男は、仲間を仰ぎ見た。
 目の前で、自分達のボスの下へ連れて行けと豪語する少女。調べたところ、履歴書も戸籍も偽造されたものだった。何一つ、素性の分からない少女。何処に住んでいるかも分からなければ、年齢さえ不明だ。当然、そのような者を「あの方」の下へ連れて行く訳にはいかない。
 男の仲間は、懐から拳銃を取り出した。それを目の前の少女に向ける。
「馬鹿な女だ。いつもと同じように、コソコソ逃げてしまえば良いものを。――お前の素性を明かしてもらおう」
「あら。私の言った言葉が聞こえなかったのかしら?」
 銃声が響いた。
 時が止まった。
 少女は動かなかった。確実に、銃弾は彼女の急所を突き抜けた。命がある筈が無い。
 男がふっと溜め息を吐いた、一瞬の事だった。
 声を出す間さえ与えず、少女は仲間の背後へと周り、何処からとも無く現れた剣を仲間の喉下へと押し当てていた。仲間の銃を見れば、先が切断されている。
「悪いわね。私に害を与えられる凶器は、決まってるのよ。マグルの武器ごときじゃ、この身体には傷一つ付ける事も出来ないわ」
 男に残された選択は、一つしかなかった。
 圧倒的に自分達が不利だ。そうとなれば、徹底的に証拠を消さねばならない。彼女の思う通りにする訳にはいかない。
 男は、自らの拳銃を取り出した。それを自身の頭に当てる。
 これが、自分の選んだ道なのだ。この道を選んだ以上、天寿を全うする事は出来ないと分かっていた。いつか、任務によって死ぬのだと。

 引き金を引いた。

 しかし、拳銃の先から出てきたのは黒く冷たい弾丸ではなかった。
 白く美しい花。
 目の前では、白く輝く銀髪の少女が、男を睨みつけていた。剣を持つのと逆の手には、細い棒切れのような物を持っている。
「死への逃走さえも許さないわ」
 男は、ガックリとその場に膝を着いた。
 それは、少女ごときに敵わなかったという絶望からか、死なずに済んだという一時の安堵からか。





No.5





 麻理亜が連れて行かれたのは、ボスの下ではなかった。彼らの幹部に当たる男の下だった。
 男は冷たい眼差しを、麻理亜を連れてきた男二人に向けた。
「この娘が例の女か。宮野明美の友人。素性を徹底的に隠している……。こんなアマに、ここまで侵入されるとはな?」
「ジンはあの場にいなかったからな。この女、甘く見ない方がいいぜ」
 男の一人は、吐き捨てるように言った。
 ジンと呼ばれた男は、その冷たい目を麻理亜へ向ける。
「甘く見ていたのは、お前達じゃないか? こいつの調査は、俺自ら関わっていた方が良かったようだな……」
 麻理亜は隙無くジン達の様子を伺っている。その構えからも眼差しからも、彼女が人殺しに慣れている事は想像に難くなかった。
 男の片方の顔から、サッと血の気が失せた。
 ジンの拳銃が、目の前に突きつけられている。
「我々の足を引っ張る無能な輩は、切り捨てるまでだ」
「待って」
 声を上げたのは、麻理亜だった。
「彼を殺さないで」
「敵対する者に対して、憐れむのか」
 ジンはそう言って鼻で笑った。男は麻理亜をキッと睨む。
「お前に同情されるなど、虫唾が走る。口出しをするな」
「別に……ただ、この場合、彼を殺すんじゃなくって、己の誤った判断に責任があるんじゃないかと思っただけよ。今自分で言った言葉と、随分な矛盾が生じるでしょう?」
 ジンは臆する事無く見据える麻理亜と目を合わせた。
「紫埜麻理亜と言ったか……。あの方に会おうとした目的は何だ? 一思いに殺そうとでも考えたか?」
「まさか。そんなの、無理に決まってるじゃない。それとも、貴方達の『あの方』ってのは、そんなに弱々しく、守りの弱い者なの? 二人だけなら何とかなったけど、いくら何でも大多数を相手に勝てるなんて思い上がったりしないわ」
 そう、分かっている。明美と知り合い、知った。
 敵は多い。それは、組織立って活動する程に。

