救急車や警察が到着し、組織の女性は警察病院へと運ばれて行った。医務室での説明にはコナンだけが付き添い、麻理亜達は渋る子供達に言い聞かせ阿笠の車で水族館を後にした。
「俺達もそばにいたかったなー……」
 椅子の上で後ろを向き、遠ざかる水族館を眺めながら、元太がつぶやく。
「大丈夫よ。彼女は具合が悪いのよ? あまり大勢いたら、迷惑になるわ……特に子供の声って、大人より高くて頭に響きやすいから……」
 麻理亜がフォローを入れる。哀は助手席でむっつりと黙り込んでいた。
「心配せんでも、コナン君から連絡があるじゃろう。具合が良くなってから、お見舞いに行けば――」
「駄目よ」
 きっぱりと、哀が言い放った。
「彼女の事は、もう忘れなさい」
「えーっ」
「なんでだよ!?」
「僕達だって、お姉さんが心配なんですよ!」
「何でもよ。警察に引き渡したのだから、もう心配はないわ。これ以上、関わるのは危険よ」
「哀君、何もそんな……」
 口を挟んだ阿笠は、哀にキッと睨まれ黙り込む。
「麻理亜も、姉ちゃんが心配だよな!」
「え。えーっと……私も、哀に賛成かな。警察が一緒なんだから、もう大丈夫よ」
「それは、そうかもしれねーけどよ……」
 ぐるるる……と腹の鳴る音が、車内に響いた。元太は頭を掻く。
「あー、俺、腹減っちゃった……」
「もう、元太君ったら……」
「こんな時に……」
「仕方ねーだろ! 減っちまったもんは……」
「そう言えば、色々あってお昼がまだじゃったのぉ。ポアロにでも寄るかの」
「やったー!」
 子供達は歓声を上げる。
「私、パス……」
 哀が、冷たい声で言った。
「家に下ろしてちょうだい……具合が悪いから……」
 子供達は顔を見合わせる。
 誰も、何も言い出せる雰囲気ではなかった。





+++純黒の悪夢 II





「なんで灰原はあんなに姉ちゃんの事を嫌ってんだ!?」
 お昼時もティータイムも過ぎた時間ともあって、ポアロにいる客は麻理亜達五人だけだった。哀は本当に家に帰ってしまい、一緒には来なかった。
 ホットケーキの四分の一をぺろりと平らげながら、元太は話す。光彦もうなずいた。
「そうですねぇ……今までになく、怒ってましたからねぇ」
「博士も麻理亜ちゃんも、なんで怒ってるか知らないの?」
「別に、哀は怒ってる訳じゃないわよ……彼女も言った通り、具合が悪いだけ。それに、ほら、心配なのよ」
「心配? 何の?」
「お姉さん、体調を崩していたでしょう? だから、ほら、その……あなた達に感染らないかって」
「うつる? あの発作は、記憶喪失のせいじゃないんですか?」
 麻理亜の誤魔化しに、光彦が鋭く突っ込む。
「そうかも知れないけど、別の可能性だってある。ほら、哀って、その辺詳しいから。だから、少しでも危険があるなら、あなた達を近付けたくなかったのよ」
「なるほどー……」
「お姉さん、病気なの?」
「そこは、江戸川からの連絡待ちかなー……」
「そうじゃった! これをコナン君から預かっとったんじゃ!」
 阿笠が思い出したように言った。テーブルに置かれたのは、白いイルカのキーホルダー。ダーツの店で子供達が貰っていたのと、同じシリーズだ。
「これ、なんで色塗ってねーんだ?」
「コナン君が何か言っとったが、忘れてしもうた……」
 阿笠は困ったように笑い、頭を掻く。その時、着信音が鳴った。
「おっ、噂をすれば、コナン君じゃ……」
