「楽しみですね、大宇宙展!」
「宇宙船のシュミレーションもあるんだよな!」
「歩美、それやってみたい!」
ビートルの中で子供達は、これから向かう宇宙展の話に花を咲かせていた。この辺りでは、見える星が少ない。何がきっかけだったか、ホグワーツで見えていた星空の話になり、羨ましがる子供達に阿笠がこの展示会の話を持ちかけたのだ。
「でも、誰かさんは他の事に夢中みたいね……」
哀が後部座席に目を向け、くすりと笑う。
麻理亜は助手席に膝で乗るようにして、ぐるんと後ろを振り返った。
「そんなに携帯ばっかりいじって、何してるの? ――ん? テレビ?」
「気になるんじゃろう? 毛利君が目暮警部から聞いたという、都知事への脅迫状の事が……」
「ああ……何も無ければいいが……」
「脅迫状? 何それ?」
麻理亜は目をパチクリさせる。
「あなたは子供達と一緒にはしゃいでいたから、聞いてないのね。朝倉都知事宛てに脅迫状が届いたそうよ。『お前の傲岸不遜な四年間の都政に対し、天誅を下す』って……」
「ああ、それで。今日って東都線の開通式でしょう? 都知事も乗車するって」
麻理亜は前に向き直る。車は、新山手トンネルへと入る所だった。このトンネルは、本日開通する東都線と途中で合流する造りになっている。約一キロの間、線路の下を電車と平行に走り続けるのだ。
トンネルに入った事でテレビの電波が届かなくなり、コナンは諦めて会話に参加していた。前方にカーブが見えて来て、指を差し説明する。
「これを曲がると東都線との合流地点……」
カーブして間もなく、待避所が見えて来た。一瞬の内に走り去り、麻理亜は目を瞬く。
「あれ? 今……」
「どうしたの? 麻理亜ちゃん。コナン君も……」
「あ、いや……なんでもない……」
コナンも過ぎ去った背後を気にしていた。人影のように見えたあれは、麻理亜の見間違いではないようだ。
「今、人がいたように見えたんだけど……」
「作業員か何かじゃないですか?」
「いや、作業服には見えなかったような……。博士は前向いて運転して」
会話に気を取られる阿笠を、麻理亜はたしなめる。
突然、コナンが叫んだ。
「博士! 車を止めてくれ!!」
「な、何っ!?」
「爆弾だ!! トンネルに爆弾が仕掛けられているんだ!!」
急な事態に、子供達の悲鳴が上がる。しかし、車を止めようにもここは高速道路のトンネル内。急停車なんてしようものなら、大惨事。次の待避所までは、どうしようもない。
待避所に辿り着いたのは、トンネルを出た後だった。停車するや否や、コナンは外側にいた元太を押し出しスケートボードを抱えて飛び出す。ターボエンジン付スケートボード。阿笠の発明品であるそれに乗ったコナンは、声を掛ける間も無くトンネル内へと引き返して行った。
「元太、車に戻って」
道路に尻餅をついたまま唖然としている元太に、麻理亜はシートベルトを外しながら声を掛ける。子供達から不満の声が上がった。
「僕達も何か――」
「出来る事なんて無いわ。車道は危ないから、中で待ってなさい」
哀も言って、元太は渋々と車内に戻って来た。
「ちぇ。いっつもコナンばっかり……」
「コナン君、大丈夫かなあ」
麻理亜は、じっと後方を見つめ続ける。コナンの姿はもう、何処にも見えなかった。彼ならきっと、上手く止めてくれる。
「車の通りが減って来たわね……」
哀が呟く。トンネルから流れ出てきていた車の台数は、急激に減って来ていた。コナンが爆弾の先に辿り着き、車を止めているのだろう。
あの妙な人影は、爆弾を仕掛けた犯人だったのだろうか。あの地点で爆弾が仕掛けられたとなれば、標的は恐らく東都線。開通記念に乗車している、朝倉都知事。
間もなく、トンネルから出て来る車は無くなった。広い道路に、ぽつんと待避所のビートルがあるのみ。
「車来ねーなら、大丈夫だよな」
元太の一言で、子供達は車を飛び出す。
「あっ。ちょっと! 待ちなさい!」
「トンネルに近付いちゃ駄目よ!」
麻理亜も慌てて哀の後から車を降りる。
車の直ぐ後ろで立ち止まる子供達に追いついた途端、僅かな揺れを感じた。低く響きだす轟音。
「地震……?」
「いえ、違う……」
トンネル内で、爆破が起こる。爆風を突き破って出て来たのは、電車だった。脱線し、それでも横転せずにブレーキ音を辺り一帯に響かせながら突っ込んでくる。
「あれは東都線ですよ!!」
電車は麻理亜達の横をすり抜け、真っ直ぐに走って行く。
麻理亜は追って駆け出していた。
この先はカーブ。このまま行ったら、壁を突き破って転落する事になる。
「インカーセラス!!」
魔法の剣を手に、麻理亜は叫ぶ。地面の幾箇所から縄が現れ、電車に巻きつく。巻きついた端からぶちぶちと切れるが、それでも他に手は無い。ブレーキの手助けになれば。抵抗で止められれば。縄は尽きる事無く現れては、電車をその場に縛り付けようとする。ブレーキ音。車体が壁にぶつかる音。縄がぎしぎしと鳴る音。背後からは、皆の叫ぶ声。
――止まって! お願い……!
