照明の消された部屋で、煌々とディスプレイの明かりだけが輝く。次々とスクロールされていく酒の名前を、色素の薄い瞳が追う。
 ――このデータもだ。やはり、消されている。
 彼女は眉を顰める。
 ディスプレイに並ぶコードネーム。抹消された者も含むはずのそこには、あるはずの名前がなかった。
 不死の魔女だと噂され、組織を裏切り逃亡した一人の女。
 記録だけではない。人々の記憶にも、その女の存在は残っていなかった。自分が覚えていられたのは、他人とは異なる記憶力を持つためだろうか。
 魔法なんて話は眉唾物だが、こうも皆が忘れているとなると、本当に魔女だったのだろうかとさえ思ってしまう。
 残念ながら彼女の本名を知る者もおらず、探す当てもなかった。彼女の身辺調査をしていた組織員なら知っていたかも知れないが、皆、記憶を失ってしまった。
 突如、パチンと音がして部屋の照明が明るく瞬いた。彼女は眩そうに眼を細め、戸口を振り返る。そこに立つのは、端正な顔立ちをした金髪の女。腕を組み、あきれたようにこちらを見つめていた。
 彼女は、その女のコードネームをつぶやく。
「ベルモット……」
「また電気を点けないままやっていたの? 目立ちたくない侵入者か何かかと思ったわよ……」
 ベルモットは、彼女の後ろからディスプレイを覗き込む。
「何を調べていたの? ……組織員のリスト?」
「ええ……ねえ、ベルモット。あなたは聞いた事がない? ストレガと言うコードネームの組織員を」
 ベルモットは、わずかに目を見開いた。
 その反応に、彼女も目を見張る。――まさか。
「覚えがあるの?」
 急き込んで尋ねたが、ベルモットは左右に首を振った。
「いいえ。私は知らないわ……。ただ、ジンが話していたゴーストと同じコードネームを、あなたが口にするとは思わなかったから」
「ゴースト……?」
「ええ……だって、そうでしょう? 誰も彼女の存在なんて覚えていない。データにだって、残っていない。なのに、ジンは確かにその女はいたと主張するのよ。シェリーの逃亡を手伝ったに違いないってね……」
「あなた自身は、覚えていないの……?」
「覚えているも何も。私が日本まで来たのは、彼女が逃亡した後よ? 日本で短期間だけ活動していた、会った事もない末端の組織員なんて、知る由もないわ」
 ベルモットは淡々と話す。
「まあ、特徴ぐらいならジンから聞いているけど……。橙色の瞳に、あなたと同じ銀髪。色素は欧米染みているけれど、顔立ちは日系人。人知を超えた魔法のような技を使い、強靭な刃も猛毒も彼女を死に至らしめる事ができない――白銀の魔女ってね……」





+++純黒の悪夢





「うわあ、でっけぇのが見えてきたぞ!」
「本当ですねー!」
「すっごーい!」
 海の向こうに見える巨大観覧車に、子供達が歓声を上げる。
 本日からリニューアルオープンする東都水族館。店舗や遊戯施設が全て屋内に配置され、水族館の目玉として二輪大観覧車が設置された。南北で車輪が別になっていて、それぞれ逆向きに開店する観覧車。観覧車のネオンとその前に配置された噴水ではショーが行われ、これも新しい水族館の目玉だった。
 それから五分と経たぬ内に、阿笠の運転する車は水族館へと到着した。元々は水族館が目的だったが、車窓から見た巨大観覧車に惹かれ、子供達は乗る気満々になっていた。
「まずは観覧車からだー!」
 叫び、元太、光彦、歩美の三人は一目散にチケット売場へと駆けて行く。阿笠は慌てて叫んでいた。
「両方はいかんぞ、両方は!」
 麻理亜も三人の後を追おうとして、ふっと漂って来た香りに立ち止まった。
 ――強い、血の匂い。
 麻理亜がきょろきょろと辺りを見回していると、コナンも何か気が付いたのか、足を止めた。彼が見つめる先には、ベンチに座る銀髪の女性。
「どうしたの? ――あ、ちょっと!」
 哀の問いかけにも答えず、コナンは彼女の方へと駆け寄って行った。
 哀と共に後を追おうとして、麻理亜は二の足を踏んだ。
 ……彼女だ。彼女が、この匂いの根本。
「うわぁー、お姉さんの目、左右で色が違うんだね!」
 コナンがお得意の子供演技で話しかける。銀髪の女性は、困惑顔でコナンを見つめていた。
「日本語がよく分からないんじゃない?」
 哀の言葉に、彼女は首を左右に振った。
「わかる……わかるわ……」
「どうしたの? こんな所に、一人で……お友達もいないみたいだし……。それに、怪我してるよ」
(……怪我?)