 阿笠は通話ボタンを押すと共に、スピーカーボタンを押し会話が全員に聞こえるようにした。
 組織の女性は、無事、警察病院へと運ばれたとの事だった。そして、コナンは阿笠に彼女が持っていたスマートフォンのデータ修復を頼んだ。阿笠はうなずく。
「それは構わんが、完全に修復できるとは限らんぞ?」
「ああ……。それと、観覧車で彼女が発作を起こした時、何か言ってたみたいなんだけど、その内容を知りたいんだ」
「それなら、途中からですが、ちゃんとメモを取ってありますよ!」
 光彦が言って、手帳を取り出す。麻理亜は隣から覗き込んだ。そこには、急いだような走り書きで三つの単語が記されていた。
『スタウト』
『アクアビット』
『リースリング』
 麻理亜の表情が凍り付く。異変に気付いた歩美が、首を傾げた。
「麻理亜ちゃん?」
 麻理亜は、ガタっと音を立てて席を立つ。
「私……先に帰るわね。哀の事が、心配だから……」
「え? ま、麻理亜ちゃん!?」
 光彦の呼ぶ声にも構わず、麻理亜はポアロを後にした。
 足早に通りを抜け、辺りを見回し、人気のない路地裏に入る。そして、コナンへと電話を掛けた。
 何度か呼び出した後、コナンは電話に出た。
 麻理亜が出て行った事は、阿笠との電話から知っていたのだろう。何の説明も要らなかった。
「紫埜? 光彦が読み上げた名前、まさか……」
「ええ……。アクアビットとリースリングは知らないけど……スタウトは聞いた事があるわ……ずっといた国だったから、気にして覚えていたのよ……」
 三つは、いずれも酒の名前。その内一つ、イギリス人と言う事で目を留めたデータ。親しい仲なのか、コルンの口からも出て来た事があった名前。
「――組織のメンバーのコードネームよ」





 それから、データの解析には丸一日かかった。昼前にはコナンも来て、阿笠のそばでデータの修復を待っていた。
「そんなに急ぐ必要があるものなの……?」
 阿笠の横にコーヒーを置き、コナンの分も近くの机に置きながら麻理亜はコナンに尋ねる。コナンは、部屋の外を気にするように目を向けた。
「今、灰原は……?」
「大丈夫。地下の研究室にこもっているわ」
「……イギリス、カナダ、ドイツの諜報部員が殺害された」
「イギリス!? まさか……!」
 コナンは険しい表情だった。
「ああ……警察庁からNOCリストが奪われたらしい……犯人は、組織の工作員……恐らく……」
「彼女が、その工作員だったって事……? やっぱり、ラム……?」
「いや、それについては思い違いだったらしい。彼女の右目は義眼じゃなくて、コンタクトレンズだった……白い瞳を黒に見せていたんだ」
「そう……」
 麻理亜はホッと息を吐く。彼女が組織の一員である事には変わりないが、ナンバー2ではないと言うだけでもせめてもの救いだ。
 そして、はたと気が付きコナンを振り返った。
「ちょっと待って……NOCって、それじゃあ水無怜奈や安室透も……!」
「ああ……彼らの正体も、組織にバレちまうだろうな……」
 陽が西に傾く頃になって、最新の送信データの修復が完了した。見せられた画面の文字を、コナンは読み上げる。
「『NOCはスタウト、アクアビット、リースリング……あなたが気にしていた、バーボンとキール』……! くそっ、やっぱり……!」
「彼女が警察庁に侵入した工作員だったのね……そして、NOCだと知れた者達が殺された……」
「博士! 大至急、そのメールの送信先の解析を頼む! 分かったら直ぐに連絡してくれ!」
