イギリス一の品揃えを誇り、買い物客で賑わうダイアゴン横丁の中でも、その店はひときわ薄暗く、客入りも少なかった。入口前のカウンターに構える店主は、店内への関心も薄く、眠そうに日刊予言者新聞をめくっている。
 小さなカゴを片手に高い陳列棚の間を物色していた麻理亜に、背後から声がかかった。
「――老け薬でも作るのかい?」
 麻理亜は驚いたように振り返る。美しい金髪の青年が、麻理亜を見下ろしていた。彼は、好意的に麻理亜に微笑いかける。
「奇遇だね。まさか、こんな所で君と会えるとは思わなかったよ」
「……そうね。アルバスも来ているの?」
「いや、今日は一人だ。それで、そんなに材料を買い込んで、いったいどうするつもりだい?」
「女の子の買い物を詮索する男子は、嫌われるわよ」
 麻理亜は軽い口調でかわし、立ち去ろうとする。しかし彼は、麻理亜の腕を掴み、引き留めた。
「……まだ、何か?」
「君に聞きたい事があるんだ。――秘宝について、君は、何か知っているんじゃないか?」
「アルバスにも聞かれたわ。きっと、あなたから話を聞いてから、いの一番に。残念だけど、答えはノーよ」
「彼は、この件について俺が君に詮索しないように邪魔をしてくる」
「彼自身が、私に聞いた後だからでしょう。無駄だと分かっているのにまた同じ質問をしたところで、時間の浪費でしかないもの」
 麻理亜は彼の手を振り払おうとしたが、彼は放さなかった。
「マリア。君も、我々と一緒に来ないか?」
 麻理亜は、彼を見つめ返す。
 彼は麻理亜の腕を引き寄せ、慣れた手つきで麻理亜の髪に触れた。
「君はとても魅力的だ、マリア。俺たち三人なら、きっと成し遂げられる。――それに」
 麻理亜の耳元に口を近付け、声を低くして囁いた。
「――個人的に、君のそばにいたいんだ。マリア」
 麻理亜は、彼を突き放す。腕を捩じるようにして、今度こそ彼の手を振り払った。
「あいにくだけど私、宝探しにも死を制するなんて言い伝えにも興味はないの」
「秘宝集めは目的じゃない。もちろん、集めようとはしているが――真の目的は、その先にある。より大きな善のために、俺もアルバスも動いている」
「より大きな善? そばにいる脆弱な女の子も蔑ろにして得られるものが、より大切な事だって言うの?」
「……そうか。君はアバーフォース寄りの考え方なのか」
 彼の顔に、わずかな失望の色が表れた。麻理亜は口の端を上げて笑う。
「残念だったわね。そうやって、何人の女の子を意のままにして来たのか知らないけど、誰もが思い通りになるとは思わない方がいいわ」
「誤解だ。俺は賛同を得るために君を誘惑しようとした訳じゃない。あくまでも本心だよ。アルバスにとってそうであるように、俺にとっても君は特別な存在なんだ」
「アルバスは友達よ」
「知っているさ。特別仲の良い親友だ。君の話をする時の彼は、本当に楽しそうだ。――そして、彼が動いているのは、君のためでもある」
「……私のため?」
 麻理亜は困惑する。魔法使いのためにも、社会を改革するのだとアルバスは語っていた。魔法使いが過ごしやすい世界。魔法使いが隠れる必要のない世界。――彼の口から聞かずとも、そこには彼の妹であるアリアナの存在が大きく影響を与えているのだと分かった。
 そのためにも、死の秘宝を彼らは集めようとしている。全てを集めれば、死を制する事ができると言われている秘宝。
 ――死を制する者。
 ――何百年と生き続け、死ぬ事も老いる事もなく、その理由も自分が何者であるかも分からない麻理亜。
 死を制する事によって、麻理亜が何者であるかも分かるかもしれない。しかし、目の前の彼に麻理亜の身の上を話した覚えはない。