「……私を、貴方達の組織に入れなさい」

 だから、考えたのだ。
 大きく強固な黒い壁に正面から立ち向かい、穴を開けるのは不可能だ。いとも容易く跳ね返され、押しつぶされるのが目に見えている。
 ならば、自分自身も壁を支える一人になれば良い。
 壁の向こう側へと回り、他の者達と共に壁を支える。自分に多量の重みが任せられれば、手を引く。壁はその部分から崩壊する。周りで支える仲間の邪魔をする。壁の崩壊へと繋がる。
 上手くいけば、壁の内側に守られた、最高位で指揮を取る者に接触を図れるかもしれない。

 麻理亜は咄嗟に剣を出した。
 キィンと音を立て、兆弾する。
 ジンはピタリと拳銃を麻理亜に向けていた。麻理亜はジンを睨み据え、剣を構える。
 フッとジンの口元に笑みがこぼれた。
「いいだろう。能力に不足は無いようだ」





 麻理亜は当然、信用されなかった。「あの方」のお気に入りという訳でもないから、権力によって守られる事も無い。
 麻理亜は組織に恨みがある。
 それは、周知の事実だったのだ。
 組織も麻理亜の存在が疎ましかった。麻理亜の腹の内は見え透かれていた。ただ、排除するには勿体無い人材である事は確かだ。出来る限りの範囲で利用しようと決めた。だからこそ、麻理亜を組織に受け入れた。
 組織内でも、麻理亜の命を狙う者は後を絶えなかった。彼らは殺人のプロだ。麻理亜も戦闘経験はあるとは言え、自分は率いられる側だった。ただ剣や杖を振り回せば良い戦いだった。このような能力戦は、経験に無い。迂闊にも撃たれる事、刺される事もあった。
 しかし、麻理亜が息絶える事は無かった。
 出血さえしない。刃物や弾丸が、麻理亜の身体を突き通さないのだ。毒も、如何いう訳か何の効力も示さなかった。
 組織の中でさえも、恐れる者がいた。麻理亜は得体が知れない。
 加えて、麻理亜は生きてゆく事に必死だった。殺されぬように。それには、剣だけでは自身を守りきれなかった。魔法を使う事も多々あった。やがて、組織内で、マグルの面前で魔法を使う事に頓着しなくなった。
 やがて、麻理亜はコードネームを与えられた。

 ストレガ――それは、イタリア語で魔女を意味する酒の名である。





 暗闇の中、麻理亜は目を覚まし、同時にパッとベッドから飛び降りた。
 闇の中に浮かび上がる人影。ベッドの向こうに立つその者は、先ほどまで麻理亜の胸があった所にナイフを突き立てていた。
 麻理亜は、暗殺を企む者がまだいる事に驚愕した。今ではもう、誰も麻理亜の暗殺を考えはしなかった。麻理亜の化け物のような頑丈さは次々と証明され、やがて人々は遠巻きに睨み、悪態をつくだけになっていった。
 影を見る限り、犯人は女性のようだ。
 標的が起きてしまったというのに、彼女は逃げ出すどころか、更に麻理亜に襲い来る。麻理亜は軽い身のこなしでひらりと切っ先を避け、彼女の背後に回りこんだ。彼女の腕を取り、捻りあげる。ナイフは落ちた。そのまま押さえつけ、空いた手でベッドの頭の所にある電気のスイッチを探った。
 明かりがつき、麻理亜は息を呑んだ。同時に、組織の者にしては易々と形勢逆転出来た事に納得した。
 赤みがかった茶髪のボブショート。麻理亜を睨み付ける青い瞳。それは、明美の妹、宮野志保に違いなかった。彼女の担当は薬の研究だ。当然、例え刃物や拳銃を使えても、殺しを担当する者には劣る。
「志保……!?」
「貴女にその名前を呼び捨てにされる覚えはないわ」
 志保の冷ややかな声に、麻理亜は言葉を詰まらせ唇を噛んだ。
 自分は明美を守りきる事が出来なかったのだ。内側から崩壊すべく組織に侵入したが、近頃麻理亜は調子が悪かった。言いつけられた仕事をするので精一杯で、崩壊など不可能のような気がしてきていた。結局、黒く染まっただけで何も出来ていない。
 麻理亜は志保を解放する。ナイフは床に転がったままだが、志保は拾おうとしなかった。
 麻理亜は小さな台所へと向かう。
 当然、もう紅子の所には住んでいなかった。元の世界へ戻る方法が見つかった旨と今までの感謝を述べた書置きをして家を出た以来、紅子には全く会っていない。
 もう、会うつもりも無かった。組織に属する内の小物は、麻理亜の力を恐れている。だが、その力は組織には大いに役立った。「姿現し」があれば、完全犯罪など訳もない。魔法があれば、考えるまでも無く証拠を残さずに済む。紅子も同じく魔女だと組織が知れば、巻き込む事は必至だ。
「コーヒーでいい?」
「……殺しに来た相手を、親しい友人のように出迎えるって言うの? 飛んだお人好しね。それとも、ミルクの代わりに毒が入ってるのかしら」
 麻理亜は苦笑し、台所へ入る。

