深夜の街道に車通りは少ない。路肩に停められた黒いリムジンが、青白く照らし出されていた。
車の脇に立った男が、携帯電話を切る。黒い帽子に黒いコート、黒いサングラス。がたいの良い身体を全て黒で覆ったその男は、車の助手席に乗り込む。
「兄貴。まだあの女、抵抗を続けてるそうですぜ」
兄貴と呼ばれた男は、マッチを擦り煙草に火を点ける。そして、クッと笑った。
「馬鹿な女だ。痛い目を見ないと、分からねぇようだな……」
「……行きやすかい?」
「組織に逆らえばどうなるか、そろそろ教えてやっても良いだろう。魔女狩りも出来るだろうしな……」
「魔女……ですかい?」
ジンは煙草を消し、車を発進させる。
「ああ……黒の中にいながら白を纏い続ける、愚かな魔女だ……」
No.8
文化祭当日。自分達の本番を二時間後に控え、クラス一同は深刻な様子だった。
学級委員の生徒が、楽屋となっている教室に入ってくる。和葉は椅子に座ったまま、即座に振り返る。
「どうやった? 平次、間に合うん?」
「……分からん。今、現場を出た所やって。終了間際に――自分の出番までに間に合うかどうか、っちゅうところやな」
「あのアホ! こない時にも、学校放っぽって事件の捜査やなんて……」
そう毒づきながらも、和葉は内心ホッとしていた。
和葉達のクラスが上演するのは、白雪姫。真似をするだけとは言え、キスシーンだってあるのだ。
平次と麻理亜のキスシーンが嫌だからという訳ではない。確かにそれはあったが、麻理亜の提案によってそれは解決したのだ。……代わりに、尚更本番が恐ろしい事になってしまったが。
「動かないで、和葉。メイク出来ないわ」
咎めたのは麻理亜。手には、メイク道具を持っている。
白雪姫の衣装は、和葉が着ていた。
事の発端は、麻理亜と二人で買出しに行ったあの日の事である。
和葉の想いを知った麻理亜は、突然こんな事を言い出したのだ。
「ねぇ、和葉。貴女、白雪姫役やってみない?」
「……へ?」
最初、麻理亜が何を言い出したのか分からなかった。
「で、でも白雪姫は麻理亜ちゃんやん。そない勝手に変える訳には……」
「大丈夫よ。学級委員長には相談してみたわ。本番、他の子を白雪姫に推しても良いかって」
「本番……?」
「そう。ほら、平次って事件の捜査ばっかりで、なかなか練習に参加しないじゃない? だから、彼にドッキリを用意してみようかと思って。
平次の前では、私が白雪姫のままで通すの。和葉の練習はこっそりやっておくのよ。本番になって舞台に上がったら、あらビックリ! キスシーンの相手は、私じゃなくて和葉って訳」
語尾にハートマークでもついていそうな様子で言い、麻理亜はにっと笑う。つい先程の寂しそうな横顔は何処へやら、悪戯を考える子供のような無邪気な笑顔だった。
「きっキスシーンなんて、あたし出来へんて!」
「平気よぉ。白雪姫はただじっと寝そべって、王子様からしてくるのを待つだけだもの」
「そうゆう問題やのうて――!」
「嫌?」
麻理亜は困ったような表情で、小首を傾げ和葉を見上げる。
そして、俯き加減になった。
「……ごめんなさい。差し出がましいって事は分かってるの。でも、私、和葉と仲良くなれたのが嬉しくって……和葉の力になりたくて……」
橙の瞳が潤むのを見て取り、和葉は慌てた。
「べっ、別に嫌とちゃうで。ただ、その、恥ずかしゅうて……。
やる! あたし、白雪姫やるわ。ホンマ言うと、実際にはせんとは言え、平次と麻理亜ちゃんのキスシーン見るのは嫌やってん。せやから、ありがとな。ただ、宣伝までしてもうたのに、他の皆まで同意するかは分からんけど……」