 まさか、アルバスが話した? それとも、ただの鎌かけか。
「自分のために親友が寝る間も惜しんで調べているのに、君自身は何もしないのかい?」
 麻理亜は言葉を詰まらせる。
 彼は、人を操る術をよく理解していた。
「――まあ、急かしはしないさ。学校に戻るまで、まだ日もある。よく考えるといい」
 薄く笑うと、立ち尽くす麻理亜を残し、彼は店を出て行った。





No.5





 ニューヨークを象徴するようなネオンに彩られたビルが立ち並ぶ交差点、タイムズスクエア。輝く無数の電球は今や砕け散り、行き交う車両は横転し、見るも無残な状態だった。
 横転する車の向こうで、ティナとグレイブスが呪文を放ち合っていた。
「君はいつも邪魔をする」
 グレイブスは苦々しげに言い、杖を振る。押し切られるようにして、ティナの身体が後ろへと飛ぶ。
 麻理亜は杖を振るう。車へと衝突しようとするティナの背後に、青い半透明の水泡のようなクッションが現れた。ティナは半透明の盾に守られ、地面に軟着陸する。
 麻理亜はグレイブスの方へと駆け出していた。振るった杖の先から赤い閃光が放たれ、グレイブスを襲う。
「また君か……」
 グレイブスは杖を振るい、麻理亜に応戦する。ティナも起き上がり、戦いへと加わる。
 グレイブスは手強かった。それでも、数百年の間に幾度となく戦闘経験も持つ麻理亜と、免職されたとは言え闇祓いとしての腕を持つティナの二人を相手取るとなると、そう簡単にはいかない。
 押している。そう思ったその時、彼は上空へと杖を向けた。
 現れたのは、一頭の牛。困惑する麻理亜とティナの前で、牛の身体は破裂した。
 ティナは顔をしかめ、グレイブスへと杖を向ける。
 ――血が。
 血液と肉塊が、真下にいた麻理亜へと降り注ぐ。視界の端から、じわじわと闇が侵食してくる。均衡感覚を失い、麻理亜はその場に膝をついた。
「マリア!」
 ティナが麻理亜に駆け寄る。
 麻理亜は、指先が急速に冷たくなるのを感じていた。視界をほとんど闇に覆われる中、麻理亜は声を頼りにティナの腕を掴んだ。
「彼を追って!」
「でも……」
「私は大丈夫だから。ニュート達が危険だわ」
「――わかった」
 ティナの去って行く足音を聞きながら、麻理亜は確信を抱いていた。
 麻理亜は、血が駄目だ。死に弱い。怨恨を伴う死は特にその匂いを敏感に感じられたし、動物の肉や脂も口に運べない事はないが、後から具合が悪くなってしまう。
 彼がとったのは、麻理亜の弱点を的確に突いた手段だった。そして、ここまでの影響が出る事を知る人物は、極めて少ない。そして、その手段を実行する者となれば、ただ一人。
 ――ゲラート・グリンデルバルド。ホグワーツとは無関係の場で出会い、逃亡し、二十七年前の麻理亜を記憶している人物。
 人の溢れる街中でありながら、人の死体にはしなかった点も、無用な殺害は行わない彼の特徴と一致する。彼は、知っていたのだ。二十七年前にもホグワーツ生であった麻理亜を。だから、現在の麻理亜に不信感を抱いていた。
「くっ……」
 このまま、この場に転がっている訳にはいかない。麻理亜は起き上がり、よろよろとティナが去った方向へと歩き出す。
 ぐるぐると回る視界でも、街の惨状を把握する事が出来た。横転し、燃える車。路上に転がる煉瓦や瓦礫に何度も足を取られながら、麻理亜は頭上を見上げ黒い靄の姿を探す。
 悲鳴と喧騒が聞こえ、麻理亜は重い身体を引きずりそちらへと走った。