 叫びながら、コナンは部屋を飛び出す。
「工藤!」
 麻理亜は後を追い、部屋を飛び出した。
「私も……」
 言いかけた言葉は、途切れた。
 明りのない暗い廊下には哀がいて、コナンの腕を掴み引き留めていた。麻理亜は戸口に立ち尽くす。
 コナンは、ふっと哀に微笑いかけた。
「前におめえに言ったよな……自分の運命からは逃げるなって……。俺も、逃げたくねーんだよ」
 哀の手の力が緩む。コナンは、麻理亜へと目を向けた。
「紫埜は灰原の事を頼む!」
「え、ええ……」
 コナンは哀の手からするりと抜け出し、駆け去って行く。闇の中に消えゆくその姿を、哀は無言で見つめていた。
「志保……」

 やがて、送信先アドレスの解析も完了し、阿笠はコナンの指示通りにメールを送った。最後のメールに足された二言。
『NOCはスタウト、アクアビット、リースリング。あなたが気にしていたバーボンとキール、二人は関係なかった。安心して』
 警察庁から逃れ、急ぐ中で送ったものだったからか、最後の文章に句点が打たれていなかったのが幸いだった。これで、一先ずはキールとバーボンに掛けられた疑いは晴れるはずだ。
「でも、これも一時凌ぎね……。彼女が記憶喪失だってバレたら、このメールはむしろ彼らを味方する外部の者によるものだって確定する事になってしまうし……」
「後は、新一君達が組織による奪還を防いでくれる事を祈るばかりじゃの……」
 そっと、哀が部屋を出て行った。麻理亜は気付き、彼女の後を追う。
 哀が向かったのは、寝室だった。引き出しから出されたのは、予備の追跡眼鏡。
「志保、何を……?」
 哀は振り返る。その双眸には迷いがなく、真っ直ぐに麻理亜を見据えていた。
「麻理亜。――私も、行くわ。もう逃げない」





 タクシーを捕まえ、追跡眼鏡が示す位置を頼りにコナンの後を追う。辿り着いた先は水族館で、そこにはいくつもの警察車両が停まり、物々しい空気が漂っていた。
「これって……」
「何かあったのかしら……。工藤は何処?」
 麻理亜は、予備の眼鏡をかけた哀を振り返る。哀は、追跡機能のスイッチをオンにし、そして正面を指さした。
「やっぱり……あの観覧車みたい……」
 辺りはすっかり暗くなり、水族館も今から来る客よりも、帰る客の方が多かった。流れに逆らうようにして、麻理亜と哀は大観覧車の方へと進んでいく。
「ねえ……志保、ちょっとあの観覧車、おかしくない?」
「人が乗ってない……どういう事……?」
 そして、哀は何かに気付いたように望遠機能を操作する。
「なんであの子達……っ!?」
「え!? まさか、子供達があそこにいるの!?」
「ええ……」
 いったい何が起こっているのか。
 観覧車で発作を起こした組織の女性。そして、観覧車に来たコナン。その観覧車は片側に乗客がおらず、そこに乗るのは元太、光彦、歩美の三人。
 観覧車へと向かう間に、ふっと観覧車の明かりが落ちた。悲鳴とざわめきが広がって行く。
 明かりがついているのは、水族館のみ。その他のエリアは、全て真っ暗になっていた。ショーのためなんて規模ではない。文字通りの真っ暗闇で、これでは歩く事さえもままならない。人々は明かりを求め、水族館の方へと集まり始める。
「志保! いる!? どこ!?」
 ざわりと麻理亜の胸中に不安が広がる。
 パッと、麻理亜の腕を掴む者があった。その細い腕の先を見て、麻理亜は安堵する。
「志保……!」
「行くわよ!」