麻理亜は顔を上げる。
そこに涙は一滴も無かった。
「きっと賛同してくれるわ! こんなに面白い事、あの皆なら賛成しない理由が無いもの。
さ、早く学校に戻りましょう。そうと決まれば、皆にもこの提案を持ちかけなきゃ!」
麻理亜は晴れ晴れとした笑顔で言うと、軽やかに駆けて行く。
「あっ。待って、麻理亜ちゃん! 速いて!」
和葉も慌てて駆けて行く。
麻理亜の言う通り、彼女の提案は賛同された。異論を唱える者もいたが、どの生徒も麻理亜の説得に説き伏せられ、この作戦に参加する事となった。
説得する際の麻理亜の楽しそうな笑顔を見て、和葉はようやく気がついた。
麻理亜は、和葉の恋を応援してこの作戦を思いついた訳ではない。否、それも理由の一つである可能性もあるが、それでもそれが一番の理由では無い。
麻理亜はただ、楽しんでいるのだ。
この観客をも巻き込んだ大きな悪戯を。
「はい、完成!」
「わぁっ。和葉、カワエエ!」
「麻理亜ちゃん、メイク上手いねんなァ」
「こない可愛い子やったら、后が嫉妬するんも分かるわァ〜」
麻理亜の声に振り返ったクラスメイトが、歓声を上げる。
「宣伝していた配役と違う訳だから、寧ろ和葉が白雪姫で良かったと思わせるぐらいにしなきゃね」
麻理亜は自慢げに言い、メイク道具を片付けていく。
扉が開き、またも学級委員が入ってきた。再び電話をしに行っていたらしい。
彼の青ざめた表情に、思わず皆しんと静まり返る。ややあって、彼は口を開いた。
「……不味いで。服部の奴、渋滞に引っかかってもうた。出番にも間に合うか分からへん」
静寂。そして、ブーイング。続いて起こる大混乱。
「どないしよ!? もう、メイクは無しや! 衣装だけ用意しといて!!」
「衣装用意しといても、間に合わんかったら意味無いやろ!?」
「代役立てんと!」
「今から代役なんて、出来るモンおらんやろ」
「王子って、最後に出てきてキスするだけとちゃうんかい?」
「あんた、脚本読んでへんの? この劇、結婚式までやるんやで。服部君の剣道活かそ思うて、殺陣のシーンも入っとるし……」
「剣道部から誰か借りてくる?」
「アカン、アカン。うちの剣道部、服部以外は皆ダサいのばっかりやん」
「そやかて、いるかァ? 顔も良くて、運動神経も良くて、直ぐに台詞覚えられるような賢い――」
「……」
麻理亜は教室を見回す。
どの生徒も、一斉に麻理亜に注目していた。麻理亜は恐る恐る声を発する。
「……まさかとは思うけど……私にやれと?」
「適任やん」
声は、麻理亜の横の椅子から。和葉が、無邪気な笑顔で麻理亜を見上げていた。
「麻理亜ちゃんなら王子の台詞も簡単やろ。顔かて元々それで客寄せとったんやし、麻理亜ちゃんの運動神経なら殺陣も大丈夫やろ」
麻理亜は飛んでも無いと言う風に首を振る。
「他の代役なら兎も角、王子よ? 男役じゃない」
「大丈夫やて。ほら、演劇部なんて部員殆ど女の子やから、いつも女の子が男役しとるやん」
「それは慣れた人達だからでしょ! 私、男装なんてした事無いもの。それに私じゃ、小人に紛れちゃうわよ」
事実、麻理亜の身長は百五十も無い。白雪姫役でさえ、ブーツを厚底にしたりという意見の元で選ばれたのだ。
「頼む!」
振り返れば、学級委員が麻理亜に向かって頭を下げていた。
「こない急な代役、他に張れる奴はおらん。紫埜が適任なんや。平次が間に合わんかった場合、王子やってくれへんか?
