夜闇の中、銀色の刃が月明かりにきらめく。刃は光となり、縦横無尽に闇を切り裂く。
 閑静な住宅街の中でも、ひと際広い阿笠邸。加えて隣の広い屋敷も、今は無人。街頭よりも高い位置にある屋上は、下から見て取る事は出来ない。ただ闇を切り裂く光に意識を集中していると、外界から隔絶された闇の中に一人でいるような錯覚さえ生じてくる。
 不意に、闇の中に光が差した。玄関の扉が開けられたのだ。門の方から、何やら話し声が家の方へと近付いて来る。
 ――来客?
 麻理亜は剣を下ろし、袖で汗を拭う。
 今夜は確か、週末のキャンプの打ち合わせをする予定だ。もうそんな時間なのだろうか。
 麻理亜は手中にある魔法の剣を消滅させると、家の中へと戻って行った。





No.24





「なんだ、まだ時間来てないじゃない。ずいぶん早いのね」
 一階まで下りて行くと、キッチンとカウンターで繋がった広いリビングに、コナンの姿があった。時計の針を確認したが、約束していた時間にはまだ早い。
「事務所の風呂が壊れて、博士に借りたんだよ」
 なるほど。言われてみれば、彼の肩にはタオルが掛けられているし、頭もやや湿っているように見える。
「事務所の……って事は、今入ってるのは、蘭さん?」
 風呂場のカーテンは閉められ、シャワーの音がしているが、阿笠も哀もこの場にいる。
 コナンはうなずいた。そして、風呂場の方を横目で眺める。
「蘭と言えば……なーんか変なんだよな、最近のあいつ……」
「それじゃったら、こっそり君のセーターを編んどったからじゃろ?」
「ああ……。そうだと思ったんだけど、それだけじゃないような気が……」
「どういう事じゃ?」
 麻理亜の分のカップを用意しながら、阿笠が問う。麻理亜はいそいそと、コナンの隣の椅子によじ登った。
「時々感じるんだよ……。蘭が俺を見る目や態度が、小学一年生の子供に対してじゃなく……まるで……」
 麻理亜はハッと息をのむ。
 思い起こされるのは、夜の船上。立て続けに起こる事件の中、コナンに見せていた弱音。麻理亜に尋ねた、あの質問。
「それって……」
「まあ、気のせいだと思うんだけどよ……」
「バレてんじゃないの? あなたの正体……」
 静かに、しかしズバリと言い放ったのは、哀だった。話題に興味がないと言うように、彼女は背を向ける。
「私、朝まで地下室でやる事があるから、邪魔しないでね……」
「おい……もし、哀君の言った通りだったら……」
「バーロ、だったらなんで俺に言わねーんだよ? 蘭に限って、んな事ねーって……」
「何? 私がどうかしたの?」
 当の本人が登場して、麻理亜たち三人はギクリと肩を震わせ口をつぐむ。蘭の大きな瞳が、麻理亜へと向けられた。
「あ! もしかして、その子ね? 博士が預かってるっていう……」
「紫埜麻理亜です。初めまして、蘭おねーさん!」
 精一杯の子供らしい愛らしさを振りまいて、麻理亜は挨拶する。実際のところ、シンフォニー号で会っているから初めてではないのだが。しかし、あの時は元の姿で、名前も小泉和葉と偽証していた。「小学生の紫埜麻理亜」としては、初めてだ。
「蘭お姉さんのお話、コナン君からいっぱい聞いてるよ! コナン君、蘭お姉さんの事、大好きだって!」
「お、おい、紫埜!」
 付け足した麻理亜の言葉に、コナンが赤くなって割って入る。蘭はと言うと、からかうでもなく、微笑ましそうにするでもなく、やや照れたような驚いたような表情をしていた。
(やっぱり、この子……)
「そう言えば、女の子が二人って話だったけど……もう一人の子はどこにいるの?」
「ああ……哀君なら、地下の部屋に……」
「挨拶しちゃおーっと」
 元気よく言って、蘭は地下への階段を下りて行く。麻理亜たちは、慌ててその後を追った。
「こんにちは、アーイちゃん……」
 勢いよく扉を開けた蘭の言葉は、尻すぼみに消えて行った。
 哀はこちらに背を向け、パソコンに向かっていた。黒いウィンドウに英字が並び、忙しなく叩かれるキーボードの音だけが木霊する。
「コ、コレ、哀君! 挨拶ぐらいせんか!」
