「わあーっ、素敵な部屋!」
麻理亜は歓声を上げ、部屋の奥に位置する窓へと駆け寄る。阿笠は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「会合も終わった事じゃし、午後は大阪観光でもしようかの」
「本当? やった! それじゃ、私、案内するわ。どこか行きたい所ある?」
「そう言えば麻理亜は、大阪に住んでいた事があったのよね……」
「ええ。組織の仕事があったから遊びに出掛ける事は少なかったけど、府内であちこち行っていた訳だから……」
話しながら、麻理亜は窓際へ寄り外を眺める。ビルの向こうに見える通天閣。懐かしい町並み。大阪にいたのはほんの数ヶ月にも満たない間であり、裏では組織の仕事もあったが、表向きは普通の女子高生として過ごした貴重な時間だった。
ふとホテルの前を走る通りに視線を落とし、麻理亜はハッと息を呑んだ。
「それじゃあ、まずはここからも見えている通天閣にでも……」
阿笠の言葉に、麻理亜は振り返る。
「あ……、ねえ、もう少しゆっくりして行かない? ちょっと、疲れちゃって……」
「ん? そう言うなら……」
「それに通天閣に行くなら、日が落ちてからの方がいいわ。ライトアップが綺麗なのよ! 夕飯時に合わせて、お好み焼きなり何なり食べに行くって手もあるし……」
麻理亜は早口でまくし立てる。夕飯の提案に、阿笠は顔を輝かせた。
「なるほど。そうじゃな、そうしよう! それじゃあ、新一君に電話でも入れてみるかの。子供達にクイズを出さんといけんし……」
「アハハ……なあに、その義務感……」
苦笑しつつも、麻理亜は内心安堵していた。
コナンの腕時計に新しく実装した衛星電話へと電話を掛ける阿笠の腹ごしに、麻理亜はそっと窓の外を盗み見る。
「……何かあったの?」
囁き声に、麻理亜はぎくりと振り返る。哀は、怪訝げな顔をして麻理亜の肩越しに窓を覗こうとしていた。
「ううん。何でもないわ。懐かしい景色だなーって眺めていただけ。あっ、ねえ、喉渇かない? コーヒー入れるわね」
哀の背中を押し、部屋の中央にあるソファへと座らせる。窓際を立ち去る際に再度外を盗み見たが、もうあの人影はどこにも見当たらなかった。
随所の跳ねた色素の薄い茶髪。糸目を覆う細いフレームの眼鏡に、もう四月も下旬に入るにも関わらずハイネックのセーター。
どうして彼が、こんな所にいるのだろう。
+++劇場版名探偵コナン「絶海の探偵」
探偵の赴くところ事件ありとは、よく言ったものだ。まだ事件が起こった訳ではないようだが、何やら気になる事があるらしく、コナンは女性自衛官の写真を哀のスマートフォンに送って来た。彼女の所属を調べて欲しいとの事だったが、海上自衛隊に該当する人物データはなかった。
「どう? 博士、繋がった?」
コナンの腕時計に付いた衛星電話へと掛けている阿笠に、麻理亜は問う。阿笠は、困ったように首を左右に振った。
「呼び出しはしたんじゃが、新一のやつ、通信を切りおった……」
「何かあったのかしら……」
哀が、パソコンのディスプレイを見つめながら慣れた様子で呟く。ディスプレイに映し出されているのは、コナンから送られて来た女の写真と、該当者なしの文字。
「仕方ないわね……。工藤の事だから、何かあっても必要にならない限り連絡する気ないでしょうね。工藤達の船が今いるのって、どの辺りか分かる?」
「えーっと……さっき電話した時、舞鶴港で乗船待ちじゃったようじゃから……この辺りかのう」
阿笠は手近なパンフレットを手に取り、京都の地図が掲載されたページを開く。
場所を確認し、麻理亜は立ち上がる。
「若狭湾のイージス艦『ほたか』ね。オーケー。ちょっと、行って来るわ」
「行って来るって、まさか……」
