「先生。麻理亜ちゃんの具合、どうなん?」
 多くの生徒達が文化祭終了後の余韻に浸る中、和葉と平次は保健室へと足を運んでいた。
 保険医はカーテンの掛かったベッドを手で示し、微笑む。
「あのベッドでぐっすり眠っているで。
大丈夫。単なる貧血やさかい、そろそろ起きるんとちゃうかな」
 その言葉を聞いて、和葉はホッと胸を撫で下ろす。
 平次は壁に掛けられた時計に目をやる。
「親御さんはまだ来ェへんのか? 俺らがここに運んでから、もう四時間も経つで」
「彼女のご両親なんて、来ェへんよ。紫埜さんは、一人暮らしやさかい」
 保険医の言葉に、和葉と平次は目を見張る。
「知らんかったん? 彼女、随分と昔にご両親を亡くしてな。一緒に暮らしとった人達も、皆イギリスにおるんやて」
「知らん……。麻理亜ちゃん、そんなん一言も話さへんから……」
 そう言って、和葉は白いカーテンをじっと見つめる。
 平次も同じ方向を見ていたが、彼の視線の先にあるのは麻理亜のベッドでは無かった。
 運びこまれた時のまま、棚の上に無造作に置かれた麻理亜の鞄。その中から、携帯電話が覗いていた。スピーカーの部分に小さな傷の多い、ストラップも付けていないシンプルな携帯電話。





No.9





 和葉は保険医と話し込んでいる。麻理亜の鞄は棚の上。和葉達のいる所からは、本棚で死角になる為見えない。
 平次は和葉達の様子を確認し、それから再び鞄に視線を戻す。鞄の口から覗いた携帯電話。それは、スピーカー部分に傷が多い――つまり、何者かと頻繁に連絡を取っている方の携帯電話。
 平次は何気無い動作で棚へと歩み寄る。横目で背後を伺うが、やはり二人共平次の様子には気付いていない。
 ポケットに突っ込んでいた手をそっと出し、素早く携帯電話を掴む。自らの身体で隠しながら、携帯電話を開いた。
 着信履歴を見ようとボタンを押すと、画面に文字が出てきた。
『パスワードを入力してください』
 平次は諦め、携帯電話を閉じた。
 麻理亜が設定するパスワードなど、検討もつかない。今この場で一万通りも調べる事など不可能だし、持ち帰れば必ず気付く事だろう。そんな危険な真似は出来ない。
 携帯電話を戻し引っ込めようとした手が、鞄に当たった。
 ――アカン……!
 慌てて伸ばした手は空を掻き、麻理亜の鞄は中身を撒き散らしながら、大きな音を立てて床に落ちた。
「平次! 何やってんの!?」
 和葉が言いながら、こちらへとやってくる。携帯電話を戻した後だったのが、不幸中の幸いだ。
「落ちそうやさかい、直そ思たら遅くてな……」
「あー、もう。こない散らかしてしもて……」
 和葉はしゃがみ込み、麻理亜の物を拾い集める。
 ふと、その手が止まった。
「……何やろ、これ」
 平次もしゃがみ込み、和葉が手にした物を覗き込む。
 それは、一本の棒切れだった。棒切れと言うにはやけに綺麗に手入れされていて、ちょっとやそっとでは折れそうに無い頑丈な物だ。
「何や魔法の杖みたいやなァ。魔法使いのおばあさんが振り回してそうやわ」
「アホ。魔法なんてあるかいな」
「似てるゆうてるだけやん」
 平次の脳裏を一瞬、尾行した時の事が過ぎっていった。喫茶店の前で姿をくらました麻理亜。まるで、魔法でも使ったかの様に……。
 ――アホらし。魔法なんて、ある訳ないっちゅうねん。そないなモンがあったら、完全犯罪目白押しや。
「でも、ホンマ何やろなこれ。随分と綺麗な木ィで出来てるみたいやし……」
「魔法の杖……」
 頭上から降ってきたのは、麻理亜の声だった。
 和葉は掻き集めた荷物を鞄に入れ、慌てて立ち上がる。
「麻理亜ちゃん!」
「……なんてね。ただの、手品道具よ」
 麻理亜は和葉の手から杖を取り、軽く振る。
 パッと杖の先に紅いバラの花が現れた。麻理亜は「ね?」と肩を竦める。
「ご、ごめんな。平次が麻理亜ちゃんの荷物落としてしもうて……」
「俺が落としたんとちゃうゆうてるやろ」
「麻理亜ちゃん、起きとってエエの? まだ顔色悪いで」
「平気よ。もう完全に回復して――」
 言いかけた身体がぐらりと傾く。平次が支え、倒れる事は無かった。
「まだふらついとるやんけ。ホンマにただの貧血なん?」
 麻理亜の返答は無い。平次に寄りかかり、息は荒い。立っているのがやっとの様子である。
 保険医が口を開く。
「困ったなァ……。こない状態やと、一人でなんて到底帰れんやろし……そもそも、一人の家に帰して大丈夫なんか心配やわ」
「平次。平次の家、大きいから空きあるよなァ?」
 和葉の言葉に、平次は嫌な予感がしながらも頷く。
 果たして、予感は当たった。
「せやったら、平次の家に泊めん? おばちゃんの事やから、きっと許してくれるやろし……」
「なんでうちやねん? お前ん家に泊めたったらエエやん」
「うち、今日誰もおらんねん。心配せんでも、あたしも行くで」
「そんなの……悪いわ。大丈夫よ……それに帰らないと、仕事も――」
「仕事?」
 間髪入れず、平次が尋ね返す。しかし、麻理亜の返答は冷静だった。
「家事よ……」
 他に何があるのかと言う風に、麻理亜は平次を見つめ返す。
 しかしその話に、和葉が食らいついた。
「アカン! そんな状態で無理なんてさせられへん!
心配やねん……無理せんといて。……な?」
 和葉の今にも泣きそうな表情に、とうとう麻理亜は折れた。





