目を覚ましたそこは、闇に包まれていた。冷たく硬い床の上。意識が覚醒すると同時に、襲い来る激しい痛みに麻理亜は呻き声を上げた。
足元に視線を下げれば、血溜まりがあった。足にはいくつもの弾痕が残り、辺りには銀製の弾丸が散らばっている。
――銀の弾丸。この世界で唯一、麻理亜に致命傷を与える事が出来る武器。
腕を見れば、手錠がはめられていた。腕時計の針は、あと五分で日付が変わる事を示している。自由の効かない両手をポケットへと伸ばしたが、そこには何も入っていなかった。
「探し物はこれか?」
低く響く声に、麻理亜は顔を上げる。
暗がりの中、黒いコートに身を包んだ大男が立っていた。黒い服、黒い帽子、長い銀髪。――ジン。
彼の手には、真っ二つに折られた麻理亜の杖があった。
「また治って来たな……」
麻理亜の足に目をやり、ジンは拳銃を取り出す。そして、発砲した。無感動に撃たれた銃弾は、麻理亜の足首を深く抉る。
「ぐ……っ」
麻理亜は拳を握り、痛みに耐える。折れて使い物にならなくなった杖を麻理亜の目の前へと放り投げ、ジンは薄く微笑う。
「どうだ? 化物殺しの弾丸の味は。武器もない、立つこともできないとなれば、お得意の妙な技も使えないだろう」
麻理亜の身体は、傷つきにくい上に、治りが早い。麻理亜が気絶している間も、治癒する度に足に弾を穿ち、いつ起き出しても逃げられぬようにしていたのだろう。立ち上がらなければ、姿くらましは使えない。剣を出したところで、振るう事も出来ない。杖として使うにしても、重い剣では床に転がったまま振るには不向きだ。彼らの銃の方が早いだろう。
立ち上がる事もできず、杖も奪われたとなれば、麻理亜はただの、他の人より少し頑丈な人間でしかなかった。
「まさか、アニキの言う通り本当に存在したなんて……」
驚きを隠せない様子で呟くのは、ウォッカの声だ。首を巡らせれば、ウォッカとベルモットもこの場にいた。
「感謝して欲しいわね、ジン……私のおかげで、ゴーストの存在があなたの戯言なんかじゃないって証明されたのだから……」
「フン……忘れちまっても無理ないさ……それが、こいつの力なんだからな……」
冷たい銃口が、麻理亜の額に押し当てられる。
「さあ、吐いてもらおうか……お得意の魔法とやらを使って、シェリーをどこに逃がしたのか……」
麻理亜は挑発的に微笑った。
「私が大人しく答えるとでも……?」
暗がりの中、銃声が響く。肩に、胸に、腕に。次々と撃ち込まれる銀の弾丸。サイレンサーを付けていないと言う事は、周囲に一般人が近付く事が決してないような場所か。痛みに意識が朦朧としながら、麻理亜は薄ぼんやりと考えていた。
+++純黒の悪夢 III
「そう! そこです、麻理亜ちゃん!」
「いっけぇ! やっちまえ!」
「麻理亜ちゃん、すごーい!」
テレビ画面の前で、子供たちが歓声を上げる。麻理亜の姿をしたキュラソーは、初めてプレイするにも関わらず、見事な捌きで敵を倒しステージをクリアしていた。
「なるほどな……組織の目を欺くために、顔を知られているキュラソーを自分の姿に変えて、あの場から逃がしたって訳か……」
子供たちの座るソファから離れたカウンター席に座って、コナンはつぶやく。隣に座る哀が、横目でキュラソー達の方を眺めながらうなずいた。
「ええ……。彼女自身も、麻理亜からは何の説明も受けていないみたい……腹部に鉄骨が刺さって気絶していたそうで……その傷も、恐らく麻理亜が治したんじゃないかと思うけど……。彼女のそばに、これが」
哀は、白いポーチをカウンターの上に置く。中に入っているのは、数本の小瓶と、一通の封筒。コナンは封筒を開くと、中の手紙を読み始めた。
