「よいしょっと……こんなもんかしらね」
大きく膨らんだビニル袋を両手に提げ、少女は店を出る。車の往来する通りを歩き、ふらりと路地へ。
バァンと大きな音が響き、そしてもうその路地に少女の姿はなかった。
大音量と共に部屋の中に現れた少女の姿に、彼は振り返った。ついさっきまではいなかった少女の突然の出現。しかし彼は動じる事無く、棚の戸を閉め立ち上がる。
「あら、赤井さん。来てたのね」
「手入れをしていた。もう帰るところだ……。出入口は使っていないんだな」
何の手入れかは、聞くまでもない。彼の足元にある棚の中には、蘭が掃除に来る工藤家に置くには憚られるライフルや銃の類が何丁もしまわれていた。
「ここ、単身者用なのもあって、昼間どの部屋も出払っているみたいなのよね。音の心配がないならこっちの方が安全だし、それに、なるべく米花町での行動は避けるようにしているの。遠くへ行くのに『姿現し』を使うなら、家から行けばいいじゃない?」
麻理亜はテレビの電源を点けると変装用の帽子を外し、玄関横の戸棚に置く。それから、ビニル袋の一つを開いた。
「ちょうど良かったわ。買物先で、こう言う物を見つけて……冷凍食品って、何でもあるのね。急いで作り過ぎなきゃいけない時に、ちょうど良いんじゃないかと思って」
そう言って麻理亜が差し出したのは、じゃが芋や玉ねぎ、豚肉、人参などの混ぜ合わせが冷凍加工された詰め合わせだった。
「もしかしたら自家製でやってるかも知れないけど、日持ちするし多くあって困る事はないんじゃないかと思って」
「ホー……」
「哀達は今、大阪だっけ?」
「いや、彼女は博士の手伝いで家にいる。留守は、キャメルに任せて来た。ちょうど今頃、日売テレビで毛利小五郎と皐月会会長が対談をしている頃だろう……」
テレビではCMが終わり、番組が始まる。見慣れないスタジオで、神妙な顔をしたアナウンサーが鎮座していた。
「本日の『情報ライブミヤネ屋』は放送を休止し、予定を変更してお送り致します。先ほど午後1時頃、日売テレビ本社にて爆発があり……」
報じられたその内容に、麻理亜の顔が凍てついた。
+++劇場版名探偵コナン「から紅の恋歌」
「撮影まで時間空いちゃったね……」
時は遡ってお昼を回った頃、コナン達は蘭の引率でスタジオを後にしていた。小五郎が対談を行う番組の収録に来ていたが、カルタのデモンストレーションを行う予定の矢島俊弥が来ず、小五郎は控え室で待機となったのだ。美味しいお好み焼き屋を案内してくれるとの事で、平次と和葉もコナン達と一緒だ。
「哀ちゃんも来られれば良かったのにね」
「仕方ないわ。博士の手伝いがあるんだもの……」
「麻理亜は手伝わなくていいのか?」
元太が振り返った相手は、キュラソーだった。
今は、紫埜麻理亜の姿をしたキュラソー。組織の手が及ばぬように。突然消えた麻理亜を子供達が不審がらぬように。
キュラソーを救うため、組織のキュラソーへの信頼を維持してNOCリストを守るために、誰にも告げずに麻理亜が選んだ手段。それが、キュラソーに魔法の変身薬を飲ませて自分の姿に成り代わらせ、自らは組織の前に姿を現すと言うものだった。
「なァ、平次! どこのお好み焼き屋行くん?」
「そら、お好み焼き言うたらあそこやろ!」
振り返りながら話した平次は、角を曲がって来た着物の少女に気付かなかった。二人はぶつかり、ふらりと少女がよろめく。踏み止まった少女は振り返る。ついさっき、小五郎も出演する番組のリハーサルでカルタをしていた少女だった。
「あ、すんません……大丈夫ですか?」
平次が問う。少女は答えず、驚いたように平次を見つめていた。
その瞳から、ほろりと大粒の涙が流れる。
「運命やわ……」
「えっ!?」
不可解な涙と台詞に、平次と和葉がたじろぐ。少女は微笑み、続けた。
「会えるんやないかと思てました……ウチの未来の旦那さんに……」
