スラグホーンはまず、教室内の大鍋で煎じられている魔法薬を紹介した。
 いつもの如く彼の質問に手を上げるのはハーマイオニーで、真実薬、ポリジュース薬、魅惑万能薬と次々に魔法薬の名前と効能を当てていた。
「あなたの手は上がらないのね?」
 サラは、少しからかうようにエリに囁く。エリは気まずげに視線を逸らしながら囁いた。
「あたしが教わってたのは、O.W.Lの範囲だから……」
 スラグホーンは、ハーマイオニーをいたく気に入ったようだった。マグル生まれを基本的には劣る者と見る固定観念は持っているが、本人も言っていた通り、嫌悪や侮蔑といった悪意は無いらしい。
「面白いな。魅惑万能薬って。あたしだったら、どんな匂いがするだろう? サラはどんなだった? さっきまで近くにいただろ?」
「紙とインク。図書室みたいな匂いね」
 サラは無表情で答える。その他の匂いについては話す気になれなかった。
「サラらしいや」
 アーニーが「しっ」と人差し指を立てる。スラグホーンが説明を続けるところだった。
「『魅惑万能薬』はもちろん、実際に愛を創り出す訳ではない。愛を創ったり模倣したりする事は不可能だ。それはできない。
 この薬は単に強烈な執着心、または強迫観念を引き起こす。この教室にある魔法薬の中では、恐らく最も危険で協力な薬だろう――ああ、そうだとも」
 小馬鹿にしたようにせせら笑うドラコとセオドールに向かって、スラグホーンはうなずいた。
「私ぐらい長く人生を見てくれば、妄執的な愛の恐ろしさを侮らないものだ……」
 サラは横目で、金色の大鍋を見やる。
「さて、それでは実習を始めよう」
「先生」
 スラグホーンの言葉に、アーニー・マクミランが割って入った。
「それが何かを、まだ教えてくださっていません」
「ほっほう」
 アーニーが指差すのは、スラグホーンの机に置いてある小さな黒い鍋だった。絶え間なく跳ねる魔法薬は、金を溶かしたような色をしていた。
「そう、これね。さて、これこそは、紳士淑女諸君、もっとも興味深い、一癖ある魔法薬だ」
 スラグホーンは仰々しく勿体ぶった語り口で述べた。
「――フェリックス・フェリシスと言う」
 サラは息を飲み、スラグホーンから黒い鍋へと視線を移す。
 フェリックス・フェリシス。本で読んだ事がある。幸運の薬。一口でも飲めば、幸運に恵まれ全ての計画が成功する。
 ――まさに、今のサラに必要な薬ではないか。
 アズカバンへの潜入並びにルシウス・マルフォイ暗殺の企て。捨て身の覚悟ではあるが、最悪、彼の所へすら辿り着けずに捕まる危険もある。あの魔法薬があれば、サラを成功へと導いてくれるはずだ。
 スラグホーンは、フェリックス・フェリシスを本日の授業の報酬とした。最も優秀な調合を行った生徒に、小瓶一本分を賞品としてプレゼントするのだと言う。
 調合する薬は「生ける屍の水薬」。高学年向けの、非常に複雑な薬だ。完成させられるかさえ、怪しい。――でも、やらなければ。





No.9





 スラグホーンの合図と共に、器具や鍋の触れ合う音が教室に満ちる。誰も――エリですらも、私語はしなかった。誰もが、幸運の薬を我が物にしようと真剣に調合に取り組んでいた。
(……これは、無理ね)
 三十分と経たぬ内に、サラは匙を投げた。
 教科書通りに進めているのに、サラの薬は濃紺色をしていて、それにどこかドロリとした固形感がある。本来ならば、紫色をしていなければならないのに。
 次は催眠豆の汁を入れなければならないのだが、これまた刻みにくく、どんなに力を入れても刃が入らない。
 サラは大きくナイフを振りかぶり、勢いよく催眠豆へと叩きつける。催眠豆はコロリと刃の下を抜けてエリの方へ飛び、咄嗟に立てられた教科書によって鍋へのダイブを免れた。
「あっぶねぇな。何やってんだよ」
「切れないのよ」
 サラはイライラと答える。エリはムスッとしながらも教科書を机に戻す。エリの鍋の中は、きれいなライラック色の液体で満たされていた。
 サラはポカンとエリを見る。教科書通り、順調な結果だ。ふくろうで「O」を取った事は知っていたが、彼女の調合を見るのは初めてだった。
「どうやったの?」
「何が?」
 サラはエリの鍋を指差す。アーニーも気付き、聞き耳を立てていた。
「ああ。催眠豆は、切るよりもナイフの平たい面で砕いた方が汁出やすいんだよ」
「教科書と違うじゃない」
「いいからやってみなって」
「でも……」
 横で盗み聞いていたアーニーが、エリの言う通りに催眠豆を砕く。
 エリの言う通り、溢れんばかりの汁が出た。
「……すごい。ありがとう、エリ」
 アーニーは目を見開き、エリに礼を言う。エリは得意げに言った。
「他の薬の調合で使った事があったんだ」
 それから、サラの鍋を見て憐れむような顔をする。
「サラのはそれ……もう汁がどうこうって状況じゃないだろ。煮詰めすぎじゃないか?」
「手順通りにやったのよ」
 エリは乾いた笑いを浮かべるだけで、それ以上何も言わなかった。