「その封筒も彼女の魔法かしらね、私しか封を切れないようになっていたわ……。小瓶の中身は、麻理亜が作った薬。飲むと、麻理亜の姿に変身する事が出来るそうよ。効果は一時間しかもたないみたいだけど……」
哀はうつむく。阿笠は気遣うように、哀を見つめていた。
「手紙にも、肝心の自分がどこへ行ったのかは書いていなかったわ……。NOCリストの件で、何かしに行ったみたいだけど……」
そう話す哀の手は、震えていた。震えを押さえるように、コナンは机に置かれたその手を握った。
「大丈夫! 紫埜には、魔法があるんだ。一瞬で遠くに瞬間移動出来る上に、銃や刃物だって効かない。ちょっとやそっとじゃ死にやしねーって」
哀は無言でコナンを見つめ返す。その表情には、まだ不安の色があった。
コナンは、少しからかうように続けた。
「それよりオメー、よく彼女をここに連れて来るのを許したな。あんなに警戒してたのに」
「仕方ないでしょう? ここへ運び込んだ時は気を失っていて、私も博士も麻理亜本人だと思っていたんだもの」
そう答えた哀の声色は、いつもの調子に戻っていた。
「でも……今は、彼女が組織の人間だったとしても、信じてみてもいいかしらって思っているわ」
「へえ……何かあったのか?」
「別に……」
冷やかすような笑みを向けられ、哀は不愉快気に顔を背ける。
「しかし、彼女が助かったのは良かったのぉ。麻理亜君の姿になって最初は混乱していたようじゃが、もうだいぶ落ち着いたようじゃし……」
「そうね……」
「そういや、あいつら、帰さなくていいのかよ、博士? 親御さん達も、心配してるんじゃ……」
「それを言うなら、探偵事務所の彼女もあなたの事、心配しているんじゃない?」
お返しとばかりに哀はコナンに剣呑な目を向ける。コナンはぽりぽりと頬を掻いた。
「いやー、まあ、俺は……」
「もちろん、あの子達のご両親も心配しておったよ。麻理亜君が目を覚ましたら帰る約束じゃったんじゃが、目が覚めて混乱している彼女を見て心配になったようでな……どうしてもと、押し切られてしまったんじゃ。親御さん達にも連絡して、今夜はここに泊まる事になったよ」
「まあ、彼女のためには良かったんじゃない……私も信じたのは彼女自身じゃなくて、あの子達の力かもね……」
「――あなたも彼らに救われたのね、シェリーちゃん」
掛けられた声に、哀は弾かれたように振り返る。キュラソーはゲームをやめ、哀とコナンのすぐ後ろに立っていた。子供たちはキュラソーと交代し、まだテレビゲームに熱中しているようだ。
「博士。飲み物をもらえますか。あの子達の分も……」
「おお、じゃあオレンジジュースで良いかの」
「お茶か水にしなさい。寝る前なんだから」
哀と阿笠のやり取りに、キュラソーはクスリと笑う。
「まるでお母さんね」
「ねえ、どうしてゴンドラから逃げ出したの?」
コナンは、麻理亜の姿をした彼女を油断なく見据え、問う。キュラソーは、微笑んだ。
「私にも分からない……。でも、これはシェリーちゃん達にも話した事だけど、前の自分より今の自分の方が気分が良いから……。それに」
キュラソーはキーホルダーを取り出した。
何色にも塗られていない、塗装前の白いイルカのキーホルダー。
「私には、黒より白の方が似合っているそうよ……」
「それ……」
水族館で貰った、子供たちとお揃いのキーホルダー。これだけの事があって、それでもなお、その手に持ち続けていたのか。
騙しているだけの組織員の者なら、とうに手放していただろう。
「……信じて、いいんだね」
「ええ……。ストレガちゃんの事も、このまま成り替わるつもりなんてない。本人を探し出すなら、私も協力したい」