 言って、哀は駆け出す。
「珍しいわね、あなたがそんなに積極的なんて」
「当たり前でしょう? 組織が絡んでいる所に、あの子達がいるのよ。早く連れ出さないと……!」
 彼女はいつも、組織の影に怯えていた。逃げないと決めても、いざ彼らの手が近付けば自らの命を捨てる選択肢を選んでいた。
 ――でも、それは全て大切な人達のため。
 ベルモットと初めて対峙したあの時も、山奥の小屋で本来の姿に戻ったのも、ベルツリー急行で自ら死に向かおうとした時も、全ては阿笠や子供達、コナンに蘭、彼女の大切な人達を危険から遠ざけるため、助けるためだった。
 守れなかった親友。その、妹。
 今度こそ守ると誓った。必ず守ると、彼女にも告げた。コナンも、何かあれば守ってやると声を掛けていた。
 しかし彼女は、守られるだけではないのかも知れない。彼女にも、守りたい人達が出来たから。それが、彼女を突き動かすのだ。
 麻理亜と哀は手を繋ぎ、観覧車への階段を駆け上って行った。





 暗闇の中を、麻理亜と哀は上へと昇って行く。途中、バラバラとプロペラのような音が聞こえて来た。
「何かしら、この音……」
「さあ……外に警察車両がたくさん停まっていたみたいだし、その関係かしら……」
 言いながら、麻理亜は足を止める。
「麻理亜? どうしたの?」
 階段の折り返し。そこには、非常扉のような扉があった。扉を開けて、麻理亜は中を覗く。
「この向こうに、スタッフ用のトイレがあるわ」
「トイレに行きたいの? こんな時に……」
「そうじゃなくて。私は、魔女よ? そして、小学校がそうであるように、トイレとかその近くってたいてい――」
 読み通り、ここもトイレのそばに掃除用具置き場があった。箒にまたがり、哀を後ろに乗せ、鉄骨の間を上へと飛んで行く。
「ねっ? こっちの方が、断然早いでしょう?」
「そうね……。でも、子供達のいるゴンドラが近付いたら、見つからないように――麻理亜! 駄目! 止まって!」
「え?」
 哀は、後ろの上方を見つめていた。視線を追ってそちらを見上げ、麻理亜は息をのむ。
 闇の中、なびく銀色の髪。じっとこちらを見下ろしていた彼女は、不意に、その場から飛び降りて来た。
「麻理亜……きゃあっ」
 慌てた哀の身体が、大きく横に傾く。
「哀っ!!」
 箒を旋回させ、めいっぱい手を伸ばす。
 哀の細い腕を先に掴んだのは、そばの鉄柵の上へと飛び降りた組織の彼女だった。哀を捕らえた彼女の表情は、昼間に会った時のものとは違っていた。
 哀は、キッと彼女を睨む。
「……何? 私を彼らの元へ連れ戻すつもり!?」
「彼らって……組織の事?」
 麻理亜は、箒の柄を左手のみで掴み、右手をポケットの中へと忍ばせる。
 ――やはり、彼女は記憶が戻っている。思い出したのだ。組織の事も――シェリーの事も。
「もしかしてあなた、組織を裏切ったシェリー……箒で飛んでいるそちらのあなたは、噂の白銀の魔女、ストレガかしら?」
「な……っ!?」
 麻理亜は杖を抜き、振りかぶる。
 覚えられていた。あるいは、ベルモットのようにジンから聞いたのか。杖を向けられてもなお、彼女は冷静だった。
「それがあなたの武器なの? でも、そんな物は必要ないわ。さあ、逃げるわよ! ここにいては危ない……」
 麻理亜は困惑し、杖を彼女に突き付けたまま硬直する。哀も同様だった。
「逃げるって、どう言うつもり? 悪い冗談ならやめてくれる?」
「ジンが来ている……」
