陽子は暫く泣いてから、ようやく顔を上げた。額が熱を持つほどに泣いた。泣きたいだけ泣いて、少しだけ落ち着いた。
そっと目を開ければ、そこにはまるで宇宙のような海が広がっている。
「……不思議」
星空を見下ろしているかのようだ。満点の星空を。
星雲は、水の中で緩やかに回転している。
「不思議で、きれい……」
そしてふと、同じ崖沿い、いくらか離れた所に人影がある事に気がついた。潮風に白髪とも銀髪ともとれる長い髪をなびかせ、陽子と同じように海を覗き込んでいる。
陽子はそっと立ち上がると、その人影の方へと歩いていった。
No.2
ふと背後に人の気配を感じ、麻理亜は振り返った。
そこには、セーラー服を着、赤い髪に緑の目の少女がいた。リリーを思い出させるその特徴に、麻理亜は目を逸らす。
自分は、リリー達を守りきれなかった。ジェームズも、リリーも、ハリーも死んでしまった。シリウスの裏切りによって。
少女は、ただ黙って、軽くお辞儀をする。
「……貴女、誰?」
麻理亜は、ぽつりと呟くように尋ねた。
麻理亜が日本語を話した事に、陽子はホッとする。思っていたほど、陽子の知っている世界からかけ離れてはいないようだ。
「中嶋陽子といいます。あの……ここは、何処なんでしょう?」
麻理亜は、中嶋陽子、と口の中で繰り返す。すると、ここは日本だろうか。この子は迷子か何かなのだろうか。
「紫埜麻理亜――一応、そう名乗ってるわ。
ここが何処なのかは、私も知らない。……恐らく、ここは私の知ってる世界じゃないから」
そう言って、再び海に目をやる。
陽子は、がっくりと肩を落とし俯く。
「貴女も、なんだ……」
陽子の呟きに、麻理亜は目を丸くして振り返る。
「それじゃ、貴女もなの? ……別の世界から、来てしまったの?」
陽子はこくりと頷いた。
「学校に、奇妙な人が来て……あたしを主だとか言ってました。でも、きっと、人違いです。だってあたし、その人の主なんかになった覚え無いし……。
多分、その人を追ってだと思うんですけど、おかしな獣がたくさん襲ってきました。それで、その人が、身を守る為にはここへ来ないといけない、って」
「その、奇妙な人ってのは? 一緒じゃないの?」
陽子は首を振る。
「はぐれちゃって……分からないんです、何処にいるか。もう、日が昇ってしまったのに……。
貴女は、どうしてここへ?」
麻理亜は目を泳がし、思い出す。
いつもの事だが、何故トリップするのかは不明だ。方法もそれぞれ違う。特に今回は、この世界へ来た方法さえ分からなかった。何の兆候も無く、目が覚めたらここにいた。
「分からないわ。目が覚めたら、この場にいた……」
全て、あの世界に置いてきてしまった。あの世界ではヴォルデモートが猛威を振るっている。戦争だ。麻理亜は、図らずもその中から一人だけ逃げ出す事になってしまった。大切な人達を残して。
麻理亜は再び視線を逸らし、見慣れぬ海に目をやる。
二人共、一言も発さず、それぞれに物思いに耽っていた。陽子はその場に立ち尽くしたまま。麻理亜はその場に座り込んだまま。ただ、黙し海を眺めていた。日は天頂を越えた。
麻理亜が腰を上げたのは、短かった影が伸び始めてからだった。
「ずっとここに座り込んでいても、埒が明かないわ。貴女の連れが来る気配もないし……兎に角、この世界の人を探して訳を話しましょう」
麻理亜はそう言って、スタスタと松林の方へと向かう。陽子は頷き、麻理亜の後に続いた。
「とりあえず、私達がトリップしてきた事を信じてくれる人を探さなきゃ。
日が暮れるまでには、何処か屋根のある所に行きたいわね。安全が保障されなくとも、野外よりはマシでしょうし。貴女、妙な獣が襲ってきたって言ったわよね? それがまたいつ襲撃してくるか分からないもの。それとも、確実に撒いた?」
陽子は首を振り、そしてぶるっと身震いする。
あの獣達が、再び襲撃してくるかもしれない。
そこまでは考えていなかった。だが確かに、撒いたとは限らないのだ。
