薄暗がりの中、舞台に並ぶのは五十もの大きな卵。その一つ一つには、試遊を許された選ばれし子供達が入っている。
最新技術によるゲーム機の楽しい体験会になるはずだったその会場は、騒然としていた。
「我が名はノアズ・アーク。ゲームはもう止められない……体感シミュレーションゲーム『コクーン』は、ボクが占拠した……」
暴走し、ゲームを乗っ取った人工知能は高らかに宣言する。
「我が目的は……日本と言う国のリセットだ!」
+++劇場版名探偵コナン「ベイカー街の亡霊」
新しいゲームにワクワクと顔を輝かせていた子供達は次第に暗くなり、しまいには泣き出す子までいた。
無理もない。ゲームオーバーになったら、電磁波で脳を破壊される。プレイヤー達に逃げる術はなく、ゲームに参加するしかない。まさに、命を賭けたゲームだ。
そして、選ばれたのは小学生以下と思われる子供達ばかり。高校生以上の参加者は、園子が特例だったらしい。もっとも、恐らく彼女からバッジを貰ったのか、この場にいるのは園子ではなく蘭だが。
「皆、元気を出して! 勝負する前から負けちゃ駄目!」
陰鬱とした空気の中、蘭が明るい声で呼びかけた。
「そうだよ! たった一人、ゴールに辿り着けばいいんだから。これから、自分が生き残れそうなステージを選んで!」
コナンも後押しする。子供達はぞろぞろと、五つのステージの入口へとそれぞれに移動を始めた。
麻理亜は、暗いホール円形に設置された五つのアーチをぐるりと見回す。ヴァイキング、パリ・ダカール・ラリー、コロセウム、ソロモンの秘宝、そしてオールド・タイム・ロンドン。
麻理亜一人ならば、コロセウムやソロモンの秘宝が向いているかもしれない。剣の腕には自信があるし、隠し通路に満ちた広大な城ならホグワーツで慣れている。――でも。
麻理亜は、一つのアーチに目を向ける。オールド・タイム・ロンドン。迷宮入りとなった現実の事件の犯人を捕まえるサスペンス・ミステリー。少年探偵団と蘭は、迷わずそのアーチの方へと歩いて行く。ゲーム開始前に会った、四人の生意気な子供達も同じステージのようだった。
哀がいるならば、麻理亜の選択肢は一つだ。
守れなかった友。今度こそ守ると心に決めた彼女。
(志保……あなたは絶対、私が守るから……)
麻理亜はキッと前を見据えると、彼らの後に続きアーチを潜って行った。
煉瓦造りの街並みには霧がかかり、ガス灯の明かりが薄ぼんやりと浮かび上がる。人の姿はなく、足音も声も霧と闇に吸い込まれていくかのようだった。
「これが霧の都ロンドン……? ロマンチックと言うより不気味ね……」
「なんか、空気も汚れてるみたい……」
「臭いもするぞ!」
元太がクンクンと鼻を鳴らす。コナンが振り返り、解説した。
「ロンドンの霧ってのは、水蒸気が凝結しただけのきれいなものではなく、石炭や石油を燃やした煤煙が霧と複合してできたスモッグの事なんだ……」
「へえ、こんな時代からスモッグってあるんだ……」
霧と共に満ちた静寂を、鋭い悲鳴が切り裂いた。
「ジャック・ザ・リッパー!」
悲鳴が聞こえた方へと、コナンは真っ先に駆け出す。麻理亜達も慌ててその後を追う。
早速か。最初はチュートリアル程度のイベントで、あまり危険な事はないと良いのだが。
細い通りを抜けた先に、二つの人影があった。一人は地面に寝そべり、一人はその上に覆いかぶさるようにしてナイフを振りかざしている。
「やめろ!!」
コナンの声にナイフを持った人物は、素早く逃げ出す。コナンはいつもの如くキック力増強シューズで地面に転がったハンドバッグを蹴ろうとしたが、バッグが逃げて行く影へと届く事はなかった。
「痛ってーっ!」
コナンは足を抑えて呻く。麻理亜は目を瞬いた。
いつもなら、驚異的な威力を持って蹴った物を飛ばす、阿笠の発明品。どうやら、このゲームの中では役に立たないらしい。
麻理亜は皆の後ろで、そっと杖を振り唱える。
「……ルーモス」
杖先に変化はなく、ただの棒きれでしかなかった。杖をしまうと、軽く手を握り意識を集中させる。……こちらも、駄目だ。魔法も剣も、発明品同様、この世界では使えないらしい。
「――何て事だ!」
男の叫び声がした。見れば、通りすがりの人物が死体を発見し、人を呼ぼうとしていた。
「ジャック・ザ・リッパーが出たぞ!!」
「何て言ってるの?」
「え?」
歩美の言葉に、麻理亜は目を瞬く。光彦が困惑したように言った。
「これ、英語みたいですね……」
「『ジャック・ザ・リッパーが出た』って話してるわ……」
「麻理亜、英語が分かるのか!?」
「まあね……一応、そっちの方に住んでたから……」
麻理亜は曖昧に答える。
実際、イギリスに住んでいたのだから嘘ではない。ただ、麻理亜の場合、聞こえるのはいつも一つの言語。それが日本語か英語かも判断し難い状態なのだが。
「あ、日本語になりましたよ」
光彦が呟いた。どうやら、システム設定が切り換えられたらしい。
「まるで本物の世界だな……」
「見るもの聞くもの、肌寒さも全て本物です……」
「足の痛さも本物だったぜ……」