「じゃあ、組織のアジトを教えて! 水族館からあまり遠くない場所で、奴らがよく密会に使っている場所とか……」
キュラソーの顔色が変わった。眉根を寄せ、睨むような眼でコナンを見る。
「……それを知って、どうするつもりなの? まさか、乗り込もうなんてつもりじゃ……」
「紫埜はそこに乗り込んだ可能性が高い! 少なくとも、奴らと接触しているはずだ。キュラソー、お前が裏切り者ではないと奴らに認識させるために……」
哀の顔が蒼くなっていく。キュラソーも、この言葉には動揺を隠せずにいた。
「まさか……! 彼女だって、それがどんなに危険な事か分かっているはずよ……そんな無茶な事……」
「薬でその姿にされたなら、分かってるだろ? あいつは、常識から外れた存在だ。俺たちにはない力を持っている。だからか、底なしの自信家で、無茶な事だって平気でやろうとするんだよ」
キュラソーは、ふいと背を向けた。そして、玄関の方へと歩き出す。
「お、おい! お茶、用意できたぞー」
四人分のお茶を用意し終えた阿笠が、困惑気味に呼ばう。コナンは後を追い、彼女の腕をつかんだ。
「どこへ行く気だ?」
「……そういう話なら、私が彼女を助けに行くわ。それが道理と言うものでしょう。彼女は私を助けてくれた。それなら、今度は私が彼女を助ける番よ。
あなた達に、私が知る組織の情報を教える事は出来ない。私はそのせいで、組織に入らざるを得なくなったのだから。あなた達に、同じ危険を冒させる訳にはいかない」
「それは駄目だ! お前が行ったら、紫埜の作戦は水の泡だ!」
「じゃあ、どうしろって言うの!?」
叫び、彼女はうつむく。
「私のせいなの……? 私が、逃げ出したから……? 私はあのまま、組織に帰るべきだったの……?」
「――それは、違うわね」
哀も椅子を降り、キュラソーとコナンの方へと歩いて来ていた。
「あなたがいなければ、私は死んでいた。私だけじゃないわ。あの子達も、水族館にいた他の人達も……。今夜、あなたは数えきれないくらいたくさんの人の命を救ったのよ」
「シェリーちゃん……」
「おーい、麻理亜! このステージやってくれよ!」
「あれ? 麻理亜ちゃん、そのキーホルダー……」
ゲームをしていた元太、歩美、光彦がこちらへと来ていた。歩美が、キュラソーの手にあるキーホルダーを指差す。
「どうして、お姉さんのキーホルダーを麻理亜ちゃんが持ってるんですか?」
「それは……えっと……」
「あー、分かった! 麻理亜ちゃんも、お姉さんに会ったのね!」
「それで、なんで麻理亜にキーホルダーを渡すんだ?」
「うーん……」
「いらなかったんでしょうか……」
「それは違う!」
キュラソーは叫んだ。三人は、驚いて麻理亜を見つめる。
「違うの……。ほら、彼女、警察病院で公安の人達に連れて行かれたでしょう……? 荷物は全部取り上げられてしまうから、それで、預かっていて欲しいって頼まれたのよ。大事な物だから、帰って来るか分からない警察に預けるのは嫌だって」
「なあんだ、そっか!」
「じゃあ、むしろ大切にしてくれていたんですね!」
「姉ちゃん、また会えるかな?」
「ええ。その内、きっと」
キュラソーは微笑む。
「やったー!」
「帰って来たら、また観覧車に乗りたいですね! あ、でも高い所が苦手なんでしたっけ……」
「じゃあ、うな重食いに行こうぜ!」
「うな重は無いですよ……」
「――たくさんの人の命もだけど……あの子達の笑顔も、守れたでしょう?」
小さく囁かれた声に、キュラソーはハッと振り返る。
哀が口の端を上げて微笑んでいた。キュラソーも微笑み、うなずいて……そして、辺りを見回した。
「――眼鏡の彼は、どこへ行ったの?」