「いいわよ、博士。邪魔しちゃ悪いし……。じゃあまたね、哀ちゃん」
 無言を貫く哀の態度に気分を害する様子もなく、蘭は扉を閉めた。
「哀ちゃん、凄いわね。パソコン使いこなして……」
「博士に教わったのよ。ね、博士!」
「あ、ああ」
 麻理亜の返答に、阿笠も口裏を合わせる。
「それじゃ、麻理亜ちゃんも?」
「私は、あまり……元々、使った事もなかったから……私はどっちかって言うと、運動の方が得意かな。剣とか、クィ……球技とか」
「へー。それじゃ、コナン君と一緒だね!」
 子供の姿でも、蘭は気さくで話しやすい性格だった。
 ……恐らく彼女は、コナンの正体に気付いている。しかし、その事情を深く知っていると言う訳でもなさそうだ。
 深くは知らずとも、何らかの事件絡みだと言う事は察しているのだろう。コナンに――新一に事情があると察しているからこそ、問い詰めようとはしない。彼から相談されるのを待っている。
 でも、話す事は出来ない。
 何も知らずに、笑顔で話す彼女。組織の事や、薬の事、工藤新一が一度殺された人物であると言う事。生きている事を知られれば、また命を狙われるだろうと言う事。それらの真実を知れば、彼女からこの笑顔を奪う事になりかねない。
 ――そして何より、組織の事を知った彼女を、彼らは見逃しはしないだろうから。





「よく、こんな腕で今まで自炊してたわね……」
 阿笠が切った野菜を、哀は呆れた表情でつまみ上げる。まな板の上では一見、輪切りにされているように見えるそれは、見事に皮一枚で繋がっていた。
「こっち、全部切り終わったわよー」
「待って、麻理亜。じゃがいもは煮崩れするから後よ」
 まな板を持ち上げ自分の担当分を鍋に流し込もうとしていた麻理亜を、哀が制止する。
「順番なんてあるんだ。魔法薬と一緒なのね」
「麻理亜君は、普段、料理は……」
「全然。元々いた所では作ってくれる人達がいたし、組織に入ってからはインスタント食品や出来合いの惣菜ばかりだったから」
 麻理亜は肩をすくめて話す。ホグワーツでは料理は屋敷僕妖精たちが作っていたし、紅子の家でも彼女の下部だか使い魔だか、身の回りの世話をしてくれる者がいた。
「その割には、上手いのね。博士と違って」
「最後のはよけいじゃ」
「刃物の扱いは慣れてるから」
 麻理亜は短く言って、まだ切られていない人参を手に取る。一歩下がるようにして机から離れると、包丁を片手に、人参を空高く放った。
 落下する人参。麻理亜の包丁が閃く。目にも止まらぬ速さで切り刻まれた人参は、きれいにまな板の上へと並んだ。
「ね?」
 包丁を握る手を下ろし、麻理亜は口の端を上げて笑う。
「おおーっ」
 阿笠は歓声を上げ、拍手する。対して、哀の反応は淡白なものだった。
「それ、子供たちの前ではやらないでよ……真似しそうで、危ないから」
「あ、はい……」

 全ての野菜を切り終え、炊飯の方の準備まで終わっても、コナンと子供たちは薪拾いから帰って来なかった。
 陽は西へと傾き、木々の向こうへとその身を隠そうとしていた。
「ねえ、いくらなんでも遅過ぎると思わない?」
「そうじゃのー……」
「迷子にでもなってるのかしら。森の中であちこち歩き回って、方向が分からなくなっちゃったとか……」
「ちょっと私、森の方を見て来るわ……」
「私も!」
 森へと向かう哀の後に続き、麻理亜も駆ける。阿笠は慌てて二人を呼び止めながら、支度中の鍋や材料を片付けていた。
 テントを立てている広場は木々が切り開かれ、西日に照らされていたが、一歩森の中に入れば段違いの暗さだった。弱まった陽の光は枝葉に遮られ、昼間のような木漏れ日はほとんど無いに等しい。キャンプ場がそばにあるような、魔法生物も何もいないマグルの小さな森。しかし薄暗く視界が狭まると、夜の禁じられた森にも似た薄気味の悪さがあった。
「ひゃー……こんな中で迷子になったら、あの子達、帰れそうにないわね……。まったく、工藤も付いていながら、何しているのかしら」
「あるいは、帰ろうにも動けない状況なのかもね……誰かが怪我をしていたりだとか……」