侘しかった通りには今や人が集まり、被害者を取り囲んでいた。警察も現れて、物々しい空気が満ちる。ここまで騒ぎになると、もうジャック・ザ・リッパーは姿を現さないだろう。麻理亜達はそっと、その場を離れて行った。
「……ったく、犯人を捕まえろったって、何処を探しゃいいんだよ!」
橋の欄干によりかかり、諸星がイライラと叫ぶ。
犯人の姿は見失ってしまった。ゲームなら、何か手掛かりは用意されていそうなものだが、いったい何処へ向かえば良いのか見当もつかない。
「ここがホワイトチャペルの辺りだろうって事は分かるんだけど……」
麻理亜の声に、コナン達が一斉に振り返る。問うような視線に、麻理亜は川の向こうに見える城を指差した。
「ほら、あそこにロンドン搭が見えるでしょう? こっちの方まで来たのは初めてだけど……何処へ向かえば良いかさえ分かれば、大まかな場所は頭に入ってるわよ。街並みも、実際のものに忠実に作られているみたいだし……」
「でも、19世紀のロンドンって百年以上も前よ。道が変わってたりしない?」
「え、あ、そうね……でも、有名な建築物を目安にすればだいたいはわかるかなーって」
蘭の突っ込みに、麻理亜はしどろもどろに答える。麻理亜にとっては二十年も経っていない頃の事だが、それは蘭達は知らない。
「朝になってニュースなどの情報が出るのを待った方が良いのでしょうか……」
「寒い……」
半袖のワンピースを着ていた歩美が、腕をさする。コナンと光彦が、すかさず上着を脱ぐ。
「これを着ろよ……」
タッチの差で、早いのはコナンだった。光彦はコナンと歩美を横目で見ながら通り過ぎ、脱いだ上着を哀へと渡した。
「灰原さん、上着をどうぞ……」
「あら、ありがとう……」
二組のやり取りを眺めていた元太が、いそいそと上着を脱ぐ。そして蘭と麻理亜とをキョロキョロと見比べる。麻理亜は苦笑した。
「いいわよ、私は長袖だから……」
元太はうなずくと、蘭へと上着を差し出した。
「これ、着ろよ!」
「えっ? それじゃ、元太君が……」
「俺は暑がりだから平気だよ!」
蘭は少し申し訳なさそうながらも、元太の上着を受け取った。
その時突然、何処からともなく声が聞こえて来た。
「――聞こえるか、コナン君! 阿笠じゃ!」
思わずきょろきょろと辺りを見回すが、阿笠の姿はない。DBバッジも、この世界ではキック力増強シューズ同様、ただのバッジだ。どうやら、ゲームの外から通信を行っているようだった。
「よく聞くんじゃ! そのステージでは傷を負ったり、敵や警官に捕まったりするとゲームオーバーになるぞ!
今、君達がいる場所は……イーストエンドの、ホワイト・チャペル地区じゃ!」
「麻理亜が言った通りだな!」
口を挟む元太に、光彦と歩美が「しーっ」と指を立てて注意する。阿笠の説明は続いていた。
「そこから、お助けキャラのいるベイカー・ストリートまでは――」
そこで、阿笠の声は途切れた。コナンが声を張り上げて話しかける。
「どうしたの、博士!? 聞こえないよ!」
突然、橋が大きく揺れた。轟音を立て、次々と足場が崩れて行く。
麻理亜達は、崩壊から逃げるように岸へと走る。
「うわあっ!」
菊川が足を踏み外した。瓦礫と共に消える菊川の腕を、コナンが咄嗟に掴む。麻理亜達も急いで戻りコナンを支える。
コナン、蘭、麻理亜、哀、元太、光彦、歩美の七人がかりで菊川は引き上げられ、何とか難を逃れた。
「博士の声、聞こえなくなりましたね……」
「ノアズ・アークに交信を切断されたようだな……」
「じゃあ僕たち、どうやってお助けキャラを探せばいいんです?」
「それならさっき、警官が話してたろ? レストレード警部に連絡だってな……!」
コナンの言葉に反応したのは、意外にも蘭だった。
「えっ……!? まさか、あの話に出て来るレストレード警部? でもあれば、コナン・ドイルの推理小説に出て来る人物でしょ?」
「このゲームは、現実と小説を混ぜてある世界なのかもね……」
「じゃあ、お助けキャラって――」
「ああ、いるはずだよ……あのシャーロック・ホームズがな!」
ぱあっと子供達の表情が明るくなる。マグルの小説と言えども、麻理亜もホームズの名は聞いた事があった。そのほとんどは、コナンの話だが。
「ホームズがいれば、百人力ですね!」
「ほんと!」
「このステージはいただきだぜ!」
「そうと決まれば、紫埜! ベイカー・ストリートまで行く道って分かるか? リージェンツパークの近くなんだけど……」
「オッケー、任せて! テムズ川沿いに行って、チャリング・クロスの辺りから大通りに沿うのが分かりやすいかしらね」
ベイカー・ストリートまでは、子供の足には長い道のりだった。大人でも、この距離を好き好んで歩いたりはしないだろう。かと言って馬車に乗せてもらえないのか頼るのは何が起こるか分からないし、マグルの公共交通機関は麻理亜も勝手が分からない。リスクは最小限に抑えるに越した事はない。
「おい、あの時計、おかしくないか」
テムズ川沿いに見える時計塔を指差し、ふと諸星が言った。彼の言葉につられるようにして、麻理亜達も時計を振り仰ぐ。
針は、深夜の零時五十分を指していた。長針が、カチリと四十九分へと戻った。
