「おーい、いつまで寝てるんだよ!」
 快活な声と共にスッと空気の流れを肌に感じて、サラは目を覚ました。
 客用とは言え、到底三人は想定していないであろう部屋に詰め込まれた簡易ベッド。ベッドでほとんど部屋は覆われ、奥のベッドの者が部屋から出るにはトランクを跨ぐか手前のベッド上を横切らねばならない有様だ。窮屈な部屋の中、エリが剥いだシーツを手にサラを覗き込んでいた。
「……今、何時? ご迷惑おかけしちゃったかしら」
 窓の外の陽は高い。昨晩、サラとハリーが隠れ穴に戻って来た時には、子供達は皆もう眠った後だった。ウィーズリー夫人が用意してくれていた夕飯を食べた後、サラはエリとアリスと同じ部屋を案内され、奥で眠る二人を起こさぬようにして一番外側のベッドで眠りについた。
「ウィーズリーおばさんは全然気にしてなさそうだったよ。ほら、朝ご飯」
 そう言って、エリは自分のベッドへ退避させていた盆を差し出す。
「ハリーもさっき起こしたところ。昨日はずいぶん遅かったんだな」
 エリはなるべく軽い口調で言おうとしているようだが、その目に見え隠れする好奇心は隠し通せていなかった。
「出発が遅かったから……次の闇の魔術に対する防衛術の先生を勧誘に行っていたのよ。ハリーから聞かなかった?」
「まあ、聞いたけど……それじゃ、本当にそれだけだったの?」
「大いなる冒険に旅立ったとでも思った?」
 サラは皮肉気味に返しながら、トーストを手に取る。
 わざわざ運んでもらったものの、ここで食べて良いものかと躊躇ってしまう。盆を膝上に載せる事で妥協して、遅い朝食を撮り始めた。
「いやー……旅とまでは思わないけど、まあ……わざわざサラを引っ張って行ったぐらいだし、何かあるのかと……」
「お生憎様」
 食べながら、サラは部屋の中を見回す。部屋にいるのはサラとエリだけ。真ん中のベッドには、丸めた布団の横であぐらを掻くエリ。一番奥のベッドは空で、布団がきれいに畳まれ足元に寄せられていた。
「他の皆は? ハリーの所?」
「そ。お前達がもう着いてるって聞いて、ロンが叩き起こしに行ってさ。あたし達もついてってた。ハーマイオニーとジニーとアリスも、まだそっちいるんじゃないかな」
「珍しいわね。あなただけ私の様子を見に来るなんて。ご飯もあなたが運んでくれたの?」
「いや、それはウィーズリーおばさん。まー……その、ご飯運ばれた事だし、そろそろ起きたかなーって気になって」
 エリの返事は妙に歯切れが悪かった。
 やけに明るく話そうとしている事と言い、ハリー達の所でシリウスの話にでもなって逃げて来たと言ったところだろう。
「あ、そうだ。スーザンは無事だったよ。殺されちゃったのはやっぱり親戚の人だったみたいだけど、とりあえず親や姉妹ではないって……」
「そう」
 素っ気ない返答だが、どうせ今更エリも気にはしないだろう。エリ自身、サラがさして興味を持たないであろう事も分かっているはずだ。
 トーストを食べ終えると、着替えを済ませ、サラはハリーの所へと向かった。
 恐らく、ずっとシリウスの話をしていると言う事はないだろう。それに例えまだその話の最中だったとしても、サラはロンとハーマイオニーに話さねばならない事がある。ハリーもきっと、サラを待っている。
 ハリーは、フレッドとジョージの部屋を当てがわれていた。怪しい物品がひしめく部屋に残っているのは、ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人だけだった。
「あれ? アリスとジニーは?」
「ママに呼ばれて、台所に降りて行ったよ。アリスもついて行った」
 ロンが答える。何があったのか、ロンはぼんやりとしていて、その目はサラとエリの肩越しに誰かを探しているようだった。
「あー……」
 エリが察したように苦笑する。
「んじゃ、あたしもそっち行くかな。フラーもあの中じゃ大変そうだし」
「フラー?」
「アー……ビルと、結婚するらしいよ」
 ハリーが、ハーマイオニーの顔色を伺いながら短く言った。とにかく余計な事は言うまいと気にしているようだった。
「へぇ」
 そう言えば去年、ビルの職場にフラーが勤め始めたとか言っていたか。
 おめでとう……と言うにも、この場に本人はどちらもいない。サラにとっては親友の兄の吉報以上でも以下でもない話だったが、どうやらハーマイオニーにとってはそうでもない様子だった。
「エリ、あなた、よく彼女の肩を持てるわね。あなたに対しても、あんなに馬鹿にした態度を取ってくるのに」
「んー、まあ、あたしが馬鹿なのは事実だし。サラと一緒にいると、あれぐらい慣れっこだよ」
「どういう意味?」
「それに、まあ、ちょっと同情するって言うか……重ねちゃうのかな」
 サラの質問は無視して、エリは続ける。
「やっぱ、周りから反対されるってのは、つらいよ」
 ハーマイオニーは少しショックを受けたような表情だった。
「私は何も、二人の結婚に反対している訳じゃないわ。当人同士が決める事だし、ただ、彼女と一緒にいるとちょっと引っかかる事が多いのと――」
 ハーマイオニーは、未だ夢見心地な視線を部屋の外に向けているロンをジロリと睨む。
「彼女と会う度にみっともなくなる誰かさんに呆れているだけ」
 なるほど。サラが不在の間、隠れ穴で何が起こっていたのかだいたい理解した。これはハリーも、腫れ物に触るような扱いをする訳だ。

