「長期休暇?」
麻理亜から持ち掛けられた唐突な話に、彼は眉をひそめた。
麻理亜は身を屈め、机に残された十数個ものカップをまじまじと眺めていた。その中に鼠の尻尾が残された物を見つけ、からかうようにつつく。尻尾はピクリと反応し、ふよふよと揺れた。
「そ。ちょっと、ニューヨークへ行って来るわ。寮監であるあなたには、私自身の口からも伝えておくべきだと思って」
ニューヨーク、と言う単語に彼の表情が険しくなる。彼は聡明だ。麻理亜の目的に、気付かないはずがなかった。
「なぜ、今になって? 行くにしても、何も授業を休まなくても、もう少しすればクリスマス休暇だろうに」
「グリンデルバルドがクリスマス休暇を待ってくれるとでも?」
麻理亜は身体を起こし、振り返る。
「本当は、ずっと前から行くつもりだったわ。彼がアメリカで消息を絶った、その時から。手続きに時間が掛かったのよ。子供が探りを入れても多少は相手をしてくれるような肩書を、大臣に用意させるのにね。それで、ようやく用意が出来たって今朝、連絡があったの」
「どうして私に相談しなかった? そう言う話なら、私も――」
「あら。生徒の私ならともかく、教師が授業をすっぽかす訳にはいかないでしょう? もちろん、クリスマス休暇まで待つ気なんてないわ」
彼は口をつぐむ。大空のように明るい青色の瞳を、麻理亜は正面から見据えた。
「……ねえ、アルバス。あなたは本当に、ゲラートを捕まえる気がある?」
No.2
雪に覆われた橋の上を、ダチョウが駆け抜けて行く。
三人が辿り着いた先は、セントラル・パーク動物園だった。橋の先に構えるのは、赤煉瓦造りの大きな建物。しかしその立派な正面扉は、まるで何か大きなものが通ったかのように、地面から高い天井まで丸ごと破壊されてしまっていた。
「かぶって」
短く言って、青コートの魔法使いが茶色いヘルメットをジェイコブに差し出した。ジェイコブは戸惑いながらも、それを受け取る。表情に、不安の色を滲ませながら。
「なんでヘルメット?」
「頭をつぶされたくないだろう。君は――ごめん。ヘルメットは一つしかなくて。姿くらましは使える?」
「ええ……まあ」
ジェイコブは引きつった表情で、それをかぶる。
橋を渡りながら、更にトランクの中から防護服が取り出される。彼はそれを、この場で唯一、魔法という防御手段を持たないジェイコブへと着せた。
「……まだ何か逃がした動物がいるの?」
手慣れた様子で着せる魔法使いを見ながら、麻理亜は恐る恐る尋ねる。
破壊された煉瓦の壁。中の通路沿いに並ぶガラスもことごとく割れ、動物の姿はなくなってしまっている。先ほど駆け抜けて行ったダチョウも、宝石店の通りにいたライオンも、この動物園にいたのだろう。
魔法使いは麻理亜を振り返らずに答えた。
「あと、二匹」
「二匹も!?」
「大きな声を出さないで。たぶん、この近くに……ほら、いた」
彼はピタリと立ち止まる。麻理亜とジェイコブも、彼の背中にぶつかりながらも立ち止まった。
動物園の奥、サイの檻の中に目的の生き物はいた。サイに似た、しかしもっと大きな姿。檻の主であるサイは自分の何倍もある生き物に迫られ、奥へと追い詰められていた。
「盛りの時期だ……相手を求めてる」
麻理亜とジェイコブに説明するように囁きながら、今度は小瓶を取り出した。彼がそれを手の平に霧を吹くと、甘い香りが漂った。彼は檻の中を見据えながら瓶をジェイコブに預け、両手をこすってよくなじませる。
「エルペントを惹きつける香りなんだ」
そして彼は、ゆっくりと檻の方へと近づいて行った。麻理亜とジェイコブは、近くの看板の陰からそれをのぞく。
彼は破壊された柵を通り抜け、エルペントから数メートルほど離れた場所で立ち止まった。トランクを開き、地面に置くと、腰を低く落とし構える。
鳴き声を真似、動きを真似、エルペントの注意を引く。随分と慣れた様子だった。エルペントの事は、彼に任せるのが得策のようだ。
麻理亜はそっと看板のそばを離れる。ジェイコブが麻理亜を振り返り、戸惑うように檻の方と見比べる。
麻理亜は、そばの檻へと杖を振った。
「レパロ」
地面に散った瓦礫が浮かぶ。細かい破片となっていたそれらは、時間を巻き戻すかのように柵へと戻り、元の形が復元されていく。背後で、ジェイコブが感嘆の息を漏らすのが聞こえた。
多くの動物は逃げ出してしまっていたが、全てではなかった。まずはこれ以上被害が拡大しないよう、破壊された檻を修復しなければ。それから、脱走した動物たちを捕まえて……広い街に解放された動物たち。考えるだけでも、気が遠くなりそうだ。