先頭車両が、高速道路の壁を砕く。宙に飛び出し――そして、傾いた先頭が縄の網に引っかかるようにして停止した。
「止まっ……た……」
ふっと剣が消える。麻理亜はへなへなとその場に座り込んだ。
+++劇場版名探偵コナン「沈黙の15分」
辺りは、都内では見られないような雪景色。ひんやりと冷たい空気は、懐かしい気さえする。道の両脇には屋台が立ち並び、人で沸き返っている。
北の沢村スノーフェスティバル。朝倉都知事のダム建設によって人々が移住したこの村は、開村五周年を迎えていた。爆弾騒ぎが無ければ都知事も来る予定だったこの村を、麻理亜ら一行は訪ねていた。
「元太君、まだ食べるんですか!?」
「食べすぎだよー。博士みたいになっちゃうよ!」
「平気平気! おっ、あれも旨そう!」
元太はイカ焼きの残りをぺろりと飲み込み、次の屋台へと走って行く。
――博士みたいには、もうなっているような気がするけど……。
駆けて行く子供達を見送りながら、麻理亜は苦笑する。
「麻理亜ちゃん、何も食べてないね。いいの?」
蘭が中腰になり、麻理亜に視線の高さを合わせる。麻理亜は肩を竦めた。
「ええ。食べられないものが多いから……。見てるだけでも楽しいもの」
園子は目をパチクリさせる。
「へえ、意外。何でもしっかり食べそうなのに。でも屋台なんて、子供が嫌いそうな物……小麦粉アレルギーとか?」
「ううん。お肉とか、魚とか」
「じゃあ、りんご飴なら平気?」
言って、園子は屋台へと向かう。
「あっ。自分で……」
「いいって、いいって。子供が遠慮なんてしないの。――おーい! 他のガキンチョ達は、りんご飴いるー?」
屋台から戻って来ようとしていた子供達は顔を輝かせ、駆けて来た。
「うんー!」
「ありがとうございます!」
「俺もー!」
「あんたは今たこ焼き買ったばっかでしょ! いくつあるのよ、それ……」
「へへっ。別腹、別腹」
「元太君、全部別腹じゃないですか」
「いい加減にしないと、お腹壊すわよ」
流石に、麻理亜も口を挟む。
「へーき、へ……」
笑って言っていた元太は、急に青い顔をして腹を押さえた。そのまましゃがみ込んでしまう。
「ててて……」
「言ってる傍から……大丈夫? 歩ける?」
元太の顔を覗き込み、それから麻理亜は蘭と園子を振り返る。
「向こうに医務室あったわよね?」
途中で哀と阿笠とも合流し、一行は医務室へと向かった。混浴と叫んで去って行った小五郎は言わずもがな、散歩に行くと言ったコナンもどうやらもうこの辺りにはいないらしい。彼の事だ。また何かに首を突っ込んでいるのだろう。元々、この村へは東都線爆破事件の手がかりを捜しに来ているのだから。
近くの施設の一室が、スノーフェスティバルのための臨時の医務室となっていた。扉にあるのは、看板とも呼べぬような手書きの貼紙。中は小ざっぱりとした事務室で、そこに診察用の椅子とベッドが一台置かれていた。
「はい、じゃあこれ、お薬!」
医務室に控えていた若い看護師が、元太に薬を差し出す。黒髪の、可愛らしい雰囲気の女性だ。
「ありがとうございます……」
「それを飲めば、直ぐに良くなるわよ。その食べ過ぎたお腹もね」
「まったく、調子に乗ってたこやき十皿も食べるからよ!」
呆れ返って言う園子に、元太は頭をかく。
「いやあ、それほどでも〜」
「褒めてない!」
ぴしゃりと哀が言い放った。
縮こまって謝る元太を見て、看護師は僅かに笑う。
「君達、何年生?」
「一年生!」
「そう……一年生か……」
歩美の返答に、何故か彼女の表情に影が差す。
わらわらと医務室を出て行く皆を見送り、麻理亜は看護師へと視線を戻す。全員出て行ったと思ったのだろう。彼女はまたあの暗い顔で、ふうっと溜息を吐いた。
「何かあったの?」
彼女は息を呑み、顔を上げる。きょろきょろと部屋に走らされた視線が、ベッドの傍のパイプ椅子に座った麻理亜を捉えた。
「ごめんなさい。驚かしちゃって……。
私達の年齢聞いて、看護師さんちょっと寂しそうに見えたから」
「……」
「ご、ごめんなさい。別に、無理に聞くつもりじゃないの! ただ、ちょっと心配で」
「……私にもね、あなた達ぐらいの息子がいるの。――いた、の方が正しいかな」
「あ……ごめんなさい……それって……」
麻理亜はしゅんとうなだれる。
子供が、いた。その言葉が意図するところぐらい、容易に解る。麻理亜は、今のこの姿よりずっと長く生きているのだから。
「意識が戻らないの」
首を上げ、麻理亜は看護師を見つめる。
彼女は何処か、遠い所を見つめるかのようだった。
「八年前に、崖から落ちて……それから、ずっと」
彼女は、くしゃりと微笑う。
「その八年前って言うのが、ちょうどあなた達と同じ年頃でね」
「……」
八年。麻理亜にとっては短い歳月だが、他の人々にとってはどんなに長い事か。入学したての小さな子供が大人になってしまうような、そんな歳月。
それほどの間、目を覚まさない息子を彼女は看病し続けているのか。
「……息子さんの目が覚めたら、私、一緒に遊びたいな」
「え?」
「お兄ちゃん、きっと目を覚ますよ。生きているって事は、『これから』があるんだもの。八年前に私達と同じぐらいって事は、中学生ぐらいでしょ? まだまだチャンスはいーっぱいあるもん!」
彼女はちょっと驚いた顔をして、そして微笑った。そっと優しく麻理亜の頭を撫でる。身じろぎしそうになるのを耐え、麻理亜は彼女を見上げる。
「ありがとう。冬馬が目を覚ましたら、いっぱい遊んであげてね」
彼女の目尻には、僅かながらも涙が浮かんでいた。
夜に降った雪が積もり、翌朝は一面の銀世界が広がっていた。きれいな深雪に足跡を付けんと、子供達は我先にと駆け出す。
「あれ? あんまり積もってねーぞ!」
「えーっ」
「除雪車が通った後みたいですねぇ……」
子供達の後から、麻理亜も外に出る。道路にはタイヤの跡が残り、ロッジの玄関口も昨晩出会った同窓生五人組の一人、遠野みずきが雪かきをしていた。どうやら彼女は、このロッジの従業員らしい。
「道の雪はある程度除けられてるけど、まだ柔らかいんじゃない? 東京に比べれば量もあるし」
「よーし、雪合戦やろーぜ!」
「やろー! やろー!」
「いいですねぇ!」
「負けないわよ〜っ」
元太、歩美、光彦、麻理亜は外へと飛び出す。その後をゆっくりと、コナンと哀が歩いて来ていた。
歩美が振り返り、二人に手招きする。
