麻理亜がホグワーツ城へと戻ったのは、午後の授業の真っ只中だった。訓練場では下級生達が飛び回り、温室の方向からは幽かに叫び声のようなものが聞こえる。マンドレイクの授業中なのかも知れない。温室の方へはあまり近付き過ぎぬように気を付けながら、麻理亜は大扉を押し開く。玄関ホールは、生徒達で溢れ返っていた。
「やあ、マリアじゃないか! 体調はもういいのか?」
大広間へと入ろうとしていた男子生徒が、麻理亜の方へと駆け寄って来る。麻理亜は軽く肩をすくめた。
「体調不良じゃないわ。ちょっと家の都合で、帰らなきゃいけなかっただけ」
答えてから、彼の後ろへと視線を向ける。生徒達は、大広間へと流れ込んでいた。
「いったいどうして大広間へ? この時間って、闇の魔術に対する防衛術の授業じゃないの?」
「魔法省の連中が来て、皆追い出されたんだ。それで、大広間で自習をする事になった。いきなり押し掛けて来て、横柄な奴らだよ。だから、言ってやったんだ。ダンブルドア先生は、良い先生だって」
「ミスター・マクラーゲン」
列は既に、大広間へと収まっていた。マクゴナガルが出て来て、麻理亜と話し込んでいる彼を呼ぶ。マクラーゲンは慌てて、大広間へと戻って行った。
大柄なマクラーゲンが動き、その陰から現れた麻理亜に、マクゴナガルの視線が止まる。
「ミス・シノ。申請より早かったのですね」
「はい、あの……少し、ダンブルドア先生に用事が出来て。また直ぐ戻らなきゃいけないんですけど」
「そうですか。ダンブルドア先生なら闇の魔術に対する防衛術の教室にいますが、今は来客中です」
マクゴナガルは、授業中の来客なんて飛んでもないとでも言いたげに憤然としながら言った。
「でも、ちょうど良かったです。シノ、あなたにも来客がありました」
「来客?」
麻理亜は首を捻る。麻理亜の記憶は、七年ごとにリセットされる。故に、学校外で麻理亜を知る人物は少ない。生徒の保護者であれば我が子から話を聞いた事ぐらいはあるかも知れないが、到底学校を訪ねて来るような間柄ではない。
思い当たるのは魔法省大臣ぐらいだが、魔法省からの来客がアルバスの所へと来ているなら、わざわざ彼が麻理亜の所まで足を運ぶとは思えない。
「どなたがいらしたんですか、マクゴナガル先生?」
「クイニー・ゴールドスタインと名乗っていました。知り合いですか?」
麻理亜は目を丸くする。まさか、クイニーがホグワーツに来ていただなんて。
クイニーは、パリにいるものだと思っていた。ジェイコブは今も、パリで彼女を探し回っている。麻理亜は急き込んで尋ねた。
「それで、彼女は今どこに?」
「あなたが不在だと告げると、帰って行ってしまいました」
「そうですか……」
麻理亜は肩を落とす。それではやはり、ジェイコブに告げた通りティナの所へと向かったのだろうか。パリを探し回る他ないようだ。
複数の足音に、麻理亜とマクゴナガルは振り返る。スーツに身を包んだ魔法使い達が、横に広がって大理石の階段を降りて来るところだった。先頭を歩く男を、マクゴナガルがキッと睨み上げる。
「ご用件はお済みになりましたか、ミスター・トラバース?」
「ああ」
「では――」
「だが、彼の授業を続行する事は出来ない」
大広間の生徒達を呼ぼうと動きかけたマクゴナガルは、眉根を寄せてトラバースを見る。
「彼が魔法を使う事は禁じた。授業を教えるのも禁止だ」
「何と言う事を!」
マクゴナガルは叫び、大股でトラバースへと歩み寄る。
「彼は、ホグワーツの教師です! 何の権限があってそんな事が出来ると仰るのですか!」
「彼には、容疑が掛かっている」