 マクーザの者達が道路規制を敷き、大勢のマグルがその周りに集まっていた。カメラを抱えたマスコミもいる。野次馬の群れの後ろをすり抜け、カメラを避けながら、麻理亜は結界の内側へと滑り込んだ。
 マクーザが結界を張ったと言う事は、この内側にオブスキュラスを捕らえたのだ。グリンデルバルドも、ニュートとティナも、そこにいる。
「――マリア!」
 ジェイコブとクイニーが、麻理亜の方へと駆けて来た。二人も、結界の内側への侵入に成功したらしい。
「まあ、マリア。あなた、酷い顔」
 クイニーが杖を振る。べったりと付着していた血液が、きれいさっぱり拭い去られた。
「ありがとう、クイニー……だいぶ、楽になったわ。私、血が苦手で」
「何だろう、あの人達は?」
 ジェイコブが、壁の向こうをのぞき込みながら言った。麻理亜とクイニーも、彼の後ろからのぞき込む。
 マクーザのペンタグラム・オフィスで見た立派な頭飾りを被った女性が、大勢の闇祓いを率いて建物へと入っていくところだった。
「ピッカリー議長よ。マクーザで、一番偉い人。一緒にいるのは、闇祓いだわ」
「追いましょう」
 麻理亜、クイニー、ジェイコブは、彼らの姿が消えた建物へと走って行く。扉の向こうに人の気配がないことを確認し、建物へと侵入する。そこは、鉄道の管理事務局のようだった。奥に続く扉が開いたままになっている。こんな状況だ。現状復帰など考えず、先を急いだのだろう。跡をたどるようにして、麻理亜達は建物の奥へと進む。
 冷たい廊下を奥まで行くと、重たそうな鉄の扉が開かれたままになっていた。その先に続くのは、地下への階段。三人は顔を見合わせると、うなずき合い、地下へと続く階段を降りて行った。

 降りた先は、線路だった。暗い空洞の中、叫ぶ複数の声と魔法がぶつかる音が響き渡る。
 線路沿いに音の方へと向かえば、すぐにマクーザの一団の後方へと追い付いた。彼らが杖を向ける先には、地下鉄の天井一帯を覆うような黒い靄。――オブスキュラス。
「……助けを求めているわ」
 クイニーがぽつりとつぶやいた。麻理亜は目を見開いてクイニーを見つめ、それから靄へと視線を移す。――まだ自我があるのか。
 気が付けば、麻理亜は前へと飛び出していた。
 ゆるりと麻理亜の姿が溶ける。麻理亜自身は何も意識していなかった。ただ、あの子供の元へ。守らなければ。助けなければ。急がなければ。
 麻理亜の姿が掻き消える。代わりに現れた宙を靄へと向かう姿を見て、クイニーがつぶやいた。
「……ユニコーン?」
「危ない!」
 ジェイコブが、クイニーの手を引く。
 一瞬の出来事だった。姿現しでもしたかのように、麻理亜がオブスキュラスとマクーザ達との間に現れる。複数の呪文を浴び、麻理亜はどさりと彼らの向こう側へと落ちた。
 介入者に気付いた闇祓い達が、振り返り、呪文を放つ。間一髪、手を引かれたクイニーは彼諸共その場に倒れ込み、呪文はそれて地下鉄の壁を砕いた。
「アー――えっと、ごめん。危なかったから……大丈夫?」
 ジェイコブはドギマギしながら問う。クイニーは急いで起き上がりながらうなずいた。
「ええ……」

 闇祓い達の攻撃により、天井を覆っていた黒い靄は消滅していた。地面に転がる麻理亜に、ティナが駆け寄り抱き起す。
「麻理亜!」
「ありがとう。大丈夫……」
 息も絶え絶えに答える。これ以上は、動けそうになかった。
「クリーデンス……」
 つぶやく低い声に、麻理亜は顔を上げた。
 グレイブスが、ホームの上に立っていた。呆然と天井を見つめていた彼は、次第に怒りに震え出す。
「愚か者たちめ……。取り返しがつかない」