哀の言葉が終わらぬ内に、バァンと大きな破裂音が部屋中に響いた。空中の一転に吸い込まれるように、麻理亜の姿がその場から掻き消える。
「相変わらず、便利じゃのぉ」
「便利じゃないわよ」
のほほんと感心する阿笠に、哀の辛辣な言葉が刺さる。
「舞鶴港では今朝不審船が発見されたのよ? 当然、艦内は厳戒態勢でしょうね。そこで、こんな大きな音がしたら……」
ハッと阿笠は息をのむ。
「だ、大丈夫じゃろうか」
「見つからない事を、祈るしかないわね……」
麻理亜が「姿現し」したのは、大小様々なパイプや機械に囲まれた船内だった。見るからに関係者以外立入禁止と言った様子の場所で、辺りには人がいない。マグルによる目撃を避けて想定したのだが、これがまずかった。
バタバタと駆ける足音が近づいて来る。麻理亜はきょろきょろと辺りを見回し、そばにあった機械と壁の間の隙間に小さな身体を捻じ込んだ。
足音の主は、二人の男だった。服装からして、海上自衛隊の者だろう。物陰の間を一つ一つ、検めて行く。その手には、黒光りする拳銃。
直ぐそばまで隊員が来て、麻理亜は息を殺す。
「いたか!?」
「いません!」
さすがの自衛隊も大人には到底入れないような隙間まで覗き込む事はなく、麻理亜は難を逃れた。足音が遠ざかって行く。隊員の一人は、無線機で連絡を入れていた。
「爆発物の類は見当たりません。衛星通信があった所からは離れていますし、こちらは揺動の可能性も……」
『Xかその仲間が、持ち去ったのかもしれん。引き続き、辺りの捜索を!』
「了解」
彼らが確実に立ち去ったのを確認すると、麻理亜は狭い隙間から抜け出した。
隊員に遭遇しないよう気を付けながら、こそこそと隠れるようにして通路を進んで行く。再び前方から足音がして、麻理亜は物陰に隠れた。
角を曲がって現れた男は、先ほどの隊員達のように何かを探している風ではなかった。むしろ、逆だ。麻理亜と同じように辺りに気を配り、隠れるようにして進んで来る。
青いジャケットに黒いシャツ、ベージュのズボン。眼鏡をかけ、肩から黒い鞄をかけた姿。
――自衛隊員、って服装ではないわね……。
コナンらと同じ、一般客だろうか。こんな所に?
男は麻理亜に気付く事無く、過ぎ去って行った。麻理亜は物陰を出ると、眼鏡の男とは逆の方向へと駆けて行った。
コナンがいるとすれば、客室の方だろうか。イージス艦は予想していた以上に大きかった。戦艦と言えども所詮は船。通路があって、客室や運転室があって、どの方向だろうと真っ直ぐ行けばいずれは甲板に出る。そんな風に思っていたが、なかなか一般客がいる所にも出られない。まず、艦内の構造が分からない事にはコナンを見つけようもない。
大阪に戻って阿笠と哀と共にコナンからの連絡を大人しく待っていた方が良いだろうか。そんな風に思い始めた時、背後から声が掛かった。
「紫埜!」
コナンだった。誰も来ない事を伺うように背後をちらちらと振り返りながら、麻理亜の方へと駆け寄って来る。
麻理亜はホッと安堵の表情を浮かべた。
「良かったー、もう諦めようかと思ってたところだったのよ〜。工藤、女性自衛官の写真送って来たでしょう? その結果を伝えたくて」
「どうだった?」
何か色々と言いたそうな顔をしていたコナンは、件の写真の話を持ち出すとキッと表情を引き締めて素早く尋ね返した。
「ビンゴ。予想して送って来たんでしょうけど、あの女性に該当する人物は、海上自衛隊の中にはいなかったわ。いったい、何があったの? こちらへ来た時に捜索に現れた隊員達も、不審な物音を立てちゃったのを差し引いても凄く緊張した様子だったし……」
「イージス艦で、切断された左腕が見つかったんだ」
「な……っ、それって……」
「見つかったのは腕だけだが、持ち主が無事でない事は確かだろうな……。今、服部に舞鶴港の辺りで本体を捜してもらっている」