 麻理亜がコーヒーの入ったカップを二つ手に持って戻って来た時、志保はベッドの傍らに油断無く立っていた。
 麻理亜は机にカップを置くが、志保はこちらへ寄ろうとしない。麻理亜は溜め息を吐き、カップを机に置いたままそこから離れた。
「毒なんて入ってないわよ。ほら、好きな方を選んでいいから。もちろん、貴女が飲む前に私がその残りのカップに口をつけるわ」

「『十億円強奪犯自殺』……」

 志保の呟いた言葉に、麻理亜はハッと目を向ける。
 志保は皮肉な笑みを浮かべていた。
「この事件の真相……貴女は当然、知ってるわよね?」
 麻理亜は目を逸らした。
 気づいていなかったのに、自分は何も出来なかった。麻理亜が開心術さえ使えば、何とかなったかもしれないのだ。否、若しかしたら駄目だったかもしれない。何せ、こんなに大きな組織なのだから。単なる麻理亜の自己満足で終わったかもしれない。
 だが、そんな可能性などこの際問題ではない。何もしなかった事が問題なのだ。
「この……人殺し!!」
 志保は唐突に声を荒げた。
 こんな組織に属していながら、今更だとは理解していた。だが、それでも許せなかった。
 姉は、麻理亜を親友だと言っていた。信頼していたのだ。なのに。
「裏切り者! どうしてお姉ちゃんは殺されなきゃいけなかったのよ!! お姉ちゃんはちゃんと責務を果たしたのに!
お姉ちゃんは貴女を信じてた。なのに……なのに、貴女はそれを陰で嘲笑って、ジン達と共にお姉ちゃんを殺す計画を練っていたんだわ!!」
 麻理亜は、何かがおかしい事に気がついた。
 志保は何か勘違いしている。
「どうしてよ……! どうして、お姉ちゃんばかりが裏切られなきゃいけないの……? お姉ちゃんが何をしたって言うのよ……!!」
「志保」
「だから、その名前を呼び捨てにしないで!!」
 志保はキッと麻理亜を睨んだ。
 麻理亜はただ、首を振る。
「違うわ」
「何が違うって言うの? お姉ちゃんは殺された!! 貴女は知っていたくせに、何もしなかったんだわ!」
「それは……そうだけど」
「言い訳するの? 貴女はお姉ちゃんを殺したんでしょう!! 一般人のふりをして近付いて、お姉ちゃんを監視していたんだわ!!」
「違う!!」
 麻理亜はドンと拳で机を叩いた。カップがカチャカチャと音を立てて揺れ、コーヒーが跳ねた。
「違うわ……。私は、確かに明美を見殺しにしてしまった。気づいていたのに、何もしなかった。それは認めるわ。
でも、明美を裏切ってなんかいない! 明美を騙したのなんて、年齢ぐらいよ。私が組織の者になったのは、明美が殺された後だわ……」
 しんとその場が静まり返った。
 志保は驚きに目を見開いた。
「嘘……」
「嘘じゃないわ。私が組織に入ったのは……」
 麻理亜は窓まで歩いていき、鍵が掛かっている事を確認し、念入りにカーテンを閉めた。
 そして、囁く程の声で言った。
「明美の仇を取る為。内側から崩す為よ」