 エリが下の階へと降りて行き、部屋にはハリー、ロン、ハーマイオニー、サラの四人だけになった。声が台所の方からのみ聞こえるのを確認し、サラは扉をしめ、三人へと向き直る。ハリーはまだ朝食を食べている最中で、ロンは隣でハリーのトーストをつまみ、ハーマイオニーは双子が部屋に残して行った怪しげな物品を眺めていた。
「それで、ハリー? ……昨日の事って、どこまで話したの?」
 ダンブルドアに言い諭されてもやはりまだ気が乗らなかったが、避けられる話題ではない。ならば、手早く済ませてしまいたかった。
 サラの問いに、ロンとハーマイオニーがハッと息をのむのが分かった。
 ハリーはフォークとナイフを置き、顔を上げる。
「……新しい先生の事だけ。サラが来てからの方がいいと思ったから」
「それじゃ、それだけじゃなかったのね? 昨日、ダンブルドア先生は他にも話をされたのね?」
「昨日……と言うより、主題はあの魔法省での戦いの後、校長室で聞いたのだけど。でも、私もハリーも、他言無用な話だと思っていたから」
 サラはハリーをちらりと見る。ハリーはうなずいた。
「うん、僕も。だけどダンブルドアは、君達には話しても良い――話した方が良いだろうって。あの日、校長室で僕らは予言を聞いたんだ」
「でも、あの……予言って、割れたはずよ。神秘部の戦いで、砕けて……誰も聞く事なんてできなかったわ」
「予言は、ダンブルドアに対して告げられていたものだったのよ。だから私たちは、先生から予言の中身を聞く事ができた。あなた達も、『日刊予言者新聞』は読んでいるでしょう? 書かれていた事と、だいたい同じ」
「そんな……それって……」
 ハーマイオニーの声は震えていた。
 ロンももうぼんやりとはしておらず、驚いた表情でハリーとサラを見つめていた。
 ハリーが神妙な面持ちでうなずく。
「そうなんだ。予言によれば、ヴォルデモートに止めを刺さなければならないのは、この僕らしい……二人のどちらかが生きている限り、もう一人は生き残れない」
「そして私は、『彼らの行く末の柱となりし者』――そう、告げられたそうよ」