腕の持ち主は今のところ、笹浦と言う一等海尉の線が有力だとの事だった。左腕が見つかったのは、イージス艦に設けられた注排水装置のフィルター。海水と共に吸い込んだ海藻やごみなどが中まで入らぬよう防ぐ場所に、腕が引っかかっていたらしい。
「これから、ヘリコプターで京都府警に運ぶ事になってる。おっちゃんが目暮警部に連絡して、警視庁からの応援も頼むつもりだ」
「なるほどね……自衛隊員の死体が出たとなれば、物々しくもなるはずだわ。いきなり切ったりするから、あなたに何かあったのかと思ったのよ?」
「悪い、悪い。そう言う状況だから、電波探知も厳しくてさ……」
「まったく……」
麻理亜は、軽く溜息を吐いた。
「見付かると厄介だから、大阪に戻るわ。何か、博士に伝える事はある?」
「たぶん服部の方から連絡が行ってるだろうけど、京都に向かって服部の補助を頼む」
「……死体探し?」
麻理亜は露骨に嫌な顔をする。死体など、誰しも見て気持ちの良いものではないだろうが、麻理亜は特に体調に影響が出やすかった。どれだけの修羅場を潜り抜けて来ても、どれだけの殺人事件に巻き込まれて来ても、こればかりはどうにも慣れない。
「悪ィな。まあ、辛かったら車で待機していればいいから……」
「はいはい……」
姿くらましをしようと軸足に体重を乗せかけ、麻理亜は留まった。
「あ。ねえ……」
「ん?」
大阪で、ホテルの前に見た人影。随所の跳ねた色素の薄い茶髪。糸目を覆う細いフレームの眼鏡に、もう四月も下旬に入るにも関わらずハイネックのセーター。――沖矢昴。
工藤邸に住む彼が、どうして大阪にいたのか。それも、麻理亜達が――哀が泊まる、ホテルの前に。
「どうした?」
掛けられた声に、麻理亜はハッと我に返る。コナンは、きょとんとした表情で麻理亜を見つめていた。
「ううん……やっぱり、なんでもない。じゃあ、行くわね」
沖矢昴について、コナンは明らかに何かを隠している。今回の事も、相談したところで何か答えてくれるとは思えない。そもそも、麻理亜自身、本当に彼だったのかと念を押されると明確な自信が持てなかった。
麻理亜はくるっとその場で回転する。今度はコナンがハッと何かに気付いたような顔をした。
「あっ……! ちょ、待っ……」
バァンと銃声にも似た音が辺りに満ちる。麻理亜の姿を見送る事もなく、コナンはその場から逃げるように駆け出していた。
「バーロ……! 先に音消すなりしろっての……!」
死体については、合流前に平次が見つけ、麻理亜は現場に行かずに済んだ。
近くにあった寺の駐車場に車を停めて間もなく、バイクに乗った平次と和葉が姿を現した。
「よぉーっ、紫埜! 久しぶりやなァ」
ヘルメットを外し、平次は満面の笑みで手を振る。
「久しぶり? 結構頻繁に、東京へ来ている気がするけど……」
「工藤にはよう事件で会うてるけど、紫埜はあまりおらへんやん」
「あなたと工藤の会う回数が異常なのよ……」
呆れたように言って、麻理亜は平次の少し後ろに目をやる。
「……彼女も一緒だったのね」
「ああ。一緒に来るー言うて聞かなくてな」
ひょこっと、和葉は平次の後ろから顔をのぞかせる。
「麻理亜ちゃんやったっけ。久しぶりやな!」
「ええ。こんにちはーっ」
麻理亜はにっこりと子供らしい笑顔を浮かべ、礼儀正しく挨拶する。
かつて大阪にいた頃、和葉も麻理亜のクラスメイトだった。明るく面倒見の良い彼女は、転校生の麻理亜をよく気にかけてくれた。
しかし、今の彼女に「クラスメイトの紫埜麻理亜」の記憶はない。組織や幼児化の事も知らない彼女には、平次に対するように正体を明かしてもいない。
彼女にとって今の麻理亜は、毛利探偵事務所に居候する小学生の、その友達という、ほとんど接点の無い遠い関係でしかないのだ。