 グレイブスはマクーザの者達を振り返る。最早隠す気もなく、敵意を露わにしていた。
「議長殿にお聞きしたい――いや、皆に聞こう。誰のための法だ? 我々? それとも、彼ら?」
 誰も、答えはしなかった。彼は憤然と背を向け、地上に続く大穴が開いた方へと歩き出す。
「彼を捕まえて」
 ピッカリーが静かに言った。闇祓いの一人が杖を振り、地上と同じ障壁が張られる。行く手を結界に阻まれたグレイブスは、こちらへと方向を変えた。
 彼が軽く杖を振るごとに、闇祓い達が一人、また一人と昏倒していく。ピッカリーは驚きを隠せない様子だった。
 当然だ。闇祓いをこうも簡単に倒してしまう魔法使いなど、そういない。
 ばさりと視界の端で鮮やかな色の羽毛が羽ばたいた。ニュートの手元に飛ぶ鳥の姿を確認するや否や、その鳥は縄へと姿を変え、グレイブスに巻き付いた。
「アクシオ!」
 ティナが杖を向け、彼の手から杖が離れる。続けてニュートが呪文を唱えた。
「レベリオ」
 グレイブスの容貌がみるみると変わっていく。そして、そこに捕縛されて膝をついているのは、黒髪黒目の線の細い魔法使いではなく、白くなった髪を刈りあげた老いた魔法使いだった。
 捕らわれた彼の前へと、ピッカリーは歩み寄る。
「捕らえておけるとでも?」
「我々の威信にかけて、グリンデルバルド」
 部下に成り代わっていた男を見下ろしながら、ピッカリーは厳格な声で言い放った。
 闇祓いがグリンデルバルドの元へと駆け寄り、無理やり立たせる。連行されるグリンデルバルドは、ニュートの前で足を止めた。
「覚悟はできているか」
 ニュートは答えず、グリンデルバルドを見つめ返す。ニュートの肩越しに、彼の目が麻理亜を捉えた。
「――お前は全く変わらないな。マリア・シノ」
 ティナは目を瞬き、グリンデルバルドと麻理亜とを交互に見る。グリンデルバルドは闇祓いに急かされ、ホームを出て行った。
 マクーザ達の間を掻き分けてクイニーが飛び出して来て、麻理亜はティナからの質問を免れた。ティナとクイニーは再会を喜び抱き合う。
 後に続いて出て来たジェイコブが、ニュートにトランクを渡した。
「……街の記憶を消すのは困難ね」
 ピッカリーが言った。
 大勢のマグルが目撃してしまった。街は魔法で修復すれば良いが、人の記憶はそうもいかない。オブリビエイトするにしても、いったい何千、何万人に呪文をかけなければならないのか。マグルが並んで待ってくれれば何とかなるが、そう言う訳にもいかない。一人の記憶を消しても、また直ぐにまだ記憶のある者から話を聞いてしまうだろう。写真も撮られてしまった。あれが出回れば、更に話は広がる。
「そうでもない」
 ニュートが答えた。きょとんとする一同の前で、彼はトランクを開く。
 中から出て来たのは、白く大きな鳥だった。――サンダーバードだ。
「本当はアリゾナで放す予定だったけど。……お前が頼りだ、フランク」
 ニュートは、惜しむようにサンダーバードを撫でる。サンダーバードも、悲しそうに鼻先をニュートの顔に摺り寄せた。
「僕もさみしいよ……。できるよな?」
 ニュートは、薬の入った小瓶を投げる。サンダーバードは小瓶をくわえ、大穴を広げながら外へと飛び立った。
 マグル達の悲鳴が聞こえて来る。サンダーバードは空高く舞い上がり、見えなくなった。
 やがて、雨が降り出した。悲鳴はやみ、外が静かになる。騒いでいたマグル達が、ぼんやりとした表情になり、何事もなかったかのように帰って行くのが見えた。
「皆、忘れたよ。あの薬には忘却の作用がある」
「あなたに借りができました。……早く、魔法動物たちを連れてこの国を出るように」
