朝の町を、慌てて駆けて行く二つの人影があった。
風向きの為か、まだ姿の見えぬ目的地から、ホームルーム開始が五分前に迫っている事を知らせる音が聞こえてくる。
「あかん、チャイム鳴ってしもた! もーっ、何で今日に限って平次も寝坊するん!?」
「じゃかあしい! 俺かて昨日は事件の捜査しとって疲れとったんや。今日は朝練も無い日やし……」
ふと、平次は立ち止まった。
数メートル先で和葉は立ち止まり、彼を振り返る。
「何やっとんの!? 早よ行かんと、遅刻するで!」
平次は答えず、じっと横の塀を見つめている。
かと思うと、軽く跳んでやや高い所にある出っ張りに掴まる。そしてそのまま、塀の上まで登ってしまった。
「平次!?」
「門はこの反対側や。そっちから行きよったら、どっちにしてもアウトやで。和葉も来ィ」
「見つかっても知らんよ……」
そう言いながらも、和葉は戻って来て平次の伸ばす腕に掴まる。
「高いから気ィ付け」
「……」
平次の手を借りて塀の上まで登りきり、和葉はその高さに尻込みする。
と、隣にいた平次の動きに気付き、和葉は慌てて彼の腕を掴んで引き止めた。平次はバランスを崩すも、何とか落ちずに留まる。
「何さらすんじゃボケ! 危ないやろ!!」
「先に降りんといて!」
「何ゆうとんねん? 俺が先に降りんと、和葉はどうやって降りる気ィや。俺が受け止めんでも降りれるっちゅうんやったら、構わんけど……」
「こんな高さ、一人で飛び降りれる訳ないやん!」
「せやったら、どないせいゆうん!?」
「と、兎に角、あたしより下言ったらあかん」
「何、訳の分からん事を……」
「だって、あたし今、制服やで」
そこまで言っても、平次は和葉が何を言っているのか分かっていないらしい。ただきょとんとしている。
これで、よく探偵が務まるものだとさえ思ってしまう。
「スカート履いとるんやで」
「そら、女子の制服やからなぁ」
「……その、平次が下行ったら……見えてまうやん」
ようやく分かったらしい。
しかし、平次の回答は相変わらずだった。
「そんなん気にせんでも、小っさい頃から一緒に風呂入ったりしとるやんけ。今更、パンツぐらい気にする事も無いやろ」
「ド阿呆! せやったら平次は、今でもまだ一緒に風呂入れるゆうん!?」
「そっ、それとこれとは話が別やろ!」
「一緒や! あたしより先に降りよったら、許さへん!」
「阿呆な事ゆうてたら、ここから動けんで!」
そう言って、平次は降りようとする。
しかし、和葉も手を離さない。和葉が離さない限り、危なくて降りる事など出来はしない。
「手ェ放さんかい!」
「絶っっ対に、嫌や!」
「ここから降りれんかったら、どないするっちゅーねん!?」
「他に方法無いん?」
「あらへんから、降りようとしとるんやん!」
「何も考えんで登ったん!?」
「俺が考えとった方法を、お前が否定しとるんやろ!?」
「そんなん、当たりま――」
ぐらりと、和葉の身体が大きく傾いた。
「っ和――」
平次は慌てて手を伸ばしたが、その手は空しく空を掻く。
悲鳴を上げる間も無かった。和葉は体勢を崩したまま、後ろ向きに地面へと落下する。
衝撃は、小さかった。
恐る恐る目を開けると、和葉は人の腕に抱えられていた。茶と言うよりも橙に近い瞳の色をした少女が、和葉を覗き込んでいる。
「……麻理亜ちゃん」
拍子抜けした声で、和葉はその名を呼ぶ。
和葉より小さな身体の何処にそれ程の腕力があったのか、白髪の少女は和葉をそっと降ろしながら微笑む。
「おはよう、和葉。それから――平次」
麻理亜は上方を見上げ、また微笑う。
日本人にしては突飛な色の瞳や髪の色の割りに、流暢な日本語。彼女は、今学期になって和葉達のクラスに来た転入生である。
「ああ……」
平次は曖昧な返事をし、彼女達の横に飛び降りる。
和葉がハッと気が付き麻理亜の手を取った。
「悠長に挨拶なんかしとる場合やないで! はよ教室行かんと、遅刻や!」
そう言って、麻理亜の手を引き駆け出す。
和葉に引かれ走りながら、麻理亜は背後を走る少年をちらりと横目で見る。
服部平次――西の高校生探偵。
No.6
「珍しい事もあるもんやなぁ。紫埜が遅刻するなんて」
「昨日、徹夜でもしとったん?」
「ああ、ちょっと疲れた顔しとるもんなぁ」
「そう? 不味いなぁ……お肌の手入れ、気を付けなきゃ。若いんだから、ピチピチじゃないとよねぇ」