「未来の……」
「旦那さん……!?」
「ええぇぇっ!?」
衝撃の言葉にコナンと蘭が繰り返し、平次と和葉が絶叫する。
少女はするりと平次の右腕に自分の腕を絡ませる。
「ウチ、この後、収録が終わったら暇なんです。良かったら、その後お茶でも飲みませんか?」
プロポーションの良い美少女の密着に、平次の顔がまんざらでも無さそうに赤らむ。チラリとキュラソーの方を振り返り、何かを思い出すかのように視線を上げる。キュラソーはきょとんと目を瞬いていた。
和葉がムッとして声を荒げた。
「ちょ、ちょっと! アンタ、何を……!?」
「いやっ、ちょ……」
「紅葉さーん!」
混乱する現場に、廊下の向こうからスタッフの声がかかった。
「すんませんけど、一度控え室に戻ってくださーい!」
「あら。今、ええとこやったのに……」
少女の密着が緩んだ隙を逃さず、和葉が二人の間に割って入る。
確か、この少女も番組の出演者だ。小五郎同様、待機が必要になるのだろう。スタッフの説明を受け、彼女は平次に軽く手を振った。
「ほんなら平次君、また後で!」
「ああ、ほななァ……」
緩んだ顔で手を振り返す平次を、和葉はキッと睨む。
「誰やねん、あの女!?」
「だから……知らん言うてるやないか……」
「平次って名前、知っとったやん! 怒らへんから白状しィ!」
クスリとキュラソーは微笑う。
「大変ね……」
「ったく……」
コナンはスマートフォンを取り出すと、何か調べ始める。平次が和葉に詰問される傍ら、歩美が蘭の手を引いた。
「蘭お姉さん、先に外で待ってよう……麻理亜ちゃんも……」
「ええ……」
キュラソー達は平次と和葉、そしてまだ何か調べているコナンを残し、そっとその場を立ち去った。
「この辺で待ってよっか……」
ロビーまで下りた所で、蘭が言った。光彦が、ロビーの中央に置かれた特撮もののパネルを指さす。
「あっ! それじゃあ、仮面ヤイバーの写真撮っていてもいいですか!?」
「うん。皆も一緒に写るなら、撮ろうか?」
「ありがとうございます!」
「じゃあ、歩美もー!」
「俺も!」
子供達はいそいそと蘭にスマートフォンを渡して、パネルの方へと駆け寄る。
「麻理亜ちゃんもおいでよー!」
パネルの前に並んだ歩美が、大きく手を振る。そちらへ向かおうとする麻理亜に、蘭が声をかけた。
「麻理亜ちゃんはいいの? スマホ」
「じゃあ――いいえ、やっぱりいい」
せっかくだから記念にとスマートフォンを出し掛け、キュラソーは押し留まる。
「私、そっちの展示見てるわね」
「あれ? 麻理亜は撮らないのか?」
元太が訝る声が聞こえる。
(ごめんね……)
誘ってくれた歩美達に胸中で謝りながら、キュラソーは壁際に飾られたテレビ局の沿革を眺める。
キュラソーは、隠れなければならない身。今は麻理亜の姿だが、麻理亜にしたって同じ事だ。いつか、キュラソーや麻理亜が彼らの前から姿を消さなくてはならなくなった時、消さねばならなくなる痕跡は可能な限り少なくした方が良いから。
その時、ビル内に放送が響き渡った。
『先程、大阪府警より、緊急避難警告が発令されました。各種作業や収録を一時中断し、近くの非常階段から退避してください。繰り返します――』
「何か始まんのかあ?」
「警察って言ってるね……」
子供達と蘭が集まるパネルの前に、キュラソーも歩み寄る。
「とにかく、外へ出ましょう……ここはアナウンスに従った方がいいわ……」
「コナン君達は?」
「彼らも外に向かっていたんだから、直ぐに来るわよ……」
「あのー、すみません……」
通りかかったスタッフへ、蘭が声を掛ける。
「この放送って、避難訓練か何かでしょうか? 私達、今日初めて来て、何も聞かされてなくて……」
「いや……それが、我々もこんな事は初めてで……」