哀も、麦茶のグラスを乗せたお盆を持ってキッチンから出てきた阿笠も、辺りを見回す。
コナンの姿は、どこにも見当たらなかった。
『志保、博士、工藤、キュラソーへ。
勝手な事をしてごめんなさい。特にキュラソー、目が覚めたら別人になっていて、きっと驚いた事でしょう。でも、顔を知られているあなたを組織の目から逃がすには、これしかなかったの。
一緒に入っている小瓶の薬は、ポリジュース薬と言って他人の姿に変身できる魔法薬です。薬には私の髪の毛を混ぜてあるので、私に変身する事が出来ます。一時間経つと効果は切れてしまうので、気を付けてください。それから、魔法薬はとっても繊細なので、誤って他の物を混入してしまわないように。特に、動物の毛などは絶対に入らないように。
応急処置として私の身代わりにしてしまったけれど、今後の事はキュラソー、あなたの好きにして構いません。博士の家には、たまに私の友達でアルバス・ダンブルドアと言う人が来ます。彼は信用出来る人です。彼に頼めば、組織の手の届かない場所へ、元の自分自身の姿で逃げる事も出来るでしょう。ただ、次にいつ来られるか分からないし連絡を取る手段がないのが、厄介なところだけれど。
志保。ずっとそばにいると言ったのに、ごめんなさい。だけど、このままにしておく訳にはいかないから。組織の動向を探るためにも、NOCを失う訳にはいかない。
私は、私にしか出来ない事をしに行きます。ポアロに元通りバーボンが現れたら、無事、成功したのだと思ってください。
博士、今までありがとう。工藤、志保と博士をよろしくお願いします。――麻理亜』
コナンは、くしゃりと手紙を握り潰した。
「バーロ……成功した場合ぐらい、自分で伝えに来る気でいろよ……」
阿笠邸の門の前で吐き捨て、隣の屋敷を見上げる。工藤新一としての本来の我が家が、月明かりに照らされていた。
「頑丈過ぎるのも考え物だな……幾度痛みを重ねても、お前は死なない……死ぬ事が出来ない……。さあ、そろそろ答える気になったか?」
銃撃をやめ、ジンは問う。
麻理亜は息を整え、フッと口の端を上げて笑った。
「そ……その様子だと……あなた達のお仲間の、キュラソーからは……聞けなかった……ようね……」
「まさか、キュラソーは逃げたわけではなく、お前が……!?」
ウォッカが叫ぶ。麻理亜は口元に笑みを浮かべていた。
キュラソーのスマートフォンから再送された、一通のメール。
『NOCはスタウト、アクアビット、リースリング。あなたが気にしていたバーボンとキール、二人は関係なかった。安心して』
キール――CIAの諜報員、水無怜奈。バーボン――警察庁警備企画課、安室透。彼らの身を守るために、キュラソー本人からの訂正を装って送られたメール。
しかし、そのキュラソー本人が裏切り者となれば、メールの信憑性は低下する。むしろ、タイミングからして、裏切者がNOCをかばうために送ったとさえ考えられる。逃亡を試みた彼女の行動には、別の理由がなくてはならない。
――キュラソーは、彼らにとって裏切者であってはならないのだ。
「こちらで始末する手間が省けて、助かったわ……。お礼を言わなくちゃね……」
「くそっ……このアマ……!」
「フン……奴が死のうと関係ない。お前を捕まえる事が出来たんだからな。全部、お前の身体に聞けばいい」
再び銃口が向けられる。麻理亜はニッと笑った。
「それはどうかしら」
そして、目の前に落ちた杖へと飛び付いた。折れた杖。魔法を使う事など出来ない。その事は、彼らもよく分かっている。だからこそ、これを折った。そして、麻理亜を絶望させるため、この場に持ち込んだ。
「馬鹿な女だ……」