 ここ暫く組織にいいように使われながら一人暮らしをしていた麻理亜にとって、平次は温かく感じられた。平次は相変わらず麻理亜を怪しんでいるようだったが、平次の母静華と和葉はとても好くしてくれた。そんな彼女達相手だと、平次も普通の高校生なのだと実感させられた。
 ただ、彼らの間にあるほのぼのとした空気を感じるほど、自分自身が場違いな気がしてならなかった。闇を背負い、血に塗れた麻理亜がこの場にいてはいけない。

 和葉や静華に笑顔で答えながらも、その思いが消える事は無かった。





 平次が目を覚ました時、辺りはまだ暗闇に包まれていた。頭上の時計が指しているのは、夜中の二時。
 再び寝ようとしたが、ぼそぼそと言う幽かな声が聞こえて来た。平蔵が帰って来たのかと思ったが、それにしては声が高い。立ち上がり部屋の扉を開いたが、何処の部屋からも明かりは漏れていない。
 そっと部屋を出る。
 声は、麻理亜の泊まっている部屋から聞こえていた。近くまで来ると、部屋の中に青白い小さな明かりがあるのが分かる。
「――ええ、問題無いわ。――分かっているわよ。ご心配無く。そんなつもり、さらさら無いもの」
 どうやら、誰かと電話をしているようだ。明かりは、携帯電話のものだろう。
 暫く、麻理亜は黙り込む。時折相槌を打って、相手の話を聞いているようだった。流石に、電話の向こうの声までは聞き取る事が出来ない。
「だって、私に何の関係があるって言うの?」
 何処までも冷たい声色だった。
 そして、携帯電話を閉じる音がする。続け様に、声がした。
「――尾行の次は、盗聴? 本当にいけない子ね」
 気付かれていたようだ。平次は襖を開ける。
 改方学園のジャージを来た麻理亜が、襖の前に立っていた。
「随分と話し込んどったようやなァ。誰と話しとったん?」
「貴方には関係無いわ。いい加減、人のプライベートに関する余計な詮索は止しなさい」
「そうはいかへん。それが探偵の性っちゅう奴や」
「悪趣味なのね、探偵って」
 そう言って、麻理亜は肩を竦める。
「お前も、隠す気ィあらへんように見えたで? 電話の途中から、俺の存在には気づいとったやろ?」
「途中で切ったりしたら、貴方の盗み聞きが私以外にも知られるじゃない? 静かにしていてくれるなら、態々こちらから何か仕掛ける必要も無いわ」
 まただ。
 平次は眉を顰める。また、不可解な言い回し。前回鎌を掛けた時と言い、今と言い、どうも麻理亜は、平次が探りを入れている事を、仲間に伝える気は無いようだ。寧ろ、守ろうとしているようにさえ感じる。それとも、注意するには取るに足らない人物だとでも侮られているのだろうか。
「……どないつもりやねん?」
「何が?」
「探られたら不味いんやろ? 以前俺がお前さんを屋上に呼び出した時、お前は『その時が来るまで生きとってくれへんと困る』言うた。その時って何やねん? お前、何を企んどるんや?」
「直球ね」
 麻理亜は呆れたように息を吐く。
 そして、橙色の瞳で平次を正面から見据えた。
「もう一度言うわ。余計な事に首を突っ込むのは止めなさい。無謀な好奇心は、身を滅ぼす事になるわよ。
態々首を突っ込んでこなくても、貴方、頭は切れるみたいだから、必要な時には利用させてもらうつもりでいるわ。でも深く関わり過ぎては駄目。貴方も、貴方の周りにいる――和葉や、貴方のお母さんや、クラスメイト達も、皆危険に晒される事になる」
「物騒やな。刺客でも送り込んでくるっちゅう事か?」
 茶化すように平次は言う。
 だが、麻理亜の眼は真剣だった。二人の間に、沈黙が訪れる。
 麻理亜はくるりと踵を返した。畳の上に置いたスクールバッグに、携帯電話をしまう。
「……平次」
「ん?」
「今日はありがとう。和葉にも伝えておいてくれる?」
「何言うてんねん。自分で言えばええやんけ」
「私、忙しいのよ」
 麻理亜は一言、そう言っただけだった。
 スクールバッグの口を閉め、立ち上がる。白髪が揺れ、麻理亜は振り返った。
「もう、ここへ来る事もないでしょうしね……」
 そう言って、麻理亜は苦笑した。
 そこに危険な気配は感じられず、かと言ってクラスメイトの前でのおちゃらけた姿とも違った。ただただ綺麗で、それでいて何処か儚さを感じるものだった。