「そうねぇ……こんなに暗いと、崖とかあっても分からなそうだし」
 周囲の闇に眼を凝らし、耳を澄ませながら、麻理亜たちは歩を進める。
 麻理亜と哀の話し声があっても、誰かがそれに反応するような気配はなかった。やはり、四人とも、森の奥の方まで行ってしまっているようだ。
「……ねえ、志保」
 博士はまだ、テントの前。麻理亜はふと立ち止まり、前を行く背中に呼びかけた。哀は立ち止まり、横目で振り返る。
「何?」
「……もしかして、と思ったんだけど……好きなの? 工藤の事……」
 哀の瞳が、わずかに見開かれる。そしてふいと、背を向け歩き出した。
「吉田さんみたいな事を聞くのね」
 その声はいつもと同じ調子で、動揺の類は見られなかった。肯定でも否定でもない、その返答。
「だって、蘭さんが来た時とか……それに、今日も何度も、工藤の事見つめていたでしょ?」
「彼は私が作った薬の貴重なサンプルだもの。観察対象を眺めるのは、当然の事じゃない?」
 照れ隠しなのか、本音なのか、あるいは彼女自身にも自覚がないのか。いつもの調子を崩さずに、彼女は淡々と答える。
「麻理亜こそ、どうなの? 私にそんな事を聞くと言う事は、吉田さんと同じなのかしら?」
 からかうような笑みを浮かべ、哀は振り返る。麻理亜は軽く肩をすくめた。
「まさか。私、あなた達よりも何百年も年上なのよ? 事案どころの話じゃないわよ」
「逆にそこまで離れていると、年齢差なんてもう関係ないんじゃない?」
「あのね、志保。話したくないなら無理に聞き出す気はないし、本当に何とも思ってないなら余計なお世話だろうけど……もし本当に好きなら、遠慮してその気持ちを殺してしまう必要はないと思うの」
 麻理亜の話へとすり替わりそうになるのを遮り、麻理亜は真剣な瞳で哀を見つめ返す。
 哀は、微笑っていた。
「あら……あなたは、工藤君と彼女の仲を引き裂いて、略奪しろとでも?」
「そこまで言うつもりはないけど。でも、あなたが自分を騙して、想いをなかった事にしてしまう必要なんて……」
「なかった事も何も、『ない』のよ。……あってはならない」
 哀の声に、緊張感が満ちる。麻理亜は、哀の方へと一歩踏み出した。
「あってはならないなんて、そんな事ないわ。人が人を好きになるのに、許されない事なんて――」
「――彼は、私が作った薬で小さくなったのよ」
 押し殺したような、張り詰めた声だった。決して怒鳴った訳でも、激情に駆られている訳でもないが、その声音には、麻理亜を押し黙らせる気迫があった。
「既に一度、彼らを引き裂いている私に、誰かを愛するような資格があると思う?」
 そう言って微笑う哀の表情は、どこか寂しさと自嘲を含んだものだった。
「私は解毒剤を作る。解毒剤を作って、彼を彼女の元へと還す。ただ、それだけよ……」
「おーい! 哀君ー、麻理亜君ー、どこじゃー?」
 闇の向こうから聞こえて来た声に、麻理亜は振り返る。片付けが終わり、麻理亜達を追って来たらしい。このまま阿笠まで居場所が分からなくなってしまったら厄介だ。
「博士ー! こっちよー!」
 麻理亜は声を張り上げ、答える。すぐに、阿笠が木々の間から姿を現した。
「おお、良かった、良かった。さて、子供たちを探すかの」
 阿笠が合流したのを確認し、哀は再び背を向け歩き出す。麻理亜は暗闇へと向かう小さな背中を、ただ見つめていた。
「志保……」





 四人の痕跡は、鍾乳洞の入口で発見された。鍾乳洞にはロープが引かれ、立入禁止の看板が立っているが、一たびあの子たちが興味を持てば、こんな物は何の抑止力にもならないだろう。
 鍾乳洞の中へと入ろうとして、麻理亜はふと足を止めた。
 ――すごく、嫌な感じがする。
「麻理亜君?」
 阿笠が怪訝気に振り返る。
 ああ、と麻理亜は察していた。何度も感じた事のある、未だに慣れないこの感覚。
 ……人が、殺されたのだ。
 これは、怨嗟だけでない、物理的な血の臭い。死体が、この中にある。
「……いいえ、何でも。行きましょう」
