薄闇の中聞こえるのは、激しく咳き込む声。流水音がし、廊下の明かりがつく。
麻理亜は壁を頼りに一、二歩ふらふらと歩き、その場に座り込んだ。
――日毎に、苦しくなって行く。
麻理亜は視線を落とし、己の掌を見つめる。血に汚れた、その手。組織に入る際に、覚悟していた。自分が、どう言う道に進もうとしているかと言う事。
つい昨日も、組織からのメールが入り現場を始末して来た。麻理亜の場合は、証拠の隠滅を任せられる事が多い。麻理亜は魔法使いだ。その力を使えば、どのような不可能犯罪も可能になる。
重要な情報を握るまで、のし上がってやろうと思っていた。人に出来ない事が出来る、その力を利用して。そして、明美を殺した組織を潰してやろうと。……なのに。
駄目なのだ、血が。
その事に気付いたのは、もう何百年も前の事。大怪我で流血している姿を見ているだけで、足が竦む。殺害など、言語道断である。死臭はその身に付き纏い、決して消える事は無い。他者が纏う死臭までにも、麻理亜は敏感だった。それは日常でも同様で、肉や揚げ物さえも口にする事が躊躇われる始末だ。
理由は不明である。若しかしたら、失われた記憶の中に何かトラウマとなる出来事があったのかも知れない。
ふと、一つの光景が思い出される。ほんの、二、三十年前の話。三大魔法学校対抗試合で、目にした惨劇。緑の光と轟音と共に、死に行く人々。あれは……。
「……考えたって、仕方ないじゃない」
麻理亜は、自分に言い聞かせるように呟く。
あの光景は、麻理亜の最も辛い記憶だと言う。だが記憶を失った麻理亜には、一体何があったのか思い出す事は出来ない。
ただ覚えたのは腸が煮えくり返るような嫌悪感と、そして、途方も無い懐古の情。
No.7
屋上にあるのは二つの影。一陣の風が、張り詰めた空気の中を過ぎ去って行く。
麻理亜はベンチに腰掛け、脚を組む。そうして、やや離れた位置に立つ男子生徒を見上げた。
やはり、見て見ぬふりなど彼には無理な話だったようだ。
それでも、彼は現場までつけて来ていた筈が無い。つまり、確固たる証拠は未だ握っていない。それは確かだ。
「それで? なあに、私に話って」
麻理亜は、きょとんとした表情で尋ねる。
「白々しいやっちゃ。分かっとるやろ? 昨日俺がお前を尾行しとったの、気ィ付いてへんかったとは言わせんで」
麻理亜は腕を組み黙り込む。
その顔に表情は無い。いつもの、あっけらかんとした笑顔さえも。
……やがて浮かべたのは、不適な笑み。
「悪い子ね……。女の子の後をつけるなんて」
「どうにも、お前が気になってしゃあなくてなァ。昨日は一体、何処に行っとったん?」
「貴方に話す必要性を感じないわ」
平次はポケットから、小さく折りたたまれた新聞紙を取り出した。
広げられた記事は、今朝の物。そこには、とある会社の船が水難事故を起こしたと書かれている。事故の原因は、未だ調査中。
「……事故が起こった推定時刻は、午後四時過ぎ。ちょうど、お前があの喫茶店前で姿を消しよった頃や」
麻理亜は鼻で笑う。
「まさか、私を疑うって言うの? その事件なら、ニュースで見たわ。それ、伊豆の沖でしょう」
「妙やと思わんか? 生存者は零。せやけど、事故の起こった時刻は正確に分かっとるんや」
「エンジントラブルで本島に連絡を入れている最中だった、ってニュースでは言ってたわよ」
「陸上と連絡しとったんなら、なんで事故の詳細は伝わらんかったやろな?」
「さあ……そんな事を私に聞かれても、分かる筈無いじゃない?」
平次も、そう簡単に口を割るだろうとは思っていない。
記事を畳み、猶も話す。
「この事件だけやない。お前が遅刻したり休んだ日は、必ず重要人の事故やら蒸発やらが起こっとる。変な偶然やなァ?」
「偶然は、偶然でしかないわ……。それで終わりかしら、西の名探偵さん?」