No.4





「あら、起きたのね、サラ。おはよう。ハリーは?」
 階下へ降りていくと、ハーマイオニーは食卓のそばで腰掛け、ウィーズリー夫人がハーマイオニーの目の周りにできた痣を手当てしていた。ハリーとサラの話に驚いた拍子に、手に持っていた悪戯グッズを握り締めてしまったのだ。
 ハーマイオニーにかかりきりのウィーズリー夫人の代わりに、アリスがサラの盆を受け取った。
「上で着替えてるわ。すぐに降りて来るんじゃないかしら。ふくろうは来た? 今日、試験の結果が届くみたいなんだけど」
「ハーマイオニーと同じ事を聞くのね。まだ来てないみたい。心配しなくても、サラもハーマイオニーも全部合格点なんじゃない?」
 サラは答えず、空いている席に座った。そこからは、正面の窓の向こうに広がる空がよく見えた。
 ロンとハーマイオニーの反応は、想像していたものとそうかけ離れたものではなかった。二人とも、驚きはしたものの、ハリーやサラを恐れたりはせず、慰め励ましてくれた。
「ハーマイオニー、大丈夫? 落ちそう? 痣? 変色? 私の魔法薬も、いくつか試してみる?」
「そうね、お願い」
 アリスはうなずいて、階段を上がって行く。
 ハリーとロンが降りて来て少しして、それは訪れた。
 空に浮かぶ五つの点。ハーマイオニーも目敏く気付き、悲鳴を上げた。
「ああ、駄目……駄目……だめ……」
「いよいよか」
 ハーマイオニーの叫び声で、台所から出て来たエリが窓へと駆け寄る。ふくろうはもう、その種別がわかる程に近づいていた。
 ウィーズリー夫人が立ち上がり、エリを押しのけて窓を開ける。五羽のふくろうが順番に窓から飛び込み、テーブルの上に一列に並んで止まった。一斉に挙げられた右足には、四角い封筒が結え付けられていた。
 エリが一番に、ふくろうへと手を伸ばす。外した封筒を見て、サラを振り返った。
「これ、サラのだ」
「ちょっと。勝手に開けないでよ」
「開けてないよ。ほら」
 サラは、エリから封筒を受け取る。
 実際のところ、成績――それも正当を答えるだけの筆記試験については、あまり心配していない。
 問題は、実技だ。どのような評価基準なのか。いくつかのミスがあった。それが、評価にどれだけの影響を及ぼしてしまうのか。
 そして、何より魔法薬学。
 スネイプは、「O」を取った生徒にしか、いもり学年の授業を教えない。スネイプが教室内にいない試験では、いつもより上手く調合できたとは思うが、Oを取れたかと言うと自信がなかった。
「あった。あたしの、これだ」
 エリは自分の名前を見つけ、封を切る。ハリーも、ロンも、既に封を切っていた。ハーマイオニーは震える手で上手く封筒をふくろうの足から外す事ができず、ウィーズリー夫人が手伝ってやっていた。
 サラは深く深呼吸をすると、封を切った。中に入っているのは、一枚の羊皮紙。広げる手は、ハーマイオニーと同じように震えていた。

『普通魔法レベル成績
【合格】
優・O(大いによろしい)
良・E(期待以上)
可・A(まあまあ)
【不合格】
不可・P(良くない)
落第・D(どん底)
トロール並・T
サラ・シャノンは次の成績を修めた。
天文学 O
薬草学 O
魔法生物飼育学 O
魔法史 O
呪文学 O
魔法薬学 E
闇の魔術に対する防衛術 O
変身術 O
古代ルーン語 O
占い学 O』

 ――魔法薬学、E。

 視界がチカチカと明滅するような気がした。
 駄目だった。
 魔法薬学を落とした。Oを取れなかった。いもりの授業を受ける事ができない。
 闇祓いになるには、いもり試験で魔法薬学を取得する必要があるのに。
 Oを取らなくては、今後の授業を受ける事ができないのに。
 落とした。
 落ちた。
 駄目だった。