 麻理亜も、哀も、息をのむ。
「あなた達なら、この意味が分かるわよね……」
「で……でも、どうして私を……?」
「分からない……なぜ助けたなんて、分からない……。でも、私はどんな色にでもなれるキュラソー……前の自分より、今の自分の方が気分がいい……ただ、それだけよ……」
 話しながら、彼女――キュラソーは、哀を引き上げる。
 麻理亜は箒の高度を下げ、彼女達の隣に降り立った。
「さあ、行くよ。シェリーちゃん……ストレガちゃん……」
「待って!」
 下へと降りようとする彼女を、哀が呼び止める。
「まだ子供達がゴンドラに残ってるの! 早く助け出さないと……!」
「……私が一人で行くわ。あなた達は逃げて」
「――麻理亜!?」
「妥当でしょう。私の箒でなら、ひとっ飛びで行ける。でも、流石に三人も乗って飛ぶ自信なんてない。あなた達はジンに見つかる訳にいかないし、私なら何かあっても魔法であの子達を守れる……」
「ジンに見つかる訳にいかないのは、あなたも一緒でしょう!?」
 哀が叫んだその時、突如として激しい音が辺りに鳴り響いた。光が近付き、激しい弾丸が雨のように降り注ぐ。
「銃撃!?」
「ジンだわ! 逃げて!」
 三人は走り、柱の裏へと逃げ込む。銃撃はなおも続いていた。まるで、この位置に人がいると分かっているかのように。これでは、子供達のいるゴンドラまで辿り着く事ができない。それどころか、この銃撃が子供達のいる所へ向かったら……。
 キュラソーは、タイトスカートの裾を引き裂くと、立ち上がった。
「奴らの狙いは、私……」
「キュラソー……!?」
「あなた……まさか、囮に!?」
「あの子達を頼んだわよ……!」
 そう言い残すと、彼女は柱の陰を飛び出して行った。
「駄目よ! 殺されるわ!」
「志保!」
 キュラソーを引き留めようとする哀の腕を、麻理亜は引く。
「行きましょう。……彼女も、あの子達を助けたいのよ」
 記憶を失い、子供達と共に過ごした時間。それは短い間だったけれど、確かに彼女に影響を与えていた。彼女を変えていた。組織から逃げようと考えるように。哀を助けようとするように。
 彼女は、組織を裏切る事を選んだのだ。
 そこまで考え、麻理亜はハッとした。組織を裏切る事を選んだキュラソー。……彼女が送った事になっている、一通のメール。
 あのメールが、裏切り者によって送られたとなったら。
「……麻理亜?」
 哀の声に、麻理亜は我に返った。
「どうしたの? 何か気になる事でも?」
「……いいえ。何でもないわ。行きましょう」
 麻理亜は再び箒にまたがり、哀を後ろに乗せると、強く足元を蹴った。
 銃撃は、麻理亜達の居場所から離れていた。彼女が、あそこにいる。この音が聞こえる方向にいる。
 麻理亜は振り返らず、ただただ上を目指す。彼女の決意を無駄にしないためにも。麻理亜にとって、哀にとって、そしてキュラソーにとっても大切な人達を、助け出すためにも。
「――そんな!」
 後ろで、哀の叫ぶ声がした。銃撃がやむ。何が起こったのか、把握するには十分だった。
 零れ落ちる涙を振り払い、麻理亜は高度を上げる。急な速度の上昇に、麻理亜の腰に回された哀の腕に力が入る。
 間もなく、二人は一つのゴンドラの上へと降り立った。哀が、ゴンドラの上にある出入口を開ける。
「――灰原さん!」
「麻理亜もいるぞ!」
「哀ちゃん! 麻理亜ちゃん!」
 光彦、元太、歩美の声。どうやら、皆、無事なようだ。
