雪降る道に、子供たちのはしゃぎ声が響く。子供たちが歩く歩道の先に停まっているのは、ポルシェ356A。その車に乗った男は、歩いて来る子供達の姿をバックミラーで確認する。
 ――戯言は終わりだ……。
 子供達は車の横を通り過ぎる。誰も、標的の少女でさえも、男の存在には気が付かない。子供達が通り過ぎ、男は車を降りる。
 ――さあ……夢から醒めて、お前の好きな緋色で再会を祝おうじゃないか……。なあ……シェリー……。
 ジンは子供達――その中にいる一人の少女を見据え、ニヤリと嗤った。

 ガバッと勢いよく、哀は飛び起きた。心臓は早鐘のように鳴り、息は荒い。
 哀は雪道を歩いてなどいなかった。ここは、阿笠の家。まだ外は暗い。隣のベッドでは阿笠が軽くいびきを立てて眠っている。その向こうのベッドでは、麻理亜がこちらに背を向け、やはり眠っていた。
 哀は、自嘲するように笑う。
 ――嫌な夢……。
 物音を立てぬよう、そっとベッドを降りる。洗面所の方へ向かう哀の背中を、麻理亜はベッドに横たわったまま横目で見つめていた。





No.22





「じゃあな!」
「また明日!」
「バイバーイ!」
 元気よく手を振る子供たちに、麻理亜は笑顔で手を振り返した。
「うん、またね」
 雪降る道を、麻理亜、コナン、哀の三人は帰って行く。麻理亜と哀が世話になっている阿笠の家は、工藤家の隣。コナンの住む毛利家は幼馴染と言うだけあって、通りは違えど家が近い。
 麻理亜は少し小走りして二人の前に出ると、くるりと振り返った。
「ねえ、聞いた? 元太ったらね……」
 後ろ向きに歩きながら、麻理亜は話す。コナンは器用なもので、リフティングを続けながら会話に応じる。
 不意に、コナンの横を黙って歩いていた哀が立ち止まった。その瞳は見開かれ、恐怖と驚愕の入り混じった表情で麻理亜の斜め後ろを見つめている。
「どうしたの? 哀――」
 首をかしげながらも振り返り、そして麻理亜は息をのんだ。
 歩道沿いに止められた一台の黒い車。ポルシェ356A。
 瞬時に、麻理亜は周囲に視線を走らせる。小学一年生の下校時間。雪のせいもあって通りを行きかう人は、まだ少ない。季節柄黒っぽい服装は多々見られたが、どの人物も見覚えのあるものではなかった。
「何だ? あの黒いポルシェがどうかしたのか?」
 この場で唯一、車の持ち主を知らないコナンが、きょとんとした表情で問う。サッカーボールを置き、空の運転席をのぞき込む彼に、哀が告げた。
 ジンの愛車も、この車なのだと。
 途端にコナンは血相を変えた。イヤリング型携帯電話を出し、博士に電話をかける。
「ちょっと、何を……?」
「あ、博士か? 今から俺が言う物を持って、四丁目の交差点に来てくれ! 説明は後だ! 急いで!!」
 電話を終えると、コナンは車の周辺を調べ始めた。
 車の持ち主が戻って来ないか辺りに気を配りながら、麻理亜はぎゅっと哀の手を握った。緊張した面持ちでじっと車を睨んでいた哀は、目を瞬いて麻理亜を振り返る。
「……あなたを守るのは、工藤だけじゃないわ。私はいつでも、志保のそばにいるからね」
「麻理亜……やっぱり、さっきの話、聞いて……」
「そろそろ来る頃だな」
 コナンは立ち上がり、腕時計を見ながら言う。ちょうどそこへ、クラクションの音が鳴った。
「おーい」
 博士だ。お馴染みの黄色いビートルをポルシェの後ろに着け、コナンに頼まれたハンガーとペンチを渡す。
「何に使うんじゃ、こんな物……」
 コナンは答えず、ハンガーの針金をペンチで曲げる。そして曲げたその先を、ポルシェの窓の隙間から中へと差し込んだ。
「こ、これ!」
 慌てて止める博士や哀にも構わず、コナンは車の鍵をこじ開けると、運転席へと乗り込む。哀が、慌ててその後を追う。
「ちょ、ちょっと、いったい何をする気?」
「車の中に発信器と盗聴器を仕掛けるんだよ!」
「でもまだ、彼の車だと決まった訳じゃ……」
 麻理亜は哀の後に続こうとし、扉の前で立ち止まった。
 鼻をつく血の匂い。怨嗟の匂い。――間違いない。これは、彼の車だ。
 ふらふらと車を離れ、ビートルの方へと向かう。その辺の殺人現場とは比にならない強い怨念。組織を抜け、ここのところ生ぬるい生活を送っていたせいか、それは耐え難いものだった。
 ぐらりと視界が回る。
「お、おい、麻理亜君!?」
 阿笠の慌てる声と、ビートルの扉の開く音がすぐそばで聞こえていた。