 強く感じた血の匂い。普段の慣れから思わず警戒してしまったが、それではこの匂いは怪我によるものだったのだろうか。よく見れば、彼女はスーツのような服装だが、その服は汚れスカートの裾も擦り切れていた。何かの事件に関わっているにしても、被害者側なのかも知れない。
 麻理亜は恐る恐る、彼女達の方へと近付く。
 銀髪の彼女は、記憶を失っているようだった。どこから来たのかも分からなければ、自分の名前も分からない。コナンの推理によると、車に乗っていて事故に遭ったらしい。コナンが気付いたのは、ガソリンの匂いだったようだ。
「おーい、コナンー! 灰原ー! 麻理亜ー!」
「三人分のチケットも買って来たよー! 早く乗りに行こうよー!」
 大きく手を振りながら、子供達が駆け戻って来る。
「あれ!? 誰ですか、その女の人……」
「うわあ、お姉さんの目、右と左で色が違う……きれいー!」
 女性の瞳を見て、歩美が声を上げる。銀髪の女性の瞳は、片方は黒、もう片方は青色をしていた。元太が首を捻る。
「偽物の目を入れてんのか?」
「違いますよ、元太君! お姉さんはオッドアイだと思いますよ!」
「オッドアイ……? 変な名前だなあ、この姉ちゃん……」
「あ、いや、この人の名前じゃなくて……」
「分かったあ! オットセイの目の事でしょ?」
 歩美が声を上げる。
「目の事なんだよね? コナン君!」
「あ、ああ……」
 目の事だと言う点では間違ってはいない。コナンは苦笑しながらうなずく。
 笑い声に、麻理亜達は振り返った。不安そうな困惑顔だった女性が、クスクスと笑っていた。
「あっ、ごめんなさい……」
「お姉さんに笑われちゃったね!」
「ところで……君たちは、こんな所で何をしとるんじゃ?」
 やっとの事で子供達に追いついた阿笠が、肩で息をしながら問う。
「ちょうど良かった、博士!」
「このお姉さん、事故に遭って……どうやら、記憶喪失になってしまったみたいなの……」
「本当か!? 新……いやいや、コナン君……」
 新一、と言いかけて阿笠はコナンの名前を言い直す。コナンはうなずいた。
「もしかしたら、昨日の事故に関係があるのかも知れない……直ぐに警察に――」
「やめて!!」
 警察という単語に、彼女は過剰な反応を示した。麻理亜の中で、再び疑念が募る。
「……何か……警察に行けない理由があるの?」
 何か後ろ暗い事があるのか。それとも、警察の中に彼女をこんな目にあわせた人がいるのか。
 彼女は、再び困惑顔に戻っていた。
「わ……分からない……」
「じゃが、保護してもらわんと……」
 話している間に、突然、コナンが彼女を撮影した。彼女は驚き、警戒するように立ち上がる。
 そのまま立ち去ろうとする彼女を、コナンは呼び止めた。
「待って、お姉さん! 警察には通報しないよ! お姉さんの知り合いを探すために、写真が必要だったんだ……」
「私の知り合い……」
「うん……記憶を取り戻す手伝いをさせてよ」
