く。
どうにかして、彼らに気付かせなければ。辺りをきょろきょろと見回し、そして麻理亜は自分の腕に目を留めた。
博士に作ってもらった、腕時計型ライト。麻理亜はそれをはずすと、三人の方へと投げた。
足元に落ちた時計に、コナンが振り返る。この船でこの時計を持っているのは、コナンと麻理亜だけ。直ぐに察したコナンは、物陰に隠れる麻理亜の方を見た。
――それ! それ、私の!
手を振り、指を差し、精一杯アピールする。コナンは察してくれたようだった。
「それ、小泉さんが探してた物だよ。すっごく心配してたから、早く届けてあげた方が……」
「そう言えば、あの姉ちゃんの姿が見えへんな。無事だったんか?」
「うん。デッキで倒れてるのを見付けたんだけど、特に怪我はしてなかったよ。でも、まだ体調が悪いみたいで部屋に……」
「せやったら、届けて来るわ」
言って、平次は船内へと入って行く。
麻理亜はそっと彼の後を追い、人気のない廊下で呼び止めた。
「そんな格好のまま、女の子の部屋を訪ねる気?」
平次は振り返る。お約束のようにきょろきょろと辺りを見回す彼に、麻理亜は言った。
「下よ、下! 早く届けてくれようとするのはありがたいけど、服ぐらい着てからでいいわよ」
平次は足元にいる麻理亜を見下ろし、目をパチクリさせていた。
「え……お前が、あの乳のでっかい姉ちゃん……?」
「ち……!?」
あまりにもストレート過ぎる言い方に麻理亜が顔を赤らめるのにも構わず、平次はしゃがみ込んだ。
「お前も工藤と同じで小っさくされとるんやったな。元の姿やとよう分からん姉ちゃんやったけど、こうなるとただのガキやなァ」
平次は子ども扱いをするように、麻理亜の頭をぞんざいに撫でる。麻理亜は身じろぎした。子供扱い以前に、頭に触れられるのはどうにも苦手なのだ。
平次から受け取った老け薬を飲み、麻理亜は皆のいるデッキへと姿を現した。コナンの話で無事だと伝えられているとは言え、実際に姿を見せたのは蘭に看病されていた時が最後。その後に麻理亜の部屋で銃声のような音がしているのだ。警察が来る前に姿を消すにしても、一度無事は確認させておいた方が良い。
麻理亜の姿に蘭を始め乗客達は表情を明るくしたが、一人だけ恐ろしいものでも見るかのように震え上がった者がいた。
「ば……化け物だあ!! 化けて出て来たんだああ!!」
叫び声を上げたのは、事件の犯人。麻理亜と一緒に戻って来た平次が眉を潜める。
「ハァ? あんた、何言うて……」
「わ、私は君を殴った後、確かに彼女を撃ったんだ! 弾は確かに彼女に当たった……でも、何の効果もなかった! 頭だぞ!? 防弾チョッキなんて可能性もない……彼女は、生身で弾を弾いたんだ!!」
麻理亜は黙り込んでいた。ただ静かに、彼を見つめる。
「それだけじゃない! その後、彼女の部屋に行ったら……彼女の姿が、一瞬で消え失せたんだ! 扉を開けて直ぐ消えたから一瞬だったけど、でも確かに人の形をしていた……それが、空中の一点に引き込まれるかのように……」
「何を訳の分からない事を……」
「あんた、心当たりはあるか?」
平次に問われ、麻理亜は首を左右に振る。そして、苦笑した。声には、哀れみの色を滲ませる。
「彼、錯乱してるみたいね……無理もないわ。こんなに人を殺して、ばれやしないかって恐怖から幻覚でも見たんじゃないかしら……」
「わ、私は錯乱などしていない!!」
どんなに喚こうとも、彼に分はなかった。彼は加害者、麻理亜は被害者。立場どころか、彼の言っている事はまるで現実性がない。……マグル――魔法とは縁の無い世界の者達にとっては。
事実、麻理亜の身体は銃が効かないのだ。彼が部屋を襲撃した時も、麻理亜は姿くらましを使った。恐らく、そこにいたのが子供の姿だとは分からない程にほんの一瞬、彼は麻理亜の姿を見たのだろう。姿くらましにより、その場から消える瞬間を。
「密室からの消失……」
平次がぽつりと呟く。きょとんと振り返ったコナンと蘭に、彼は言った。
「いや、なんや似たような話を聞いた事があるような気ィしてな。たぶん、何かの事件やろ」
麻理亜はただ黙して、船内へと連れて行かれる犯人を見つめていた。
船は本州へと引き返し、港では警察が待ち構えていた。犯人の他、乗客達も事情聴取を順々に受けている。その中に麻理亜の姿はなく、彼女は一人、少し離れた倉庫街に身を潜めていた。老け薬の効果が切れるのを待ち、物陰から出る。