そう茶化すように言って、麻理亜は笑う。クラスメイト達も、笑っていた。
今月の頭に転入して来たばかりの麻理亜だが、早くもクラスに打ち解けていた。方言や容姿の違いはあれども、皆そんな事を気にする事もなく麻理亜に接してくれる。良い子達ばかりだ。
――良い子達だから、余計に。
麻理亜はそっと窓際の席を伺い見る。その辺りには、男子生徒達の集団があった。その中に、友人と会話をしつつも、こちらの様子を伺い見る色黒の少年がいた。ただそれだけならば、珍しい事ではない。だが彼が麻理亜に向ける視線は、他の男子が向ける事の多い類の物とは違っていた。
言うなれば、監視のような。
彼は気付いているのだ。麻理亜の背後に存在するものに。麻理亜はその事について、学校で出した覚えはおくびも無い。ささやかな空気さえも。恐らく彼は、天性の勘のような物で気付いている程度だろう。頭の冴える者には、たまにこのような者もいる。
けれど、問題は彼は今にも行動を起こしそうだと言う事。
そして、それには彼はあまりにも若過ぎる。
行動を起こし、麻理亜の事を調べる事は、死を意味する。何も、歳をとっていれば殺しても良いと言う訳では無い。けれどやはり、若い者の死は嫌だ。
要注意人物として調べたから、知っている。彼の父親は警察官だ。そして、彼は名の通った高校生探偵。彼の証言は、並みの大人以上に信憑性が認められる。そんな彼が麻理亜に関わって、組織が放置する理由も無い。
――お願いだから、行動を起こさないで……。
ただ見ているだけなら、構わない。何も問題は無いのだ。
知ってしまったら、取り返しが付かなくなる。
「麻理亜ちゃん! 今日、暇?」
眼の前に現れた少女が、平次に向けていた麻理亜の視線を遮る。
ポニーテールの明るい少女、遠山和葉。そう、彼が消される事になった日には、この子も命の保障はされないだろう。
「麻理亜ちゃん?」
「え。ああ……ごめん。今日? どうして?」
「駅の傍に新しい喫茶店が出来たんやって。それで、皆で行こうっちゅう話になってな。麻理亜ちゃんもどうかなって思て」
「そうねぇ……」
今日は特に、仕事は入っていない。昨日の現場は、今朝片付けてきた。
沼淵己一郎が動きを見せる様子も無い。そもそも、彼は警察へ出頭する気などさらさら無いようだ。ただ、組織に異常無しを連絡するばかり。そもそも、見張りと言う仕事を任せながら、表の姿を用意する時点でおかしい。元々、彼は見張りなど付けても付けなくても良いような小物なのだろう。
頷こうとしたところで、携帯電話のバイブ音が鳴った。
「私だわ。ちょっと、ごめんね」
自分の携帯電話が光っているのを確認し、麻理亜は席を立つ。そのまま、教室を出て行った。
「……四回」
「へ? 何がや?」
突然呟いた平次の言葉に、一緒にいた友人がきょとんとする。
平次はへらっと笑って誤魔化す。
「こっちの話や。ちょっと、昨日の事件の事で思い当たった事があってな」
「なんや、俺達と話しながらも事件の事かい」
「すまんすまん」
――四回。すると、スピーカー部分に小さな傷のある方か。
平次は射るような視線を、麻理亜が出て行った扉の方へと送っていた。
麻理亜は女子トイレの個室まで行くと、ようやく携帯電話を開いた。
送信者は、組織の者。そもそも、この携帯の番号は組織の者しか知らない。
送られて来たメールに目を通し、麻理亜は溜息を吐く。どうやら、和葉の誘いは断らねばならないらしい。
放課後、直ぐに仕事だ。
「……」
麻理亜の顔に表情は無く、ただ黙々といつも通りに歩き続ける。
だが、自分を尾行する者の存在に気付いていない訳ではなかった。
携帯電話を出す際に態とハンカチを落とし、拾う事を理由に背後を振り返る。しかし当然、そこに人影は無い。それなりに、尾行には慣れているようだ。
尾行している者の正体は分かっていた。服部平次。彼が、学校から付いて来ているのだ。
やはり、動き出さずにはいられなかったか。
もちろんの事、麻理亜としてもこのまま組織に託された現場まで彼を連れて行くつもりは無い。
麻理亜はスッと、角を曲がった。いつもとは違う道だ。
麻理亜が大通りを外れた。
平次は眉を顰め、後に続いて角まで走る。角から覗けば、麻理亜はやや足を速めて歩いていた。
――やっぱり、気付かんふりしよっただけや。
こう来なくては。平次は一人、ほくそ笑む。
男女問わず、誰とでも隔てなく話す女子生徒。成績優秀、容姿端麗、その上身体能力も高い。一見すれば、よくある転入して来た優等生と言うだけだ。