「せや。電話でも先に伝えたけど、死体に赤いモンが付着しててん」
「赤いもの……? 血痕じゃないでしょうね?」
ハンカチを取り出す平次から、麻理亜は後ずさる。
「ちゃう、ちゃう。血痕より鮮やかで、付き方もスプレーみたいな感じでなァ……」
「とにかく、車へ。哀君が分析の用意をしとる」
阿笠の車に乗り込んだところで、ちょうど平次の携帯電話に着信が入った。
哀は機材を駆使し、受け取ったハンカチの付着物の解析を開始する。
「工藤?」
「ああ。――無事、阿笠博士と合流したで!」
麻理亜の問いにうなずき、平次は電話の向こうにいる相手に答えた。
「今、調べてるところや。ちょっと待っとれ……。
――にしても、こないな鑑定が車ん中でできるっちゅーんはすごいのー……」
「哀くんは、元々化学者じゃからのう……」
「ちょっと、博士!」
感心する平次に阿笠が返した言葉に、麻理亜はヒソヒソ声で叱責する。
この場でただ一人、哀が本当は子供ではない事を知らない和葉は、怪訝げな顔をしていた。
「化学者!? 何言うてんの? どう見ても小っさい子供やん!」
「え、えーっと……」
「出た。これよ……」
うろたえる麻理亜と阿笠に構わず、哀はいつもの調子で告げる。
死体に付着していたという赤いものは、船の塗料だった。阿笠が元データの置かれたクラウドからコナンの指示したメールアドレスにデータを送り程なくして、再びコナンから着信があった。
イージス艦のデータは、殺害された笹浦一等海尉の手によって、竹川と名乗る男の会社に送られていた。舞鶴港で不審船が発見されたのは、その翌日。イージス艦内にて隊員が話していた「X」とは、その船で上陸したと思われている竹川の仲間の事だったのだ。
「――あっ!」
平次がコナンと電話をする傍ら、麻理亜は急に声を上げた。
「平次! 電話貸して!」
「先斗町公園やな? ――ちょっ、何すんねん、紫埜! まだ……」
「工藤! 私、Xの事、見たかもしれない!」
「何っ!?」
呆れたような笑い声を漏らしていたコナンは、麻理亜の言葉にがらりと声音を変えた。
「さっき、イージス艦であなたを探している時に……そう、関係者以外立ち入り禁止っぽい所だったわ」
「何言うてんの? イージス艦って今、沖に出てんねやろ? なんで、麻理亜ちゃんが……」
「しーっ。お前は黙っとれ!」
従業員通路で、麻理亜と同じように周囲に気を配り、人の視線を逃れるようにして歩いていた男。自衛隊員とは異なる服装。
麻理亜は記憶の中の男を頭に思い描きながら、その特徴を伝える。
「眼鏡をかけていたわ。ズボンはベージュで……そう、男性よ。青いジャケットを着て、黒い鞄を持っていた」
「そうか、サンキュ!」
会話が途切れ、黒い手が麻理亜の目の前に差し出される。
「終わったなら、替わり」
「あー……、切られちゃった……」
「何や。またかいな、あいつ……」
自分の用件が終わればすぐ電話を切るのは、彼の十八番だ。平次は気を取り直し、運転席に向かって呼びかけた。
「とにかく急いでくれや!」
「ホイ、来た!」
威勢よく返答すると、阿笠はアクセルを踏み込んだ。
平次と和葉が先斗町公園を調べている間、麻理亜は阿笠と哀と共に車の中で待っていた。
イージス艦に紛れ込んでいるスパイ「X」。今朝発見された、不審船。――今朝。
ハッと麻理亜は息をのむ。不審船が発見されたのは、今朝。つまり、Xが上陸したのは今朝だ。そのXがイージス艦に乗り込む方法。容易なのは、一般公開にの乗客に紛れ込む事だ。しかし、今朝上陸したスパイが、体験航海に応募なんてしていたはずがない。――となれば。
麻理亜は、公園の方へと目をやる。ここは、平次がいる。彼がいれば、大丈夫だろう。
麻理亜は後部座席を飛び降りると、車の後ろに回り込みトランクを開ける。