「コナン君と哀ちゃんもやろうよーっ!」
「俺はいいよ」
麻理亜は早速作った雪玉を握り締め、身体を起こす。ちょうど元太と目が合い、二人はニヤリと笑みを浮かべた。
元太の投げた玉がコナン、麻理亜の投げた玉が哀に命中する。
「やったあ!」
「やったなー!」
「うわあ、来たぞー!」
「逃げろー!」
「待てー!」
珍しくコナンと哀も加わって、麻理亜らはキャッキャと騒ぎながら駆け出す。道路は広いものの車通りは無く、道の脇には道路上から除けられた雪が固められていた。麻理亜らはその影に飛び込む。
「うわっ、つべてっ」
「よっしゃ!」
「そう簡単には当たりませんよー!」
「覚悟っ! ウルトラスローっ!!」
「ただ作り溜めてただけじゃない……きゃっ」
「わーい! 当たったー!」
雪合戦に夢中になっていると、ふと歩美が声を上げた。
「あっ! 誰か見てるよ?」
麻理亜らは動きを止め、振り返る。背後の窓から、中高生ぐらいの男の子が部屋の中から麻理亜達を凝視していた。
「僕達に何か用みたいですね……」
「おはよー!」
歩美が大きく手を振る。少年は表情を和らげ、窓を開けた。しかし、なかなか言葉が出て来ない。
「ぼ……ぼく……」
麻理亜はきょろきょろと辺りを見回す。道路脇の雪の塊を越えた場所。長く線上になった雪の先に、門が見えた。
「あ……。もしかしてここ、庭……?」
「ごめんなさい。勝手に入ってしまって」
コナンが謝るものの、彼は怒っているようには見えなかった。
奇妙な空気が、その場に流れる。
「あの……?」
「ぼ……ぼくも……い、いれて……」
たどたどしい口調で、彼は言葉を発する。
「僕も……雪合戦入れて……」
目を瞬き、きょとんとする子供達。
「何か、おかしくねーか? この兄ちゃん……」
「ええ。子供っぽいと言うか……」
少年は不安げな顔になる。
バシャンと、部屋の奥で水をひっくり返すような音がした。
「冬馬……!」
聞こえて来た声。部屋の奥から駆けて来た女性が、少年を抱きしめる。
「気がついたのね……! 冬馬……冬馬!!」
――あ……。
駆け出して来たのは、立原冬美。元太を診てくれた看護師。昨晩、同窓生五人組の中にもいた女性。
すると、この少年が彼女の息子なのだろう。
八年間の時を経て、今、目を覚ましたのだ。
冬馬が雪合戦に混ざる事は叶わなかった。直ぐに医者が呼ばれ、騒ぎを聞きつけた小五郎らや他の同窓生メンバーも立原家の前に集まった。
八年前。冬馬は、元の村から外れた崖の下で発見された。冬美は未婚の母で、彼女の両親も雪崩で亡くなっていて、その日家には誰もいなかった。ちょうど昨晩聞いた死亡事故があったのと同じ日で、村は大騒ぎになったらしい。
医者が帰り、みずきと武藤が冬美に駆け寄る。医者の話によれば、冬馬の身体に異常は無いとの事だった。安堵もつかの間、冬美の表情が暗くなる。
「ただ……心がね……。……崖から落ちた日の記憶が無いのよ」
麻理亜は息を呑む。自然、視線は家の方へと向けられていた。
「だから、なんで自分が八年間も眠り続けていたのか、理解できないみたいなの……」
「記憶……喪失……」
小さく、麻理亜は呟く。
何があったのか、自身が体験したはずの事なのに分からない。覚えていない。彼の場合は、麻理亜とはまた違った境遇ではあるけれども。
午後に予定していたスノーシュートレッキングを麻理亜は一人断り、ロッジに残っていた。
コナンらが出掛けるのを見送り、ロッジを出る。向かうは、ロッジの向かいの家。
玄関に出て来た冬美は、麻理亜を見て少し驚いた顔をした。麻理亜はにっこりと笑いかける。
「こんにちは。お兄ちゃん、目が覚めたら遊ぶって約束してたから」
冬美はふっと微笑む。
「ありがとう。……上がって」
少し迷った末、冬美は言った。
「おじゃましまーす!」
冬馬の部屋へと向かいながら、麻理亜は冬美を見上げ問う。
「窓まで歩いてたって事は、リハビリも無く歩けるのね」
「ええ……身体の方は、健康そのもの。ただ、何も覚えてなくて……今朝お友達が来てくれたんだけど、混乱しちゃって……」
「仕方ないよ……お兄ちゃんからすれば、知らない間に皆大きくなってるんだもの」
「……。あなたは、前に会ってる訳じゃないから大丈夫だろうとは思うけど……」
ぴたりと、冬美は足を止める。ノックをし、部屋の中に呼びかけた。
「冬馬。お友達が来てくれたわよ」
冬馬は壁際に佇んでいた。麻理亜達の入室に振り返る。
麻理亜を見てきょとんとする冬馬に、麻理亜は微笑いかけた。
「初めまして、冬馬君。……って言っても、今朝顔は合わせたけど。麻理亜……紫埜麻理亜って言うの。よろしくね」
「麻理亜……ちゃん……?」
「ええ。何見てたの?」
冬馬は無言で、壁に掛けられた色紙を指差す。複数人によって書かれた寄せ書き。事故に遭った時、クラスの皆が書いてくれたのだろう。冬美達の世代が五人しか同級生がいなかった事を踏まえると、もしかしたら学校中で書いたのかも知れない。
「皆、冬馬君が目を覚ますのを待ってたのね」
「でも……皆、知らない人になっちゃった……」
「見た目はね。……ううん、中身も、冬馬君が覚えていた頃よりずっと大人になっちゃったかもしれない……でも、冬馬君を大切な友達だと思ってる事にはきっと変わりない」
「……」
「戸惑うのは仕方ないわ。私だってきっと、昔の友達だって言って知らない人達が現れたら混乱すると思う。――私もね、記憶が無いの」
冬馬も、後ろで控えていた冬美も、息を呑むのが分かった。
「冬馬君とはちょっと勝手が違うんだけど。小さい頃の記憶が無くてね、目が覚めたら知らない人達に囲まれていて……自分が何者かも分からないの。
状況は随分違うけど……同じ記憶喪失だって聞いて、冬馬君のこと放っておけなくて」
「知らない人ばかりだったの……? それで麻理亜ちゃんは、どうしたの?」
麻理亜は背中で腕を組み、壁際を離れる。
「そりゃあ、最初は戸惑ったわ。でも、皆優しい人達だったから」
冬馬を振り返り、麻理亜はにっこりと笑った。
「周りが全部変わっちゃったら、また一から仲良くなっていけばいいの。冬馬君が受け入れられるようになるまで、皆待ってくれると思うわ。八年間も、冬馬君が目を覚ますのを待ってくれた人達なんだもの」
「……」
浮かない顔で俯く冬馬の顔を、麻理亜は覗き込む。
「昔のお友達も……それに、新しいお友達も、ね」
「え?」