 麻理亜はホッと息を吐き、そして彼らに背を向けた。
「麻理亜?」
「――子供達の事をお願い」
「お願いって……あなた、どこへ行くつもりなの?」
「……ちょっとね。やらなきゃいけない事が出来ちゃった」
 麻理亜は振り返る。不安げな瞳で見つめる哀。
 ずっとそばで見守って来た彼女に、麻理亜は微笑みかけた。
「大丈夫。直ぐ戻って来るから。私じゃなきゃ出来ない事なのよ」
「麻理亜……?」
「――じゃあ、またね」
 微笑み、ひらりと片手を振って、麻理亜は箒にまたがり鉄骨の間を降下して行った。





 一度止まった銃撃は、再び開始された。弾丸の嵐に、麻理亜は箒の柄を上に引いた。近くの鉄骨の裏へと逃げ込み、歯噛みする。これでは、上にも下にも進めない。
 麻理亜の身体は、特殊だ。通常の刃物や銃弾で傷付く事はない。しかし、衝撃がなくすり抜ける訳ではない。これほどの威力と数をまともに浴びれば、鉄骨に叩きつけられてしまうだろう。
 下にあるのは、深い闇。銃撃さえなければ、麻理亜の箒なら、直ぐに降りられるのに。彼女を、探せるのに。
 ドオンと激しい爆発音が、響き渡った。
 麻理亜は目を丸くし、音の方を振り返る。空中での爆破。そして、そこに飛び込んでいく光の球。――あれは。
「工藤……!」
 ボールは途中で破裂し、花火が炸裂する。眩い光の中に浮かび上がるは、一機の飛行物体。
 ――あそこに、ジンが。
 花火が消えゆくと共に、機体の一部が爆発した――銃撃だ。
 一糸違わぬ正確な狙撃。この状況でそれを成しえる人物など、そう多くはいないだろう。
(なるほど……FBIの彼も来ていたって訳ね……)
 麻理亜は鉄骨の陰を飛び出し、急降下を再開する。
 しかし、彼らも大人しくはしていなかった。最後の悪あがきとばかりに、観覧車への銃撃を再開する。――そして。
「わっ……」
 目の前に鉄骨が落ちてきて、麻理亜は間一髪、急旋回で回避する。
 ぐらりと観覧車が大きく傾く。バラバラと落ちて来るのは、観覧車を支えていた軸だったもの。右へ、左へ、ジグザグに飛びながら、麻理亜はそれらを避ける。
 支柱を失った観覧車の車輪は、ゆっくりと転がりだした。
「まずい……っ!」
 地上の方から、人々の悲鳴が聞こえる。
 明かりの残る水族館へと、人は集まっていた。そして車輪は、その水族館へと向かっている。更に悪い事に、水族館へは坂道になっていて車輪は回転速度を増し始めた。
「コンフリンゴ!」
 曲線を描くレールへ杖を向けて、麻理亜は叫ぶ。レールは爆発し、その緩やかさを失う。二撃、三撃、麻理亜は続けざまに、レールを破壊し円の端を潰していく。爆破された箇所で引っかかり車輪はガタガタと揺れ進みが鈍くなったが、停止する事はなかった。
(駄目……こんなんじゃ、気休めにもならない……!)
 麻理亜は、車輪の進行方向へと杖を向ける。地面から作り出した障壁は、形成しきる前に車輪と衝突し、砕け散った。
 構わず、麻理亜は杖を振り、繰り返し障壁を作り続ける。こうなれば、数で押すしかない。
 突如、ガタンと大きく揺れ、車輪が停止した。まるで、後ろから何かに引っ張られたかのように。コナン達も、この車輪を止めようと動いているのだろう。
 しかし、それでも完全停止とはいかなかった。車輪は、ゆっくりと水族館の屋根を押しつぶし始める。もう、障壁を作り出せるような隙間はない。
 カン、カン、カンと頭上から鉄骨を駆ける足音が近付いて来た。
(工藤……!)