「ちょ、ちょっと、麻理亜!? いったい……」
「こっちはよろしく、志保。平次にもよろしく言っておいてくれる?」
慌てて降りて来た哀に、麻理亜は箒を取り出しながら言う。
「よろしくって……どこに行くつもり!?」
「――舞鶴港!」
麻理亜は箒にまたがり、強く地面を蹴った。ふわりと勢いよく上空へと飛び上がる。
「ちょっ……」
呼び止めかけ、哀は道路の向こうを見てハッとする。助手席へと戻りながら、ワンタッチで電話を掛けられるよう準備していたスマートフォンを取り出した。
「――警察が来たわよ!」
ただ一言平次に伝え、電話を切る。
そして、空を見上げた。青く澄み切った空。その上空にはもう、小さな魔女の姿はない。
「哀くん、麻理亜くんはいったいどこへ……」
「舞鶴港だそうよ……」
「舞鶴港? イージス艦へ向かったのかね!? 厳戒態勢のイージス艦にまた行くのはまずいんじゃ……それに、どうしていつもの魔法じゃなく、箒で……」
「イージス艦じゃないわ……当てのない探し物でも、するつもりじゃないかしら」
麻理亜が飛んで行ったであろう方向を仰ぎ見ながら、哀は言った。
京都府の北、日本海に面する港。若狭湾から更に陸地をえぐるように入り組んだ舞鶴湾に、その港はあった。
人目を避けるようにして、木々の中へと麻理亜は降り立つ。
「さて、と……あそこね。イージス艦が出港した場所は……」
海上自衛隊舞鶴基地、北吸桟橋。門の所には二人の警備員が立ち、中には入れそうにない。奥には、体験航海の受付場所だったと思われるテントが構えているのが見えた。
イージス艦に紛れ込んだ、某国のスパイ「X」。乗客は当然、受付を通る。それを突破したと言う事は、当選券を持った誰かに成りすました可能性が高い。
「……こっちも死体探しにならなければいいんだけど」
麻理亜は、ぐるりと辺りを見渡す。
海上自衛隊の基地は、広い道路と海との間にあった。道路に「国道27号線」と書かれているのが見えるだけあって、途切れない程度には車通りがある。道路の向かい側は高地になった上に木々が生い茂っていて、麻理亜はその林の間から基地を見下ろしていた。
不審船の発見から緊張感に包まれている自衛隊基地内で人を気絶させ、監禁するのは、容易ではないだろう。乗船まで凌ぐだけならトイレにでも縛っておいておけば良いだろうが、発見されれば直ぐに誰に成りすましているのかバレてしまう。船の上で正体がバレれば、逃げ道がない。
基地内で気絶させ、外に監禁するのは更に困難だ。自衛隊内の建物は低く、辺りにも目隠しになるような建物は少ない。道路も広く、見通しが良い。大人一人を運び出したりなどすれば、目立つ事だろう。
駐車場は、基地の建物が建つすぐ横。徒歩区間は、自衛隊の基地内で完結してしまう。こうも見通しの良い場所で、いったいどこでXは標的を捕らえ、どこに標的を隠したのだろうか。
更に左へと首を巡らせ、その先にある物に麻理亜は目を止めた。
――歩道橋。
駐車場沿いに進んで行った先に、歩道橋があった。基地の入り口前にも、横断歩道はある。しかし、歩道橋まで作るとなれば、その位置で渡る人がそれなりに多くなると言う事。
道路は緩いカーブを描いていて、歩道橋のこちら側の様子は見えない。麻理亜は林の中を、歩道橋の方へと下って行った。
木々が途切れ、茂みの中からコンクリートの道へと降り立つ。そこは歩道の縁石も途切れ、車が乗り入れられるようになっていた。歩道橋の向こうに見えるのは、バス停。
「バス……なるほどね」
麻理亜は口の端を上げて微笑う。
体験航海に当選した全員が、車を運転出来るとは限らない。車や運転免許を持たない人は、当然、公共の交通機関を使用する事になる。
麻理亜は、降りて来た林を振り返る。道路に面した角には看板が立ち、「舞鶴市多目的屋内施設」との文字が書かれていた。