平次は答えない。
麻理亜は溜息を吐く。彼程の者が、これで終わりにする筈が無い。証拠と言える証拠が集まってもいないのに、麻理亜に鎌を掛けるのも奇妙だ。
そうなると、考えつくのは。
「私のプライベートについて事細かに話そうとは思えないけれど、貴方に一つだけ教えてあげるわ」
麻理亜は組んでいた腕と脚を解き、立ち上がる。
「無謀な好奇心は、身を滅ぼす事になるわよ」
「……」
「貴方は私を問いただす事で、私が貴方を邪魔者と見なすのを狙ったのでしょうけど、貴方の作戦は失敗。
私は、貴方を消すつもりなんてさらさら無いわ。寧ろ、貴方みたいな人はいてくれなきゃ困るのよ……『その時』の為にもね。
囮なんて馬鹿な真似は止しなさい。危険に晒されるのは、貴方だけじゃないのよ。和葉や、貴方の家族、親しい友人……貴方に関わった全ての人が消されるわ。私はそれを望まない」
「妙な事件に関わっとるっちゅう事は認めるんやな?」
「いいえ。今後の為よ。平次なら、親の関係で危険な事件に関わる事も多いでしょう?
貴方の挙げた事件に、私は何も関わっていないわ。だから、そのポケットの中の物は止めて欲しかったわね……。会話の録音なんて、好い気がしないわ」
平次が新聞を突っ込んだのとは逆のポケットを一瞥し、麻理亜は背を向ける。
そして、屋上から立ち去っていった。
麻理亜の背中を見送り、平次はポケットに手を突っ込む。出した手に握られていたのは、小さなテープレコーダーだった。
テンションに任せて黒板に書かれた、沢山の落書きや走り書き。学校中に溢れる喧騒。廊下に張られたポスター。机に山積みされたチラシ。
文化祭の時期である。
「遠山ー。ちょォ買出し行ってくれへん?」
「ええよ。買うモンのリストある?」
「あ、私も行くわ」
名乗り出たのは麻理亜だった。
「アカン。紫埜は練習があるやろ。白雪姫役なんやから」
「練習しようにも、小人達は衣装の採寸中。后は鏡と二人のシーン練習しているし、猟師は背景の製作に借り出されて、王子役は事件の捜査で休み。今、暇なのよね」
言って、麻理亜は肩を竦める。
麻理亜達のクラスは、体育館で劇をする事になっていた。脚本は白雪姫。麻理亜は主役を任された。王子役は平次。白髪の白雪姫と色黒の王子なんて前代未聞だと思ったが、宣伝隊の報告によると、キャスティングに対する受けはなかなか良いらしい。
『そら、そうやで。服部君は女子の間で人気あるし、紫埜さんかてメッチャ綺麗な転校生が来たーゆうて騒がれたんやからな』
そう、クラスメイトが言っていた。彼女の言葉はお世辞でもないらしく、現にこの一ヶ月の間に幾人かの男子生徒から誘いがかかっている。もちろんの事、どれも丁重にお断りしているが。
「せやったら、麻理亜ちゃんも一緒に行こ。ええよな?」
学級委員の生徒は頷く。
麻理亜は和葉と連れ立って、教室を出て行った。
ドサッと重い音を立て、白いビニル袋が路上に置かれる。和葉はふぅっと息を吐き、背後にあるスーパーの壁に寄りかかった。
「お待たせ、和葉」
声が掛かり、和葉は顔を上げる。目の前に差し出されたのは、アイスクリーム。もう少し顔を上げると、麻理亜が微笑んでいた。
「そこの売店で売ってたの。苺で良かった?」
「ええよ」
財布を取り出そうとした和葉を、麻理亜は遮る。
「いいわ。売り子のおばさんがまけてくれたのよ。
この間、喫茶店行こうって言ってたのに、私ドタキャンしちゃったじゃない? そのお詫びにでもしておいて」
「ホンマ? おおきに」
「こっちの方って、個人営業の店だとまけてくれる所が割と多いわよね」
「大阪は商売の町やさかいな」
麻理亜は和葉の隣に寄りかかり、暑さに溶け垂れて来たアイスクリームをぺろりと舐め取る。