 どうにか教科書に従って手順を進めていったが、サラの魔法薬が液体らしさを取り戻す事はなかった。
 一方で、エリはトントンと順調に調合を進めている様子だった。アーニーの方は最初こそサラよりずっとマシだったものの、いつの間にかサラと同じ濃紺の物体へと堕ちて来ていた。
 調合時間が終わり、スラグホーンは期待に満ちた表情でサラの鍋を覗いたが、中身を見ると何も言わず、気の毒そうな笑顔を見せただけだった。
「なんと、これは……素晴らしい!」
 サラと同じ物質が入っているアーニーの鍋も素通りされた。そして、エリの鍋を見てスラグホーンは声を上げた。
「君は――ハッフルパフの、女子生徒。そうか、君がエリ・モリイだね?」
 エリのネクタイを見て、スラグホーンは言った。
「私は君の母親を知っている――いや、君はマグルの父親の連れ子だったかな? しかし、母親と同じ才能に恵まれているようだ。子供の頃から、魔法薬の調合は身近だったのかね?」
「いえ。母さ――えっと、母が魔女だって事も知らなかったんで」
「そうか。てっきり、子供の頃から英才教育でも受けていたのかと――これは、勝利者は確定かもしれないな」
 そう言ってニコニコとテーブルを離れていったが、次に向かったテーブルでも彼は感嘆の声を上げた。
 ハーマイオニーの魔法薬かと思ったが、彼が褒め称えているのはハリーだった。
「素晴らしい、素晴らしい、ハリー! なんと、君は明らかに母親の才能を受け継いでいる。彼女は魔法薬の名人だった、あのリリーは!
 ふーむ、しかし困った。これは甲乙つけがたい」
 口では困った困ったと繰り返しつつも、スラグホーンはこの上なく嬉しそうだった。
 スラグホーンは自分の机に戻ると、もう一本小瓶を用意した。二本の小瓶に、金色の液体を注いでいく。
「――ああ、足りて良かった。ハリー、エリ、さあ、これを! 一番よくできた者と言ったが、こんなに完璧な薬を見てどちらかを選ぶ事などできようもない。上手に使いなさい!」
「よっしゃ!」
 エリはガッツポーズをして、小瓶を受け取りに行く。ハリーが静かにその後に続いた。
 サラは、ハリー達が調合していたテーブルを振り返る。ハーマイオニーは、見るからに落ち込んでいた。当然、自分が勝者となれる可能性が高いと思っていただろう。サラも、彼女があの薬を貰う事になるだろうと思っていた。
「ありがとうございます!」
 エリは大きな声で言って小瓶を受け取り、くるりと生徒達の方を振り返ると、クィディッチ杯でも授与したかのように掲げて見せる。アーニーが苦笑しながら拍手を送ってやっていた。ハリーは対照的にあまり喋らず、そそくさとテーブルへと戻った。
 スラグホーンに促され、エリもテーブルに戻ってくる。しかし席には着かず、通り過ぎていった。
「エリ?」
「あっ、本当だ。完璧! やったな、ハリー!」
 ハリーの作った「生ける屍の水薬」が気になったらしい。エリはハリーの鍋を覗き込み、バシバシとハリーの背中を叩いていた。
 エリの自由過ぎる行動をスラグホーンは咎める事もなく、微笑ましそうに眺めていた。
「あたし、ちょっと用事があるから!」
 授業が終わるなり、エリはアーニーにそう言い残して地下牢教室を飛び出して行った。
 魅惑万能薬の香りを嗅ぎたくなくて、サラは教室を出た所でハリー達を待った。
「おめでとう、ハリー。今日の授業は意外な結果になったわね」
「どうやったんだ?」
 ロンがハリーに問う。
「ラッキーだったんだろう」
 背後をちらりと見て、ハリーは言った。
 教室から、ドラコ達スリザリン生が出て来るところだった。サラはふいと視線を外し、押し黙る。
 ドラコは、サラにもハリーにも何も絡んでは来なかった。