 ピッカリーは言った。ニュートの魔法生物持ち込みは、幸いにもお咎めなしとなったようだ。
 部下たちを引き連れ立ち去りかけたピッカリーは、ふと足を止めた。
「――そこにノーマジがいる?」
 麻理亜、ニュート、ティナ、クイニーの視線が、ジェイコブに集まる。
「議長。彼は――」
「オビリビエイトして。例外はない。お別れを言いなさい」
 有無を言わせず言い放つと、彼女は今度こそホームを出て行った。

 帰りはトンネル内の従業員口ではなく、ホームの階段からだった。地上への階段を、とぼとぼと五人は上がって行く。
 外はまだ、雨が降っていた。忘却作用のある薬を、サンダーバードの能力によって雨へと変えたもの。――この雨を浴びれば、全て忘れ去ってしまう。
 屋根の下から出ようとするジェイコブを、クイニーが引き止めた。ジェイコブは振り返る。二人の視線が重なった。
「……いいんだ。本当なら、俺はここにいなかった。知る事もなかった」
 ジェイコブは、ニュートへと視線を移す。
「なぜ、俺の記憶を消さなかった?」
「君を好きだから」
 ニュートは即答した。麻理亜は、彼の横顔を見上げる。友達としてであっても、彼が人に対して素直に好意を口にする事は、滅多になかった。
 クイニーが、ジェイコブのそばへと階段を上る。
「二人でどこか遠くへ行きましょう。あなたみたいな人は、どこにもいない」
「俺みたいな奴なんて、どこにでもいるよ」
「あなただけよ」
 二人は見つめ合う。ややあって、ジェイコブが言った。
「……行かなきゃ」
「ジェイコブ」
 ニュートが彼の名前を呼ぶ。
「いいんだ。夢から醒めるだけさ」
 ジェイコブは、後ろ向きに一歩、二歩と歩き、雨の中へと出た。目を閉じ、両腕を広げ、雨を全身に浴びる。
 クイニーが動いた。杖を上に向けて雨を防ぎ、ジェイコブへと歩み寄る。そしてそっと、彼の唇にキスを落とした。
 隣から涙ぐむ声が聞こえたが、麻理亜は振り返らなかった。誰も、何も言葉を発さない。誰もが、彼との別れに踏み込めずにいた。
「……行きましょう」
 麻理亜が言った。ジェイコブの前に佇むクイニーの元へと歩み寄り、そっと手を引く。
 二人の間を邪魔するのは気が引けたが、麻理亜の他にこの役割が出来る者はいないだろう。振り返れば、涙ぐむニュートをティナが支えていた。
 麻理亜とティナは顔を見合わせ、そしてティナはニュートを、麻理亜はクイニーを連れて「姿くらまし」した。





 部屋にはたくさんのタイプライターが置かれ、いくつものパイプが張り巡らされていた。パイプの前では紙を折って作られたネズミがメモを奪い合い、運ばれるはずだったメモは引き裂かれて散り散りになる。
 部屋の奥に位置する机は、今や荷物は何もなく、使い手のなくなったタイプライターだけが残されていた。一方で向かい合わせにされた机は対照的に、書類やお菓子の袋が積み重なっていた。
 半分近く覆い隠されたタイプライターに手を添えながらも、彼女の手は動かず、ぼんやりとしていた。
「……クイニー」
 気づかわし気に声を掛けられ、クイニーはハッと我に返る。
「あ……ごめんなさい。少し、ぼーっとしていて……」
「あ、いや、いいんだ。お姉さんが闇祓いに戻って、寂しいのも無理はない」
 上司である彼はドギマギしながら、慌ててフォローする。彼はもちろん、クイニーとジェイコブとの事など何も知らなかった。
「君に、お客さんが来ていてね」
「お客さん?」
 クイニーが問い返すと同時に、彼の背後からひょっこりと白髪の少女が顔をのぞかせた。