「もうちょっとこの辺りにいなよ。もう直ぐ博士が迎えに来るからさ」
人気の無い倉庫の間に、コナンの声が響いた。
麻理亜は、歩きかけていた足を止め振り返る。
「あら、それだけを伝えるためにわざわざここまで来てくれたの? ガールフレンドが心配するんじゃない?」
「ちょっと聞いておきたい事があったんでね」
そう言って彼が取り出したのは、白いハンカチに包まれた弾丸だった。
「オメーが倒れていた傍に落ちてたんだ。あの後改めて探してみたが、辺りに弾痕は無かった。威嚇で上に向けて撃ったなら、弾痕も残らないだろうが……あの時、銃声は聞こえなかった。服部にも確認したが、威嚇射撃なんてされなかったらしいな。犯人は、服部を殴り倒した後に紫埜を撃ったと供述している。お前は幻覚だと言ったが、ここに弾丸があると言う事は――」
「撃ったんじゃない? 気絶した私の事を」
麻理亜は軽く肩をすくめ、コンクリートの淵に立つ。少し下に打ち寄せる波は、浜辺に比べて弱々しい。夢の中のあの崖先とは、似ても似つかなかった。
「撃ったんじゃって……」
「私に銃は効かないわ。刃物も、毒薬も。でもまさか、そう話す訳にはいかないじゃない? だったら、事件自体無かった事にしてしまった方が良い。どうせ、小泉和葉は事情聴取なんて受けられないんだしね……」
毒に限らず、口にしたもので体調を崩す程度ならば無い事も無い。しかし、それが死に至る事はない。
これまでに麻理亜を貫く事が出来たのは、ゴブリン製の剣のみ。この世界に、ゴブリンはいない。
「紫埜……お前、一体何者なんだ……?」
「さあね。知らないわ」
黒く染められた髪を風に靡かせ、麻理亜はコナンを振り返る。怪訝気な彼に、麻理亜は笑いかけた。
「無いのよ、記憶が」
魔女。そう言った意味では、コナン達とは異なる存在かもしれない。しかし、魔法使いや魔女でも、麻理亜のように刃物も銃弾も通さない者などいなかった。マグルより長生きの者はいても、不老不死なんてニコラス・フラメルとその夫人ぐらい。彼らの場合は賢者の石によるものだから、別物だ。
魔女だと言う事を明かしたところで、それはコナンの疑問への回答にはならない。
「目が覚めたら、イギリスのとある廃城にいた。私を見付けた人達は、誰も私の事など知らなかった。紫埜麻理亜って名前さえも、本当に私の名前なのか分からない」
足音がして、麻理亜とコナンはそちらを見やった。
倉庫の陰から、眉の下がった表情の阿笠と、その後ろに続く哀が姿を現した。迎えに来たものの、麻理亜もコナンも見当たらず探しに来たのだろう。
「麻理亜君……」
「その様子だと、聞いていたのね……。別に、隠すつもりはなかったのよ。聞かれなかったから、言わなかっただけ。話したところで、どうにかなるものでもないしね」
「じゃが……記憶を失くす前の家族や知り合いを探すぐらいは……」
「無駄よ。……もう、誰もいるはずないもの」
記憶を失くして直ぐならば、望みはあったかもしれない。実際、何度も日本へも渡り、手がかりを探した。しかし、見付ける事は出来なかったのだ。
麻理亜の外見年齢は、十代後半から二十代前半程度。それでも見付からなかったと言う事は、記憶を失くした時点で既に年齢が止まってから何十年あるいは何百年も経っていたのかも知れない。
麻理亜はしんみりとした空気を払拭するかのように明るい声を出す。
「さ、帰りましょう。あんまり長居して、警察に見付かったら厄介だもの。工藤も、早く戻らないと心配されるだろうしね」
もう何百年と、思い出せないまま過ごしているのだ。知りたいと言う欲求こそあれども、今更、悲壮感も何もない。
戸惑う阿笠らの横を通り抜け、麻理亜はいつものビートルが停められている方へと歩いて行く。哀が直ぐ麻理亜の後に続き、阿笠も我に返ったように後を追って来た。阿笠は何か言いたげだったか、何も言わずにビートルを発車させた。
ビートルは何事も無かったように道路を行き交う車の流れに溶け込む。通りかかった港では、まだ警察や事件の関係者達が集まっていた。
港を通り過ぎてから後部座席の窓を開け、麻理亜は小さくあくびをする。思えば、事件のせいで一晩中起きていたのだ。眠くなるのも無理はない。
遠ざかる潮騒を聞きながら、麻理亜はそっと目を閉じた。
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2013/07/31