 ――もう、おばあちゃんの後を追う事はできない。

 くしゃり、とサラの手元で音がした。いつの間にか力を入れ過ぎた手は、羊皮紙を曲げてしまっていた。
「サラ、どうした? そんなに酷かったのか? ――うっわ、すご! Oだらけじゃん」
 横から覗き込んだエリが、声を上げる。
 ロンが呆れたように言った。
「サラもハーマイオニーも、もうちょっと肩の力抜けよ。がっかりするような成績じゃないだろ。試験の話はこれで終わり! さあ、我々は今や、いもり学生だ!」
「あ、やった!」
 サラの成績表を見ていたエリが、弾んだ声を上げた。
「魔法薬学は勝ったな! 見て見て、ほら、あたし、O! あたしとハーマイオニーだけだぜ、魔法薬でO取ったの――」
 もう耐えられなかった。
 サラはその場から逃げるように駆け出した。エリの呼び止める声が聞こえたが、構わなかった。
「わっ。サラ!? どうし――」
 ちょうど降りて来たアリスが驚いた声を上げる。サラはその横をすり抜けると、階段を駆け上がり、借りている部屋へと飛び込み、強く扉を閉めた。
「う……うぅ……」
 じわじわと涙が溢れ出て、嗚咽が漏れる。
 ずっと、ずっと心に決めていて、疑う事のなかった道。魔法界を知ってから、祖母が何者であったかを知ってから、ずっと。
 その道が、今、断たれてしまった。
 一般的には、良い成績だろう。高望みし過ぎだと、そう言うだろう。ロンも、エリも、全体的に高得点であると、そこしか見ていない。彼らにとっては、いくつ合格点を取っただとか、誰より上だったとか、下だったとか、ただの力試しの意味しか持たない。
 魔法薬学が、Eだった。そこに含まれる重い意味を、誰も理解はしてくれない。
 ――ハリーは、どうだったのだろう。
 同じ進路を目指している親友の顔が、脳裏に浮かぶ。ハリーも確か、闇祓いを目指していた。魔法薬学を取らねばならない、そして得意科目と言う訳ではないと言う点では、ハリーも同じ条件だ。
 ハリーがショックを受けていたのか、喜んでいたのか、サラは見ていなかった。――だが、今、聞きたくはなかった。
 もし、ハリーは闇祓いへの道を進み続ける事ができるとしたら、サラは耐えられないだろう。
 サラだけが取り残されるなんて。ハリーだけが、望んだ道に進めるなんて。ただ、授業条件の厳しい魔法薬学で満たなかっただけで、総合的にはきっとサラの方が良いだろうに。
 ハリーも落ちていれば良いのに。僅かにそんな風に思う自分自身の気持ちに気付いて、嫌悪する。彼が落ちたからって、サラが魔法薬学の授業を受けれるようになる訳ではない。頭では、分かっているのに。
(ハリーはいつから、闇祓いを目指していたの? ずっとそのつもりだったの? 本気で目指しているの? 試験期間だって、週末に入るからって遊ぼうとしていたくらいなのに)
 分かっているのに、沸々と嫌な感情が沸いて来る。これは、妬みだ。分かっている。十分に分かっている。それでも、渦巻く感情を止めることはできなかった。
 彼は合格したと決まった訳でもないのに。
『おばあさんにそっくりだ』
 最初にそう言ったのは、誰だったか。
 予見の力を持つ、闇祓い。かつてその才能を発揮し、活躍していた祖母をなぞるように、サラもそうなるのだと、そう当たり前のように思っていた。
 闇祓いになれないのならば、サラは、いったい何を目指せば良いのだろう。