和葉はアイスクリームに口をつけず、じっと麻理亜の横顔を見つめている。きょとんとした様子で、麻理亜は振り返った。
「どうしたの、和葉? 溶けちゃうわよ」
「……麻理亜ちゃん。あの……私……見てしもてん」
「え?」
麻理亜は目をパチクリさせる。
アイスクリームが一滴、コンクリートの上に落ちた。
「この間、駅前の新しい喫茶店行こゆうてた日や。……麻理亜ちゃん、喫茶店の前まで来ェへんかった?」
思い当たる節が無く、麻理亜は首を傾げる。
「行ってないわよ。と言うより、まずその喫茶店が何処なのかさえ、知らないもの」
「駅に向かう大通りから、信号手前で裏路地に入って、暫く行った所や。立地の関係で、喫茶店だけ両側のビルより凹んだ形で建っとる」
喫茶店だけが奥まった形で建ち、両隣にはビルが立ち並ぶ……。
麻理亜は表情を変えない。
「あたしも自分でまだ信じられへんのやけど、でも、確かに見てん。……麻理亜ちゃん、そこでパッて突然消えてしもた」
「……」
「あれ、何やの? まるで魔法でも使うたみたいに、一瞬でその場から消えてもうて。
その後、平次やって来てな。麻理亜ちゃん来てへんか、って聞かれた。……なんで? 平次が後追うなんて、事件とか――」
和葉は口ごもる。流石に面と向かって言う訳にはいかない。
――平次が尾行するとすれば、何か事件に関わる時。
麻理亜は、コロコロと鈴の音のような声で笑った。
「なあんだ。そんな事? 言ってたのって、あの喫茶店だったのね」
「せやったら、やっぱり――」
「ええ。そこで消えたのは確かに私よ。ま、こんな白髪じゃ見間違えようもないだろうけど」
「どないして消えたん? なんで平次に追われとったん?」
「方法は秘密。でも、そんな怪しいものじゃないわ。ただの手品の練習よ。知り合いに、手品の凄く上手な子がいてね。彼の影響で、ちょっとはまってるのよ」
「平次に追われとったのは?
それと、その……この間やけど、二人で屋上行ったやん? 何の話しとったん?」
和葉はやや頬を染めて俯き加減になる。
麻理亜は肩を竦めた。
「それは、和葉が最初に言った事が理由。事件の調査よ。屋上での話もね。
心配しなくても、和葉の彼氏に手なんて出さないわよ」
そう言って、麻理亜は軽くウィンクする。
和葉は真っ赤になっていた。
「かっ、彼氏なんかとちゃう!
平次は、その、あたしは平次のお姉さん役みたいなモンで――」
慌てて言い訳をする和葉を、麻理亜はにこにこと眺める。
和葉は頬を染め、困ったような表情で上目遣いに麻理亜を見る。
「……言わんといてね」
「ええ」
麻理亜は笑顔で頷く。
ふと、その笑顔が強張った。
「麻理亜ちゃん?」
次の瞬間には、麻理亜は笑顔に戻っていた。
気のせいだったのだろうか。そう訝る和葉の腕を掴み、引っ張る。
「ここ、ちょっと暑くない? 日陰に行きましょ」
「せやな」
二人は連れ立って、スーパーの影になっている方へと回る。
角を曲がりながら、麻理亜はちらりと横目で背後を見る。僅かの差で、見知った顔がスーパーから出て来た。
流れるような漆黒の髪。透き通るような白い肌。大人びた端正な顔立ち。
少女は辺りを見回し、スーパーを離れて行く。どうやら、麻理亜には気付かなかったようだ。
――何故、彼女がここにいる。
麻理亜を探しに来たのだろうか。
書置きだけで、突然行方をくらました。彼女まで巻き込む事になるのは、嫌だったから。
――ごめんね、紅子……。
「……」
少し寂しそうな麻理亜の横顔を、和葉は無言で見つめていた。
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Different World
第3部
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2009/02/08