トラバースは階段の上からマクゴナガルを見下ろし、ねっとりと言った。
「グリンデルバルド逮捕への協力を、彼は拒んだ。どうやら彼は、かつてのご友人が目的を達する事をお望みらしい」
「まさか、そんな!」
「彼は、とっくの昔にグリンデルバルドと袂を分かった。今更、手を取る筈がないわ。――決して」
トラバースの目が、麻理亜を捉える。彼はゆっくりと階段を降りて来ると、麻理亜の正面に立った。
「君は――大臣の指示で、ニューヨークに渡っていた子だな? マリア・シノ――ダンブルドアの、お気に入りだとか」
「彼とは古い仲なの。それだけよ」
「では、君がダンブルドアを動かせるか? 恥を忍んで頼んだと言うのに、グリンデルバルドとは戦えないとの、一点張りだ」
麻理亜はキュッと下唇を噛む。魔法省から言われても猶、彼は変わらないのか。グリンデルバルドとの事が、彼にとって大きな後悔と傷痕になっている事は、麻理亜も知っている。そして、彼が特別な想いを抱いていた事も。その未練と痛みが、今も彼を苛んでいる事も。
でも、まさか、こんなにも頑なだなんて。
――いや、それほど深い傷だからこそ、なのかも知れない。
麻理亜の記憶喪失について、あんな言い方をした事も。普段の彼なら、決してあんな言い返し方はしない。それだけ、麻理亜の言葉が彼の逆鱗に触れたのだろう。
「……私が動くわ」
麻理亜は、キッとトラバースを見上げる。真正面に立った彼の顔を見ようとすると、首をほとんど九十度も曲げなければならなかった。
「アルバス・ダンブルドアの代わりに、私が動く。クリーデンスも、私が見つける」
「君に、クリーデンス・ベアボーンを抹殺する事ができると?」
「いいえ。私は殺しはしない。あの子は、保護するべきよ」
「グリンデルバルドは、あの少年を利用しようとしている。彼の手に渡る前に、消滅させるべきだ。あの少年は、人ではない」
「クリーデンスは人間よ!」
麻理亜の声が、朗々と玄関ホールに響き渡る。大広間の扉に隙間が開き、いくつもの生徒達の目がのぞいていた。
トラバースが杖を上げる。麻理亜の盾の呪文が、彼の魔法を弾いた。
ぐにゃり、と空間が歪むかのようだった。空気は張り詰め、ピリピリと軋む。トラバースは、怯えるように、一歩、二歩と、麻理亜から後退した。
「……私の事も、アルバスのように封じようと?」
トラバースの目が揺らぐ。しかし麻理亜の双眸は、彼を捉えて放さなかった。
まだ昼間だと言うのに、まるで夜闇にでも包まれたようだ。粘り気のある闇が、その場にいる者達を絡めとり、動きを封じる。
「あなたは私の敵になろうと言うの? トーキル・トラバース?」
どれほどの間、そうしていただろうか。トラバースは引き剥がすように視線をそらした。
「……リタを、探さなければ」
ようやっと絞り出したような、掠れた声だった。
「子供の相手をしているような時間はないんだ。行くぞ」
トラバースは麻理亜の横をすり抜け、城の外へと出て行く。玄関ホールに満ちていた覇気がフッと失くなり、彼の部下達も後に続いて出て行った。
「シ、シノ……? なんだよな……?」
大広間からのぞいていた一人、マクラーゲンが恐々と声を発した。大広間からのぞく目も、マクゴナガルすらも、恐ろしい怪物でも見たかのような目で麻理亜を見つめていた。
麻理亜はニッコリと微笑う。そこにはもう相手を威圧するような迫力はなく、明るい子供の笑顔でしかなかった。
「ごめんなさい、お騒がせしちゃって。どうぞ、自習を続けて」
いつもの笑顔、いつもの軽い調子で言うと、麻理亜は軽やかな足取りで階段を駆け上って行った。
No.8