「針が戻ったぞ!」
元太が指をさし叫ぶ。見ている間に、更に針はもう一分戻った。
「まるでカウントダウンね……」
麻理亜はぽつりとつぶやく。ハッと哀が息をのんだ。
「五十分からのカウントダウンって、まさか……」
コナンを振り返る。コナンはうなずいた。
「ああ……恐らく、あれはゲームに参加している子供の数だ。二分戻ったって事は……」
「誰か二人、別のステージでゲームオーバーになったのね!?」
蘭が言葉の後を継ぐ。
麻理亜は厳しい表情で再び時計を見上げる。針は更に、三分戻っていくところだった。
今のこの世界のロンドンはどうだか分からないが、二十年やそこらで道が大きく変わる事はない。ベイカー・ストリートへの道のりは特に迷う事もなく、順調だった。
通い慣れた道で、麻理亜はふと足を止めた。麻理亜の道案内に従って歩いていた一行も、足を止める。
「着いたのか?」
「いや、まだだと思うけど……」
コナンが辺りを見回しながら言う。歩美が不安そうに麻理亜の顔を覗き込んだ。麻理亜は、通りの一点を見つめていた。
「麻理亜ちゃん、どうしたの?」
「あ、ううん。何でもないの……ごめんなさい……さ、行きましょ。もう半分は超えたわ」
明るく言って、麻理亜は再び歩き出す。
通り過ぎながら、見つめていた建物を横目でちらりともう一度見やった。
(やっぱり、『漏れ鍋』は無いわよね……分かっていた事だけど)
紅子に確認して、この世界に魔法省や麻理亜がいたような魔法社会が存在しない事は分かっている。例えあったとしても、マグルに認識されないあのパブがゲームの世界に再現される事はないだろう。
分かっていても、見慣れた景色の中にあるはずの建物が無いと言うその光景は、改めてここが麻理亜がいたのとは別の世界なのだと言う事を再認識させるものだった。
また事件があったらしいと言う話を小耳に挟んだり、怪しい歌を歌う浮浪者とすれ違ったりしつつも、麻理亜達は目的地へと辿り着いた。
ベイカー・ストリート221B、シャーロック・ホームズが住まう下宿に。
辿り着いたものの、シャーロック・ホームズは不在だった。ちょうど、遠くで発生した別の事件の日とかち合ってしまったらしい。これも、ノアズ・アークによる妨害だろうか。幸い、麻理亜達は作中でホームズの協力者である子供達と間違えられたようで、下宿に上がり込む事は出来た。
「それにしても、江戸川はともかく……蘭お姉さんもシャーロック・ホームズについて詳しいのね。私、ビックリしちゃった!」
部屋に通されながら、麻理亜は蘭を振り仰いで話す。蘭は苦笑した。
「新一に、しつっこく聞かされてたから……でも今回は、それが役に立ってるわね」
「『しつっこく』は余計だよ……」
ぼそりと呟かれたコナンの声を聴いたのは、麻理亜と哀だけだった。
通された部屋には、コナンのみならず子供達も大はしゃぎだった。コナンの指示で、ホームズの資料の中からジャック・ザ・リッパーについての物を探す。蘭が、一冊のファイルを掲げた。
「あったわ! これじゃない?」
丸机の上に開かれた資料を、麻理亜達は取り囲む。
ジャック・ザ・リッパー。19世紀末、ロンドンに実在した連続殺人犯。被害者は売春婦ばかり、犯行も被害者をバラバラに切り裂く、犯行予告を新聞社に送り付けるなど、実に派手なものだった。現実のジャック・ザ・リッパーは逮捕に至らず、そのまま迷宮入りしている。事件は1888年8月31日の物が最初とされているが、その他にも同一犯と見られている事件は存在する……。
「……思い出したわ! 前日に近くで殺人事件があったとかで学校にも通達が来て、汽車の時間が変わったりもして、マグル出身の子達が凄くピリピリしてしてたのよ……」
「思い出したって……100年以上前の話ですよね?」
「って、ロンドンの学校の人が書いた手記で読んだ事があって……」
怪訝そうな光彦に、麻理亜は慌てて言い繕う。
「一番最近起きた事件は……9月8日!」
コナンは構わずページをめくり、資料を読み上げる。2人目の犠牲者の事件だった。被害者はやはり女性。遺体が発見されたのは、ホワイト・チャペル地区のセント・マリー協会に隣接する空き地。殺人現場には、サイズの異なる二つの指輪が遺されていた……。
ホームズの推察では、モリアーティ教授が裏で糸を引いているのではないかとの事だった。シャーロック・ホームズだけでなく、彼の宿敵もゲームの中に登場しているらしい。モリアーティの名前を聞くなり、哀は別の資料を探し始める。
「でも、モリアーティ教授は影で糸を引いているけど、なかなか姿を現さない人物よ……。どうやって辿り着くの?」
「教授が姿を現さないのなら、彼に繋がる人物と接触するんだ――セバスチャン・モラン大佐に!」
「そっか! 教授の腹心の部下、モラン大佐! あ、でも、大佐だって何処にいるのか……」
「ホームズのメモによると、大佐が根城にしているのは、ダウンタウンのトランプクラブよ」
ちょうど手掛かりを見つけた哀が、読み上げる。コナンはうなずいた。
「ロンドン第二の危険人物だから、接触は注意しないとな……」
「コナン君……よく知ってる……」