この埋め合わせは必ずする! 服部が」
「俺もや! 俺も、紫埜が良いと思う。何でもおごるで。服部が」
「うちも、代役立てるんなら麻理亜ちゃんしかおらんと思う」
「あたしも、麻理亜ちゃんで賛成や!」
「俺も!」
「頼む、紫埜!」
「代役やってくれたら、何でも言う事聞くさかい。服部が」
皆、口々に麻理亜に頼み込む。
どうにも、逃れられる状況ではない。麻理亜は観念したように溜息を吐いた。
「……分かったわ」
「麻理亜ちゃん……!」
「やってくれるん!?」
麻理亜は苦笑し、肩を竦める。
「自信は無いけれどね。私だって、この劇を成功させたいもの」
「苦しい……」
舞台袖に立つ麻理亜は、誰にも聞こえないような声で呟いた。
「大丈夫? 麻理亜ちゃん、顔色悪そうやけど」
「大丈夫よ。ただ、ちょっとサラシがきつくって」
声を掛けて来たクラスメイトに、麻理亜は笑顔で返す。
しかし、次の瞬間視界が揺れた。麻理亜は咄嗟に、傍にあった立て鏡に手をつく。
「……」
不味い。具合の悪さは、サラシだけが原因では無いようだ。
周りを見たが、誰も麻理亜の様子に気付いてはいない。ちょうど、何か学級委員が話したらしく、皆喜ばしそうに囁き合っている。麻理亜は傍にいる子に尋ねた。
「ごめんなさい。今の、聞いてなかったの。何て?」
「服部が間に合うかもしれんて! 麻理亜ちゃんの男装も、なかなか似合うとるのになァ……可愛い男の子みたいで」
「それはどうも……」
舞台上が暗くなり、袖中へ和葉が入ってきた。青い照明の点いた舞台上では、小人達が歌いながら働く動作をしている。
「和葉! 服部君、若しかしたら間に合うかもしれへんて!」
「ホンマに!?」
暗がりの為、和葉の表情を見て取る事は出来ない。
「外は雨が降り出したそうやし、衣装に着替えるっちゅう時間があるから、微妙なところやけどな。……間に合うとエエなァ」
「なっ、何がやのん? あたしはあんな練習にもまともに出ん色黒より、麻理亜ちゃんの方がずっと王子役に合っとると思うで」
「遠山さん、次出るで!」
「あっ、うん!」
再び舞台へと出る準備をしながら、和葉は溜息を吐いた。
この後、和葉が袖へはける事は無い。平次が間に合ったか否かは、例のキスシーンになって初めて分かるのだ。
これでは、平次ではなく和葉へのドッキリである。
「まあ、なんておいしそうな林檎」
一口齧るふりをして、和葉はその場にばたりと倒れる。
后の高笑いが響く中、和葉は硬く目を閉じていた。もう直ぐだ。王子が登場するシーンは、刻々と近づいてくる。
暗転になり、和葉は棺の中に入る。袖中に目をやるが、当然この暗闇では誰がそこにいるのか見える筈も無い。
――間に合ったんやろか……。
棺の中に寝そべり、再び目を閉じる。明かりが点き、誰かが台詞を言っているが、最早和葉の耳には入らなかった。鼓動が高鳴り、周りを囲む小人達にも聞こえていないかと不安になる。
来るのは平次か、それとも麻理亜か。
「幾つもの季節が過ぎ去っても、小人達は泣き続けました。そしてそんなある時、隣国の王子が白雪姫の元に訪れました」
――来た……!