 麻理亜が目を覚ましたのは、車の中だった。血の匂いは無い。起き上がって見れば、窓の外は見慣れぬ景色。
「おお、起きたか、麻理亜君」
 運転席に座った阿笠が、ホッとした表情で振り返る。どうやら、ビートルに乗っているようだ。車は、路肩に停められていた。辺りには、高いビルがいくつもそびえ立っている。
「博士! 哀は!?」
「哀君なら、新一君と一緒にこの杯戸シティホテルの中じゃよ」
 そう言って阿笠は、車の窓からビルを見上げる。どうやらこちらは、ビルの裏手に当たるようだ。
「君達の読み通り、あの車は奴らのものじゃったよ。新一君が聞いた話じゃ、今夜、誰かの暗殺を企んでるそうで――」
 阿笠の話によれば、今夜、ここ杯戸シティホテルで、組織の者の手によって何者かが殺されるとの事だった。盗聴器と発信器がジンに見つかり、追跡は断念したが、殺人事件は放っておけない。それに、手をかけるのは組織の人物。犯人を捕まえれば、それは大きな手がかりとなり得る。
「哀もついて行ったの? あの子、幼い頃から組織にいるのよ? 現場に来ている組織の者に、顔が割れてる可能性も……」
「ああ。じゃから新一君はつれて行く気はなかったようなんじゃが、殺害に哀君の作った薬が使われるかもしれないそうで……」
 麻理亜は扉を開け、後部座席を降りる。
「麻理亜@charAT、麻理亜くん!?」
「私も工藤達の所へ行くわ。ホテルのどこにいるかは分かる?」
「いや……誰かを暗殺すると言う事ぐらいしか……。一人じゃ危ないんじゃないか? ここで、二人が帰って来るのを待っていた方が……」
「約束したのよ。どんな時でもそばにいるって……」
 麻理亜は駆け出す。阿笠の呼び止める声にも構わず、ホテルの入口へと向かった。
 広いロビーで、麻理亜はフロアマップの前に立つ。大きなホテルだ。血の匂いを追うにしても、一つ一つ虱潰しに探すのは骨が折れるだろう。
 今日、このホテルに団体客が入る会場は三ヶ所。南洋中学校同窓会、映画監督酒巻昭氏を偲ぶ会、高杉家結婚披露宴。
(南洋……)
 麻理亜はその二文字を見つめる。
 明美が通っていた大学も、南洋大学だった。まずは、この三ヶ所から当たってみるか。もしその中に組織の者がいれば、臭いで気付けるだろう。
「――はい。こちら、異常ありません」
 ふと聞こえた小さな声に、麻理亜は振り返る。
 灰色のスーツに身を包んだ男が、ピンマイクで誰かと連絡を取っていた。その男の顔は、どこか見覚えがあるような気がした。
「はい。一度、会場へ戻ります」
 男は連絡を終え、エレベーターに乗る。ちょうど辺りは空いていて、乗ったのは男一人。エレベーターの階数表示は次々と上昇して行き、五階で止まった。そのまま、階数表示は動かない。
 つまり、男は五階で降りたと言う事。五階で行われているのは、映画監督を偲ぶ会だ。会場と言っていたのだから、そこで間違いないだろう。偲ぶにしては、あのスーツの色は少々明るすぎはしないだろうか。そして、周囲を警戒しながら携帯電話ではなくピンマイクで話していた姿。
「……あっ」
 麻理亜は小さく声を上げる。
 思い出したのだ。彼を、どこで見た事があるのか。
 警視庁だ。古城の事件の事情聴取で訪れた時、廊下ですれ違った人々の中にあの顔があった。
「警察……工藤ね」
 恐らく、彼が呼んだのだろう。組織による殺人を防ぐために。
 麻理亜は小走りにエレベーター乗り込むと、五階へと向かった。