けれども、彼女は違う。何かがある。
殆ど確信に近い形で、平次はそれを感じていた。
学校では決して、何かあるような様子は見せない。けれど、ほんの些細な動作に根拠となる物はあった。
例えば、携帯に連絡が付けば必ず席を立って他所へ行って確認してくる事。
確かに一応校則で携帯電話の学校での使用は禁じられているが、改方学園はそう校則に厳しい学校でも無い。携帯電話の使用など、休み時間ならば殆ど黙認されている。個人的に罪悪感があると言うならば、態々着信後直ぐに見る事も無いだろう。バイブ音の長さから、メールだと言う事は分かっている。
そして彼女は、その携帯電話自体、二つ所持している。どちらも同じ機種、ストラップも付けていないので中を見ない限り傍目には分からない。だが、僅かな違いはあった。恐らく、麻理亜自身が見分けられるようにだろう。どちらの携帯電話も、落としたような小さな傷が幾つも付いている。和葉に連れられて麻理亜達の集団に加わり、彼女の携帯電話を傍で見た事がある。その時に気付いたのだ。着信が頻繁にあるのは、傷がスピーカーに多い方。掛かってくる着信音は、バイブが四回。和葉に巻き込まれてメールアドレスの交換をさせられたのは、傷がサブ画面の横に多い方。試しに送ったメールは、いつもバイブは三回で鳴り止んだ。
クラスメイトの誰もアドレスを知らない、もう一つの携帯電話。その携帯電話に来る連絡は一体、誰からの物なのか。何故、もう一つの携帯電話の所持を隠すのか。隠す気が無いのならば、もっと自分で分かるように印を付ければ良い。機種や色が気に入っていると言うならば、ストラップを変えるなどして。
そして、政治家を始めとする影響力を持った者達の消失と、麻理亜が早退や遅刻をする日。
決して殺人事件としては取り上げられていない。中には、死亡さえ確認されていない者もいる。だから、消失と述べた。
彼らの消失と麻理亜の遅刻や早退は、不思議な程に重なっていた。どの事件もマスコミに取り上げられる事は無く、親が警察官であるからこそ知る事の出来る事件。距離からして、麻理亜自身が手を下す事は物理的に不可能だ。けれど、何故こうも時が重なっているのか。疑問を抱くには十分だろう。
再び、麻理亜が角を曲がる。
平次は角まで走り、そっと覗く。そこに麻理亜の姿は無かった。両側にはビルが建ち、壁に窓は無い。あるのは、突き当りの小さな喫茶店だけ。
平次は、そっと喫茶店まで近づく。
この中で、何らかの取引が行われているのかも知れない。けれど、表向きは喫茶店だ。営業中という看板も掛かっている。一般的な高校生が入ったところで、何の不思議も無い佇まい。
白い扉を一気に押し開く。カランという涼しいベルの音が、小さな店内に鳴り響く。その音に振り返った客の中に、見覚えのある顔があった。
「平次!? こんな所で、どないしたん?」
「和葉ァ!?」
そこにいたのは、和葉とその友人達。思いも寄らぬ顔ぶれに、平次は思わず素っ頓狂な声を上げる。
そしてその場にいる女子たちを一通り見て、言った。
「紫埜は一緒やないんか?」
「麻理亜ちゃんなら、今日は用事あるゆうて帰ったで。なんで?」
和葉の問いには答えず、平次は店内を見回す。
店内は狭く、扉を入った正面にカウンター席があるのみ。見覚えのあるクラスメイト達の横顔が並んでいる。右手にあるカウンター内に大きな窓はあるも、それは客席からも見える。つまり、どうしたってこの店に入れば和葉達が目撃すると言う事。
「和葉、紫埜見ィへんかった?」
「え……」
一瞬、和葉が視線を逸らす。どうせまた、姉ぶって平次の女関係でも心配しているのだろう。
「この店に入って来た筈なんやけど」
「麻理亜ちゃんなら、来てへんよ。……なんで?」
「まさか。そんな筈あらへん! お前ら、皆見てへんのか?」
他の女子生徒達も、ただ一人の店員も、困惑顔で首を左右に振る。
平次は店の外へと飛び出す。立地の関係か、喫茶店だけ少し窪んだ形になっている。左右はビル。ビルと店との間に、人の通れる隙間は無い。ビルには扉どころか、一階や二階の高さには窓さえ無い。
「ホンマかいな……」
麻理亜は、まるで魔法のように消え失せてしまった。
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2009/01/13