「雪合戦。今朝、出来なかったでしょう? 私達、明後日までこの村にいるの。今日は他の子達出掛けちゃってるんだけど、帰ってきたら――駄目だったら明日にでも、皆で遊ぼう」
「……うん!」
冬馬は顔を輝かせ、頷いた。
外はいつしか、雪が降り出していた。白鳥に限らず野鳥が好きなのは今も変わらないようで、麻理亜と冬馬はお絵かきをして午後を過ごした。冬美が用意してくれたお絵かき帳いっぱいに、冬馬は鳥の絵を描く。
「上手ねぇ。絵を描くのも、好きなんだ」
「うん。クロの絵」
「へぇ……」
身体的な問題は無いとは言え、八年間ずっと眠っていた身。やがて冬馬は遊び疲れたのか、眠り込んでしまった。冬美が甲斐甲斐しくベッドに寝かせ、布団をかける。
「ごめんね、せっかく来てくれたのに」
「いいえ。こちらこそ突然、おじゃましてしまって」
「麻理亜ちゃんが遊びに来てくれて、本当に良かったわ。精神年齢は、麻理亜ちゃん達と同じくらいだものね……むしろ、麻理亜ちゃんの方が大人っぽい気もするけど」
「えっ!? いやあ、ハハ……」
その時、ピリリリと電子音が鳴り響いた。
「あっ、ちょっとごめんなさい」
断り、麻理亜はスマートフォンを取り出す。着信は、阿笠から。壁の方へと歩きながら、麻理亜は電話に出る。
「もしもし、博士? どうしたの? ――え?」
思わず、冬美を振り返る。彼女は冬馬の世話をしていた。麻理亜の様子には、気付いていない。
「ええ……分かった。私は大丈夫よ」
電話を終え、麻理亜は固い表情で冬美を見据える。振り返った冬美と目が合った。
「電話、一緒に来ていた人達から? そう言えば、出掛けてるって言っていたけど……」
「はい……博士から。彼ら、遠野さんの案内で湖の方へ行っていて……。
立原さん。落ち着いて聞いてください」
目を瞬く冬美に、麻理亜は告げた。
「あなたのご友人の、氷川さんが――」
「ねえ、麻理亜ちゃんは昔の事ってやっぱり思い出したい?」
朝食を終えた後、のんびりとコーヒーを飲む大人組を残して子供達と麻理亜は先に部屋へと戻って来た。部屋に入るなり、三人は麻理亜に詰め寄った。
「な、なあに? 突然……」
「いいから、答えてください」
元太、光彦、歩美は大真面目な顔で麻理亜を見据える。
「そ、そりゃ……欠けた部分があるのって、やっぱり気持ち悪いもの。もう焦る事は無くなってしまったけれど、思い出せるなら思い出したいわ」
、三人は顔を見合わせる。
……何となく、この子達が何を考えているのか把握出来た。
「私が思い出したいからって、冬馬君も同じだとは限らないわよ」
三人はぎくりとした表情になる。
「でもよぉ……もしかしたら、冬馬も同じかもしれねーじゃんか」
「私達、力になりたいんだもん!」
「精神年齢は僕達と同じ年頃ですし、冬馬君も気が楽だと思うんです」
麻理亜達は暫し、睨み合う。
やがて、麻理亜はふっと溜息を吐いた。
「ずっと眠っていてまだ起きて間もないんだから混乱もあるだろうし、崖から落ちたなんて経験、怖がるかもしれないわ……。
だから、彼自身の意志をちゃんと聞いて、尊重する事。いいわね?」
「はーい!」
結果、冬馬は記憶を取り戻そうという子供達の意見に賛同した。
「でも、私達だけで崖まで行くのはちょっと遠過ぎるんじゃない? 博士に連絡して、車出してもらった方が……」
「駄目ーっ!!」
一斉に、子供達は反対する。麻理亜はじとっとした目を彼らに向けた。
「もしかして……誰も、誰にも言わないで来た?」
気まずげに、彼らは視線をそらす。
「あなた達ねぇ……だったら、尚のこと……」
「だって、大人に言ったら反対されるかもしれねーじゃんかよ! あの母ちゃんも五月蝿そうだったし……」
「あのねぇ……彼女だって、冬馬君の事心配しているからこそ……」
「だからって、このままずっと母ちゃんと一緒にいなきゃいけないなんて、冬馬可哀想じゃんか」
「冬馬さんだって、事件の日の事を思い出したいと思ってるんです。冬馬さんの意志を尊重しろって言ったのは、麻理亜ちゃんじゃないですか」
「う……まあ、それはそうだけど……。
……仕方ないわね。でも、何かあったら直ぐに電話するわよ? いくら身体的に問題は無いとは言え、冬馬君は病み上がりなんだから」
それに、と麻理亜は心の中で呟く。
昨日の殺人。犯人はまだ捕まっておらず、動機も判っていない。スタンガンが盗まれていたと言う事は、まだ何か企んでいる可能性が非常に高い。都知事への脅迫状、東都線の爆破、そして殺人。全ては、同一犯の仕業なのだろうか。その目的は? ダム建設への憂さ晴らし……本当に、それだけなのだろうか?
――人気の無い道で、妙な現場に直面しない事を祈るばかりね……。
ふと、DBバッジが鳴った。元太、光彦、歩美がぎょっと振り返る。当然、彼らは発信などしていない。となれば、発信者は。
三人は大慌てで首を振り、手でバツ印を作る。麻理亜はあきれた視線を彼らに向け、通話ボタンを押した。子供達は身を固くする。
「どうし……」
きょとんとした様子で問いかけた冬馬の口は、元太によって塞がれる。
「麻理亜? 子供達の姿が見えないの。何か知らない?」
聞こえて来たのは、哀の声だった。
麻理亜は子供達をじっと見つめ、そして言った。
「子供達なら一緒にいるわ。冬馬君と雪合戦する約束をしてたの。流石に今日は、道路だと車も通るから……。心配しないで。じゃあね」
「あっ、ちょ……」
問答無用で通信を断ち切り、子供達に視線を戻す。元太、光彦、歩美の三人は、ふーっと安堵の息を吐いた。
「ありがとうございます、麻理亜ちゃん」
「冬馬君が記憶を取り戻すのについては、私も協力したいから……でも、無茶はしない事」
「解ってるって! 行こうぜ、冬馬!」
「この道沿いだよね」
子供達に囲まれて歩く冬馬は、少し不安げながらも何処か嬉しそうだった。
「この辺りへは、よく来ていたの?」
「ううん……あんまり遠くに行ったら、怒られるから……」
普段は通らない道。
八年前の冬馬は、なぜその道を通ったのだろう。
どれほど歩いただろうか。崖まで、もう半分以上は来ただろう。ふと、麻理亜は前を行く元太と光彦がちらちらと背後を振り返っているのに気付いた。
不意に麻理亜はしゃがみ込む。靴紐を直す仕草をしながら元太と光彦の視線の先を辿ると、木陰に隠れる妙な人影が目に入った。
「……」
元太と光彦が気にしているのは、今見えた人影だろうか。まさか、ずっとついて来ている?