 ずっと引きこもって泣いている訳にもいかない。ふくろう試験の結果が届いてから数週間、サラはロンやエリの冗談に笑いもしたし、果樹園での簡易クィディッチにも参加したが、心はどこか空虚なままだった。ずっと目指していた夢が潰えた絶望感は拭きれず、ハリーの試験結果も聞き出せずにいた。
 祝いの場となるはずのハリーの誕生日には、ルーピンが暗い報せを携えて来た。イゴール・カルカロフの死体が見つかった。ダイアゴン横丁のアイスクリーム屋の店主が拉致された。オリバンダーも行方不明で、拉致された可能性が濃厚。
 サラは眉根を寄せる。オリバンダーの杖作りの技能がヴォルデモートや死喰人にとっても有益だろう事は、想像に難くない。アイスクリーム屋の店主は、どうなのだろう。何故、さらわれた? ハリーに友好的だったから? ただそれだけならば、わざわざ生かしておく理由などない。もしかしたら、今頃――
 思い至った想像は、しかし口にはしなかった。言ったところで彼が助かる見込みが上がる訳ではない。何かの手がかりになる訳でもない、魔法省も想定しているだろう話。これ以上嫌な報せを、彼と交流のあったハリーにわざわざ聞かせたくはなかった。
 ハリーの誕生日の翌日、いつもの教科書リストが隠れ穴に届いた。ハリーの手紙には教科書リストの他、去年エリに届いたのと同じバッジが同封されていた。
「これで、あなたは監督生と同じ待遇よ!」
 ハーマイオニーが嬉しそうに言った。それから、ハッとサラの方を見る。
「キャプテンも男女一人ずつとか、あるいは他にもそういう役職があれば良かったのだけど……」
「私の事なら気にしないで。別に、バスルームにもリーダーの役割にもそんなに興味はないから。これから授業はもっと難しくなるんだもの。何も無い分、学生の本分に打ち込めるってものよ」
 ――それに、サラにはアニメーガスになると言う、やらなければならない事がある。一人の時間が増えるなら、好都合だ。
「ハリーもキャプテンか。それで? 新キャプテンさん、今年のクィディッチメンバーは?」
 エリがニヤリと笑って尋ねる。ハリーの肩に腕を回すエリを、ロンが同じように笑いながら引き剥がした。
「おいおい、スパイ行為は禁止だぜ」
「さあ、これが届いたからには、ダイアゴン横丁行きをあまり先延ばしにはできないわね。土曜に出かけましょう。お父様がお出かけになる必要がなければだけど。お父様無しでは、私はあそこへ行きませんよ」
「あの」
 渋面で話すウィーズリー夫人に、アリスが恐々と声をかけた。
「今、あまり外には出ない方が良いんですよね? ハリーとサラもいる事だし……そしたら、ホグワーツ特急の日の朝に、って訳にはいかないですか? そしたら、ロンドンに行くのもまとめて一日だけに……」
「アリス、正気か?」
 意を唱えたのはロンだった。
「夏休み中ずっと家に閉じこもってるなんて、気が狂っちゃうよ! アリスもママも、『例のあの人』がフローリシュ・アンド・ブロッツ書店の本棚の陰に隠れてるなんて、マジでそう思ってるの?」
 ロンが茶化しを入れる。ウィーズリー夫人の目がキッと釣り上がった。
「フォーテスキューもオリバンダーも休暇で出かけていた訳ではないでしょう。安全措置なんて笑止千万だと思うんでしたら、ここに残りなさい。私があなたの買い物を――」
「駄目だよ。僕、行きたい。フレッドとジョージの店が見たいよ!」
「それなら、言動に気を付けることね。一緒に連れて行くには幼過ぎるって私に思われないように!
 それに、ええ、新学期の朝にそんな時間は無いでしょうね。万一にも遅れてしまったら大変だし……そもそも、朝早い時間じゃ、お店が開いているかどうか……」
 ウィーズリー夫人はアリスの提案に答え、それから再びロンを睨んだ。
「新学期についても、同じ事ですからね!」