和葉はぎゅっと拳を握る。王子の靴の足音がする。
和葉の横で、足音の主が立ち止まる。王子の台詞は……聞こえない。
唖然としているようだった。ややあって聞こえた声は、幼馴染の物。
「……なんで? なんで和葉やねん!?」
客席には聞こえぬ程度の声で、平次は囁く。
和葉はただ目を閉じ、黙り込んでいる。
「おい和葉、返事せんかい。なんでお前がここで寝とんねん? お前、白雪姫役とちゃうやろ」
「……麻理亜ちゃん発端の悪戯」
ただ一言、和葉は呟く。
「……」
平次の顔が徐々に近づいてくるのが分かった。
無事上演を終え、一同は教室へと戻って行く。
緊張の糸が切れた生徒達は、騒ぎながら廊下を歩いていく。雨が降りじめじめとした外とはうって変わって、皆明るく晴れ晴れとしていた。
「あ、服部。お前、紫埜におごる事になっとるから」
「は!?」
「あと、何でも言うこと聞くっちゅう約束もしたで。そいつが勝手に」
「何ちゅう真似しとんねん!」
平次は指差された男子生徒の首を抱え、捻る。
「痛いて! ギブギブギブ!!
紫埜に王子の代役頼んだんや。お前がいない所為なんやから、お前が埋め合わせするんは当たり前やろ」
「せやかて、そない勝手な……」
「まあ、紫埜のこっちゃ。心配せんでも、缶ジュース程度で済ましてくれるやろ。若しかしたら、何も無しっちゅう可能性もあるで」
「それにしても、や」
口を挟んだ男子生徒は、にやりと笑みを浮かべる。
「台詞もすっ飛ばすなんて、よっぽど遠山にキスしたかったみたいやなァ」
「なっ!? あ、あれはお前らが妙な悪戯仕掛けた所為で、台詞忘れてしもただけで――」
「やらしーやっちゃ。ちゅーも、ホンマにしてもうたんとちゃう?」
「ド阿呆! しとらんわボケ!!」
「なァ、麻理亜ちゃんは?」
ふと、和葉が辺りを見回し言った。
舞台に出て初めて白雪姫が麻理亜でない事が分かるよう、隠れたのかと思った。しかし、上演が終了した今になっても出て来ないのは奇妙だ。
「そうゆうたら、おらんな……」
「何やねん。皆で隠したんとちゃうん?」
平次も、和葉と同じように考えていたらしい。
だが、首を縦に振るものはいなかった。
「うちらも探しててん。平次が間に合うて分かった後から、紫埜さんの姿、誰も見てへんねん……」
「更衣室やトイレも探したんやけど……」
一体、何処へ行ったのだろうか。着替え以外、特に行く必要のある場所は思い当たらない。
中庭への扉の前に通りかかり、和葉は外に目をやる。外は雨が降りしきっている。窓から見えている中庭は休憩所になっているが、当然そこに人影は無い。
向かいの位置には、こちらの校舎と同じように向かいの校舎へ入る扉がある。開ききったその扉からは、校庭で出店を開いている生徒達が慌てて雨に備える準備をする姿が見えた。
――あれ……?
中庭の中央に立つ、一本の木。それを取り囲む白いベンチ。雨に濡れ、黒くなった地面。そこにそぐわぬ色を見つけ、和葉は思わず立ち止まる。
「和葉? どないしたん。置いて行くで」
平次が立ち止まり振り返るが、和葉はただひたすら外に目を凝らしている。
「何があるん?」
平次は引き返し、和葉の横から扉の窓を覗き込む。
和葉は扉を押し開き、中庭へと駆け出していた。
「麻理亜ちゃん!!」
「何やて!?」
和葉が駆ける先を見て、平次も直ぐ後に続く。
ベンチの足元の黒い泥の中に、白い物が見えていた。和葉はベンチを回り込み、その傍らにしゃがみ込む。
雨に濡れ張り付いている白髪を、そっと手で退ける。そこにあるのは、硬く目を閉じた青白い麻理亜の顔だった。
「麻理亜ちゃん!? 麻理亜ちゃん!!」
「ん……」
僅かに声を上げ、麻理亜は潤んだ瞳を開ける。
「和……葉……?」
しかし、麻理亜は再び目を閉じる。今度は揺すっても目を開かない。
「麻理亜ちゃん!!」
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第3部
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2009/02/15