 その場に萎えようとする足をひっぺ剥がすように動かし、鍾乳洞へと歩を進める。
 子供たちは、何らかの事件に巻き込まれた。それは間違いない。ならば、何としても助け出さなければならない。見つけなければならない。ここで、尻込みする訳にはいかない。
 テントから持って来た懐中電灯の灯りを頼りに、麻理亜達は鍾乳洞の中へと入る。入口は低く、麻理亜や哀のすぐ頭の上まで鍾乳石が垂れ下がり、阿笠は腰を屈めて進まねばならなかった。
 血の臭いは、奥へ進むごとに強くなっていった。視界の悪さは、視界がゆっくりと回る。気持ち悪い。身体が全身全霊で、奥へ進む事を拒否していた。――近付いている。
 大して歩かない内に、天井が高くなり視界が開けた。そこは広場のようになっていて、身長ほどにも高い石筍がいくつもそびえていた。阿笠が、腰を摩りながら頭を上げる。
 広場をなめるように照らした懐中電灯の灯りの中、何かがキラリと光った。哀が近寄り、拾い上げる。麻理亜はその後ろから、覗き込んだ。
 哀の手にあるのは、子供の顔にはやや大きい黒縁の眼鏡。
「この眼鏡、工藤君のよね……?」
「じゃあ、やっぱりこの中で迷ってるんじゃ……」
「それって確か、追跡機能があったわよね? それで、あの子たちのバッジの行方を探せば……」
「この中で迷っているなら、通信は届かないでしょうね……」
 通信は届かないだろうと言いながらも、哀は犯人追跡眼鏡を掛ける。
「そんな……」
「大変じゃ。早く探しにいかんと……!」
「待って!」
 駆け出す阿笠を、哀が制した。
「何か落ちてるわよ、このそばにたくさん……」
 懐中電灯の光が、下へと向けられる。麻理亜も腕時計型ライトの灯りをつけ、辺りを照らした。
 光の中に映し出されたのは、足元に貼られた小さなシール。阿笠が、自分の足元のシールを拾い上げる。
「こ、これは、ボタン型発信器!」
「こっちにもあるみたい……」
「触らないで! 何かの形になってるみたい……」
 哀は眼鏡の横にあるダイヤルを回す。そして、呟いた。
「110番……」
「な、なんじゃと!?」
「何らかの事由によって元来た道を引き返せなくなって、奥へ進むしかなくなった……だけど奥へ進めば、探偵バッジは使えなくなる。私達が彼らを探しにここへ来ると踏んで、伝言を残したってところかしら……」
「何らかのって……」
「殺人ね……」
 壁に手をつき、しゃがみ込みながら、麻理亜が言った。
「!!まドモリ!!、麻理亜君!? 大丈夫か!?」
「平気……いつもの事だから……。この近くに、死体があるわ。ここは足場が悪いし、天井も鍾乳石が垂れ下がって低くなっている所が多い。こんな中で死体を運んだとすると、犯人は二人以上はいると考えて良いでしょうね……」
「死体って……ま、まさか……」
「あの子たちのものではないわ。哀が言ったでしょう? 伝言を残したと言う事は、彼らは自らの意思でこの場所から動いたという事……少なくとも、ここにいた時点では無事と見ていいわ」
 阿笠は慌てて携帯電話を出し、哀へと差し出した。
「哀君は麻理亜君を連れて戻って、通報してくれ。鍾乳洞を出れば、電話も繋がるじゃろう。わしは、新一君達と合流して……」
「駄目よ!」
 哀は受け取りを拒否し、鋭く言い放つ。
「分からないの? 麻理亜の言う通り、彼らが殺人現場または死体を目撃したとして、奥へ進む事になったって事は、犯人に追い立てられた可能性が高いわ……。後から追えば、工藤君達を追う犯人と鉢合わせする事になる。それに、彼らが帰って来なくなってから何時間経過していると思う? 今から彼らと同じ道を追ったところで、追いつけるとは限らない。奥が複雑に入り組んでいたりすれば、道に迷うのが落ちだわ」
 哀は眼鏡をはずし、元来た道へと向かう。
「工藤君が残した伝言の通り、警察に通報しましょう。そして、外から出口を探すのよ。今はそれだけが、犯人と鉢合わせせずに先回り出来る唯一の道だわ」


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2015/10/09