「マジかよ、コナン!?」
「私達も手伝わせて!」
「なんたって、僕達は――」
「少年探偵団なんだから!」
 子供たちは俄然やる気になり、彼女の手を引いて走り出す。阿笠が慌ててその後を追って行く。
 哀が、コナンを振り返り尋ねた。
「まさか、本当に警察に届けないつもり?」
「んな訳ねーだろ……――あ、もしもし。蘭姉ちゃん?」
 コナンが蘭への通報を頼む傍ら、麻理亜は哀に問うた。
「ねえ、志保……彼女の事、何か感じたりしない?」
「何か? そうね……似ているとは思ったかしら……」
 麻理亜はきょとんと哀を振り返る。哀は少し微笑って言った。
「あなたに……」
「私?」
「ええ。記憶喪失に、珍しい色の瞳……それに今こそ隠れるために染めているけど、あなたも元々は銀髪だったじゃない? もっとも、あなたのはもっと色素が薄くて銀というよりほとんど白だったけれど……」
「ああ……言われてみればそうね……。それだけ?」
 哀は眉を動かし、緊張した面持ちになる。
「……何か、気になる事でもあるの?」
「いいえ。それだけなら、別にいいの……」
 麻理亜は、子供達に手を引かれて行く女性を見やる。
 哀は、彼女に危険を感じ取っていない。それではやはり、麻理亜の思い過ごしだろうか。彼女は、何らかの事件に巻き込まれただけの被害者なのだろうか。
 子供達のやり取りに、彼女が思わず漏らした笑顔。その顔は、麻理亜が最初に感じた血の匂いとはあまりにも不釣り合いで、ただ麻理亜を困惑させるばかりだった。





 アトラクションや各種店舗、チケット売場に入口、あちらこちらとスタッフに聞いて回ったが、銀髪の女性を覚えている者はいなかった。
「彼女、本当にここに来た事あるのかしら……?」
 大観覧車の入口でも手掛かりを掴めず次の場所へと移動しながら、哀が疑問を口にした。コナンもうなずく。
「ああ……これだけ特徴的な髪と目の色をしているのに、誰一人として覚えてないなんておかしいよな……」
「リニューアルオープンだから新規スタッフも多いだろうけど、観覧車の人はリニューアル前からここで働いてるって言っていたものね……」
 麻理亜も、人差し指を顎に当てながら首を捻る。
「それで……次はどこへ行くつもり?」
「地上は大半回っちまったからなあ……」
 コナンが水族館のガイドマップを開いたその時、元太の大声が耳に飛び込んで来た。
「頑張れー! 姉ちゃーん!」
「最後の一本ですよー! 慎重にいってください!」
 続けて聞こえて来たのは、興奮した光彦の声。
 声は、階段を下りた先の店舗から。どう考えても、聞き込みをしている声だとは思えなかった。
「あいつら……」
 麻理亜達三人が声の方へ近づいて行くと、元太、光彦、歩美が銀髪の女性と順々にハイタッチしているところだった。四人がいるのは、ダーツの店。店の奥に配置されたダーツの的に、麻理亜は目を留める。
 的の中心、ダブルブルに刺さった三本の矢。……まさか、あの女性が?