思案していると、光彦がぎこちない動きで下がって来た。
「あ、あの……麻理亜ちゃんも、気付いてます?」
「ええ、まあ……後ろの人でしょう? ずっといるの?」
「はい……。どうしましょう……」
「そうねぇ……」
あまり刺激するのも良くない。かと言って、このまま進んでも良いものか。
やはり、昨日の事件の犯人なのだろうか? この先、道からそれて湖の方へ行くと事件現場だと聞いている。何か隠滅したい証拠がある? それを目撃されるのを恐れている? いや。そうであれば、さっさと姿を現して子供達だけで遠出している事でも叱ればいい。これではまるで、そちらへと追いやっているかのような……。
「どうだ? まだいるか?」
元太も下がってきて、光彦に確認する。光彦はちらりと背後を振り返った。
「います〜っ!!」
「何なんだよ〜……」
歩美と冬馬は気付いていないらしく、きょとん顔だ。
「走るぞー!!」
プレッシャーに耐えかねたのだろう。突然元太が叫び、駆け出した。光彦と二人、冬馬の背中を押す。
「あ! ちょっと!!」
「待ってよー!」
三人の後を追って、歩美も駆け出す。
こうなっては致し方ない。軽く舌打をし、麻理亜も駆け出した。
麻理亜達子供の足音に紛れ、背後からもざくざくと雪を踏む足音が聞こえて来る。振り返らずとも、追って来ているのが分かった。
「もう……! これじゃ、気付いてますよって教えるようなものじゃない!」
「えっ? 何!? 何の話?」
「俺達、追われてんだよ!! 変な奴に!!」
「えーっ!!」
「森へ!」
足跡で巻く事は出来ないだろう。けれども、このまま障害物の無い道を走るよりはマシだ。
案の定、追跡者は麻理亜達の後を追って森へと入って来た。柔らかな雪に足を取られつつ、振り返る間も無く木々を避けて走る。
「いつからいたの!?」
「わかりません!!」
「気付いたらいたんだよ!」
「悪い人なの?」
「わかりませ〜ん!!」
どうして――どうして、気付かなかったのだろう。元太や光彦が気付くような尾行。麻理亜が真っ先に気付くべきだろうに。なのに。
――何も、感じなかった……。
人を殺した者には、怨嗟の臭いが付き纏う。昨日の殺人犯ともなれば、麻理亜が会って気付かないはずがない。例え、数メートル離れた背後であっても。
ふいに、視界が開けた。道の先が無い。気付いた時には、麻理亜達は坂を転げ落ちていた。
柔らかな新雪をえぐるようにして、五人は滑り落ちる。立って、再び駆け出す。森をはずれ、辺りに障害物は無くなってしまっていた。
背後で、破裂するような銃声が響き渡る。
――犯人は、拳銃所持か。
歩美の手を引きながら、麻理亜は辺りに眼を走らせる。森に戻るには、坂を上らねばならない。上れない勾配ではないが、この雪道では手間取ること必至。今は僅かなりとも、犯人から遠ざからねばならない。当たらなかったのは、単に外したのか、それとも射程外からの威嚇なのか。それさえも、分からない。
「あっ! 洞窟!!」
「あの中に隠れましょう!」
「おう!!」
「え!?」
元太が指し示したのは、少し先の崖にぽっかりと空いている洞穴。
もし行き止まりだったりしたら、完全に袋の鼠だ。奥に入ったところで、入口から狙撃されればひとたまりも無い。
子供達は既に、元太の後に続いて洞穴へと駆けていた。麻理亜は止める事無く、その後に続く。
追い込まれてしまったら、袋の鼠。――もし、麻理亜らに銃撃を防ぐ手段が無いのであれば。
「早く早くー!」
歩美はぽっかりと空いた洞窟の入口へと駆け寄り、元太らを呼ばう。歩美、冬馬、光彦に続いて穴へと潜り込みながら、元太が振り返った。
「麻理亜は入らねーのか?」
「犯人に入口から狙われたら、おしまいでしょう。少しの間、見張ってるわ。あなた達は行ける限り奥へ進んでいて。直ぐに追いつくから」
元太は動かない。じっと麻理亜を見据えていた。
「お前、そう言っていつものコナンみたいに抜け駆けする気だろ?」
「抜け駆けって……あのねぇ……」
「一人で犯人待ち構えるつもりなんじゃねーか? だったら俺達もここで待つ! 俺達、皆で少年探偵団だろ!」
「そうですよ! 女の子にそんな危ない真似させられません!」
元太と麻理亜の会話を聞きつけたらしく、光彦も戻って来た。その後ろからは、歩美が顔を覗かせる。
「私達だって、戦えるもん!」
「銃器を所持している犯人相手に?」
麻理亜の言葉に、子供達の顔が曇る。麻理亜は更に、追い討ちをかけた。
「言っておくけど私、普通の小学生でしかないあなた達に江戸川ほど適切な指示なんて出せないわよ」
「だったら、麻理亜ちゃんも隠れようよ!」
「それで入口から狙撃されたら、どうするの?」
子供達は完全に黙り込んでしまった。
麻理亜はふっと微笑む。
「心配しなくても、私、一人で犯人を捕まえようなんて無謀な事考えないわよ。それで失敗したら、ここにあなた達が隠れてますって教えるようなものだしね。本当に、ただ少しの間見張るだけ」
「……本当に?」
上目遣いで尋ねる歩美を見据え、麻理亜ははっきりと頷いた。
「本当。だから、心配しないで」
「絶対ですよ」
光彦も念を押す。麻理亜は、苦笑しながら言った。
「ええ。
それよりあなた達は、冬馬君についてあげて。彼を守りきるの。私達が引っ張り出したんだもの。少年探偵団なら、容易い話よね?」
キッと、子供達の顔つきが変わった。元太が、ドンと拳で胸を叩く。
「おう! 任せとけ!」
冬馬を守る。託された使命のため、子供達は洞窟へと入って行った。
彼らが中に入ったのを確認し、麻理亜は剣を手に出し自分達の足跡の先を見つめる。銃声はもうなく、辺りは静まり返っていた。
静寂の中、幽かに聞こえたモーター音。これは。
突如、森の中から雪煙を上げて小さな影が飛び出した。僅かな段差を難なく着地し、ボードの後ろで雪を削り飛ばしながら停止する。
「麻理亜!」
「志保! 工藤!」
哀は詰め寄るようにして麻理亜の傍へと駆け寄って来た。
「まったく、あなたがついてながら……! 子供達をこんな所に入らせて、自分が盾になる気だったわね!? 無茶をするんだから……!」
スノーボードを抱え上げたコナンも、続けて駆けて来る。
「ったく。紫埜、お前がついてながら……!」
「今、言った……」
同じ説教を繰り返そうとするコナンに、哀が水を差す。
コナンは少しムッとしたように口を噤み、それから洞窟へと歩を進めた。
「仕方ねぇ……今の所犯人も追って来てないみてーだし、あいつらと合流して奥に進むぞ……」
「はいはい……」
鍾乳石の垂れる洞窟を抜けながら、コナンは推理を語って聞かせた。冬馬は何処か釈然としない様子だったが、今はじっくりと話を聞いている場合ではなかった。早く進まなければ、ダムが、村が危ない。
とは言え、釈然としないのは、麻理亜も同じ。
「……ねえ、江戸川。それじゃあ、私達を追っていたのも、山尾さんって事よね……?」
「ああ。恐らくな。どうした?」
「うーん……私、元太と光彦のが挙動不審になるまで、彼の尾行に気付かなかったのよね……」
麻理亜らを追っていたのが殺人犯なら、麻理亜は怨詛の臭いを感じ取るはず。麻理亜のその能力を、コナンは知っている。
とは言え、それが万能だとも確信できない。麻理亜は軽く肩を竦めた。
「まあ、単に私が油断していただけかも知れないけど……」
「……」
やがて、前方に光が見えて来た。洞窟を抜け、ほど良く近くにあった放流管の中を辿りひたすらにダムを目指す。どうやら、犯人は追って来ていないようだ。
急な勾配を上り続け、ダム内部に着いた時には子供達はへとへとだった。元太は冬馬を引っ張り上げるなり座り込み、光彦もその場に倒れこむ。
「大丈夫?」
「駄目です……」
「ヘトヘトで……もう一歩も動けねーぞ……」
コナンは、油断なく辺りを見回す。
「お前たちはここで冬馬さんを守っててくれ……。俺は、留守番の職員に知らせて来る!」
「任せといてください!」
光彦が胸を張って答える。
「私は武藤さんの作業小屋へ行ってみるわ……この近くのはずだから……」
「気をつけろよ……。山尾さんは先にそっちに向かったかも知れない……」
「それなら、私が行くわ。哀は子供達をお願い」
麻理亜なら、いざと言うとき武器がある。コナンと哀は頷いた。
「それじゃ、頼む。紫埜」
哀は、子供達を振り返る。
「さあ、私達はどこかに隠れるわよ」」
「はーい!」
子供達の返答を背後に聞きながら、麻理亜はダムを後にした。
式典のためにダムの職員はほとんど出払っていて、誰にも会わずに小屋まで行くのは造作も無かった。ダムを出てしまえば、後は元々人通りの少ない道だ。真っ白な雪原を、コナンから借りた地図を手におおまかな方向へ足早に歩く。間もなく、雪原の向こうに一軒の小屋が見えて来た。
駆け寄り、外壁に身を寄せる。そっと背伸びをして窓から中を覗いてみたが、そこに人の気配は無かった。
――いない……?