「あ、ほら、僕も新一兄ちゃんによく聞かされたから!」
蘭に突っ込まれてコナンは慌てて話す。
部屋の中を物色していた元太が、不意に歓声を上げた。
「うっひょー! 本物の銃だぜ!」
「戻すんだ、元太!!」
即座にコナンの鋭い声が飛んだ。
「で、でもよう、おっかない奴に会いに行くんだろ?」
「使い慣れてない武器は役に立たないし、争いの元だ! 置いて行け!」
「お、お前の方がおっかねぇな……」
元太は渋々、銃を引き出しへと戻した。
コナンは資料から指輪の写真を剥がすと、麻理亜らを振り返った。
「さあ、遅くならない内に行こう! 紫埜、また道案内を頼む」
「オッケー! さ、皆ついて来てねー。イギリスツアー出発よ!」
「ツアーって、麻理亜ちゃんったら……」
歩美がクスクスと笑う。麻理亜は先頭に立ち、ホームズの部屋を後にした。
この大人数で行けばどうしても目立ってしまう。トランプクラブに着くと、まずはコナンが一人、偵察に店の中へと入って行った。
「コナン君、大丈夫かな……」
「彼なら大丈夫よ。信じて待ちましょう……」
不安そうな歩美を哀が励ます。
「麻理亜ちゃん、本当にこの辺りの地理に詳しいのね。転校生なんだっけ、もしかしてこっちに住んでいたの?」
蘭の問いに、麻理亜は軽く肩をすくめる。
「住んでたのはロンドンじゃないけど……でも、駅をよく使っていたから。キングズ・クロス駅とか、チャリング・クロス駅とか……近くによく行くお店があって……」
「あ、それってもしかして、さっき足を止めてた……?」
光彦が思い出したように言う。麻理亜はうなずいた。
「さすがに、そのお店まではこのゲームの中になかったけどね。現実世界でも、今もあるかどうか分からないし……」
「その店、美味いのか?」
「元太君……食べ物のお店とは一言も言ってませんよ……」
「あれ? 諸星君と滝沢君は?」
歩美の声に、麻理亜はハッと辺りを見回す。
この場にいるのは、麻理亜、哀、蘭、歩美、元太、光彦、菊川、江守――諸星と滝沢がいない。
「まさか、あの子達……!」
その時、店の中から銃声が響いた。咄嗟に、蘭が駆け込んで行く。
「蘭お姉さん! 待って!」
店の中は乱戦状態だった。コナンを襲う男に、蘭が鉄拳制裁を食らわせる。
続々と現れた麻理亜達にも、男達は襲い掛かる。麻理亜はそばのカウンターに置かれたワインの瓶を手に取ると、襲い来る男の顔へと投げ付けた。更に、哀に襲い来る男へも殴りつける。
せめて、剣があれば。椅子やら瓶やらで応戦しながら、麻理亜は歯噛みする。子供の身体では、大の大人に立ち向かうには到底足りない。ゲームらしく、当たりさえすれば倒したものとして消えてくれるようだが、それでもリーチ不足は否めない。
「危ない、コナン君!」
菊川の声に麻理亜は振り返る。コナンの背後で、男が椅子を振り上げていた。菊川がコナンをかばう。蘭が、男に蹴りを食らわせる。
男は昏倒したが、菊川も無事ではなかった。彼の身体に虹色の波のようなエフェクトが走り、かと思うと白い光が彼を包む。光が消えたそこに、彼の姿はもう無かった。
「きゃあ!」
短い悲鳴に、麻理亜は振り返る。歩美に襲い掛かる男に、光彦が滑り込みながら蹴りを食らわせる。安堵もつかの間、二人の後頭部を瓶が襲った。
「歩美! 光彦!」
二人の姿が消えて行く。
「く……っ」
待つ事なく襲い来る男達をかわし、麻理亜は室内に目を走らせる。
このままでは、全員がゲームオーバーになるのも時間の問題だ。何か、突破口は無いものか。
「コナーン! あぶねぇ!」
銃声が響く。今度は、元太が消える番だった。
「元太……!」
「遊びは終わりだ」
オールバックの男が、拳銃を握っていた。恐らく、彼がモラン大佐だろう。……あの銃は、シャーロック・ホームズの部屋にあった物だ。それを彼が握っていると言う事は、諸星か滝沢か、あの二人のどちらかが持って来てしまっていたのか。最初に聞こえた銃声も、恐らくこの銃のもの。
麻理亜は片手を伸ばし哀を背にかばうようにしながら、銃口を見据える。
剣があれば。魔法があれば。しかし今は、そのどちらも頼る事は出来ない。
「さあ、誰が最初かな?」
コナンが動いた。男達の方へと駆け寄り、ワインを奪って机の上に着地する。
モランの顔に、一瞬の動揺が表れた。麻理亜は眉根を寄せる。いったい、何が起こったと言うのか。
「僕を撃ったらワインが割れちゃうよ!」
「それはどう言う意味だ?」
「カードをしていたテーブルの空席だよ! 特別に装飾された椅子と、そこへ来る人物のために用意されたグラスとワイン……それをヒントにそこへ来る人物を推理すると、モリアーティ教授しかいないって事さ!」
「残念だが、その推理は外れだな……」
モランは平静を装おうとしていた。
「じゃあ、撃てば? 教授のワインが割れてもいいならね!」
モランは銃を握ったまま動かない。コナンは挑発するようにニヤリと口元を歪める。しかしその彼も、緊張の色を浮かべていた。
一触即発の緊張の中、店の扉が開いた。入って来たのは、黒いコートに身を包み、帽子を目深に被った、腰の曲がった老人。彼は柔らかな物腰で言った。