ケイキとは、はぐれてしまった。右も左も分からぬ世界で襲撃に遭ったら、今度は逃げ切れないだろう。ケイキは、ジョウユウとかいうモノを陽子に憑けた。それが、何とかしてくれるだろうか。だが当然、再びあのような戦いなどしたくない。
陽子は、麻理亜の後ろ姿に目をやる。
前を歩く少女は華奢で、肌は白く美しく、白く長い髪は綺麗に整えられていて、とても戦闘が出来るとは思えなかった。
「……あの、紫埜さん」
陽子の言葉に、麻理亜は少し振り返って笑う。
「麻理亜でいいわ。敬語も使わなくていいわよ。寧ろ、敬語使われるのって慣れてないのよね。私の通ってた学校じゃ、上級生相手でも特に敬語を使ったりなんてしないから」
陽子は頷く。
「私も陽子って呼ばせてもらうわね」
そう言い、再び前を向いて歩を進める。林は大して深くない。折れた枝が散乱し、台風でも来たかのようだった。
「……麻理亜は、不安じゃないの?」
臆する事無く先へ進む麻理亜に、陽子は尋ねた。麻理亜の様子は、容姿とはうって変わって、どうもこういった事に慣れているように感じられてならない。
麻理亜はあっけらかんと答える。
「不安、ってのは特に無いわね。寧ろ、心配の方が強いかしら。元の世界に残してきた人達が、今どうしているのか……。
私、異世界トリップって過去に二回、経験してるのよ。だから、今回だって何とかなると思うのよね」
麻理亜は甘く見ていたのだ。
この世界――この国を。
松林をあっと言う間に抜け、その先には、沼地が広がっていた――否、沼地ではない。一見、沼のように見えるが、それは泥の流れ込んだ田圃だった。所々、真っ直ぐに整備された畦が水面から顔を出している。稲はまだ丈が低く、頭だけを泥の上にだして吹き倒されていた。
泥の海の向こうには、小さな集落が見える。その向こうは険しい山。電柱や電線等は無く、家々の屋根は瓦で出来ていて、まるで昔の日本のような風景だった。
景色を眺めていると、ふと陽子が麻理亜の脇腹を肘で突いた。
「あそこにいるの、人じゃない?」
陽子の示す方を見れば、確かに人がいた。田圃で農作業をしているのだろうか。数人分の人影があった。
「行ってみる?」
麻理亜は、強く頷いた。
泥から顔を出している畦を何とか通り、麻理亜と陽子は人影の方へと歩いていった。
近付くにつれ彼らの容姿が見え、ここは若しかしたら日本の田舎なのではないかという麻理亜の淡い期待は打ち砕かれた。顔立ちや身体つきは日本人のようだが、髪の色だけが違った。茶色い髪、赤い髪、黄色い髪。それはちょうど、麻理亜が日系の顔立ちでありながら銀髪である事と似ていた。
着ている物は、着物に似た少し変わった服。九八八年前、麻理亜が創設者達に発見された時にひどく似た雰囲気があった。
彼らはシャベルのようなものを突き立て、畦を壊そうとしているようだった。
ふと、作業をしていた男の一人が顔を上げた。麻理亜と陽子を見て、周囲の人間を突つき、耳打ちする。やがて、その場にいる八人ほどの男女全員がこちらに注目した。
麻理亜は陽子と視線を交わす。陽子が軽く頭を下げ、麻理亜もそれに倣った。
三十前後の黒髪の男が、畦に上がってきた。
「……あんた、何処から来たんだね」
「崖の方からです」
陽子が答えた。他に答えようがなかった。
他の男女は作業する手を止めて、こちらの様子を見守っている。
「崖の方? ……郷里は」
陽子は言いかけ、躊躇う。麻理亜が口を挟んだ。
「住んでいた所なら、イギリスです」
言った所で、彼らはきっと耳にした事が無いだろう。
麻理亜の予想通り、男は首を傾げた。
「イギリス? 何処だ、それは。妙な格好をしている事だし……海から来たのかい?」
麻理亜と陽子は揃って頷いた。厳密に言えば事実ではないが、大体そんな所だ。
男は目を丸くする。
「なるほど、そういう事かい。こいつは驚いた」
男は皮肉な笑みを浮かべる。不穏な目つきで麻理亜達を睨み、陽子の右手に視線を止めた。
「大層なもんを持ってるな。それはどうしたんだ?」