嘲るような声は、ぷつりと聞こえなくなった。ウォッカの叫ぶ声も聞こえた気がした。周囲の景色は色の渦となり、麻理亜は杖に引っ張られるようにして渦の中を飛ぶ。
ポートキー。触れる事により、あらかじめ指定した場所へと移動する事が出来る魔法道具。長靴、空き缶、古雑誌、魔法さえかければ何でもポートキーにする事が出来る。――そう、杖でも。
彼らが杖を折るであろう事は、想像に難くなかった。ジンならば、折れた杖を麻理亜に見せるであろう事も。
他の荷物を取り上げられても、杖ならば必ず目の前に持ち出される。折れた杖など、使い物にならない。そう、油断しながら。
ポートキーに指定していた時刻は、午前零時。それぐらいには目が覚めているだろうと見込み、老け薬の効果が持つ範囲の時間だ。それまでは、誰が触れても何も起こらない、ただの杖。
全て、計画通りだった。
……そう、これは全て、麻理亜が自ら選んだ事。もう、あの子達の所へ帰れなくなるとしても。
ポートキーで辿り着いた先は、小さな墓場だった。深夜のこんな時間に、人の姿はない。
麻理亜は、どさりとその場に倒れ込む。銃弾を何発も受けた身にポートキーの移動は、酷く堪えた。
乾いた地面の上を這うようにして、麻理亜は一つの墓石へとにじり寄る。明かりはなく、そこに刻まれた文字は見えない。それでも、場所は確かだった。
「明……美……」
失われてしまった親友。彼女が眠る墓。
この場所は、組織の者達にも知られている。当然、ここにも捜索の手は及ぶだろう。ポートキーは、触れた人を目的地まで運ぶ。失敗すれば組織の者まで移動してしまう可能性がある以上、安全地帯を設定する訳にはいかなかった。そして、彼らの前に姿を現した麻理亜に、他に行き場などどこにもなかった。
「明美……私、もうどこにも帰れなくなっちゃった……」
雫が頬を伝い、流れ落ちる。
これは、麻理亜が選んだ事。もう失いたくはなかったから。あの子達に、同じ思いをさせたくはなかったから。組織へのパイプを失う訳にはいかなかったから。
そしてこれは、麻理亜にしか出来ない事だから。
墓石に縋るようにして、麻理亜はその場に横たわっていた。早く逃げなければ。彼らに見つかる前に。そう気は焦れども、幾つもの銃弾を浴びた身体は重く、指一本動かす事ができなかった。
みるみると服が大きくなっていくのが分かる。老け薬の効果が切れたのだ。この姿で見つかる訳にはいかない。弾痕はまだ残っている。また髪を染めないと。
土を踏む足音が、闇の中から聞こえて来た。もう、ここまでやって来たのか。あの場所は、ここから近かったのか。それとも、この近くにいた組織の者に連絡が行ったのか。
――逃げなきゃ。
そう思うのに、身体は動かない。
足音が頭の横で止まる。幽かに血の匂いがした。
ああ、見つかってしまった。麻理亜は動けない。目を開ける事も出来なかった。せめて今、麻理亜の身体に起こっている現象が、麻理亜の魔法によるものだと、麻理亜だけのものだと結論付けられるように誘導しなくては。
焦りと緊張に苛まれながら、麻理亜の意識は闇の中へと落ちて行った。
幽かな硝煙の匂いに、麻理亜は目を覚ました。
「……目が覚めたか」
目の前にあったのは、見知った顔だった。ちょうど、麻理亜をどこかのベッドへと運んで来たところだったらしい。子供となった麻理亜の身体をそのままベッドに横たえ、彼は身を起こした。
「まったく、君も馬鹿な女だな……。泣くぐらいなら、こんな自分を犠牲にするような真似、しなければ良いものを」
「赤井秀一……」
麻理亜は彼の名前を呟く。
組織にキールと言うパイプを残すため、自らの死を偽装した男。麻理亜が隣に住む彼の正体を知ったのも、つい最近の事だ。