「モリアーティ様が、皆さんにお会いしたいと申しております……」
「えっ? モリアーティ教授が?」
蘭が声を上げる。麻理亜と哀は顔を見合わせた。
思いもよらない展開だった。まさか、あちらから接触を持ちかけて来るなんて。それも、こんな騒動の後に。
「馬車でお待ちでございます……。こちらへどうぞ……」
「お待ちください!」
「モリアーティ様に逆らうつもりですか?」
老人の一言に、モランは押し黙った。
麻理亜は問うようにコナンに目を向ける。諸星らも、コナンの指示を待っていた。
コナンはうなずき、机から降りた。
「……行こう」
店を出た途端、銃口に囲まれる――と言うような事もなく、表には馬車が一台停まっているのみだった。馬車で待つ男に、老人は頭を下げる。
「皆様をお連れしました……」
「ご苦労……。さて坊や、そのワイン、いただこう……」
「はい!」
ずいぶんと今更の気がするが、コナンは油断を誘うためか子供らしい素直な返事をして老人へとワインを渡す。
「モラン大佐と互角にやり合うとは、さすがホームズの弟子達だ……。で、私に何か用かな?」
「ねえ、おじさんがモリアーティ教授?」
「いかにも……」
「あっ、そっか……これって、僕たちを試しているんだね?」
麻理亜達は目を瞬き、コナンを見る。コナンは朗らかに続けた。
「もうお芝居はやめたら? おじさんはモリアーティ教授じゃないんでしょ?」
「な、何を言うの? コナンくん!」
「だって、本物のモリアーティ教授はここにいるもの!」
そう言ってコナンが指差した先にいたのは、教授の付き人のように振舞っていた老人だった。
「声は全て、教授が腹話術で喋ってたんだよね?」
老人はクツクツと笑うと、帽子を取った。老獪な顔がガス灯の明かりに照らされる。
「そこまで見抜かれていたとは……なぜ分かった?」
「さっき、モラン大佐がおじさんに『お待ちください』って言ったよ!」
「そっか、モラン大佐が敬語を使うのは、モリアーティ教授に対してだけね!」
「へぇ……」
蘭の解説に、麻理亜は感心したように声を漏らす。
「もう一つ、モリアーティ教授は、天然ハーブ系のコロンを使うおしゃれな老人だって聞いていたんだ!」
「へえ……それがワインを渡した時、匂って来たと言う訳か……」
「見事だ! まるで、ミニ・ホームズを見ているようだ……」
「へへへ……」
コナンの実力を認めたモリアーティは、ジャック・ザ・リッパーの生い立ちについて教えてくれ、更には協力まで申し出て来た。明日の新聞で殺人の指示をモリアーティが出す。そこへ先回りすれば良い……と。
「おい、信じるのか? この爺さんの言葉を……」
「……賭けてみよう!」
懐疑的に問う諸星に、コナンは答えた。
「フ……幸運を祈る……」
「――三年後、ライヘンバッハの滝にご注意を!」
馬車へと乗り込むモリアーティに、コナンは声をかける。モリアーティは怪訝気な表情で振り返りつつも、無言で去って行った。
「ライヘンバッハって何?」
「モリアーティ教授は三年後、スイスのライヘンバッハと言う滝で、ホームズと決闘するの……」
滝沢の質問に、蘭が答えた。
「二人は滝壺に落ちてしまい、ホームズは後で奇跡的に生還するんだけど、モリアーティ教授はそこで死んだみたい……」
コナン自身も、自分が言った言葉に少し驚いているようだった。
「なんで注意しろなんて、言っちまったのかな……やっぱ俺、ホームズと同じくらい、あの悪党も気に入ってんだろうなあ……」
「ねえ、コナンくん……」
「なあに?」
「あ……ううん、何でもないの……」
何か聞きかけた蘭は、慌てて口を噤む。きょとんと蘭を見上げるコナンに、諸星が話しかけた。
「な、なあ、眼鏡……。悪かったな……俺たちのせいで四人もゲームオーバーになってしまって……」
「まあ、済んだ事は悔やんでも仕方ないよ……」
「あなた達がそう思い始めただけでも、一歩前進なんじゃない?」
「そう……これからどう行動するかよ! 皆のために頑張りましょう!」
「蘭お姉さんの言う通り! 私達がクリアして、皆を助けなきゃね!」
「……うん!」
諸星は、力強くうなずいた。
モリアーティが殺人の標的として指名したのは、アイリーン・アドラーだった。シャーロック・ホームズが唯一愛した女性。
時計の針は、零時七分を指している。――もう、生存者はここにいる七人のみ。
麻理亜達は舞台が始まる前にアイリーンに接触し、舞台の中止を訴えたが、彼女にその気は全くなかった。
「皆さんが守ってくれるんでしょ? ホームズさんの代わりに……」
そう、言って。
舞台は、定刻通りに幕を開けた。アイリーンの美しい歌声が響き渡る。麻理亜達は舞台の袖に隠れ、彼女を見守っていた。
機材や道具の置かれた舞台袖、二階や三階まである満員の観客席。悪事を企む者が紛れ込むのに、これ程格好の場もなかなか無いだろう。警戒していると、どこもかしこも怪しく思えて来てしまう。
突如、爆発音が響き、劇場が大きく揺れた。
「――危ない!」
江守と滝沢が舞台へと飛び出す。
舞台の照明が、アイリーンを目掛けて落ちて行く。江守と滝沢が、アイリーンを突き飛ばした。