順番に呪文をかけ檻を直していると、背後から悲鳴が聞こえて来た。
振り返った看板の下に、ジェイコブの姿はなかった。代わりにあったのは、赤煉瓦の門へと消えるエルペントの姿。
サイの檻から飛び出して来た彼が、麻理亜に向かって叫んだ。
「彼を助けて!」
麻理亜は慌てて駆け戻る。ジェイコブの姿は見えない。
「僕は杖を盗られた! 先に行って、彼を助けて! あの子の事は傷つけないで!」
「何が――」
問う間もなく、彼は門とは別方向へと駆け出す。
「橋の方に出て行った! 絶対に傷付けないでね!」
念を押すように叫びながら、彼は行ってしまった。
橋の上へと「姿現し」すると、雪原の上、一本の凍った木に角を突き立てる巨大な姿が見えた。エルペントが持つ毒液は、強力だ。その毒液を注入されたものは、何でも破裂してしまう。
この木の幹も例に漏れず、ぼこぼこと表面が波打つように膨らんでいた。
「ニュート!」
あの魔法使いの名前だろうか。ジェイコブが叫ぶと共に、麻理亜は「姿くらまし」した。
麻理亜が「姿現し」した先に、木の枝はもう無かった。木は倒れ、氷上へとジェイコブを投げ出していた。空中に現れてしまった麻理亜は落下する。ジェイコブの後を追うエルペントが、ちょうど麻理亜を背中で受け止めた。
エルペントは麻理亜を乗せたまま氷上へと踏み込み、足場が安定せず滑り出す。ジェイコブも似たような状況で、逃げようにも滑ってどうしようもない。ジェイコブとエルペントの距離は、徐々に詰められていく。
「エルペントちゃんー、落ち着いて! 彼はあなたの仲間じゃないわ!」
自分の身体の下にある背中を麻理亜はぺちぺちと叩くが、何の効果もない。興奮したエルペントの目にはジェイコブの姿しか映っておらず、厚く硬い皮膚は麻理亜の存在を知らせてはくれなかった。
「――んもう!」
麻理亜は前方へと杖を振る。ジェイコブとエルペントの間の氷がぴきぴきと音を立て、巨大な壁が形作られて行く。
角から突っ込んだエルペントによって氷の壁は粉砕されてしまう。それでも、幾分かエルペントのスピードを落とす役目は果たせた。
次々と氷の壁が作られては、破壊されて行く。砕けた氷の欠片が麻理亜の頬をかすったが、そんなものに頓着しているどころではなかった。
冷たい氷の欠片を正面から浴び続ける中、不意に後ろから引っ張る力があった。
ちらりと横目で振り返った先にあったのは、開かれたトランクを持つニュート。麻理亜は、エルペントの背中から飛び上がる。
間一髪。
角の先がジェイコブに迫ったところで、エルペントはトランクの中に吸い込まれて行った。閉じたトランクが、ジェイコブの眼前で停止する。麻理亜は二人の隣に、降り立った。
ジェイコブは放心状態だった。
ニュートが、恐々と話しかける。
「……やったね、コワルスキーさん」
魔法界に対して敵視するマグルが多いこの時代。特にアメリカは、魔法界と非魔法界が徹底的に分断され、対立が激しい。ジェイコブは魔法に対して好意的なようだったが、さすがの彼も、こんな目に遭えばほとほとウンザリしている事ろう。
しかし彼は怒るでもなく、呆れるでもなかった。ジェイコブはホッと息を吐き、ニュートへと手を差し出した。
「『ジェイコブ』と」
ニュートは、その手を取り握手した。
「残るは一匹。入って」
橋の下に置かれたトランクに、ニュート、そしてジェイコブが入って行く。麻理亜は目を瞬き、きょろきょろと辺りを見回すと、その後に続いた。
トランクの中に入り、ほとんど梯子のような急な階段を下りて行った先は、雑然とした小さな小屋だった。使い古された肘掛け椅子や、古いストーブ、広い作業台。壁はほとんど棚で埋められていて、薬草やら大小様々な道具やらがひしめき合っている。道具は魔法界で見慣れた物もあれば、何にどう使うのか分からないような物もたくさんあった。
混沌とした部屋だが、ニュート自身はどこに何があるか分かっているようだった。斧を取り、肉の塊を叩き切る。虫や草など、次々とバケツを用意して行く。
魔法生物の図表に、餌に、道具に、飛び回るビリーウィグ。人を感じさせない部屋の中、一枚だけ女性の写真があった。麻理亜は息をのむ。
「ニュート……もしかして、ニュート・スキャマンダーさん?」
ニュートは振り返る。麻理亜の視線の先にある写真に気付き、そっと隠すように伏せた。
「そう言えば、君の名前を聞いていなかった」
写真との間に割って入ったニュートを、麻理亜は見つめ返す。そして、少し寂しげに微笑った。