 水族館側へと現れたコナンは、そのまま下方へと滑り降りて行く。その先から聞こえて来たのは、大人の男性の声。
「よせ! 焦るな!」
「赤井さん!!」
 鉄骨の向こうにコナンの姿が消えた。そして、現れみるみると大きくなっていくサッカーボール。
 屋根を突き破った車輪は、じわじわと人々がいる水族館の客席へと迫る。
「駄目……! 間に合わない……!」
 激しいクラクションの音が、闇の中に鳴り響いた。
 仕切られていた工事現場の壁を突き破り、クレーン車が現れる。クレーン車は真っ直ぐにこちらへと走って来て、車輪を正面から受け止めた。
 その運転席に見えたのは、長い銀髪。
「まさか……っ」
 ――生きていた。
 囮になり、銃撃の中へと飛び込んで行った彼女。あれだけの銃弾を浴びながら、まだ生きていたのだ。
 一瞬の安堵。瞬いた光明。しかし、このままでは。
「死なせやしない……!」
 ふっとその場から麻理亜の姿が掻き消える。主を失った箒が、カランカランと鉄骨とぶつかる音を響かせながら、闇の中へと落ちて行った。
「――紫埜!?」
 背後を落ちて行った箒に、コナンが目を見開き叫んだ。





 突如、車内に現れた麻理亜の姿に、キュラソーは目を丸くした。
 説明も、声を掛ける暇もなく、麻理亜はキュラソーの腕を引く。彼女を連れて車内から「姿くらまし」すると共に、クレーン車は車輪に押しつぶされ、爆破した。

 水族館のエリア内、人だかりから外れた工事現場に、麻理亜達は「姿現し」した。振り返れば、観覧車の車輪はクレーン車が支えになって停止したようだった。立ち上る煙に、麻理亜は溜息を吐く。
「間一髪だったわね……」
 キュラソーの返答はなかった。代わりに聞こえたのは、荒い息遣い。
 見れば、彼女の腹には瓦礫が刺さり、おびただしい血が溢れていた。
「な……っ」
 麻理亜は急いでキュラソーを寝かせ、鞄から小瓶を出す。魔法薬を掛け、歌うように呪文を唱える。
 ――助かって。どうか……どうか……。
 彼女の手には、白いイルカのキーホルダーが握られていた。これが、彼女の出した答えだったのだ。そんな彼女を、死なせたくない。このまま、あの子達とお別れになんてしたくない。
 やがて、瓦礫を除去した状態でも失血死には到底至らない程度に、出血は和らいだ。魔法でもなければ、死に至っていたであろう傷。さすがのキュラソーも、意識を失ってしまっていた。
 ――彼女の意識が戻るまで、待っているような時間はない。
 麻理亜はまた別の小瓶を取り出し、キュラソーに飲ませる。キュラソーの表情が歪む。
「ごめんね……でも、彼らに顔を知られているあなたが生き延びるには、これしかないから……」
 そして、麻理亜自身も更にまた別の魔法薬を飲む。――老け薬。麻理亜の手足はみるみると伸び、背丈も顔つきも大人びて行く。
 杖を一振りし、黒く染められていた髪は夜闇にも目立つ真っ白な色へと変わった。
 小瓶と手紙を入れたポーチをキュラソーの隣に、彼女の荷物であるかのように添えると、麻理亜はその場を立ち去った。

 観覧車の周辺は、全てが終わった後だった。駐車場の方には警察車両の他に消防車や救急車も見え、怪我人が運び出される。
 クレーン車のそばに、何かを探し回る小さな二つの影があった。麻理亜は遠目にそれを確認し、寂しそうに微笑んで背を向ける。
(ごめんね……)
 子供達も、無事救助され地上に降りられたようだった。そばには、小五郎、蘭、園子の姿もある。
 喧噪の中、麻理亜は従業員通路へと忍び込んだ。建物の奥深く、階段を降りて行った先。配電盤が並ぶ一室を探し出す。部屋には当然電子ロックが掛かっていたが、そんなもの麻理亜には何の意味もない。
「アロホモラ」
 電子ロックと言えども、制御がデジタルで行われているだけであって鍵自体は物だ。カチャンと小さな音がして、鍵が開く。
 部屋の奥にある電源供給の管理機器は、案の定いじられた跡があった。
「やっぱりね……」
 バチンと突如、首筋に衝撃が走った。