「マリア! いらっしゃい。今日はどうしたの?」
「この前の事で、色々と事情聴取を受けていたの。それで、ついでだからこっちにも顔をのぞかせておこうと思って」
 仕事に戻る上司を目で追いながら、麻理亜は言った。
「それと、あなたに渡したい物が」
 そう言うと、麻理亜はポケットから羊皮紙の切れ端を取り出した。
 受け取ったそこには、一つの住所が走り書きされていた。
「これって……」
「しーっ」
 麻理亜は口元で人差し指を立て、悪戯っ子のように笑う。彼女の橙色の瞳と、クイニーの灰色の瞳が重なった。
 脳裏に浮かぶのは、ニューヨークの街中。書類を抱えた男性に、麻理亜がぶつかる。彼と別れてからまだそんなに経っていないはずなのに、とても懐かしい気がした。
 ジェイコブ・コワルスキー。初めて会ったタイプの、特別な人。
 地面に散らばったのは、不動産の書類だった。慌てて書類を集める彼を手伝うふりをして、麻理亜は記載された内容を確認する。ジェイコブに書類を渡すと、彼が顔を上げる前に麻理亜は姿くらましした。
「どうするかは、あなたに任せるわ」
 記憶の中ではなく、目の前に立つ彼女が優しく言った。
 クイニーは、彼女を強く抱きしめる。
「ありがとう、マリア。本当に……本当に……」
 麻理亜はハンカチを差し出す。受け取ったハンカチで目元を拭いながら、クイニーは尋ねた。
「そう言えば……マリアは、アニメーガスなの?」
「え? 違うけど……どうして?」
 麻理亜はきょとんと尋ね返す。嘘を吐いている訳ではなかった。あの日、地下鉄で見た白い獣のような姿。額に角の生えたその姿はユニコーンによく似ていたが、クイニーの知るユニコーンとはまた違っていた。
 間違いなく、あれは麻理亜が変化した姿だった。しかし、自分の身に何が起こったのか、彼女自身は分かっていない。――彼女は、本心から自分自身を人間だと思っている。
 クイニーは少し迷い、首を左右に振った。
「いいえ……別に。ねえ、マリアはまだしばらくアメリカにいる予定?」
 怪訝そうにしながらも、麻理亜は答えた。
「そう、それも確認に来たのよね。どうせなら、一緒に帰ろうと思って。クイニーは、ニュートがいつイギリスへ帰る予定なのか知らないかしら。ティナなら知ってるだろうと思ったんだけど、今日はお休みみたいで……」
「ニュートの帰国なら、今日よ」
「え!?」
 麻理亜が上げた大声に、同僚の者たちがこちらを振り返った。
「だから、ティナも今日は休みを取ったの。彼の見送りに行くために」
「何時だか、分かる?」
「確か、十一時出航の、マグルの船だったと思うけど……」
「――もう、二十分しかないじゃない!」
 時計に目をやり、麻理亜は叫ぶ。
「ありがとう、クイニー! また会えるといいわね!」
 早口にまくし立てると、麻理亜は慌ただしくタイプ室を出て行った。





 汽笛の音が鳴り響く。麻理亜は大慌てで港を走っていた。
「わーっ、待って待って待って待って!」
 姿現しを使えば一瞬で飛び乗れるが、マグルの船ではそうもいかない。
 赤いトランクを抱え駆ける麻理亜は、船の方から来た女性とぶつかりかけた。
「あっ、ごめんなさ――ティナ!」
「マリア。あなたも今日、出発だったの?」
「急きょ変えたの。ニュートも今日だって聞いたから、どうせなら一緒に帰れたらと思って。行先は同じ訳だし。――ああっ、待って! じゃあね、ティナ! またいつか!」
 桟橋の上がる準備が始まり、麻理亜は早口で言って駆け去る。
 何とか乗船に間に合い振り返ると、ティナが帰って行くところだった。少しスキップしかけ、彼女は我に返ったようにやめる。