「平次! 平次!! 早よ起きィ!!」
 和葉のけたたましい声で、平次は目を覚ました。
 日は既に昇り、雨戸もとうに開けられている。
「何やねん、やかましい……あれ?」
 起き上がり、平次は首を傾げる。
 平次は自室の布団の上にいた。昨晩は麻理亜と話していた筈だ。けれども、そこから部屋へ帰った記憶が無い。
 ――寝ぼけとるだけか……?
 疑問に思いながらも、制服に着替える。ばたばたと足音が駆けて来る。
「いつまで寝てんの!? ええ加減――」
 ばたんと扉が開き、また直ぐに閉じた。
「……」
 平次は、じとっとした視線を扉の方へ送る。
「うっさいわ。もう起きとるわ」
「……う、うん」
 気まずそうに上ずった返事が返って来る。
 和葉は閉じた扉の前で、手に持った紙を握り締めた。
「そうや! 平次、大変やねん! 麻理亜ちゃんがいなくなってしもて――手紙が置いてあったんやけど――」
「何やて!?」
 扉が開きぎょっとしたが、今度はきちんと制服に着替え終えていた。
 平次は和葉の手にある紙に目を留める。
「それか?」
 和葉は頷き、差し出す。
 紙に書かれたのは、短い文章。ざっと読み、平次は呆れる。
「何やねん。ただ、家に帰っただけやんけ。そう言うたら、家事も溜まっとる言うとったしなァ」
「それは、そうやけど……何か、変とちゃう? 『ありがとう』『楽しかった』て、まるでもう会えへんような……」
『もう、ここへ来る事もないでしょうしね……』
 ふと、昨晩の麻理亜の寂しそうな笑みが脳裏に浮かんだ。
 平次は再び、手紙に視線を落とす。自分達へのお礼と、直接の挨拶も無く出て行く事への侘び。一見、普通の置手紙でしかない。けれども言い知れぬ不安が渦巻くのは、何故だろうか。
 ふとある事に気づき、平次は駆け出す。向かった先は玄関だった。後から、きょとんとした様子の和葉がついて来る。
「どないしたん、平次? 急に……」
「おかん! 今朝、玄関の鍵、閉めたか?」
 振り返り、家の奥へと叫び尋ねる。台所の方から、返事は返って来た。
「閉めたで、ちゃんと。新聞取って――」
「新聞取りに出た時、閉まっとった?」
 言いながら、台所の戸口に立つ。和葉も静華も、きょとんとしていた。
「閉まっとったで。寝る前に、戸締りもしたさかいな」
「今朝、開いてた所は?」
「何言うてんの。戸締りぐらい、きちんとした言うてるやないの。朝食出来とるで。早よ、顔洗って来ィ」
 和葉はそのまま居間へ入り、平次は洗面所へと向かった。
 顔を洗い、タオルを手に取る。
 ――おかしい……。
 顔を拭き、正面の鏡に手をつく。
 おかしい。麻理亜は、誰にも告げずに出て行った。なのに、何故家の鍵は掛かっているのか。一体どうやって鍵を掛けたのか。一体何処から麻理亜は出て行ったのか。
 喫茶店前で突然消えたのも、同じ手を使ったのだろうか。
 考えながら、居間へと戻る。居間では、和葉がしょんぼりとした顔で先に朝食をとっていた。
「麻理亜ちゃん……大丈夫なんかな……昨日、ごっつ体調悪そうやったのに……。それに、手紙……」
「平気やろ」
 言いながら、平次は和葉の正面に座る。
「まだ体調悪いんやったら、出て行くなんて無謀な事せぇへんやろし。手紙だって、普通に書くような内容やろ? 学校行けば、また会えるて」

 しかし学校で待っていたのは、麻理亜が転校したという事実だった。


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2009/12/14