「江守!」
「滝沢君!」
照明の破片の中、虹色のエフェクトを浴びた江守と滝沢が座り込んでいた。
「チェッ……ゲームオーバーか……」
「悔しいなあ」
「ありがとう……おかげで、助かったわ……」
二人のおかげで、アイリーンは無事だったらしい。美女に微笑まれ、二人は照れ臭そうに笑う。
「人に感謝されたのって初めてだな……」
「い、いいもんだね……」
「諸星、後は頼んだぜ!」
「任せとけ!」
そして、二人は白い光に包まれ消えて行った。
爆発は一度で終わりではなかった。そこかしこで爆発が起き、柱やら天井やらがガラガラと降り注ぐ。麻理亜達はアイリーンを連れて、裏口へと急ぐ。
「急げ! 灰原! 紫埜!」
立ち止まるコナンの横で、銅像がぐらりと揺れた。――マズイ。
「危ない!」
哀がコナンへと飛びかかる。麻理亜は二人と銅像との間へと飛び込んだ。
とても支え切れるような大きさの像ではなかった。思わずかばうように掲げた腕を、強い衝撃が襲う。そのまま圧し潰されるように、麻理亜はその場に倒れ込んだ。ドオンと重い音が辺りに満ちる。
「紫埜!」
「麻理亜!」
「痛たたた……志保! 大丈夫!?」
麻理亜はパッと起き上がり、振り返る。幸い、麻理亜が間に入った事で、像が二人に届く事はなかった。
「私は無事だけど……麻理亜、あなた……!」
「え? あ……」
麻理亜は自分の手のひらを見つめる。虹色のエフェクト。それは、このステージからの退場を意味していた。
「いつもは頑丈だから、つい……。ごめんね、志保。最後まで守ってあげられなくて。――工藤、後はよろしくね。あなたならきっと出来る。私、信じてるから……」
白い光が世界を覆う。
――そして、何も聞こえなくなった。
麻理亜は、暗闇の中に立っていた。
立っていた……と言えるのかは、分からない。上も下もなく、足元に地面の感覚さえもない。まるで水の中に浮いているようで、かと言って水のような抵抗もなくて、不思議な感覚。辺りを見回すも、何も見えなければ何も聞こえない。文字通り、無の空間だった。
「……工藤? 志保?」
答える声は無い。自分の声は分かったが、耳で聞いていると言うよりも、まるで頭の中に直接文章でも打ち込まれたでも流れたかのような感覚だった。言うなれば、このゲームの世界におけるシステム音声のような。
「システム音声か……その例えは、あながち間違いでもないかもね」
声の主を探して、麻理亜は左右に首を巡らせる。
フッと正面に人の姿が現れた。それは、一人の少年の姿をしていた。ゲームに参加した五十人の中には、いなかった顔だ。
しかしその声には、聞き覚えがあった。
「ノアズ・アーク……」
「初めまして、紫埜麻理亜。君には聞いてみたい事があって、少し権限を弄ってこの階層に君の意識を移動させたんだ。心配しなくても、ここの声は誰にも聞こえない……大人達にも……ゲームをやってる他の子供達にも、ね……」
「聞いてみたい事……?」
麻理亜は眉根を寄せる。彼はうなずいた。
「うん。君はいったい、何者なんだろうって……」
「あら。世界最高の人工頭脳さんなら、それくらい分かっているんじゃないの? 色々とデータや解析手段をお持ちなんでしょう?」
「もちろん。――でも、君のDNAデータは、僕の持つ中には存在しないんだ。表面の姿はどう見ても人間なのに、君が持つDNAは人のものじゃない……この世界にはデータが存在しない」
麻理亜は目を瞬く。
――人ではない。
唐突かつ辛辣な言葉だったが、それは妙に納得のいくものだった。
「そうね……言うなれば……化け物、ってところかしら……」
そう言って麻理亜はフッと自嘲の笑みを零した。
「――ジャック・ザ・リッパーは、お前だ!」
チャリング・クロス駅最終列車。加速する汽車の中、コナンは一人の乗客へと指を突き付けた。
見抜かれた乗客は服を引き裂き、変装を解く。乗客たちは悲鳴を上げ、彼のそばから離れるように逃げる。
「――任せて!」
「駄目よ! 待ちなさい!!」
ジャック・ザ・リッパーへと立ち向かって行く蘭を、哀が追う。
二人の姿が、煙幕の中に消えた。
「くそっ……窓を開けて!」
言われるがまま、諸星は汽車の窓を開ける。煙が外へと流れ、そこには、ジャック・ザ・リッパーも、蘭や哀の姿もなくなっていた。三人だけではない。乗客の姿まで今の一瞬で消えてしまっている。
困惑しながら機関室へと向かうも、運転士の姿は無かった。ブレーキも壊され、ただ石炭が煌々と燃え盛っているのみ。汽車は速度をいや増していく。
「おい! あの姉ちゃん達、探さねえとヤバイんじゃないのか?」
乗客の車両から消えた。機関室に車での道のりにもいなかった。――残るのは。
コナンと諸星は、汽車の屋根へと上る。
そこには、縛り上げられジャック・ザ・リッパーとロープで繋がった蘭と、ジャック・ザ・リッパーに抱えられ首筋にナイフを当てられた哀がいた。
「気を悪くしたならごめんね……別に、君を貶す意図はなかったんだけど……」
ノアズ・アークは困ったような表情をしていた。それは、とてもこれから五十人の脳を焼き切ろうとしている者の顔だとは思えないものだった。