 麻理亜が言った途端、志保はへなへなとその場に崩れ落ちた。
「志保!?」
 麻理亜はそう叫んで駆け寄ったが、志保はもう、麻理亜が呼び捨てにする事を拒否しなかった。
「志保……志保、大丈夫?」
「良かった……」
 志保の声は震えていた。
 彼女の頬を、雫が伝う。
「それじゃあ……お姉ちゃんは、最後まで裏切られていた訳じゃなかったのよね……? 貴女は、本当にお姉ちゃんを親友だと思っていたのよね……?」
「ええ……」
 志保は「良かった」と繰り返す。
 姉は最後まで裏切られて死んだのだと思っていた。だが、それは違ったのだ。麻理亜は確かに明美の親友だったし、騙してなどいなかった。
 麻理亜はそっと志保の背を撫でた。
 志保がどれほどに姉を想っていたのか痛恨した。自分は未だ組織の者だし、姉は殺されてしまった。だが、志保は姉が生きていた間の事さえも未だ気にしていたのだ。

 麻理亜が、心に決めた夜だった。
 明美の妹である、宮野志保。彼女は必ず守りきろう、と。





「え……? そんな」
 麻理亜は絶句した。
 ジンは容赦無く続ける。
「当然、お前に拒否権は無い。明日からだ。明日の昼には、大阪へ飛んでもらう」
「……OK。従うわ。でも、どうして」
 麻理亜が言い渡されたのは、任務の異動だった。
 組織を抜け出した者が、大阪にいるという情報が入った。彼を監視するという仕事だ。
 相手は逃走犯と言えども、組織の末端。放っておいても問題無いほどの相手である。
 それは、明らかに麻理亜を組織から遠ざける事を意味していた。
 元々、麻理亜は疑われていた。仕事内容は大きな物を任されたが、必ず監視が付き、重要な情報は耳に入らなかった。組織内の情報が必要となる仕事は、決して任されなかった。だから、この機に麻理亜が逃げ出したとしても、彼らにとって問題となる事は無い。
 麻理亜の作戦は、失敗という形での終わりを告げたのだ。
「お前はこの仕事には向いていない。ただ、それだけだ」
 麻理亜は唇を噛んだ。
 それでも、組織から外される事は無かった。尤も、その場合は死という結末だろうが。そうで無かっただけでも、良しとするしかない。
 もう確実に、組織崩壊は不可能となる。別の手段を探すしかない。少なくとも、一人では不可能だ。
 だが、組織にいる限り、志保を守り続ける事は出来る。繋がりが絶たれる訳ではない。組織との連絡は欠かさずするのだから。何かあった場合、それは耳に入ってくるだろう。
「そう……それじゃ、今夜にも荷物を纏めておくわ」





 志保は、薄暗がりの中に佇んでいた。
 陽はとうに落ち、光源は目の前の机に備え付けられたパソコンの画面のみだ。長い時間触れていなかった為、そのパソコンの画面さえもスタンバイの状態に切り替わった。
 麻理亜の部屋へ行き、彼女は姉の死と何ら関わりが無かった事を知った。本来ならば、彼女に何故姉が殺されたのかを尋ねるつもりだった。だが関わりがなかったのだから、当然知る筈も無い。
 昨日も今日も、この一週間、研究所を尋ねたジンを問い詰めた。だが、求めた答えは何も得られなかった。
 他の者達に聞いても、誰も教えてくれる者はいない。
 志保は、キッと視線を上げた。回答を得られないのならば、強行手段だ。

 ――正式な回答を得られるまで、薬の研究を中止する。





 麻理亜が捜索・監視を任された人物の名は、沼淵己一郎といった。薄い眉に窪んだ瞳、頬はこけ、鼻は上を向いた、まるで頭蓋骨に皮膚を貼り付けただけのような顔立ち――それが、組織から渡された彼の顔写真の特徴だった。

 組織の仕事をカモフラージュするべく、表の立場を与えられた。
 麻理亜が与えられた立場は、高校生。
 改方学園二年生だ。


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2007/08/15