 エレベーターが五階に着くと同時に、ガシャンと言う大きな物音が響き渡った。ガラスか何かが落ちて割れたような、激しい音。
「まさか……!」
 エレベーターホールに立つ案内板に従い、会場へと向かう。会場となるホールまで辿り着くと、既に警察による入場規制が敷かれていた。入り口の周りには、マスコミと思しき者達が、扉が開くのを今か今かと待ち構えている。
 やはり、起こってしまったのか。殺人を食い止める事は出来なかった。
 でも、犯人を捕まえれば。この事件の犯人は、組織の者だ。これだけ早く封鎖する事が出来たのだ。犯人はまだ、この中にいる可能性が高い。
「何が起こったんだ?」
「事故だよ、事故。会場内のシャンデリアが落ちたって……」
「事故かー。でも、そしたら規制はわかるけどなんで誰も出て来ないんだ? 普通、避難させないか?」
 外に出たまま立ち入り禁止を食らった報道陣が話すのを、麻理亜は聞いていた。
 これは事故ではない。組織の者による殺人だ。誰も出て来ないのも、警察が犯人を逃すまいと現場を封鎖しているため。
「ええっ? 呑口議員が!?」
 また別のマスコミが、壁際で電話をしていた。恐らく、中にいる仲間と連絡を取っているのだろう。
「カメラのバッテリーは? いつでも回せるようにしておけ。なるべく警察に近付いて、状況を確認するんだ。議員のインタビューのつもりが、こんなニュースになるとはな……」
 呑口重彦。その名前は、麻理亜も知っていた。最近、収賄疑惑でよくニュースに上がっていた政治家だ。捕まる前の口封じと言ったところだろうか。
 しばらくして、ホールの扉が開いた。途端に、張り込んでいたマスコミが一斉に押し寄せる。明滅するフラッシュ。叫ぶように問う声。
「呑口議員が亡くなったって、本当ですか!?」
「事故死だと聞きましたけど……どうなんですか!?」
「答えてください!」
(あらあら……大変そう……)
 コナンの通報で警察が事前に来ていたように、マスコミはマスコミで今日も呑口を追って来ていたのだろう。
 押し寄せる大人たちの足元を潜り抜け、二人の子供が飛び出して来た。麻理亜の姿に気付く様子もなく、受付の方へと向かう。
 麻理亜は壁際を離れ、二人の後を追った。
「哀ー、江戸川ー」
 手を振りながら、麻理亜は二人へと歩み寄る。
「あら。哀、それ、江戸川の眼鏡?」
「紫埜@char紫埜? 大丈夫なのか?」
「ヘーキ、ヘーキ。ごめんなさい、心配かけちゃって」
「でも、オメー……事件現場は……」
「哀まで来てるのに、私一人待ってる訳にはいかないでしょ?」
 麻理亜は哀の肩に腕を回して引き寄せる。
「あ、ちょっ……」
 いきなり引っ張られて慌てる哀に、麻理亜は軽くウィンクした。
「大丈夫よ、私がついてるから」
「麻理亜……」
「はい、この七人よ!」
 受付の女性が、コナンに見せるように名簿を広げる。コナンの横から、麻理亜もその名簿を覗き込んだ。様々な字体で並ぶ、七人の名前。
「なあに、この七人?」
「紫のハンカチの持ち主だよ」
「紫のハンカチ?」
 コナンの顔には、かすかな笑みが浮かんでいる。この様子だと、すでに犯人――組織の者の手掛かりを掴んでいるのだろう。この七人は容疑者か何かだろうか。
 会場客は皆、ホールの中に足止めされてりう。犯人がホール内にいる限り、捕まるのは時間の問題――
「お、おい! 出て来るぞ!」
 聞こえて来た声に、麻理亜は振り返る。
 まさか。どうして。警察が足止めしているのではなかったのか。
 まだ駄目だ。相手は組織の者。ここで逃がしてしまったら――
 ドッと人の波があふれ出して来る。マイクとカメラを構えた報道陣が、人の波に逆らい聞き込みを始める。帰ろうとする客と留めようとするマスコミの押し問答となり、廊下は一気に混乱の様相を呈した。
「きゃっ」
「うわっ!?」
 人並みに押され、麻理亜は隣にいたコナンをも巻き込んで倒れ込む。
「ご、ごめんなさい……」
「あ、ああ……」
 密着した状態にやや動揺を見せながらも、コナンは誤魔化すように顔をそむけ、マスコミの声に負けじと叫んだ。
「とにかくいったん、博士の車に戻るぞ! 灰ば、ら……」
 コナンの声が尻すぼみになる。
 ――まさか。
「哀!?」
 麻理亜も辺りをきょろきょろと見回す。見えるのは、右往左往する大人達の足元ばかり。
 ぞっと悪寒が麻理亜を襲う。
「哀! 哀!? どこなの!?」
「おい、どこだ!? 返事しろ!!」
 聞こえるのは、マスコミと会場客の声ばかり。喪服を着た大人達の中、小さな姿はどこにもない。
「灰原ァ!!」
 叫ぶコナンの声は、周囲の雑音に掻き消されていった。


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2015/02/21