ナミは、いつもの山道を自転車で登っていた。道に出かけていた蛇が、驚いて茂みに引っ込む。
 やがて、大きな門構えの家に着いた。自転車を停め、玄関を開ける。
「ただいまーっ」
 大声で言いながら、居間へ向かう。囲炉裏を覆うように机が出され、その上には豪華な食事が並んでいた。
 手作りのりんごケーキを手に、台所の方から健がやって来る。
「ちょうど出来たところだったんだ。まだ熱いけど、食べ終わる頃には良くなってると思うよ」
「相変わらず、豪勢だねぇ……。昼からこんなに食べれる訳無いじゃない」
 机の上を眺め回し、ナミは呆れたように言う。健は笑っていた。
「出来る時間にやっとかないと、また去年みたいに急患が入るかも知れないからね」
「ナミ」
 女性の声が、ナミを読んだ。
 ――お母さん。
 とっさに、そう思った。
 振り返った先に立つのは、一人の女性。しかし、その顔はおぼろげだ。
「ナミ」
 もう一度、女性が呼んだ。
「……お母さん?」
「ナミ、起きなさい。もう直ぐ時間ですよ」

 いつの間にか、眠ってしまったらしい。マクゴナガルが、ナミの肩を揺すっていた。
 マクゴナガルの声は、震えていた。
「貴女のお父様の事――聞きました。……さぞ、辛かったでしょう」
 ナミはきょとんとマクゴナガルを見上げた。
 ――ああ……夢か……。
 心配気なマクゴナガルを見上げて、ナミは笑った。
「大丈夫ですよ」
 これから、新しい生活が始まる。いつまでも引きずっていてはいけない。





No.1





「やっと起きたのね。何で、早く起きてくれないの!? 今日から新学期だって、昨日言ったじゃない!!」
 ナミは、ドタバタと食卓の周りを駆け回りながら叫んだ。
 父親はのそのそと食卓に着く。
「あれ? 今日って、九月一日だったか? 八月三十一日のような気がしてたよ」
「それはお父さんの勤め先でしょ!」
 現在、七時四十五分。今から自転車で山を下っても、絶対に間に合わない。
 ……若し、自転車で行ったならば。
「も〜っ。今からじゃ、自転車で行っても間に合わないじゃない……朝食食べる前に、送って。学校裏まで」
「えー……見つからないように気をつけるの、大変だからなあ――」
「お父さんが早く起きていれば、何も問題なかったんだよねぇ……。送ってくれるよね?」
 ナミはにっこりと笑みを浮かべる。目は笑っていない。
 健は、渋々席を立ち上がった。
「それじゃ、お父さんは杖を持ってくるから、倉へ行って箒を持ってきておいてくれ。自転車は後から持っていくから」
「はい、は〜い」
 ナミはニヤリと笑い、敷地の奥の倉へ向かった。健は杖を取りに、自室へ向かう。
 ナミの家は、父子家庭だ。健は、男手一つでナミをこの十六年間育ててくれた。母親がいなく、家は元々寺だったが為に無駄に大きいが、一見、極々普通の一般家庭だった。
 だが、父親の健は、魔法使いだった。
 子供の頃はイギリスの魔法学校へ行っていたらしく、現在の健の勤め先もイギリスだった。他にも、イギリスの魔法界の新聞まで取っている。今朝も、ふくろうが英語で書かれた新聞を持ってきた。一面記事は、「リサ・シャノン新たな予言」――闇祓い兼予見者として有名なシャノンが、また誰かが狙われている事を予言したらしい。
 例え母親がいなくても、例え時差の関係で父親との生活がずれていても、ナミは幸せだった。