「おい、おめえら! すっかり遊んでっけど、お姉さんの記憶を戻すんじゃなかったのかよ……」
「だってぇ……」
「このゲームをやってから始めようかと……」
「そしたら姉ちゃんが、これ取ってくれたんだぜ!」
 三人の手には、青、緑、ピンクのイルカのキーホルダー。看板を見たところ、三本投げて五十点以上でキーホルダーが貰えるらしい。
(と言う事は、やっぱりこれは彼女が……)
 麻理亜は、横目で警戒するように銀髪の女性を見上げる。
 ただダーツが上手いだけなら良い。しかしその腕前が、他の目的から身に付けられたものであったとしたら……。
「おーい!」
 阿笠の叫ぶ声がして、麻理亜達は辺りを見回す。
 阿笠は、観覧車の入口の前で両手を大きく振っていた。
「観覧車が空いて来たぞー! 乗るなら、今がチャンスじゃー!」
「マジかよ!」
「じゃあ、観覧車に乗ってから始めよっか!」
「いいですね! 景色を見たら、何か思い出すかも知れませんし……」
「姉ちゃん! 観覧車乗りに行こうぜ!」
 元太が銀髪の女性の手を取り、観覧車の方へと走って行く。
「じゃあ、私も行こうかな!」
「えっ。あ、おい、紫埜まで……」
 麻理亜は、子供達の後を追って駆け出す。
 ――彼女自身もただ者ではないとなれば、子供達だけで彼女と一緒にいさせる訳にはいかない。

 来た時には入口の所まで列が伸びていた観覧車は、エスカレーターまでスムーズに進める状態になっていた。麻理亜は銀髪の女性の後に続いて、エスカレーターに乗る。子供達は観覧車への期待に胸を膨らませていた。
「――こんな所で何を?」
 麻理亜は、ハッと目を見開く。
 顔を上げる事は出来なかった。――この声。この匂い。
「帰りましょう……」
 エスカレーターの横に立ち止まっていた白いスカートを履いた足が、遠ざかって行く。麻理亜は、そっと顔を上げた。
 銀髪の女性は、きょとんとした顔で振り返っていた。麻理亜も、その視線を追う。
 紫のカーディガンに白いスカートの女。白い帽子の下から溢れるのは、艶やかな金髪。
 間違いない。顔は見ていないけれど、あの女は。
(ベルモット……!)
 麻理亜はエスカレーターを逆走して駆け下る。
「あれ!? 麻理亜ちゃん、どうしたんですか?」
「ごめんなさい! ごめんなさい、ちょっとどいて!」
 エスカレーターに乗ろうとする客を掻き分け、麻理亜は遠ざかる後姿を追う。
 観覧車の入口を出て辺りを見回したが、そこにはもうベルモットの姿はなかった。
「くっ……」
 麻理亜は歯噛みし、エスカレーターへと戻る。麻理亜の背が、もっと高ければ。元の身長も決して高くはないが、少なくとも小学一年生のこの姿よりは、見失いにくかったろうに。
 阿笠達の方へと戻りながら、麻理亜は銀髪の女性を見やる。
 ――帰りましょう。
 ベルモットは、そう言った。こんな所で、何をしているのかと。もちろん、麻理亜に向けられた言葉ではない。彼女が話しかけていたのは、この女性。
 銀髪にオッドアイ、記憶喪失で正体不明のこの女。
「麻理亜ちゃん、いったいどうしたんですか?」
「ごめんなさい、ちょっと落とし物しちゃって……」
 エスカレーターを歩きながら、麻理亜は笑って誤魔化す。そして、彼らの隣にいる銀髪の女性を盗み見た。
 ベルモットから掛けられた声に、彼女は答えなかった。浮かべていたのは、きょとんとした表情。
 ――本当に、記憶を失っている? それとも、それは私達に近付くための演技?