「だが、君の機転のおかげで、あのメールの信憑性は確固たるものになり、キールもバーボンも組織に留まる事が出来た……礼を言おう」
「あなた、どうして……。まさか、彼らも――」
「あの坊やや友達の子供達の事なら、心配しなくていい。墓場にいたのは俺一人だ。もちろん、連中にも見つかっていない」
麻理亜はホッと安堵の息を吐く。
「彼女も、ずいぶんと君の事を心配しているようだ」
赤井の言葉に、麻理亜は目を伏せる。
守ると誓った彼女。何の説明もなしに姿を消して、心配するなと言う方が無理な話だろう。
「……あなたは、私に、彼らの所に戻れって言いたいの?」
「いいや、そんなつもりはない。目的を遂行するためには、時に味方の目を欺く必要もある」
「流石、味方の目を欺いて死んだふりをしていた人は、違うわね……」
麻理亜は少し微笑う。そして、室内を見回した。
「それで、ここは? 工藤の家ではなさそうだけど……」
部屋はさして広くはなく、あの屋敷にあるものとは思えなかった。資料ファイルの詰まった本棚、鍵付きと思われる頑丈そうな棚。部屋の奥に一つだけある大きな窓には厚手のカーテンが引かれ、今が夜なのか昼なのかも分からない。
「ここは、俺の隠れ家のようなものだ。元々は火事になったあのアパートを根城にするつもりだったが……。あの坊やの家は、幼馴染の彼女が掃除に来るだろう。沖矢昴の持ち物として見つかってはならない類のものを、ここに置いている」
赤井は、棚の一つを開ける。中には、ライフルや拳銃などが入っていた。
麻理亜は空笑いを漏らす。
「立派な銃刀法違反ね……FBIって、そんなにたくさんの武器を個人支給しているの?」
「これは例外だ。いつ異常事態が発生するか分からないからな……」
「ハハ……これだけ好き勝手やっていれば、公安の彼が怒る訳ね……」
赤井は、一つの手提げ袋を麻理亜の前に差し出した。きょとんとしながら、麻理亜は受け取る。
中に入っていたのは、探偵バッジやスマートフォン。組織に取り上げられぬように置いて来た、麻理亜の私物。
「あなた……やっぱり、私が来ると分かっていてあそこにいたの?」
「元の居場所に戻る気がない以上、君の向かう先は限られている。万が一、逃亡に失敗して連中に見つかっても、奴らに新たな情報は与えられぬ場所……あの場所ならば、元々組織にも把握されている」
「まるで、工藤みたいな推理ね……」
彼は何も言わなかった。
カツラをかぶり、沖矢昴の姿へと変装する。
「俺は、生活自体はあの坊やの家で送っているから、ここは好きに使えばいい。君にとっても、俺伝いに彼女達の状況を把握出来るのは、悪い話ではないはずだ。この場所を知っているのはジェイムズだけだから、誰かが訪ねて来る事もない……合鍵だ」
放られた鍵を受け取り、麻理亜は目をパチクリさせる。
「出入りする場合は、念入りに注意を払うように……。裏口から出ると、狭い路地裏で周囲に隠れて見張れるような場所もないので便利だ」
麻理亜は、赤井を見上げる。
「どうして、そこまで……」
「君がまた捕まれば、彼女の身にも危険が及ぶし、君が守り通したNOCリストの件も無為になりかねない。目の届く範囲にいてくれた方が、こちらとしても都合がいい。――それに」
赤井は口の端を上げて微笑う。
「――同じ獲物を追い、同じ姫を守る同志として、協力するのは理に適っているだろう?」
麻理亜は目を瞬く。そして、フッと微笑った。
「そうね……よろしくね、ナイトさん」
麻理亜は手を差し出す。小さくなったその手を、彼は握り返した。
新しい逃亡生活が、始まろうとしていた。
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2017/05/04