 トランクを転がし、欄干を歩く。ニュートの姿は、すぐに見つかった。
「ハーイ、ニュート」
 ニュートは驚いた顔で振り返る。彼のトランクは、また同じような事が起きないよう、鎖でがんじがらめにされていた。
「マリアも今日の出発だったの?」
「まあね。さっき、ティナと会ったわ。彼女と何かあった?」
「いや、別に。お礼とお別れを言って、それから、本が出来たら届けに来るって約束しただけだよ」
 麻理亜は目を瞬く。そして微笑んだ。
「ふうん、そう」
 船は沖へと進み、港はみるみると小さくなって行く。
「……結局また、助けられなかったわね」
 新セーレム救世軍は、統率者であるメアリー・ルー・ベアボーンを亡くし、実質崩壊した。教会からは一人の少年が消えていた。グリンデルバルドが近付いていた、あの少年だ。彼が、オブスキュラスを生む者だったのだろう。麻理亜達は、彼を救う事が出来なかった。
「……いや、クリーデンスはきっと無事だ」
 麻理亜はニュートを見上げる。
「あの時、見たんだ。地下から逃げて行く彼の姿を」
「――本当に?」
「本当だよ。あの場にはマクーザの人達がいたから、言えなかった」
 ――生きていた。
 助けられたのだ。今度は、命が失われる事はなかった。
 熱いものがこみ上げて来て、麻理亜は欄干の上に組んだ腕に顔を伏せた。
「良かった……」
「……マリアも、オブスキュラスと会った事があったの?」
 ためらいがちに、ニュートが訪ねた。麻理亜は顔を上げる。
「助けられなかった命なら、たくさんあるわ。……数えきれないほどに」
 そう言って、麻理亜は寂しげに微笑った。





 イギリスに到着したニュートは、麻理亜が予想した通り、魔法省へ帰る前にホグワーツへ寄る事を選んだ。城の姿が見えると、一気に懐かしさが押し寄せて来た。ほんの数日しか離れていなかったのに、夏休みよりもずっと長く帰っていなかった気がする。
 変身術は授業の入っていない時間帯だったようで、アルバス・ダンブルドアは職員室にいた。他の教師たちは授業中なのか、部屋には彼一人だった。
「ダンブルドア先生、ただいま帰りました」
「マリア! やっと帰って――」
「お客さんよ」
 麻理亜は言って、振り返る。ニュートが麻理亜の後ろから顔をのぞかせ、ぺこりと頭を下げた。
「ニュート! 来るだろうと思っていた。アメリカでの話は、聞いている――グリンデルバルドを、捕らえたと」
「さすが、アルバスは耳が早いわね。まあ、あれだけの大事件だとニュースにもなったでしょうけど」
「君の事を伏せてもらうのに、私もディペット校長も大臣も、苦労したよ」
「それはごめんなさい。ありがとう。記録は消せるけど、魔法の対象に所属しない人達に広まっちゃうと、厄介だものね」
 親しげに話す麻理亜とアルバスを、ニュートはぽかんと見つめていた。この表情が見られただけでも、わざわざ予定を早めて一緒に帰った甲斐があったと言うものだ。
「マリア――君はいったい、何者なの?」
 麻理亜とアルバスは顔を見合わせる。
「話した訳ではないのか?」
「彼なら教えてもいいかなと思うけど、ちょっと驚かせようと思って」
 麻理亜は悪戯が成功した子供のようにクスクスと笑う。
 そしてニュートに向き直り、答えた。
「マリア・グリフィンドール・シノ――ミドルネームは、記憶のない私をこの城で見つけた友からもらったもの。死から見放された、永遠のホグワーツ生よ」


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2017/03/16