「おっ、来た来た。あの子だよ」
「うひゃー……何だ、あの髪。勇気あるなあ……」
 冷やかすように声を掛けて来る連中の横を、ナミは足早に過ぎ去る。過ぎ去りざまに、感じが悪いだの何だのと言う声が聞こえた。
「フン。感じ悪いのはどっちだか!」
 隣を歩く友人、唯子が忌々しげに言う。濃い化粧や茶色く染めた髪、着崩した制服、その派手な容貌から彼女は誤解を受け易いが、根は友達思いで責任感の強い子だと、ナミは知っている。
 ナミは肩をすくめて笑った。
「ま、仕方無いよ。私、こんな髪の色してるし。名前と顔じゃ、日本人にしか思えないもん」
「でも、腹立つ! 今日だって、先公の奴ナミにいちゃもんつけてきたしさ……ナミの金髪は地毛だってのに!」
 昇降口まで来て、ナミは尋ねる。
「今日も部活?」
「うん、試合近いからね」
 靴を履いていると、唯子の部活仲間がやって来た。話し込む彼女に、ナミは手を振る。
「じゃあね」
「ん? ああ、うん。気をつけてね」
 ナミは真っ直ぐに自転車置き場へと向かう。
 部活仲間と話す唯子を見ていると、少し羨ましくなる。今日は二学期初日。午前中の始業式だけで、放課後になる。珍しく、遊んで帰られると思ったのだが……。
 ナミの住む山奥は、バスなんて便利なものは通っていない。自転車で峠を越えて、この高校に通っている。友達と寄り道をする時間も、部活動に励む時間も無かった。近所と言う物さえ無いような山奥。
 一つ山を越えて、村を突っ切る。再び山道を登り、途中で逸れて舗装のされていない道を登って行く。
 今日は、ナミの誕生日だった。
 忙しい日々の中、どうにか健も忘れずにいてくれたようだ。今日は休暇をとり、家でナミの帰りを待ってくれている。
 期待に胸を弾ませ、坂道を登る。

 やがて、陰山寺と書かれた門が木々の合間に見えてきた。大きくカーブし、一本道に出る。
 そして、ナミは眼を見開いた。
 本堂の上空に、何やら奇妙な物が浮かんでいた。髑髏だ。緑がかった靄に包まれ、小さなエメラルド色の光が形作っている。髑髏の口からは、蛇がまるで舌のように這い出て来ていた。
 何ともおぞましい光景だった。不安を駆り立てられ、ナミは立ち上がってペダルを強く漕ぐ。門の前で乗り捨てて、ナミは短い石段を駆け上った。敷居を跨ぎ、中へと駆け込む。
「お父さん!? 一体――」
「居間へ走れ!」
 健が玄関から飛び出してきて、ナミに叫んだ。
「飛行粉を横に置いてある。例の場所へ逃げるんだ!」
 ナミは言葉を失った。
 イギリスは今、「例のあの人」によって闇に包まれている。いざと言う時の為の逃走手段は教えられていたが、それはナミにとって非現実的な話でしかなく、実際その日が来るとは思ってもみなかったのだ。
 ここが狙われるとすれば、健が目的だ。健はイギリスで働いているのだから。例え二人共逃げ遂せたとしても、健といる限り危険は付き纏うだろう。この家を去る事は、今後健と出会えなくなるであろう事を意味していた。
「お父さん……」
「急げ。お前は、魔力の気配が薄い。遠くまで逃げれば、奴も居場所を直ぐには――」
「アバダ ケダブラ」
 健の言葉は冷たい声に遮られた。
 轟音が響き、緑の光が当たりに満ちる。それらがやんだ時、目の前に健は立っていなかった。足元を見ると、彼がうつ伏せになって倒れていた。
「お父さん! 大丈夫!?」
 ナミはしゃがみ込み、健の肩を揺する。首がぐらぐらと揺れ、顔が僅かに横を向いた。眼と口が開かれ、ついさっき話していた時の張り詰めた表情のままだった。
「え……?」
 何が起こっているのか解らなかった。
 健は目を開いている。なのに、何も答えない。手足の力は抜け、だらりとしている。
「リサの子か」
 声を掛けられたが、ナミは答えなかった。じっと、目の前に倒れる身体を見つめていた。
 指先に触れた彼の身体は、体温を失って行く。
 突然肩を襲った切り裂かれるような痛みに、ナミは悲鳴を上げた。一瞬で、痛みは終わった。肩に手をやり、涙の滲んだ瞳で正面の人物を見上げる。
 ――嫌だ。
 戦慄が走る。人の物とは思えないほど真っ白な顔、真っ赤な瞳。彼が誰なのか、考えるまでも無かった。
 白い唇が開かれる。
「貴様は誰だ。リサの子か?」
 ――嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ死にたくない死にたくない死にたくない……。
 答える事も出来ず、ナミはがくがくと震え出す。何と答えようとも、死が迫ってきているのがありありと解った。
 あまりにも唐突だった。
 つい今朝まで、健は笑っていたではないか。いつもの朝だった。健は時差ボケしていて、ナミは容赦無く小言や甘えを言って。
 始業式の校長の話は、いつも通りつまらない物で。学校の教師や生徒からは、髪の色の所為で奇異な眼で見られて。それでも、傍にいて笑ってくれるクラスメイト達がいて。近付く文化祭の話をしたりして。唯子と他愛も無い話をして、そして昇降口で別れて。
 何も変わった事の無い日常だった。なのに、これは一体どう言う事だろう。
 目の前に立つ人物は、ナミに杖を向けている。
 紅い閃光が横から飛んで来て、正面の人物はその場から消えた。ナミと同じ色合いの金髪の女性が駆け寄って来るのを、ナミはぼうっと見つめていた。彼女は何か話し、そしてまた杖を振る。何か叫んでいる。赤と緑の光が交錯する。
「――走れ!」
 叫ぶ声の中にその言葉を聞き取り、ナミは立ち上がった。
 ナミの腕から落ちた身体が、どさりと音を立てた。
 何処で二人は戦っているのか、何処を通ると危険なのか、全く念頭に無かった。眼を開いた父の顔だけが、ナミの脳裏を占領していた。
 辿り着いた場所は、居間だった。囲炉裏に立ち、傍に置いてある粉を手に取る。
 自分の出した声も、ナミには何と言っているのか聞き取れなかった。