「考える事は一緒って訳ね……」
標的は、バスを使用していた。それも、自衛隊基地とは反対側へと降りる向きになるバス。恐らく、二人以上――いや、二人か。同行者は子供ならば、更に都合が良い。バスを降りた二人の会話から体験航海の参加者であると判断したXは、その父親を襲った。あるいは、子供を捕らえ、脅したか。そうして麻理亜が降り立ったのと同じ茂みの中に連れ込み、父親と入れ替わった。
国道に背を向け、奥へと進む。少し行くと、右手にアパートかマンションのような建物が見えて来た。多目的屋内施設などと言うから公民館か何かかと思ったが、どうやら違うらしい。
麻理亜はスマートフォンを出すと、地図アプリを起動させる。どうやらここは、海上自衛隊の宿舎のようだ。
自衛隊施設と言えども、こちらは基地に比べれば人気が少なかった。敷地の外れ、林の横の公道か私道か判別のつかない道ともなると、全く人がいない。道は林の中へと続いていた。
木々の間を、道沿いに進む。やがて、国道を走る車の音も聞こえなくなり、まるで山道を上っているかのような景色になって来た。
「誰かー……いますかー……?」
標的の名前も分からない事に気付き、とりあえず麻理亜は叫んでみる。声は木々に吸い込まれ、何の返答もなかった。
「まあ……それもそうよね……」
この道沿いで、Xは標的を捕らえたのだろうか。となれば、この両脇にある林の中を探すべきか。
そう思いかけたその時、目の前が開けた。
そこにあるのは、赤煉瓦造りの倉庫のような平たい建物だった。煉瓦の壁は白くくすみ、扉の上の窓枠には蔓が絡みついている。
「ふーん……いかにもって感じね……」
不意に刺すような視線を感じ、麻理亜は背後を振り返った。
しかし、そこに広がるのは閑散とした道路と今にもそれを覆い尽くしそうな緑のみ。しかし、間違いない。確かに、血の匂いがした。
「ビンゴ……って事かしら」
麻理亜はスマートフォンを操作し、電源を落とすと、建物の方へと向かった。
扉には南京錠が付いていたが、施錠はされていなかった。慎重に扉を開け、麻理亜は中へと潜り込む。
中は真っ暗だった。腕時計型ライトの明かりを点け、辺りを照らす。
建物の中にも煉瓦の壁は連なり、まるで迷路のような様相を呈していた。倉庫と言う訳ではないらしい。いったい、何の施設なのだろうか。
麻理亜は奥へと進みつつ、背後に気を配る。
Xが単独犯だとは限らない。共犯者がいて、捕らえた標的を監視している可能性もある。建物の前で感じた気配は、その共犯者のものかも知れない。
角を曲がった所で、明かりの中に人影が照らし出された。麻理亜は息をのみ、身構える。しかしそれは、Xでもその共犯者でもなかった。
手足を縛られ、床に転がる大人の男。彼は眩しさに、目を瞬く。
「大丈夫!?」
麻理亜は叫ぶと、彼に駆け寄った。壁から繋がる縄を解き、口に貼られたテープを剥がしてやる。
明かりに目が慣れた男性は、助けに来たのが子供だと分かり目を丸くしていた。
「き、君はいったい……」
「もう、大丈夫です。あなたを助けに来たわ。――イージス艦の体験航海に来て、襲われたのでしょう?」
男性は更に目を丸くする。それから、つかみかからんばかりの勢いで麻理亜に迫った。
「そ、そうだ、勇気は!? 勇気も助かったのか!?」
「ゆうき……お子さん?」
「ああ……。バスを降りた所で、勇気を人質に取られて、ここへ連れて来られて……奴は、イージス艦の当選券を盗んで、勇気を連れて行ったんだ……!」
「悪いけれど、勇気君は犯人と一緒にイージス艦の中だと思うわ……イージス艦は今、沖に出ている」
「そんな……!」
「でも、大丈夫よ」
麻理亜は微笑む。
「イージス艦の中には、名探偵さんがいるから。彼がきっと、助けてくれるわ」