「ただ、不思議だっただけなんだ……でも、君自身でも分からないなら、どうしようもないね……」
残念そうに言うと、ノアズ・アークの姿は消え、再び闇だけが支配する世界になった。
麻理亜はぽつりとつぶやく。
「ごめんなさいね……あなたの疑問に答えられなくて……。私が何者かなんて、私自身が最も知りたい事だわ……」
ふらりと座り込もうとした麻理亜の手に、何かが触れた。
フッと世界に白い文字が浮かび上がる。英語のようだが、何の意味も成さない単語の羅列。
「え……何……!?」
フッとモニターがつくかのように、正面に映像が現れた。それは、汽車だった。汽車の屋根には、コナン達の姿。
「――志保!」
麻理亜は、映像へと駆け寄る。哀が、ジャック・ザ・リッパーの人質に取られていた。蘭も、彼らの背後で縛られている。
絶対絶命。コナンも諸星も、ジャック・ザ・リッパーを目の前にしながら、身動きが取れずにいた。
この映像の中に入れたなら。守るとそう、誓ったのに。
麻理亜は映像に両手の拳を打ち付け、ずるずるとその場に膝をつく。ゲームオーバーになった麻理亜には、もう成す術がない。
うつむいた麻理亜の視界を、文字が下から上へと流れて行く。
『死にたくなけりゃどうするか お前も血まみれになるこった』
麻理亜は目を瞬く。聞き覚えのあるフレーズだった。
「これって……」
麻理亜は顔を上げる。そして、辺りを見回した。縦横無尽に流れる白い文字。よく分からない単語の羅列。――それは、阿笠がパソコンに向かっている時に見かける画面とよく似ていた。
ちらほらと見つかる、これまでにゲームの中で聞いた台詞。モランやモリアーティなどの文字。間違いない。これは、ゲームのシステムだ。
権限を書き換えて麻理亜の意識を連れ込んだと、ノアズ・アークは言っていた。彼が麻理亜を連れ込んだのは、システムの管理権限を要する階層だったのだ。ゲームもプログラミングも、麻理亜は何ら知識を持たない。だから、何も出来ないだろうと思ったのかもしれない。あるいは、チャンスを与えてくれたのか。
彼の意図が、どちらだったのだとしても。
「目の前に助かる可能性があって、おめおめと引き下がる訳がないじゃない……!」
冷たい汗が、頬を伝う。哀は、横目で自分を捕らえる男を睨み据えていた。
何ら抵抗する間もなかった。煙幕に包まれ、次の瞬間には哀も蘭もジャック・ザ・リッパーに自由を奪われた状態だった。このゲームは、哀と蘭を人質役として定義したのだ。プレイヤーには、逆らう術はない。ただそのルールに従い、コナンと諸星が打開策を講じるのを祈るしかない。
「さて……では、一人ずつそこから飛び降りてもらおう。それとも、俺がこの娘を切り裂いてから、お前たちと直接戦う方を選ぶか?」
「くっ……」
哀と蘭を人質に取られ、コナン達は身動きが取れない。
哀はジャック・ザ・リッパーから視線を外し、背後で横たわる蘭へと目を向ける。せめて、彼女だけでも解放する事が出来たら。
蘭は、ジャック・ザ・リッパーの背中を睨んでいた。そして、ちらりと崖を見る。
その瞬間、哀は彼女が何を考えているかを理解し息をのんだ。
身動きを取れば、哀が殺される。ジャック・ザ・リッパーを崖の下に落とそうものなら、蘭まで落ちてしまう。――彼女は、それを。
コナンと諸星に任せるしかない? 飛んでもない。彼女は、彼女の立場で策を講じていた。ただ一つ、哀が人質に取られているから迷っている。それを実行に移せば、哀も無事では済まないから。
(まったく……)
自らが覚悟を決めるなら、それを哀にも求めれば良いのに。要は誰かが生き残れば良いのだ。だけど、彼女は誰か他の人にまで自死を求める事は出来ない。そう言う人なのだろう。
「……諦めちゃ駄目よ、江戸川君」
哀は顔を上げ、正面を向く。汽車の縁に立ち下を見つめていたコナンは、驚いたように振り返った。
きっと彼は、素直に飛び降りる気は無い。どうにか誤魔化してこの場を凌ぎ、再び哀達を助けに来る手はないかと頭を巡らせているところだろう。
でも、もっと確実な方法がある。そして哀も蘭も、その覚悟は出来ている。
「お助けキャラがいないのなら、私達にとってのホームズは、あなたよ……あなたには、それだけの能力がある……ホームズに解けない事件はないんでしょ?」
初めてあったあの時。迷宮入りになると思われたあの事件。彼はそれを、見事に解いて見せた。この世に解けない謎など、塵一つも存在しないと言って。
哀は意を決し、頭を振りかぶる。視界の端で、コナンと諸星が息をのむのが見えた。
そして、哀は自らナイフへと喉を突き付けた。
「灰原!!」
「哀ちゃ――」
蘭は叫びかけ、留まる。振り返らずとも、彼女が立ち上がったのが分かった。哀が彼女の考えを察したように、彼女も哀の考えを理解したのだ。
「――ライヘンバッハの滝よ、コナン君!」
やるなら今しかない。ナイフが哀の喉元に捕らえられている、このタイミング。
「よせっ! 蘭!!」
コナンがこちらへと駆け出す。でも、到底間に合いやしない。哀の姿が消えてしまう前に、蘭は汽車から飛び降りた。