 声を上げる間もなく、口元にタオルが当てられる。染み込ませているのは、クロロホルムではなく、血。
 酷い吐き気と、寒気。頭の奥でガンガンと激しく鐘を鳴らされたかのようだ。
(やってくれるわね……)
 遠のく意識の中、麻理亜が最後に見たのは、艶やかな金髪と口元に浮かべられた笑みだった。





 目を覚ましたキュラソーは、暖かい布団に寝かされていた。視界に映る見知らぬ天井は、寒々しい警察病院のものとは違っていた。
「あ! 起きたよ!」
「本当か!?」
「良かったです! 大丈夫ですか? 具合はどうですか?」
 キュラソーをのぞき込む、三人の顔。元太、光彦、歩美。水族館で出会った子供達。
 彼らの顔が滲む。――それでは、彼らは無事だったのだ。助ける事が出来たのだ。
「どうしたんですか!? まさか、どこか痛いんですか!?」
 光彦が顔を青くする。キュラソーは微笑んだ。
「……いいえ。大丈夫よ。ホッとしただけ」
 答えた声は、まるで自分のものではないかのようだった。
「まったく、無茶をするんだから」
 子供らしからぬ落ち着いた声に、振り返る。シェリー――今は子供の姿となった彼女が、腕を組み壁にもたれかかるようにして立っていた。
「あなた達、博士に知らせて来てくれる?」
「はい!」
 子供達は連れ立って、部屋を出て行く。
 見回せば、室内には三つのベッドがあった。しかし、医務室という風にも見えない。クローゼットや、棚に置かれた細々とした生活雑貨。その様子はまるで。
「ここは、あなたの家なの?」
 キュラソーの問いに、哀は怪訝そうにする。
「大丈夫? まだ混乱しているの? あなた、木立の中で倒れていて……高木刑事の車で子供達と一緒に送ってもらったのよ。酷い怪我はないようだったし、あなたの場合、必要ないのであれば、公の場は控えた方がいいでしょうしね……」
 キュラソーは腹を確かめる。哀のいう通り、傷はなかった。確かに、ここに鉄骨が刺さっていたのに。
 そして、ぴたりと手を止める。腹に触れる自分の手。――こんなに、小さかっただろうか。
「工藤君と二人で探したけど、彼女は見つからなかったわ。クレーン車が爆発して燃えてしまっていたから確かな事は分からないけど、運転席から運び出された死体はなかったし、周辺にもそれらしき姿は見つけられなかった。……逃げ出せたのかしら」
「え……?」
 キュラソーは目を瞬く。
 彼女の話は、何かおかしい。
「おお、目が覚めたかね!」
 明るい声がして、子供達と共に阿笠が部屋へと入って来た。
「ココアを入れたんじゃが、飲むかね?」
「あ、はい……ありがとうございます……」
「ずいぶん他人行儀じゃのぉ。まだ調子が悪いのかの」
「え……」
「さて、麻理亜君も目を覚ました事じゃし、君たちはそろそろ家に帰らんとな」
「えーっ」
 子供達のブーイングが上がる中、キュラソーは困惑していた。
 ……今、彼は誰が目を覚ましたと言った?
 キュラソーは室内を見回す。この場にいるのは、阿笠、哀、元太、光彦、歩美の五人。
「江戸川君なら、警察の事情聴取を受けているわ。たぶん、他にも色々とどうなったのか聞いて回っているんじゃないかしら」
「スト……麻理亜ちゃんは?」
 哀は驚いたようにキュラソーを見る。
 元太が不思議そうにキュラソーを見ながら言った。
「何言ってんだ? 麻理亜はお前だろ」
 キュラソーはベッドから飛び降りると、部屋を飛び出した。
 この階に特に廊下はなく、一つの大きな楕円を壁で仕切ったような造りになっていた。寝室を出てすぐ右手には玄関扉。そして、その両脇に並ぶ広い窓。恐る恐る窓の前に立ち、キュラソーは愕然とした。
「おーい、麻理亜。どうしたんだぁ?」
「麻理亜ちゃん?」
 子供たちが心配そうに駆け寄って来る。
 彼らに囲まれ暗い窓に写っているのは自分自身ではなく、小さくなったストレガ――紫埜麻理亜の姿だった。


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2017/04/15