 ベルモットが声を掛けてきてそれを無視したと言う事は、彼女のこの行動に、ベルモットとの連携はないようだ。もし記憶喪失が虚言だったとしても、単独行動であれば、彼女一人をやり過ごせば何とかなるだろうか。
「あ! あれ、コナン君と灰原さんですよ!」
「ほんとだー!」
「おーい! コナンー! 灰原ー!」
 下にいるコナンと哀に気付かせようと、元太は大きく身を乗り出す。
「……ちょっと!」
「わっ!」
 足を浮かせあまりに大きく身を乗り出した元太は、手を滑らせ手すりの外側へと転がり落ちた。
「元太!」
 麻理亜は叫び、駆け寄る。銀髪の女性が、元太を追って軽々と手すりを飛び越えた。
 元太はかろうじて、外側の縁に掴まっていた。麻理亜はエスカレーターを逆戻りし、元太達の横へと駆け寄る。エスカレーターの外は細く、ちょうど柱の横にも当たり、銀髪の女性一人がしゃがみ込むので精一杯なようだった。銀髪の女性は、押さえるように元太の指に手を添えていた。
「待ってて! 今、係員に……」
「もっ、もうダメだぁ……」
 ずるりと、元太の指が建物の縁から滑り落ちた。
「元太!」
 麻理亜は杖を引き抜く。
 麻理亜が呪文を唱えるよりも早く、銀髪の女性が元太を追って飛び降りた。
「な……っ!?」
 正面へと伸びる観覧車の支柱を足掛かりに、ほぼ垂直のそれを女性は滑り下りていく。
 彼女は低く身を屈め、大きく跳んだ。空中で元太をキャッチし、抱え込むようにして壁沿いに転がり落ちて行く。勢いを殺し、彼女は座り込むように地面に軟着陸した。
 麻理亜はなす術もなく、呆然と彼らを見下ろしていた。
 元太も、助けに飛び降りた女性も、無事なようだ。普通の人ではあり得ない身のこなし。彼女から感じる血の匂い。そして、声を掛けて来たベルモット。
 ……間違いない。
 彼女は、組織の人間だ。





「はい、これで大丈夫ですよ……」
 手当を終え、阿笠はよろよろと椅子から立ち上がる。
「なんで博士が一番痛がってるんですか……」
 元太も銀髪の女性も大した怪我はなく、身体を痛めたのは、元太が落ちた拍子に蹴られ転んだ阿笠だけだった。
「君らも歳をとるとわかるわい……」
 麻理亜は、じっと銀髪の女性を睨み据えていた。
 元太のために飛び降りた彼女。彼女が組織の一員である事は、間違いない。しかし、組織の者が今日初めて会った子供のためにあんな大立ち回りをするだろうか。身の危険については自信があったにしても、あんな派手な大立ち回りをすれば、目立ってしまう。組織の人間としては、致命的なはずだ。
 本当に記憶を失っている? それとも、それさえも麻理亜達の目を欺くため?
「そう言えば麻理亜ちゃん、さっき持ってたのなあに?」
「えっ」
 無垢な瞳で歩美に問われ、麻理亜はぎくりと肩をすくめる。
「元太君が落ちそうになった時に……魔法使いの杖みたいな……」
「魔法……使い……?」
 銀髪の女性が、ぽつりと呟き振り返った。まじまじと麻理亜を見つめる。
「あ……えっと、おもちゃよ、おもちゃ! お姉さんの事覚えている人探していた時に、ちょっと寄ったお店の景品で貰って……」
「なんでぇ。麻理亜も、遊んでたんじゃねーか」
「アハハ……」
「博士も大丈夫みたいですし、観覧車に乗りに行きましょう!」
「うん!」
「さっ、行こうぜ!」
 元太に声を掛けられ、青と黒の瞳は麻理亜から子供達へと移される。
 観覧車へと向かおうとしたその時、哀が叫んだ。
「待って!!」
 唐突な叫び声に、皆、驚いて哀を振り返る。哀は、深刻な表情だった。
「江戸川君、麻理亜、ちょっと話が……」
「それじゃあ、我々だけでも先に……」
「駄目よ!!」
 麻理亜と哀の声が重なった。
 二人は顔を見合わせる。それから、哀は阿笠に懇願した。
「待ってて、博士!」
「お、おう……」
 哀と顔を見合わせて、確信した。
 哀も気付いたのだ。彼女の違和感に。――彼女が、組織の者であると言う事実に。





 大観覧車の周りの広場。道の端に配置されたベンチに麻理亜達は座っていた。阿笠、元太、光彦、歩美、そして組織の女性は、花壇を挟んだ反対側のベンチで鳩に餌をやっている。
「なんだって!?」
 哀の話に、コナンが叫んだ。
「間違いないのか!? 彼女が奴らの仲間って言うのは……!?」