室内に視線を巡らせる。そして、床を見て麻理亜は息を呑んだ。
「――武藤さん!」
鍵はかかっておらず、扉は難無く開いた。床に横たわる武藤の他に、人はいない。
脈はある。意識を失っているだけだ。
麻理亜はDBバッジに手を伸ばす。応答は、直ぐだった。
「紫埜、どうだった?」
張り詰めた声が、バッジに付いた小型スピーカーから流れ出る。
「こっちに彼はいないみたい。武藤さんが気絶させられていたわ。そっちはどう?」
「こっちもダム職員の人達が気絶してる……恐らく、スタンガンで不意打ちされたんだ……。待てよ……おかしい――うわあっ」
「工藤!?」
短い悲鳴を最後に、通信は途絶えた。
「工藤! 応答して、工藤!! ……くっ」
こちらにいないという事は、犯人はダムにいる可能性が高い。見つかって襲撃に遭ったのだろうか。
――無事でいなさいよ、工藤……!
麻理亜は足元に昏倒する武藤を激しく揺する。
「武藤さん! 武藤さん、しっかりしてください!!」
「う……」
「武藤さん、大丈夫ですか?」
武藤は呻き、身体を起こす。きょとんとした表情で麻理亜を見下ろし、それから慌てたように辺りを見回した。
「山尾さんなら、もういないみたいです。……恐らく、今はダムに」
武藤は目を見開く。
「……お嬢ちゃん、見ていたのか?」
「いいえ。話すと、長くなります。とにかく今は、急がないと。彼、ダムを爆破するつもりです」
「何……!?」
武藤の車で、ダムへと戻る。村道から県道へと抜けダムへと向かいながら、再びDBバッジを取り出した。応答者は、哀。
「哀、江戸川から連絡はあった?」
「いいえ。何があったの?」
「江戸川との通信が突然途絶えたのよ。犯人に襲われたのかも知れないわ。今、武藤さんと一緒にダムへ向かっているわ。そっちは何か変わった事ある?」
「変わったも何も、ずっと機関室に隠れたままだから……。そろそろ、子供達も体力が回復して来たみたいよ」
「……彼らの見張り、よろしく。また何か分かったら、連絡するわ」
言って、麻理亜は通信を切る。ちょうど、トンネルに入る所だった。
再び戻って来たダムは、相変わらず静まり返っていた。
「とにかく、職員に知らせないと……」
「ええ……」
コナンの話では、その職員達は武藤と同じく気絶させられているらしいが。
管理室へ向かう間も何度もDBバッジにコールしてみたが、コナンの応答は無い。管理室の職員達は案の定、気絶させられていた。
「な……!?」
息を呑む武藤に構わず、麻理亜は近くの椅子に座った職員を揺すり起こす。
「起きて! 起きてください! 大変なんです!!」
突如銃声が響き渡ったのは、その時だった。
はめ込みのガラスの向こう、ダムの淵へと、麻理亜らは目を向ける。二つの影が、そこにあった。
「……工藤!」
銃声は尚も鳴り響く。麻理亜は踵を返し、部屋を飛び出していた。
鳴り続ける銃声に職員達も目を覚まし、武藤と共に麻理亜の後を追って走る。ダムの淵に差し掛かった所で、下から哀達五人が階段を上がって来た。
「哀! 良かった。あなた達は無事だったのね」
「麻理亜も。江戸川君とは、こっちも連絡が取れていないわ」
麻理亜は硬い表情で頷く。当然だ。彼は今、銃撃を受けているのだから。
緩くカーブを描く道を、ドタバタと駆ける。響き渡る銃声。ふっと、麻理亜は目を開いた。
「ねえ、哀。今……」
「ええ。銃声が変わったわ」
犯人は複数? コナンの推理には見落としがあったのか? 状況によっては、かなり不味いかもしれない。
もう一発新しい方の銃声が鳴り、それきり何も聞こえなくなった。
辿り着いた先には、負傷したコナンと、麻酔銃で眠らされた山尾と、もう一人。
ぴたりと、冬馬の足が止まる。
「あの時の……!」
震える指で、彼女――遠野みずきを指差す。その目は、大きく見開かれていた。
「あの時のお姉さんだ! 眼鏡はかけていたけど、間違いない! この人が、もう一人のお姉さんを車の前に突き飛ばして……!」
八年前、冬馬が見たのは山尾ではなくみずきだった。思い出されるのを恐れ、冬馬を追い回していたのもみずき。最も恐かった記憶の断片を思い出した冬馬は、呻き顔を覆ってしまう。麻理亜はその背中を慰めるように撫でる。哀は腕を組み、じろりとみずきを睨んだ。
「でも、随分酷いお姉さんね……。妹を車の前に突き飛ばすなんて……!」
妹のために命を賭した姉と、妹を車の前に突き飛ばし命を奪った姉と。……同じような年頃の姉妹でも、こんなにも違う。
殺すつもりは無かった。ただ痛い目に合わせるつもりで突き飛ばした所に、不幸にも山尾の車が来てしまった。涙ながらに話すみずきに、コナンが語りかけた。
「分かってるよ……。みずきさんが、本当はもう誰も傷つけたくないと思ってたって事はね……。だって、あの距離から山尾さんの事を打ち抜き……落ちた猟銃を正確に弾き飛ばす腕があったら……僕達、確実に撃たれてたはずだもん……」
麻理亜は同調するように頷く。
それに、麻理亜らを追う彼女からは怨詛の臭いがしなかった。それは、みずきに殺意が無かったから。彼女の語る通り、八年前の出来事は不幸な偶然が折り重なった事故である証。
謝り泣き崩れるみずきを、武藤が励ましていた。
一件落着かと思われたその時、哀が鋭く叫んだ。
「江戸川君! ランプが点滅しているわ!!」