羽根ペンが紙を擦るカリカリと言う音が、あちこちから聞こえて来る。図書室にいるのは、六年生以上の上級生ばかり。それもその筈、今は授業中だ。各自の希望の進路と成績で授業を絞り込み、空き時間となった生徒だけが、図書室で勉強をしていた。
インク瓶に突っ込んだ羽根ペンを羊皮紙の上へと戻し、麻理亜は手を止める。書こうとした文字は掠れていた。見れば、もうインクがほとんどなくなり、淵に沿って丸く残っている他は底が見えてしまっている状態だった。
麻理亜は軽く息を吐くと、席を立った。確か、予備のインクが寮の寝室にあったはずだ。
授業中の廊下に、人は少ない。時折、ゴーストがフッと壁をすり抜けて現れては、反対側の壁へと消えて行く。窓から見える中庭も、いつもなら生徒達で溢れかえっているが、今は一人だけ。
(あれ……あの子って……)
噴水の縁に座るスリザリン生を見てとり、麻理亜は足を止めた。
スリザリンのローブに身を包んだ、長い黒髪の女子生徒。授業へ行こうとする様子もなく、一人、本を読んでいる。麻理亜は、彼女が一年生であると知っていた。
麻理亜はグリフィンドール塔とは逆の階下へと降りて行った。中庭に出ると、まだ彼女はそこにいた。麻理亜は、彼女のそばまで歩み寄ると、そっと屈み込んだ。
「何の本を読んでるの?」
彼女は、パッと本を閉じ、顔を上げた。麻理亜は僅かに身を引き、笑いかける。
「ああ、ごめんなさい。驚かすつもりはなかったの。――リタ・レストレンジよね? 一年生の」
彼女の話は、グリフィンドールでもよく聞こえてきた。特に同い年の一年生達は、彼女と仲が悪いらしく、よく悪口を言っていた。
リタは答えず、ふいっと背を向けると逃げるように駆け去ってしまった。
「あっ……」
止める間も無く、彼女は城の中へと姿を消してしまった。
麻理亜は苦笑し、人差し指で頬をかく。
「叱るために声をかけたと思われちゃったかなあ……」
そんなつもりはなかったのだが。
次に出会ったのは、老け薬の調合をしようと向かった魔法道具の部屋だった。
箒置き場と変わらないくらい小さなこの部屋は、棚やキャビネットで壁が埋め尽くされ、麻理亜ですら何に使うか分からないような道具で埋め尽くされていた。この城が学校として開校される前からあった物もあれば、いつの間にか増えた物もある。人の出入りがほとんど無いこの部屋は、人目につきたくない事を成すのに格好の場所だった。
「あら。先客がいたのね。お邪魔してごめんなさい」
リタは意外そうに麻理亜を見上げた。そして直ぐ、また警戒するように麻理亜を睨んだ。
「グリフィンドールの優等生さんが、こんな場所に何の用?」
「ちょっと内緒のお薬作り。秘密の企みにはピッタリよね、ここ」
麻理亜は人差し指を立て、軽くウィンクする。リタは、不快そうな顔をしていた。
「私は何も企んでなんかいないわ」
「あら、それはごめんなさい」
麻理亜はケロリと言って肩をすくめる。そして、小首を傾げた。
「でも、それならどうして?」
「……ただ、誰とも会いたくなかっただけ」
リタは、ふいと視線をそらした。
「ああ、あるわよね。そう言う事」
「人気者のあなたでもあるの?」
リタは驚いたように視線をこちらへと戻す。麻理亜は苦笑した。
「あるわよ、そりゃ。今回は事情があって、だけどね。でも、それなら場所を変えた方がいいかしら」
「……いいわよ、別にここでやっていても」
「本当? ありがとう」
麻理亜は床に魔法薬の材料を広げ始める。リタは何をするでもなく、ただ無言で麻理亜を見つめていた。