「――おい! 何か、爆破予告があったらしいぞ! カメラ持って来てるか? 回しとけ!」
階段の方から駆けて来たスタッフが、仲間へと報告する。蘭と子供達は息をのんだ。
「爆破予告!?」
キッと蘭は表情を引き締める。
「皆、外へ出るわよ」
「でもコナン君が……」
「コナン君には、私が連絡してみるから。和葉ちゃんや服部君も一緒のようだし……お父さんはどうしてるかな……。皆、絶対に離れちゃ駄目よ」
外に出て間もなく、小五郎が姿を現した。コナンも小脇に抱えられている。彼の事だ、避難を促す放送の中、調べに行こうとして小五郎に捕まったのだろう。
「和葉ちゃんと服部君は?」
「何だ? お前達と一緒じゃなかったのか?」
蘭の問いに、小五郎はきょとんとする。コナンと一緒なら二人にも会ったかと思ったが、そうではないらしい。子供たちの間にも、不安が漂う。
「心配だから、私、捜して――」
「いや、俺が行く! お前達はここを動くんじゃない! いいな?」
振り返り念を押しながら、小五郎はビルの方へと駆けて行った。
「平次さんと和葉さん、大丈夫でしょうか……」
「まだ喧嘩してたらどうしよう……」
「コナンの師匠だし、事件調べに行ったんじゃないか?」
その時、ドォンと激しい音が辺りに響き渡った。
――爆発。それでは、予告は悪戯ではなかったのだ。
ガラス片が降り注ぐ。呆然とビルを見上げる元太を後ろ手にかばい、こちらにも飛んで来るものがないか宙に視線を凝らし警戒する。まだビルのそばにいた人達は、慌ててこちらへと駆けて来る。
気が付けば、コナンも周囲からいなくなっていた。爆発。現れない平次と和葉。蘭が何度も電話を掛けているが、応答もない。恐らく彼らを探し、消えたコナン。
キュラソーは、腕時計を確認する。――そろそろ、薬が切れる時間だ。
ビルの中腹から、濛々と黒煙が立ち上る。爆発は一度で終わらず、二発目、三発目と続く。下層階でも燃え盛る炎。まるで、消防士の侵入を防ぐかのように。
「……あれ? 麻理亜は?」
ふと辺りを見回し、元太はつぶやいた。きょろきょろと辺りを見回すが、どこにも見当たらない。ふと、大きな指輪をした厳つい顔立ちの男が目に留まった。
(でかい指輪だなあ……)
チョコや飴玉だったら嬉しいサイズだ。そんな事を頭の片隅で思いながら、人ごみの中に目を凝らす。しかしどこにも、その姿を見つける事は出来なかった。
魔法薬の制限時間は、一時間。人混みを離れ、橋の下に隠れるようにして効果が切れるのを待ち、キュラソーは立ち上がった。控えの薬は、麻理亜が残したポーチの中にある。しかし、今はそれを飲もうとはしなかった。
元の、大人の姿のままで日の下へと出る。警察の包囲網を掻い潜り、周囲でうろたえる一般人に紛れて、ビルへと近付いて行く。ビルはすっかり炎と黒煙に包まれていた。下に現れないのであれば、逃げ道は上のみ。しかし煙が酷く、状況を見て取る事が出来ない。
ビルを曲がった所で、キュラソーは、はたと足を止めた。
屋上から垂らされた長いロープ。その先端を握りしめ、肩には和葉を担いで、服部平次がゆっくりと下降して来ていた。何とか、ビルを脱出出来たようだ。
安堵も束の間、ロープに火が燃え移る。平次の顔に、焦りの色が浮かぶ。キュラソーは駆け出していた。
「平次君!」
チラリと平次は地上へと目をやる。キュラソーを視認し、そして彼はロープから手を離した。
「えっ!? 嘘やろ!? 平次ィィィィィィ!!」
突然の浮遊感に、和葉が悲鳴を上げる。
落下して来る平次と目が合う。固く頷くと、平次は和葉を放した。悲鳴と共に落下して来る和葉を、キュラソーが受け止める。平次は防御姿勢を取り、そばの茂みへと着地した。
「大丈夫?」
「は、はい……」
和葉を大きな瞳をパチクリさせる。地面に下ろされると、我に返ったように茂みの方へを振り返った。
「平次! 大丈夫!?」