彼女が指差す先には、爆弾の起爆装置。赤く点滅し、爆弾が起動している事を示していた。コナンは手すりから身を乗り出して下を見、そして時間を確認すると叫んだ。
「皆、逃げるんだ!! 爆発するぞ!!」
一同の間に、戦慄が走る。
「ぐずぐずするな!! 急げ――」
言うが早いか、向こう端の一つ目が爆発した。ズウンと重々しい音を響かせ、次々と連鎖するようにして爆発は近づいて来る。麻理亜らは、一斉に駆け出していた。
「冬馬! 早く!!」
元太が、冬馬の手を引く。
爆破はみるみると近付き、振動にバランスを崩しながらもひた走る。
管理室の前まで走り切り、職員が皆の無事を確認する。一人――コナンが、足りなかった。
麻理亜はダムを振り返る。一体どうやってあんな所に爆弾を取り付けたのか、ダムの壁面に取り付けたれた爆弾は的確にダムを崩壊させていた。
ダムは炎と黒煙に包まれ、様子が分からない。麻理亜はキッと職員を見上げた。
「掃除用具って何処にあります!?」
「え!? 管理室の横に……」
麻理亜は駆け出す。元来た道を戻り、管理室の横の倉庫から箒を取り出す。
外へと戻る道すがら、窓の外から爆音に混ざって歓声が聞こえた。
ダムから巻き上がる黒煙。噴き出す大水。その先頭を切るようにして、小さな影がスノーボードで疾走していた。
「工藤……!」
やはり。彼がそう簡単にくたばるはずが無い。
爆発を逃れたコナンは、そのまま水の流れと共に疾走して行く。彼に限って、コースアウトするタイミングが掴めないなどという事は考えられにくい。
爆破に巻き込まれるのを回避しても、問題はこの水。このままでは、式典を行う村の方へと流れて行く。ならば、彼がとる行動は。
麻理亜は外へ飛び出すと、皆の所へ戻らずに箒にまたがった。強く地面を蹴り、木々の間に隠れるようにして飛び上がる。
コナンがコースアウトして向かった方向。湖とは反対の山側――確か、運営停止したスキー場があった。停止理由は、雪崩の多発。
「オーケー……それじゃ、水が押し出される方向は……」
スキー場と向かい合わせになるような辺りへと、麻理亜は飛んで行った。あるのは、畑と森と、ほんの数軒の民家や倉庫。一軒、一軒、建物に人が残っていないか確認して回る。どの家も式典のために出払っていて、誰もいないらしい。
「……おっと」
一軒の家の前で、麻理亜は停止した。庭先に繋がれた飼犬に、麻理亜はそっと歩み寄る。家の中へと声を掛けてみるが、家主は留守のようだ。
犬小屋の直ぐ横の柱に掛けられた散歩用のリードを手に取ると、警戒していた犬は尾を振り立ち上がった。
「あららら……あなた、他の人にはこんな簡単についてっちゃ駄目よー。今は助かるけど」
散歩と勘違いする犬の首輪に縄を付け替え、歩き出そうとした犬を抱え上げる。
「大人しくしててね」
犬を抱えた状態で辺り一帯を飛び回る。大声で呼ばわったりもしてみたが、残っているのはこの子だけのようだ。
麻理亜はダムの方を仰ぎ見る。襲い来る流水は、このままではこの場所を通り過ぎて行くだろう。まっさらなスキー場に、林から小さな影が飛び込んで来る。
――こっちは、オーケーよ……後は工藤、お願い……!
ふわりと高く、電線よりも高く浮かび上がり、スキー場を蛇行して登る姿を見つめる。
と、不意に走行が乱れた。コナンの身体が、スノーボードから投げ出される。刻まれたシュプール。雪崩は、起きない。
「嘘……そんな……」
ダムから流れ出た水は、スキー場の下まで追いつこうとしていた。駄目なのか。あの水を堰き止める事は出来ないのか。
絶望しかけたその瞬間、ゴゴ……と低い地鳴りが聞こえた気がした。
シュプールによる切れ目から、柔らかな雪が崩れ出す。
「やった……!」
コナンは慌ててスノーボードに飛び乗り、雪崩から逃げるようにして滑り出す。
雪崩の勢いは強く、速く、今にも呑み込まれそうだ。
「逃げてええええ!!」
この距離から出来る事があるはずも無く、麻理亜はひたすらに叫ぶ。
……と、スノーボードが大きく跳ねた。宙に放り出された身体に、雪が覆いかぶさる。
――嘘。
「工藤――!!」
職員や子供達、博士らも合流し、コナンの捜索が始まった。
雪崩により、村に水が流れ込むのは堰き止められた。けれども、コナンが。
呼べども探せども、雪に埋もれた小さな身体は一向に見つからない。コナンの携帯電話が見つかった辺りを重点的に探しても、なお。
もう会えないのかと、子供達は泣き叫ぶ。
麻理亜は黙々と、雪を掘る。一分、一秒たりとも惜しかった。このまま見つからないだなんて、そんな事あってなるものか。
「江戸川……! お願い、返事して! 江戸川――ッ!!」
いつも危険な事に首を突っ込むばかりして、何度危機に直面した事か。それでも彼は、しぶとく生き残った。多少の怪我は、日常茶飯事。腹から大量出血しても、風邪をひく程度で復活した。
その彼が、まさか。
初めは、組織の女――犯罪者として見られて、彼から向けられる視線は冷たいものだった。それでも、それなのに彼は、殺人事件の度に体調を崩す麻理亜を何かと気遣い心配してくれて。いつしか、犯人対峙において麻理亜に背中を守らせてくれるようにもなった。自分だって幼児化し不安な事もあるだろうに、そんな姿は微塵も見せず、いつも浮かべるのは不敵な笑み。
『江戸川コナン――探偵さ』
――いつもみたいに、何事も無かったみたいに帰って来てよ。全て理解したようなしたり顔で笑ってよ……!