「くそおおおおぉぉぉぉぉ!!」
ジャック・ザ・リッパーは叫ぶ。ナイフをふさがれ、彼はロープに引きずられるがままに、汽車の屋根から放り出される。崖の下へと落ちて行く二人を見ながら、哀は白い光に包まれその場から掻き消えた。
「そんな……志保……!」
自らナイフを喉に突き立てた哀。自ら崖の下へと飛び降りた蘭。全ては、ジャック・ザ・リッパーを確実に葬り去るために。
映像の中で、コナンが蘭の名を叫ぶ。そして膝をついたまま、動かなかった。
「諦めるんじゃないわよ、工藤……! 皆の命がその肩にかかってるんだから……!」
麻理亜は、そばを流れる白い文字に目を留める。それは、今し方過ぎ去って行った流れのログだった。
『諦めちゃ駄目よ、工藤君……』
コナンは目を見開き、辺りを見回す。
「は、灰原……!?」
しかし、もちろん、辺りに哀の姿は無い。声は哀だけではなかった。
『コナンくん! 私達を絶対生き返らせてね!』
『コナン、ジャック・ザ・リッパー、必ず捕まえてくれよな……!』
『死にたくなけりゃどうするか〜お前も血みどろになるこったぁ』
コナンは何が起こっているのか分からず、辺りを見回す。
「何だ……!? バグか……?」
『コナン君』
蘭の声がした。
今し方聞いた声。誰よりも守りたかった人。守れなかった人。
『ライヘンバッハの滝よ、コナン君!』
「あーっ! これは駄目! これは違う!!」
映像の前で、麻理亜は叫んだ。蘭の言葉も何か。そう思ってゲーム内に流してしまったのは、彼女の最期の言葉だった。
「ああっ、ごめんなさい、工藤! ショックな場面思い出させて追い打ちをかけてどうするのよ……! 触った覚えのない、おじさんの歌まで流れちゃうし……もぉーっ」
しかし、コナンの口元には笑みが浮かんでいた。
「フッ……そうだよな。まだ、諦めるには早い……!」
「ん……おお……? 結果オーライ……?」
コナンは駆け出す。諸星は慌ててその後を追う。
「オイ! いったい……!?」
「人生と言う無色の糸の束には、殺人と言う真っ赤な糸が混ざっている……ホームズの言葉さ! それを解きほぐすのが、探偵の仕事だってな……! 蘭のおかげで、思い出したぜ……!」
「それがいったい……!?」
「赤だよ! そう言う事だったんだ!」
「だからどう言う事だよ!?」
「いいから来い!」
コナンと諸星は、最後尾の貨物車両へと入り込む。そこに並ぶのは、ワイン樽。
麻理亜はもう、映像を見てはいなかった。
コナンは、生き残ろうとしている。諦めずに皆を助けようと。
麻理亜も何か――
手を伸ばした先の白い文字が、フッと掻き消えた。映像も消え、辺りは元の真っ暗闇になる。
「えっ……まさか……」
意識が朦朧とし始める。強い圧力に押し潰されるかのように、眠りへと引きずり込まれるかのように。
ノアズ・アークが麻理亜の干渉に気付いたのだ。麻理亜から権限を奪い、この階層から追い出そうとしている。
「待って……ま……だ……」
麻理亜は意識を手放す。最後に聞いたのは、ノアズ・アークのどこか優しさすら感じる声だった。
「大丈夫……彼にはもう、助けは必要ないよ……」
次に麻理亜が目を覚ましたのは、明るい光の中だった。眩しすぎる白い消滅エフェクトではない。電気の明かりと、オレンジと黒に彩られた座席。目の前には、麻理亜が入っているのと同じ白い卵型の機体がいくつも並んでいる。
終わったのだ。コナンは見事ゲームをクリアし、麻理亜達は元の世界へと帰って来た。
「やっぱり、いいわね……現実の方が……」
聞こえて来た声に、麻理亜は振り返る。
守りたかった子。守りたい子。彼女は、取り戻した現実の身体を確認するように、手のひらを見つめていた。
「哀――――!!」
「……きゃっ!?」
麻理亜は座ったままの哀へと、勢い良く抱きついた。
「ごめんなさい、哀……! 最後まで守ってやれなくて……! あんな痛い思いさせる事になって……!」
「麻理亜、見て……!? まったく……」
哀は驚き、それからなだめるように麻理亜の背中をポンポンと叩いた。
「紫埜」
声を掛けられ、麻理亜は振り返る。コナンがそこに立っていた。
「……ありがとな」
コナンは口の端を上げて微笑う。恐らく、ノアズ・アークから何が起こっていたのかを聞いたのだろう。
麻理亜が流した覚えのない、歌。きっとあれを紛れ込ませたのはノアズ・アークだ。彼には、子供達を殺すつもりなどなかったのかも知れない。
「……うん。江戸川も、お疲れ」
麻理亜は微笑む。コナンはうなずくと、舞台の縁へと歩いて行った。
そこに立つのは、試遊前にこのゲームにアイデアを提供したとして紹介されていた人物だった。
工藤優作。工藤新一の父親。
正面に立つも、彼らは何か言葉を交わすでもなく、見つめ合っていた。麻理亜は会場内を見回す。無事を喜び、親との再会を祝う子供達。
その間を縫うようにして、阿笠がこちらへと駆け寄って来る。
「哀君、麻理亜君!」
哀と麻理亜は顔を見合わせる。そして、阿笠に微笑む。二人の声が重なった。
「――ただいま」
「 Different World 第3部 黒の世界 」 目次へ
2018/02/11