それからと言うもの、麻理亜とリタはよく言葉を交わすようになった。そのほとんどは、麻理亜からの一方的なものではあったが。校内ですれ違えば手を振ったり微笑いかけるし、放課後や授業中に一人でいるのを見かければ、話し掛けに行く。最初は警戒していたリタも、もう逃げ出すような事はなく、無愛想ながらも会話に応じるようになっていった。
「マリアは、どうしてレストレンジに笑いかけたりするの?」
ある日、グリフィンドールの後輩が不満気に口を尖らせて言った。
「あいつ、本当に嫌な奴なのよ。この前だって、私に歯呪いをかけてきて――」
「それは、あなたが彼女の悪口を言っていたからでしょう?」
「私が悪いって言うの? レストレンジの肩を持つの? あいつは、スリザリンなのに!」
「悪口を言ったあなたも悪いし、直ぐに手を出す彼女も悪い。あなた達の喧嘩はあなた達の問題であって、他の人達まで巻き込んでどっちの味方だ敵だなんて言うものじゃないわ」
「……マリアは、グリフィンドールなのに。私達の先輩なのに」
拗ねたように呟く彼女の頭を麻理亜は優しく撫でる。
「スリザリンだとか、グリフィンドールだとか、そんなの関係なく、あなた達はどちらも私の可愛い後輩よ」
「マリアは人が良過ぎるわ……」
麻理亜がどんなに言っても、リタとグリフィンドールの一年生の間の諍いは一向に収まりそうになかった。麻理亜の目の前で喧嘩をしていれば止めに入るが、本人達はどうあっても仲良くする気もなければ、悪口や仕返しを止める気もないようだった。
そんなある日、グリフィンドールの一年生が医務室送りになる事件が起きた。相手は、リタ・レストレンジ。彼女は、初めて言葉を交わした魔法道具の部屋にいた。
「……何をしに来たの? 説教?」
リタは背を向けたまま、刺々しく尋ねる。
医務室で、心配する友達や同じ寮の生徒達に囲まれていたグリフィンドールの一年生。
リタは、ひとりだった。
「そんなつもりじゃないわ。お互いに魔法を掛け合ったのでしょう。あなたは大丈夫だったか、気になって」
「あなたはグリフィンドールでしょう。自分の後輩の心配だけしてればいいのよ。いい加減、私に構わないで。いったい何なの? 皆の人気者で、優等生で、寮も歳も違って。そんなあなたがどうして私なんかに構うの? 同情のつもり?」
「そんなんじゃ……」
「あなたに私の事なんて分かりっこない!」
リタは振り返る。キッと麻理亜を睨み上げていた。
「あなたと私じゃ、全然違うもの。家族に除け者にされる気持ちが、あなたに分かる? 分からないでしょう?」
「……そうね。私、家族なんていないもの。家族の顔すら分からない。だから、想像するしかないわ」
リタは、バツが悪そうに顔をそむけた。麻理亜は控えめに笑う。
「大丈夫よ、気に病まないで。私、気にしてないもの。話した事がないんだもの、知らなくて当然だわ」
「……別に、気に病んでなんか無いわ。リタ・レストレンジって、そんなに優しい人じゃないのよ。あなた以外の人は皆知っているわ」
「あら。私の知るリタ・レストレンジは、優しいけどそれを表に出すのに抵抗がある照れ屋さんで、寂しいけど弱みを見せまいと強がる意地っ張りで、友達のために怒る事が出来る勇敢さを持った女の子よ」
リタは目を見開き、麻理亜をふり仰ぐ。麻理亜は肩をすくめた。
「私、『皆の望む姿』なんて当てにしない事にしてるの。……喧嘩の原因、聞いたわ。ハッフルパフの友達の事をうちの一年生が馬鹿にして、それで怒ったのよね」
「……別に、彼女の話し声が煩わしかっただけ」
麻理亜はそっと彼女の頭を撫で、抱き寄せる。
リタはただ押し黙って、麻理亜に身を預けていた。
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2019/04/28