 ナミは硬い壁に強く身体をぶつけ、もんどりうって倒れた。煤塗れで頭だけ暖炉からはみ出たまま、ぼんやりと天井を見つめる。白く高い天井。そこへ、女性の顔が視界に入って来た。
「ナミ・エガワですね? 大丈夫ですか?」
 語調は激しく、心底心配している様子だった。
 ナミは小さく頷いた。突然の事の連続で、言葉も忘れてしまったみたいだ。
 手をつき、身体を起こす。そこでまた動作を停止していると、眼の前に手が差し伸べられた。黒髪をきっちりと団子に結い上げ、眼鏡を掛けた女性。部屋には、ナミと彼女しかいなかった。
「大丈夫ですか?」
 再度、彼女は尋ねる。
「……はい」
 漸く声を振り絞って、ナミは答えた。差し出された手を取り、立ち上がる。
 勧められるがままに、ナミは傍の椅子に座った。彼女が杖を振り、ナミと向かい側の位置にもう一つ椅子が現れる。彼女は、その席に座ってナミを見据えた。
「貴女のお父様から、話は聞いています。貴女も聞いているかと思いますが、これからは、お父様とは暮らせません。良いですね?」
 彼女はきびきびと話す。
 ナミは、虚ろな眼で頷いた。……何が起こったのか、まだ伝わっていないらしい。
「紹介が遅れましたが、私はミネルバ・マクゴナガルと言います――貴女の後見人です」
 後見人、とナミは声を出さずに唇を動かす。父親を失ってしまったのだと、その言葉はナミの胸にずっしりとのしかかった。
「貴女は、これからここ――ホグワーツ魔法魔術学校に通う事になります。ここにいる限り、貴女の安全は保証されます。ホグワーツについては、聞いていますか?」
「はい……」
 イギリス北部にある、魔法学校だ。健もそこの卒業生で、よく話を聞かせてくれた。
 マクゴナガルは、ここで教師をしているとの事だった。今日から新学期。夜には生徒達が到着し、新入生の組分けがある。ナミの組分けも、その中で行うそうだ。
「お父様には会えませんが……お母様には、ここにいれば会える事もあると思いますよ。あまり公には出来ませんから、会話はなかなか出来ないかもしれませんが……それでも、日本にいた頃に比べれば近くなりました」
「え……? 母親って……」
「では、まだ話さない内にここへ来る事になってしまったのですね――貴女の母親は、リサ・シャノンです」
 何と答えて良いか判らず、ナミはただぽかんとマクゴナガルを見上げていた。
 リサ・シャノン――その名前は、健が取っている新聞によく出ていた。ヴォルデモートの襲撃を予測すると言う、非常に重要な役割を任されている人物だ。
 そのリサが、母親?
「それじゃあお母さん、は……今……?」
 口をついて出たのは、そんな言葉だった。
 しかしナミは、会いたいと思った訳では無かった。ただどうして良いか判らず、無意識のままに呟いていた。
「リサは……貴女のお母様は、まだ陰山寺からお帰りになっていません。少なくとも、まだこちらへ連絡は来ていません」
 マクゴナガルは厳しい表情になる。
 陰山寺へ向かった。あの場には、ヴォルデモートがいる。そしてまだ、連絡が無い。それが何を意味するのか、ナミが理解するのは容易だった。
 硬く握られたナミの拳を、マクゴナガルの両手が包んだ。
「大丈夫です。彼女なら、きっと帰って来ます。彼女の強さを私は知っています。
それから、先程も言いましたが――貴女がリサの娘だと言う事を、決して他の人には話してはなりません」
 ナミはきょとんとマクゴナガルを見上げる。
「リサは、狙われています。例のあの人の事は、聞いていますね? 貴女がリサの娘だと知れれば、奴らは必ず貴女を人質にせんと狙うでしょう。健との父子家庭、リサとは何の関わりも無い――母は生まれた頃からおらず、父も亡くしてしまったから、後見人である私が引き取る事になった。表向きはそう言った事情になります」
 ナミは、こくりと頷く。
 母は狙われている――その言葉が、何故か並みの胸に引っかかった。母といては危険が付き纏う事になる。だから、一緒にはいられない。
 ……妙な既視感。
 考える間も無く、マクゴナガルは話を続ける。
「ですから、夏休みも当然、私の家で暮らす事になります。恐らく、リサが来てくれる事もあると思いますよ。彼女は、親友ですから」
 そう言って、マクゴナガルは微笑む。ナミを安心させようとしているのが分かった。
 会釈を返さなくてはと気付いた時には、とうにタイミングを逃してしまっていた。マクゴナガルは心配そうにナミを見つめる。