魔法なんて無くったって、大人の姿でなくなったって、決して無力ではないのだと、彼は身をもって教えてくれた。彼となら、組織を壊滅させる事が出来るかもしれない。親友を奪われ、立ち向かおうと潜入するも何も出来ず良いように利用され、親友の妹さえ守れず力を失ってしまった麻理亜に、彼は再び希望を抱かせてくれた。
――それにあなた、待たせている人がいるじゃない。
そっと、蘭を振り返る。実の弟のように江戸川コナンを可愛がっていた彼女。手から血が出るほどに必死で雪を掻き分けて、それでも彼は見つからない。このまま彼が死んでしまったら、彼女との約束はどうなるのか。いなくなってしまった幼馴染を、きっと彼女はいつまでも待ち続ける。目の前で失った家族を、きっと彼女はいつまでも忘れられない。
哀が腕をまくり、時計を見る。麻理亜はそれを横から覗き込んだ。タイムリミットまで、後一分。
ふと、蘭が再び携帯電話を手にした。どこかへ掛け、祈るように耳に当てる。
「――助けてよ、新一!!」
蘭の声が、山間に木霊する。
藁にも縋る思いで掛けた電話。けれども、当の彼は……。
麻理亜は耳をそばだてる。今掛けた電話の先も、同じ人物だと麻理亜は知っている。着信音が聞こえはしないだろうか。この場で聞こえてしまっては、正体がばれかねない。けれども今は、そんな事は言ってられない。
しかしマナーモードにでもしているのか、コナンの携帯電話の時のような着信音は全く聞こえなかった。
もう駄目なのか。もう間に合わないのか。
諦めかけたその時、雪中から何かが勢い良く飛び出した。重力に従って地面に落ち、転がったのはサッカーボール。勢いを失った後直ぐ萎むのは、彼が持つボール射出ベルトから飛び出たボールの特徴。
「コナン君!!」
いの一番に、蘭が駆け寄る。麻理亜らも、その後に続いた。
雪を掻き分けていた蘭の手が、ぴたりと止まる。小五郎が振り返り、叫んだ。
「いたぞ!! ここだー!!」
「コナン君! しっかり、コナン君!!」
冷え切った彼を抱き上げ、蘭は呼び掛ける。蘭の肩越しに、硬く閉じられていた瞼がぴくりと動いたのが見えた。麻理亜は息を呑む。
「ら……蘭……」
ハッと蘭は腕の力を緩める。コナンは薄らと、力なくではあるが目を開けていた。
「蘭……姉……ちゃん」
蘭の瞳に溜まっていた涙が、はらりと零れた。再び、コナンに顔を摺り寄せる。
「良かった……良かった、コナン君……!」
「やったあ!!」
子供達の間からは、歓声が上がる。
ホッと麻理亜も息を吐いた。彼は、こんな所で命を落としたりしない。いつだって、何があったって。ただ一つの約束――いつか必ず、帰るために。
水の抜けたダムは警察によって捜索され、午後には山尾の元の家の庭から宝石類の入った鞄が発見された。山尾は全てを自白、みずきも妹の件を警察に告白し、警察署へと連れられて行った。
そして翌日。麻理亜らが東京へ帰る日がやって来た。
ロッジの人達に見送られ車に乗る段になって、園子がまだ土産を買っていないと慌てて引き返して行く。
「あっ、私もだ!」
「あっ! 待て、お前ら!! そんな時間はねーぞ!!」
何をそんなに急いでいるのか、小五郎は苛々と呼び掛ける。
「私達も小林先生のお土産買ってなーい! 何がいいかなあ。木彫りのふくろう?」
「やっぱり、クマの饅頭だろ!」
「何言ってるんですか! 白鳥のマグカップで決まりですよ!」
「私も、白鳥に一票〜」
麻理亜も、子供達の会話に加わる。哀が見つけた、『I LOVE 白鳥』と書かれたマグカップ。白鳥刑事と恋仲になった小林先生には、ぴったりだ。
「ですよねぇ!」
「俺は、ふくろうがいいと思うよ!」
「江戸川ー……。多数決で決定だと思ったのにー」
「灰原さんは何がいいですか?」
「クマの饅頭だよな!」
「元太、それ自分が食べたいだけじゃない?」
何を買うかでもめる麻理亜らに、小五郎は叫ぶ。
「お前ら! お土産買うなら早くしろ! 急げ!!」
早く帰らないと沖野ヨーコのドラマに間に合わないとぼやく小五郎。なるほど、急いでいるのはそのためか。
十五分と言う制限時間を設けられた子供達は、慌ててロッジへと駆けて行く。後に続こうとし、麻理亜はふと車の向こう――通りの向かいから駆けて来る姿に目を留めた。
「冬馬君」
呟き、麻理亜もそちらへ駆け寄る。冬馬の後ろからは、冬美がゆっくりと歩いて来ていた。
「見送りに来てくれたの?」
「うん。麻理亜ちゃん達が出ようとしてるのが見えて……」
「ありがとう」
麻理亜は微笑む。冬馬は、ポケットから四つ折にされた画用紙を取り出した。
「これ、あげる」
「なあに?」
麻理亜は受け取り、画用紙を広げる。そこに描かれたのは、一人の女の子の絵。犬を抱き、箒で飛ぶ姿。
麻理亜はぎくりとする。追いついた冬美が、声を掛けた。
「それ、麻理亜ちゃんですって。何だか、女の子向けのアニメのヒロインみたいよね。そう言うのは、あまり見てなかったんだけど」
「アハハ……」
麻理亜は笑って誤魔化すしか出来ない。
見られていたのか。子供達も何も言って来ないし、大事にもなっていないようだから、目撃したのは冬馬だけのようだが。
「麻理亜ちゃん、かっこよかったよ。わんちゃんも、コナン君も、助かってよかった。ありがとう。また来てね」
「ええ、きっと来るわ。そう言えば冬馬君、あの後記憶は――?」
「全部は思い出してないみたいなの」
冬馬の代わりに、冬美が答えた。
「でも僕もう、恐くないよ。皆、そばにいてくれるから。今日も、この後一緒に遊ぶんだ」
「そっか。楽しみね」
「うん!」
冬馬は大きく頷く。周囲に戸惑い、記憶の欠片に怯える姿は、もうそこにはなかった。
『皆、そばにいてくれるから』
どんなに怖い記憶でも、それはもう過去の事。それからずっと時は流れて、冬馬も、麻理亜も、恐怖を置き去りに前へと進んでいる。過去を振り返った時恐怖が大きさ故に直ぐ後ろに迫っているように見えても、今はそばにいてくれる仲間達がいるのだ。支えてくれる仲間達がいるのだ。
麻理亜は丁寧に画用紙を折り畳む。
「ありがとう、冬馬君。大切にするね」
「おーい!! 十五分経ったぞー!! 出ちまうぞー!」
小五郎の大声が聞こえる。
麻理亜は苦笑した。
「もう、本当せっかちなんだから。じゃあね、冬馬君。冬美さんも、お世話になりました」
「いいえ、こちらこそ。お友達にも、よろしくね。特にあの子、食べ過ぎないようにって」
「ハハ、言っておきます」
「元気でね」
「ええ」
再び怒鳴り声がして、麻理亜は手を振り車の方へと駆け戻る。――どんな事件も共に乗り越えてきた、大切な仲間達の方へと。
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2012/05/19