「絶対にそうとは言えないけど……でも、あなたも感じたでしょ? それに、麻理亜も最初から気付いていたみたいよ……」
「そうなのか!?」
 コナンは麻理亜へと目を向ける。麻理亜は膝の上で拳を握り、こくんとうなずいた。
「彼女、血の匂いがしていたの……」
「どうしてそれを言わなかったんだ!?」
「分からなかったのよ! 怪我をしていたみたいだから……。私のは血や怨嗟の匂いに敏感だってだけで、哀みたいに組織の者を嗅ぎ分けられる訳じゃないし……彼女自身には、あまり悪い感じはしなかったし……。でも、組織の仲間だって事は、確実だわ。……ベルモットが、いたのよ」
 コナンと哀は息をのむ。哀が身を乗り出した。
「まさか――」
 麻理亜は首を左右に振る。
「ベルモットは、私達ではなく彼女を探しに来ただけみたい。彼女も、ベルモットが誰だか分からないみたいで無視して……もちろん、それが演技だって可能性もゼロではないけれど……」
「……ねえ。あの右目……まるで作り物のようだって思わない?」
「作り物のようって、まさか!?」
 哀はうなずく。
「そう……あなたが言う、黒ずくめの組織のナンバー2……ラム……」
 麻理亜は顔を上げ、目を見張る。
 ラム。「あの方」の側近とされる人物。性別も年齢も不詳。特徴は屈強な大男、女のような男、年老いた老人など様々で、決定的な特徴として左右どちらかの眼球が義眼だと言われている。
 もし彼女がラムであったなら、どんなにいい人そうに見えても、それが演技である可能性はぐっと高くなる。それだけの能力があってこそ、ナンバー2が務まるのだと解釈できる。
「だが、なぜ俺達に近付くのにそんな芝居をする必要がある?」
「そ、それは……」
「私達を油断させるため……探られたくない素性を誤魔化すため……理由なんて、いくらでも考えられるわ」
 きっぱりと答える麻理亜に、コナンは尋ねた。
「紫埜は、どうなんだ?」
「え? 私?」
「同じ記憶喪失として、彼女の事はどう思う? 演技に見えるか?」
「私は……」
 麻理亜は再びうつむく。
 子供達のやり取りに見せた笑顔。ベルモットの言葉に困惑した表情。そして、元太を助けるための大立ち回り。
 一人っきりで、ベンチに座っていた彼女。ここがどこかも、自分が誰かも分からず、不安に包まれていた。声を掛けてくれた仲間達。明るい彼らに手を引かれ、過去の事は分からなくても新しい居場所を見つけて、笑顔を取り戻して――
「私……分からないわ……」
 麻理亜はつぶやくように答えた。
「もし彼女がラムなら、私達を騙してそれらしい演技をするくらい、容易い事なのかも知れない。でも……彼女の笑顔が嘘のものだとは、どうしても思えないの。自分が何者だか、どう言う状況なのか分からない不安も、痛いほど分かるから……」
「そうか……」
 コナンの口の端が、わずかに持ち上がった。まるで、苦難の中に一筋の光明を見つけたかのように。
「もし本当に記憶喪失だったとしたら、そいつは逆に……」
「駄目よ! 絶対に記憶を戻しちゃ駄目! まさかあなた、あの女の記憶が戻ったら、組織の情報が手に入る……そんな事を考えてるんじゃないでしょうね!?」
 哀は叫び、立ち上がる。
「そんな事をしたら、私達三人だけでなく、あの子達まで消されてしまうかも知れないのよ!?」
 そう言って哀が指を突き付けた先には、子供達の姿はなかった。
 組織の女の姿もない。あるのは、頭や肩に鳩を乗せ戯れる阿笠の姿だけ。
「何やってんだよ、博士は!?」
 麻理亜達は花壇を回り込み、阿笠へと駆け寄る。驚いた鳩達が、バサバサと飛び立っていった。阿笠は惜しそうに空を見上げる。
「ああー……鳩ぽっぽが……」
「鳩なんていいから! 子供達はどこなの!?」
「えっ!? あれ?」
 阿笠はきょろきょろと辺りを見回す。
「くそっ……」
 コナンはスマートフォンを取り出し、光彦に電話を掛ける。しかし、呼び出し音が鳴るばかりで、音声は留守電へと切り替わってしまった。
「くっそー……あいつら……」
「たぶん、観覧車よ……。あの子達、凄く乗りたがっていたから……」
「ああ! 行こう!」
 四人は、観覧車へと駆け出した。

 ひょんな事から出会った、記憶喪失の女性。あの子達の事だ、麻理亜達の目を盗んでこっそり観覧車に乗ろうとあの女性を誘った可能性は、十分にあり得る。
 ――しかし、もし、逆だったら?