 ナミは尋ねた。
「マクゴナガル先生って、ここで教えてらっしゃるんですよね? 何の教科を?」
「教師と生徒と言う場以外は、そう固くならなくても良いですよ。
変身術を教えています。この教科は全員必修ですから、また授業で会えますよ。それから、グリフィンドールの寮監をやっています」
「四つ、あるんだっけ」
「ええ。グリフィンドール、レイブンクロー、ハッフルパフ、スリザリン――貴女のご両親も、グリフィンドールでした」
「お父さんから聞いた事があります」
 言いながら、凄く妙な感じがした。
 父は、死んだ。しかし、どうにもその実感が沸かない。もう二度と会えない。そう言う事だと解ってはいるが、家に帰ればまた会える――そんな気がしてしまう。突然、今までと違う世界に飛び込んで来たからかも知れない。元々生活時間帯がずれていて、会えない日も多かったからかも知れない。何も変わっていない。そんな気がしてしまう。こんなにも、全てが変わっているというのに。
 ――変なの……。
 そもそも、本当に健は死んだのだろうか? 不意打ちを食らって倒れただけでは? 今にも、いつものあっけらかんとした表情で頭を掻きながら姿を現すのではないだろうか。
 暖炉の火は、燃えない。
「組分けまで、休んでいると良いでしょう。色々と疲れているでしょうから……。
隣の部屋を使っていて構いません。私は夕方まではここにいますから、何かあれば来てください」
 ナミはふらふらと立ち上がり、マクゴナガルの案内について行った。
 隣の部屋には、簡単な机と椅子、それからベッドが用意されていた。部屋の端には、大きなトランクが一つと真鍮製の大鍋が置かれている。
 授業用品や直ぐに必要な生活用品は買っておいた。最低限しか無いから、また買い物に行こう。そう言って、マクゴナガルは自分の部屋へと戻って行った。
 ナミは、窓際に歩み寄る。こちらはまだ、朝だった。ナミの誕生日が、これから始まる。
 誕生日は、必ず健は休暇を取っていた。普段は一緒にいられない分、盛大に祝ってくれようとしていた。見かけによらず、料理の上手い父だった。健の焼いたチーズケーキやりんごケーキは美味しかった。急患が入って中断となってしまった翌年は、昼間から豪勢な料理を準備していたりもした。
 たった二人で、近所もいない山奥の大きな家。けれども、健が家にいる限り、寂しさを感じる事は無かった。
 時差と共に、出来事も時が戻れば良いのに。
 健はいなくなったのだ。もう会えないのだ。じわじわとその実感が押し寄せて来て、ナミは両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちた。


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2010/04/13