陽子は、手に宝刀を持っていた。麻理亜は、自分がその事に気づかなかった事に驚く。背後に立った者が武器を持っていたのに、その事に気づかなかったなんて。陽子にその気があれば、刺し殺されていた所だ。自分は余程、彼女の特徴がリリーに似ている事に気を取られていたらしい。
「これは……貰ったんです」
「誰に」
「ケイキという人です」
男はこちらへ歩み寄る。
麻理亜はその目に不穏なものを感じ、陽子を後ろ手に庇うようにしてポケットに手を入れる。そして、杖の無い事に気づいた。
陽子も何か察したらしく、一歩下がった。
「あんたには重そうだな。――よこしな。俺が預かってやろう」
陽子は剣を抱き、首を左右に振る。
麻理亜は右手を伸ばし、掌を軽く握っていつでも剣を出せるようにする。
「……大丈夫です。それより、ここは何処なんですか?」
「ここはハイロウだ。
人に物を聞くのに、そんな物騒な物をちらつかせるもんじゃない。それをよこしな」
「放してはいけないと言われてるんです」
「よこせ」
「しつこいわよ、貴方。これを取り上げてどうするつもり? 嫌だと言ってるじゃない」
口を挟んだ麻理亜の横から、剣が渋々と差し出された。麻理亜は驚いて陽子を振り返る。
男は引っ手繰るように受け取り、剣をしみじみと眺めた。
「大した造作だ。これをくれた男は、金持ちだったろう」
見守っていた男女が集まってきた。
麻理亜は警戒し、陽子を背に庇って後ずさる。
「どうした。カイキャクか」
「そのようだ。見ろや、大層な代物だ」
男は笑って剣を抜こうとするが、刀身は鞘を動かなかった。どうやら、飾り物らしい。
「飾りもんか。――まぁ、いい」
男は笑って剣を腰の帯に差す。
背後の陽子が声を上げた。後ろからそっと近付いていた男が、陽子の腕を捻りあげたのだ。
陽子の剣を持った男も麻理亜へと腕を伸ばす。麻理亜はするりとその手を抜けて、間隔を空けて構える。
「彼女を放しなさい!」
「そうはいかないなぁ。カイキャクは県知事に届けるのが決まりだ。
お友達を大事に思うなら、お前も大人しくこっちへ来い。なぁに、悪いようにはしないからよ」
陽子は、怯えた目で麻理亜を見る。
麻理亜は陽子の腕を掴む男を睨みつけた。
「放しなさいと言っているのが、聞こえないの?」
「聞こえねぇなあ。お嬢ちゃんこそ、こっちへ来いと言っているのが分からんのか?」
「分からないわね」
不意に、陽子が動いた。赤い髪をなびかせ、男の手を振りほどき、話しかけてきた男の腰から宝刀を鞘ごと引き抜く。
先ほどまでの様子からは思いもよらぬ素早い動きで、陽子はあっと言う間に彼らから距離を取った。
「……てめぇ」
「気をつけろ、剣を――」
「なあに。あれは飾りもんさ。
おい、娘達や。大人しくこっちへ来い」
陽子は首を横に振り、小さな声で「嫌だ」と答える。
麻理亜はただ無言で、その様子を眺めていた。
「引きずっていかれたいのか? 粋がった真似をせずにこっちへ来い」
「……嫌です」
遠くにいた者達も集まってきた。
陽子は剣の柄に手をかける。男が抜こうとしてもびくともしなかった刀身は、いとも感嘆に鞘から抜けた。
男は息を呑む。
「何ぃ!?」
「近付かないで……下さい」
言いながら、陽子はじりじりと後退する。そして、身を翻し、駆け出した。麻理亜は慌てて後を追う。背後からいくつもの足音が追ってきている。
「来ないで!」
陽子は顔だけ振り返り、叫んだ。かと思うと、その場に立ち止まる。麻理亜は勢い余って麻理亜を抜かし、二、三メートル先で立ち止まった。
陽子は身構えるように剣を構えている。追っ手を切ろうとしているとしか見えなかった。
「陽子!? 駄目よ!」
陽子は剣を大きく振り上げる。陽の光を浴びて、白刃がきらりと光った。
「人殺しは嫌ぁっ!!」
陽子がそう叫んだ途端、ぴたりと腕の動きが静止した。
追いついた者達は切られる事はなく、陽子を引き倒す。暴れぬように馬乗りになって羽交い絞めにし、剣を奪い取る。
麻理亜はハッとして一歩踏み込んだ。陽子を助けなくては。剣を出すのだ。
途端、声が聞こえてきた。
「私には貴女しかいないのよ、麻理亜。その力で私を守っておくれ」
麻理亜が硬直したその一瞬が、命取りとなった。