「マリア・シノよ。――初めまして、スキャマンダーさん」
「アー、うん。彼はジェイコブ・コワルスキー。魔法動物を探すのを手伝ってもらっている」
ニュートは、麻理亜がまた怒り出さないかと緊張した面持ちで言った。一方でジェイコブの方は対象的に、人好きのする笑顔を浮かべていた。
「初めまして、マリア。さっきはありがとう。――怪我、大丈夫?」
ジェイコブは心配そうな顔で、右頬を指差す。麻理亜は、袖口で自分の頬を拭いながら答えた。
「大丈夫、かすり傷よ。直ぐに治るわ」
ニュートは既に作業へと戻っていた。準備した餌を麻理亜とジェイコブにも持たせ、小屋を出て行く。
そこには、ここがトランクの中だという事を忘れてしまうような大自然が広がっていた。荒野や岩場、林、更に木々の生い茂る森。四季折々、昼も夜も、全てがトランクの中にあった。
銀行や宝石店で大暴れしていてニフラーも、コインやボタン、懐中時計などキラキラした物で埋め尽くされた自分の巣穴に帰っていた。麻理亜達に気付くと、ニフラーはパチンと足元にある宝の山を押さえ、「渡さないぞ」とでも言いたげな顔で麻理亜達を見つめていた。
エルペントは月明かりに照らされた霧が漂う、幻想的な一角にいた。乾いた土の上には南国風の草木が生え、エルペントは大人しく座り込んでいる。身動きし、振り返ったエルペントに、ジェイコブがびくりと肩を震わせ立ち止まった。
「お、俺、もう匂わないかな?」
「大丈夫そうだけど……」
麻理亜はクンクンと匂いを嗅ぐ。少なくとも、麻理亜の嗅覚で判別できる限りは独特な香りはもうなかった。
「心配なら、きれいにする? ――スコージファイ」
麻理亜は、ジェイコブに向かって杖を振る。ジェイコブは、戸惑うように自分の身体を見下ろした。
「今ので、きれいになったの?」
「ええ。清めの呪文よ」
ニュートは餌となる枯草を積んだ手押し車を押しながら、エルペントの方へと進んでいく。麻理亜もその後に続く。ジェイコブは戦々恐々とついて来たが、もうエルペントが彼を襲うような事はなかった。ジェイコブはホッと息を吐き、笑みを漏らす。草を食むエルペントの身体を嬉しそうに撫でていた。
ジェイコブは一度、このトランクの中にも入った事があるらしい。麻理亜とジェイコブは、ニュートを手伝って魔法生物達に餌をやって回った。ジェイコブは楽しそうに、魔法動物を麻理亜に紹介していた。
「あそこにいるのは、オカミー。銀の卵から孵るんだ! 俺も一匹、孵るのを目の前で見た。可愛いけど、撫でちゃいけないんだ。防衛本能が強いんだって」
「今、ニュートが相手をしている小さくて可愛いのは、ボウトラックル。ニュートのポケットにもいるよ。ピケットって言うんだけど、ニュートの事が大好きみたいだ」
「この子達は、ムーンカーフ。上しか見られないから、浮く餌をまくんだ。ほら、可愛いだろ?」
ジェイコブの説明は、ほとんど「可愛い」で構成されていた。笑顔をキラキラと輝かせ、動物たちの世話をするのが堪らなく嬉しい様子だった。
「今のアメリカに、あなたみたいなマグルがいるとは思わなかったわ」
餌をやって回りながら、麻理亜は言った。ジェイコブはきょとんとする。
「マグル?」
「コワルスキーさんのような、魔法を使えない人たちの事よ。アメリカでは、ノーマジって言うみたいだけど」
「ジェイコブでいいよ。君、アメリカの子じゃないの?」
「ええ。私も、ニュートと同じ。イギリスから来たの」
「へえ。全然訛りがないから気付かなかった」
「え?」
コンコンと言う音が、そこら中に響いた。驚いた動物たちが、巣穴に引っ込んでいく。音は、空から聞こえるようだった。麻理亜とジェイコブは顔を見合わせ、ニュートの方を見る。
「……誰かがトランクを叩いてる」
三人は小屋へと戻った。ニュートが先頭に立って、階段を上って行く。続いて麻理亜、そして最後にジェイコブが。
トランクから出たそこは、雪に覆われたセントラル・パークではなかった。
そこは、どこかの会議室だった。あるいは、法廷にも近いか。奥にあるのは、王座のような立派な椅子。その前に佇む女。左右の壁は座席で埋められ、様々な国柄を想起させるローブを着た魔法使い達が並んでいた。麻理亜の後から出て来たジェイコブは笑顔だったが、辺りを見回してすぅーっと潮が引くように笑顔が消えて行く。
大勢の魔法使いや魔女が取り囲む中、ニュート、ジェイコブ、麻理亜の三人は、トランクの横に佇んでいた。
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2017/01/14