 ダイアゴン横丁へは、魔法省の送迎車が用意されていた。漏れ鍋の前ではハグリッドが待っていて、彼がハリーとサラのために用意された「追加の護衛」だった。
 ハグリッドに連れられて初めて訪れた時のキラキラしたダイアゴン横丁は、もうそこには無かった。店の多くが閉じられ、窓に板を打ちつけている建物も少なくない。そこかしこに魔法省のポスターが貼られ、逃亡中の死喰人への警戒が呼び掛けられている。人通り自体が少なく、まるで寂れた商店街のよう。だが、従来の店とは別にそこかしこに屋台が出現していた。屋台と言っても日本のお祭りや神社で見かける物とは違って、椅子と机だけの小さなものだ。印象としては、大きな駅のある街で見かた事のある怪しい路上販売の方が近い。実際、売っている物も有効性の疑わしい護符だの呪い避けのアクセサリーだのと言った代物だった。
「マダム・マルキンのお店に最初に行った方が良いわ。ハーマイオニーは新しいドレスローブを買いたいし、ロンは学校用のローブから踝が丸見えですもの。それに、ハリー、あなたも新しいのがいるわね。とっても背が伸びたわ――サラも、去年と比べると背が伸びたかしら――」
 ウィーズリー夫人の言う通り、この一年でサラの背は一気に伸びていた。男の子のハリーやロンには到底及ばないが、今はアリスと同じくらいだ。遥かに低かった去年のローブでは、丈が短い事だろう。
「モリー、全員がマダム・マルキンの店に行くのはあまり意味がない。四人はハグリッドと一緒に行って、我々はフローリシュ・アンド・ブロッツで皆の教科書を買ってはどうかね?」
「さあ、どうかしら」
 ウィーズリー夫人は、早く買い物を済ませるか、全員で固まって移動するか、で迷っている様子だった。
「あの、ごめんなさい。私、薬問屋にも行きたくて……」
「またかよ? ホグワーツから帰って来た時にも行ったろ?」
 アリスの申し出に、エリが目を瞬く。
「足りない材料があったの。それに、この前行った時には在庫がなくて、取り寄せを頼んだ物もあるから……。えっと、買い物の最後でいいので。
 薬問屋の後、郵便局にも行きたいんですけど、良いですか? ちょっと荷物が多くなるから、できれば先にホグワーツへ送ってしまいたくて……」
 ウィーズリー夫人は難しい顔をしていた。アリスは肩を竦めて縮こまる。
「ごめんなさい」
 消え入りそうな声でアリスは呟いた。
「モリー、気ぃもむな。そう言う話なら、そっちは先に別の買い物を済ませた方が良いだろう。こいつらは俺と一緒で大丈夫だ」
 ウィーズリー夫人は渋々ながらも二手に分かれる事を了承し、夫とジニー、エリ、アリスと共にフローリシュ・アンド・ブロッツ書店へと走って行った。
 サラはハリー、ロン、ハーマイオニー、ハグリッドと共に、マダム・マルキンの洋装店へ向かった。
 店は、ハグリッドには少し小さ過ぎる。ハグリッドは店の外の見張りに残し、四人は店内へと入った。そしてそこで、まだ新学期までは顔を見る事など無いと思っていた人物と遭遇するのだった。
「お気づきでしょうが、母上、もう子供じゃないんだ。僕はちゃんと一人で買い物できます」
 サラは息をのみ、入口から入ってすぐの所で立ち尽くす。
 ローブ掛けの後ろから、プラチナブロンドの青年が出て来る。鏡の前まで歩いて行き、裾や袖口にピンを光らせた自分の姿を確認する。
 青灰色の瞳が、鏡越しにサラを捉えた。
 重苦しい沈黙が流れる。サラの手が、首元に上がる。だがもう、そこにネックレスは無い。
 サラはきゅっと下唇を噛む。……未だに、握ろうとしてしまうなんて。すっかり、癖として身についてしまっていた。
 行き場のなくなった手を少し下げ、そっと上着越しに内ポケットに差し込んだシリウスの杖に触れる。
 祖母の仇。
 父親の仇。
 忘れてはならない。忘れるものか。サラは、鏡越しに視線を受け止め、見つめ返す。

 ――ドラコ・マルフォイ。
 サラから、家族を奪っていった一家。


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2020/10/25