「ああ、このくらい何でもない。和葉こそ、怪我しとらんか?」
「うん……」
キュラソーは、きょろきょろと辺りを見回す。
「コナン君に会わなかった? あなた達を助けに行ったと思うのだけど……」
「ああ……」
平次は厳しい表情で、屋上を見上げる。キュラソーは息をのんだ。
「まさか、まだあそこに……!」
「え!? コナン君? どう言う事なん?」
和葉は会っていないのか、困惑顔で平次を問い詰める。
キュラソーはビルを隈なく見渡していた。平らな壁面。足掛かりになるような物は――
「あれなら……!」
キュラソーは、ビルに沿って駆けて行く。背後で、和葉が平次に詰問しているのが聞こえた。
「なァ平次、どう言う事なん? コナン君がおったって……! まさか、置いて来てしもたん?」
キュラソーはビル沿いの歩道に植わる木に登る。木から、ビルの三階へ。ベランダのようになっている僅かなスペースの塀に降り立つと、強く足元を蹴る。横の壁を蹴り、上への跳躍力へと換える。四階の塀に手を掛け、勢いをつけて身体を持ち上げ、塀の上に乗る。同じ動作を繰り返し、上へ、上へと昇って行く。
「ホンマかいな……」
まるで子供がジャングルジムを登るかのようにスイスイと進んで行くキュラソーを見て、平次は呆然とつぶやく。
和葉も平次を問い質すのを忘れ、唖然と見上げていた。
ビルの屋上は、黒煙に包まれていた。至ると所で崩れた足場を慎重に踏みしめながら、キュラソーは炎の中に目を凝らす。
「コナン君!?」
大声で呼ばわり息を吸うと、灼熱の空気が肺へと流れ込んで来た。痛みに顔を歪めながらも、煙を吸わぬように注意を払いながら名前を呼ばう。
轟音の中、ふと幽かに声が聞こえた。
「……こ……だよ!」
声がした方へと駆けて行くと、アンテナの足元にスケボーに身を伏せるようにしたコナンがいた。
炎に焼かれたアンテナが、ぐらりとコナンの方へと傾く。
「――コナン君!」
キュラソーは強く地面を蹴り、跳躍する。コナンを抱えた背中に、礫となったアンテナの残骸が当たる。転がるように着地するのと同時に、ガラガラとコナンのいた場所へと降り注いだ。
「間一髪ね……」
「どうやってここへ来たの!?」
身を起こし、急き込んで尋ねたコナンは、煙と熱にむせ返る。キュラソーでも苦しいのだ、子供の身体にここは辛い事だろう。
「さあ、帰るよ……」
「でもどうやって……俺一人なら、一か八かスケボーとアンテナでと思っていたけど……」
コナンは、崩れ落ちたアンテナを仰ぎ見る。コナンの考えていた事の仔細は分からないが、何にせよもうこのアンテナは役に立たないだろう。
キュラソーは立ち上がりコナンを見下ろすと、フッと微笑んだ。
「元太君の時と同じ」
「えっ、ちょっ……わっ……」
急に抱え上げられ、コナンは狼狽した声を上げる。キュラソーは屋上の淵まで行くと、コナンを小脇に抱えたまま飛び降りた。
上った時と同じ要領で下へと降り、コナンを下す。
「それじゃあ私は、ストレガちゃんの姿になってから合流するから……」
「うん……ありがとう」
素直に述べられた感謝の言葉に、キュラソーは目を瞬く。そして、フッと微笑った。
「……こちらこそ」
コナンはきょとんと目を瞬いていた。
コナンを見送り、キュラソーは人混みを離れ適当な物陰を探す。河川敷は避難所となり、橋の下はもう使えそうになかった。懐に入れたポーチを取り出そうとして、キュラソーは硬直した。
――無い。
キュラソーはビルを振り返る。屋上で、コナンを助けた時。キュラソーは大きく跳躍し、細かな瓦礫に襲われた。――まさか、あの時に。
日売本社ビルは警察と消防に取り囲まれ、再び近付くなど――ましてや屋上を捜索するなど、到底出来そうになかった。
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2018/04/21