 記憶喪失が、彼女の演技だとしたら。コナンが工藤新一だと、哀がシェリーだと、麻理亜がストレガだと、最初から分かっていて近付いて来たのだとしたら。子供達から彼女を誘ったのではなく、彼女から子供達を誘ったのだとしたら。
 麻理亜達のそばにいる三人の非力な子供。彼らとの仲は、今日一日だけで十分に分かった事だろう。もし、彼女が記憶喪失ではなかったとしたら――
 一分一秒が惜しかった。姿現しを使えば、観覧車まで直ぐだ。緊急事態だ。目撃の危険性なんて考えている場合ではない。
「工藤! 私、先に――」
 麻理亜が言いかけたその時、バイブ音が鳴った。
「電話だ!」
「子供達から!?」
 コナンが立ち止まり、スマートフォンを取り出す。麻理亜にうなずき、電話に出た。
「光彦!! お前なあ!」
 説教モードだったコナンの顔色が変わる。
「――それで、彼女の容体は!?」
 どうやら、子供達は無事なようだ。むしろ、組織の彼女の身に何かあったらしい。一通りの指示を出し、電話を切った。続けて、三つの番号を押す。
「どうしたの? 何があったの?」
「例の彼女が、観覧車で苦しみ出したらしい……」
 麻理亜の質問にコナンは短く答え、哀を見た。
「俺は病院に電話する。子供達の方を頼む」
「分かったわ」
 哀は探偵バッジを手に取り、発信する。直ぐに、応答があった。
「吉田さん?」
「哀ちゃん!? あのね、お姉さんが突然苦しみ出して……何かぶつぶつ言ってて……」
「大丈夫。落ち着いて。今、江戸川君が救急車を呼んでいるわ。ええ……とにかく、椅子か……座るのも辛くて椅子じゃ幅がないようなら、床に寝かせて……」
「私、係の人に説明して来るわ!」
 麻理亜は観覧車へと走る。入口の所に立っているのは、先ほどコナンや哀と一緒に聞き込みをした男性だった。
「お兄さん!」
「やあ、さっきの……お姉さんを知っている人は見つかったかい?」
「それは、まだ……そのお姉さんなんだけど、今、観覧車の中に乗っていて、具合が悪くなったみたいで……一緒に乗っている友達から連絡があったの。救急車も今、呼んでいるわ」
「何だって!?」
 男性は、スタッフ専用の無線機から他のスタッフへと連絡する。麻理亜は、目の前の大観覧車を見上げた。
 赤、青、白、黄、緑。五色のサーチライトに照らされる観覧車。
 突然、発作を起こした彼女。やはり彼女は、本当に記憶喪失なのだろうか。観覧車の中に、何か記憶のトリガーを引くようなものがあったのだろうか。
 彼女が起こした発作は、時折麻理亜にもあるのと同じようなものだろうか。稀に見る、記憶の断片。過去の事だろうとは分かっても、そこに登場する人達が誰なのか、自分が何者なのかは思い出せないまま。
 それとも、発作によって彼女はもう思い出してしまっただろうか。
 組織の事を――シェリーやストレガの事を。


Next
「 Different World  第3部 黒の世界 」 目次へ

2017/04/07