気がつけば麻理亜は泥水の中に突き倒され、無理矢理腕を背に回されて縛られていた。口の中いっぱいに泥水の味が広がる。その一連の流れは、妙に既視感を覚えた。
陽子も同じようにして腕を縛られ、乱暴に立ち上がらせられる。
「二人共、村につれて行け。その妙な剣もだ。それごと県庁に届けるんだ」
麻理亜は、言った男を睨みつける。唇を噛むと、僅かに血の味がした。
田圃の間を蛇行する細い道を十五分ほど歩かされ、麻理亜らは高い塀に囲まれた小さな町に到着した。ハグリッドよりも一回り高い塀が街を囲んでいて、四角い外周の一方には大きな門がある。頑丈そうな門扉は内開きになっていた。
急かすように背中を押され、麻理亜は街の中に踏み込む。陽子も続いて同じように進まされる。
建物はやはり、日本の家屋に似ていた。たが、異質な気配だけは忘れずに備え付けられている。街に人気の無いのが、尚更、奇妙さを際立たせていた。
ホグワーツとは較ぶベくも無く、一般的な日本の高等学校よりも狭い街だった。その割りに塀だけはやたらと高く、まるで自分が箱の中の人形にでもなったかのようだった。息が詰まった。
麻理亜と陽子は、正面の建物に連れ込まれて行った。中華街の建物のようだが、やはりここも異質だった。細く長い廊下は暗く、ここもまた人の気配が無い。
男達は何やら相談し、麻理亜と陽子を小さな部屋に押し込めた。
部屋と言うよりも牢獄だった。窓には格子が付いている。扉に付いた小さな窓にも格子が付いていて、扉の前に男達が立っているのが見えた。
陽子は寝台らしき物に座り、膝を抱えて俯いた。
「あたし達……どうなっちゃうんだろ……」
「さあね……」
窓に付けられた格子は頑丈で、杖の無いこの状況では、マグルである陽子を連れて逃げ出す事はとても出来そうに無かった。
見張りの様子が気になって、派手に抜け道を探し回る事は出来なかった。
麻理亜も陽子も、何も話さなかった。
一通り部屋を調べ逃げ出せないと観念した麻理亜は、陽子の隣に座って話しかけた。自分が元いた世界、ホグワーツでの出来事を話してきかせた。話の殆どはアルバスとの悪戯の事で、陽子の顔にも笑みが見られた。
しかし、明るく話す声が気に障ったのか、見張りの男に怒鳴られてしまった。それから、二人は黙り込んでいた。
夜になり、三人の女が牢獄へやって来た。先頭は白髪の老婆で、灯りを持ち、服装は遥か昔、ロウェナと共に行った中国の物に似ていた。
老婆は一緒に来た女性達が荷物を降ろすと下がらせ、机を寝台の傍へと引き寄せた。ランプに似た燭台をその上に置き、桶もその場に置いた。
「兎に角、顔を洗いなさい」
二人は順番に水で顔や手足を洗った。泥は乾き、固まって、擦るとパラパラと落ちた。
「……何、これ」
麻理亜が手足を洗っている時だった。陽子が小さく声を上げた。
振り返れば、陽子は髪をほどき、まじまじと眺めて震えていた。
「……どうしたの?」
「髪の色が……変……」
陽子の元の姿を知らぬ麻理亜は、その言葉の意味が分からず首を傾げる。確かに日本人にしては変わっていると思ったが、そのような世界にいたのだろうと思っていた。
老婆も同じように顔を傾けた。
「どうしたんだい? 別に何も変じゃないよ。珍しいけど、綺麗な赤だよ」
陽子は老婆の言葉より寧ろ自分の髪の色を否定するように首を振り、ポケットから手鏡を取り出した。鏡を見つめ、愕然とする。
麻理亜はどきりとした。陽子の仕草は、何処か見覚えがあった。
鏡に映るその姿に狼狽し、取り乱した少女。ただ、それがいつ、誰の仕草だったかが思い出せない。思い出そうとすると、頭の奥が鈍く痛んだ。
兎も角も、陽子もやはり彼女と同じ反応だった。
「……これ、あたしじゃない」
「何だって?」
「こんなの、あたしじゃない!!」
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第7部
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2007/07/21