 夕食の時になって、ハリーは種明かしをした。
 ハリーが借りた古い教科書には落書きがあって、ハリーはその指示に従って調合を進めたらしい。
「僕がズルをしたと思ってるんだろう」
 ハリーが苛立った口調でハーマイオニーに問う。振り返れば、ハーマイオニーは硬い表情でハリーを見つめていた。
「まあね、正確にはあなた自身の成果だとは言えないでしょ?」
「落書きのおかげなのは確かだけど、まあ、仕方ないんじゃない?
 でもそれって、教科書が間違ってるって事になるのかしら。もっといい手順があるなら、その落書きをした人、出版社に伝えて改訂してくれれば良かったのに。魔法界の教科書はそう言うのって、無いのかしら」
「間違いではないんじゃないかな。エリの教科書には、落書きなんて無いだろ?」
 ハリーの言葉に、サラは口を真一文字に結ぶ。
 サラは、エリと同じ教科書を見ていたのだ。細かな手順と言うよりコツのような部分で教科書と違う事はしていたが、教科書が間違いとは言い難いだろう。
「大失敗になるかもしれないリスクをとって、その見返りがあった。それだけの事だろ」
 ロンもハリーを援護する。そして溜息を吐いた。
「スラグホーンは僕にその本を渡していたかもしれないのに、ハズレだったなあ。僕の本には誰も書き込みしてなかった。ゲロしてた。五十二ページの感じでは。だけど――」
「ちょっと待ってちょうだい」
 厳しい声で割って入ったのは、ジニーだった。
「聞き違いじゃないでしょうね? ハリー、あなた、誰かが書き込んだ本の命令に従っていたの?」
「何でもないよ」
 ハリーは慌てて言った。
「あれとは違うんだ、ほら、リドルの日記とは」
 サラは身を硬くする。
 ――脳みそがどこにあるか見えないのに、一人で勝手に考える事ができる物は信用しちゃいけない。
 二年生の頃に聞いたウィーズリー氏の怒鳴り声が思い出される。そんな怪しげな物は、闇の魔術が詰まっている事はハッキリしているのに。
(違う。あの日記は。おばあちゃんの物だもの。中にいるのは、おばあちゃんだもの。リドルの日記とは違う)
 ただの落書きだと言われても、ジニーは納得していなかった。ハーマイオニーもジニーの意見に賛同していた。
 二人とも教科書を怪しがり、呪文も試してみていたが、何か起こる様子は無かった。ただの古ぼけた教科書でしかなかった。

「……スペシアリス・レベリオ」
 寝室に戻るなり、サラはカーテンを閉じベッドのシーツを頭まで被ってそっと唱えた。
 やはり、祖母の日記には何も起こらない。ホッとサラは息を吐く。
 シーツから日記と頭を出すと、開いたページに文字が浮かび上がっていた。
『どうしたんだい?』
 呪文を唱えた事は分かったのだろう。目をパチクリさせる学生時代の祖母の顔が思い浮かぶようだった。
『ごめんなさい。おばあちゃんを疑う訳じゃないんだけど、ちょっと、気になる事があったから。こっちも一回は確かめておいた方が、万一見つかって何か言われた時にも、安心させやすいと思って』
 サラは、授業初日の事を日記に書き連ねていく。
 トレローニーの占い学は相変わらずだった事、スネイプの闇の魔術に対する防衛術の授業、そして魔法薬学の授業とハリーが借りた教科書の事。
『へぇ。優秀な生徒がいたものだね。ハリーも運が良かったね』
『本当に。エリに借りないで、ハリーの借りた教科書を一緒に使えば良かったわ。同じ教科書を見て、どうしてああなってしまうのかしら……』
『うーん……実際に君の調合を見ない事には、何とも助言できないな』
『まだ、出て来るのは無理そう?』
 アンブリッジの襲撃からハグリッドを守るためにサラの身体を使ってから、もう随分と立つ。未だに、リサは力が戻らないと言って外に出て来ようとはしなかった。
『君の力は強いし、血の繋がりがある分、取り込みやすい。とは言っても、乗っ取るなんて大きく力を使う。そう直ぐには戻らないよ。最近は書き込みも減っていたから、尚更ね。
 ――とは言え、それは良い傾向だ。だから、もっと書き込もうなんて思っちゃいけないよ』
 考えていた事を見透かされ、サラは日記の前で肩をすぼめる。
『君には友達や家族がいるんだ。彼らとの時間を、大切にしないと』
 サラは複雑な心境で、その文字を見つめていた。
 サラには、ハリー達がいる。でも、おばあちゃんは?
『大丈夫。彼らとの関係は良好よ。それに、おばあちゃんだって、その大切な家族の一人なんだから』
 少しの間、ページは白紙のままだった。
 それから躊躇うように、ゆっくりと文字が浮かんできた。
『ありがとう。実を言うと……こんな事を言ってはいけないと思っていたのだけど、少し、寂しかったんだ。私には、サラしかいないから。いつかは、ずっと一人で過ごす日々に戻るのかなって……』
『そんな事にはならないわ。絶対に』
 サラは力強く日記に書き連ねる。
 日記の中のリサは、十五歳。アリスと同じ年頃だ。サラにとっては祖母と言う事で保護者染みた接し方をしてくれてはいるが、年相応に寂しがったりもするものなのだろう。
『おばあちゃんには、私がいるわ』
 日記へと書き込みながら、サラは微笑む。
 彼女を一人になんてしないし、彼女のためなら何だってする。――例えそれが、人道に悖る事であろうとも。


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2021/08/14