「名……探、偵……?」
男性は、ぽかんと麻理亜を見つめる。
突如、ガタンと、嫌な音が頭上で響いた。視界の端にある縄が、するすると壁の方へと消えていく。
「え……」
縄の先は壁を上へと這い、天井へと続いていた。上へと向けたライトに照らし出されたのは、落下して来る大きな電球。
「な……っ」
男性を縛っていた縄の先が、梁を通すようにして電球へと繋がっていたのだ。縄が切られれば、電球が落ちるように。縄の先は闇に隠れ、どこに繋がっているかなんて気付きもしなかった。
杖を出そうと上着の内側をまさぐる麻理亜に、男性がかばうように覆いかぶさる。
「えっ、ちょっ……」
杖を出し損ね、そのまま地面へと押し倒される。
まずい。このままでは――
パリンと激しい音を立て、電球が空中で破裂した。バラバラと降り注ぐ、細かなガラス片。
「……怪我は無いかい?」
身を起こし、男性は問う。麻理亜はうなずいた。
「え、ええ……ありがとう……」
男性は、辺りを見回す。地面に降り注いだガラスの欠片が、麻理亜の腕時計型ライトに照らされキラキラと輝いていた。
「運が良かった……こんなのが頭に当たったら、死んでいたよ……」
「そうね……」
「大丈夫ですか!?」
麻理亜でも被害者の男性でもない、第三の声がその場に加わった。闇の中から姿を現し、駆けて来たのは、眼鏡を掛けた糸目の男。
「沖矢さん……!? どうして、こんな所に……」
「浄水場の見学に来ていたんですよ。でも、イベント時しか開放していないみたいで……帰ろうとしたら、大きな音が聞こえたものですから」
「浄水場?」
「ええ。ここは、浄水場として使用されていたんですよ。明治に造られた施設で、重要文化財としても登録されているんです。それより、いったい何が?」
沖矢の問いに答えたのは、被害者の男性だった。
「子供がさらわれたんです! どうか、勇気を助けてください……! 犯人は、イージス艦に乗ったようで……私はここに閉じ込められて……」
麻理亜は、辺りを腕時計型ライトで照らす。床に散乱したガラスの欠片。煉瓦の壁――そこにある、凹み。
――弾痕……。
男性の訴えに応じる沖矢を、麻理亜は盗み見る。
電球が割れたのは、運が良かった訳ではない。沖矢昴。彼は、いったい――
建物に入る前に平次に呼ぶようにメールで頼んでいた警察が到着し、被害者の男性は無事保護された。
夜の港で、親子は抱き合い、再会を喜ぶ。それを眺め、麻理亜は微笑んだ。それから、辺りを見回す。警察や自衛隊員の向こうで、闇の中に消え行こうとする人影があった。
「――沖矢さん!」
呼ばい、麻理亜はその背中を追うようにして駆けて行く。基地の門を出て、人気のない林の横で沖矢は立ち止まった。
結局、Xに共犯はいなかった。建物に入る前に感じた血の匂いは、見張りの共犯者のものではなかったのだ。
彼が現れたタイミング。壁に残っていた弾痕。
「沖矢さん……あなた、まさか――」
「あまり、無茶をしない方がいい」
麻理亜の言葉を遮るようにして吐かれた言葉。その声音は、いつもの穏やかな調子とは違ったもので、麻理亜は思わず口をつぐむ。
「何も知らずに残された友人がどんなに辛い思いをするか、知らない訳ではないだろう」
世界が、止まったかのようだった。
バイト先の喫茶店で出会った親友。何かを抱えている事は分かっていたのに、踏み込めずに、気付いた時にはもう遅かった。
何も知らないまま、失われてしまった友。
沖矢はそれ以上何も言わず、無言で背を向け、歩いて行く。麻理亜はただただその場に佇み、その背中を見つめていた。
「沖矢さん……あなた、いったい……」
呟いた言葉に答える声はなく、ただ潮騒の音だけが幽かに聞こえていた。
「 Different World 第3部 黒の世界 」 目次へ
2016/05/05