淳州符楊郡、盧江郷槇県配浪。それが、麻理亜と陽子の迷い込んだ村の地名だった。所は巧州国、一般的には巧国と呼ばれる。
 麻理亜や陽子がこの世界に来て初めて目にした海は、虚海という。そちらから来る異邦の者を、海客といった。虚海の東の果てに日本があるそうだが、この世界で確かめた者はいない。海客は蝕と共に訪れ、帰る手段は無い。
 以上が、老婆から聞いた話だった。
 実際のところ、何の解決にもなっていない。ここの地名が分かった所で、麻理亜も陽子も、巧国なんて国は聞いた事も無い。
 陽子の容姿が変わった事については、何も分からなかった。陽子も、それについては特に頓着している場合ではなかった。
 帰りたい。
 二人の思う事は、唯一つだけ。しかし、その望みは無いに等しい。
 そしてどう考えても、今回のトリップで初めに出会った人達は、麻理亜達の味方になりそうにはなかった。
 空は新月なのかはたまた雲がかかっているのか、燭台を持ち去られた牢獄には、一筋の光さえも無かった。真っ暗な牢獄に、陽子の泣き声だけが響く。
 麻理亜は床に座り込み、土の壁に背を預け、じっと暗闇を見つめていた。陽子に掛ける言葉さえも見つからなかった。

『人は虚海を越えられないのさ。来る事は出来ても、行く事は出来ない。こちらから向こうへ行った人間も、帰った海客もいない』

 老婆の言葉を、胸の内で反芻する。
 今までと全く勝手が違う。この世界は、過去にも異邦からの来訪人の例がある。世界はそれを認めている。
 しかし、帰った者はいない。
 それは、絶望的な前例だった。来訪自体が「ありえない事」である世界ならば、同じく「ありえない事」である帰還も、同じ確率だ。前者が起こったのであるから、後者も希望を持つ事が出来る。
 だがこの世界では、前者はあれども、後者が無い。ここへ来た確率は極めて低い。帰還の確率は、更に降下するのだ。

 いつしか、陽子の泣き声は聞こえなくなっていた。静かな寝息だけが、幽かに聞こえる。
 闇に包囲された獄中。何も、先が見えなかった。





No.3





 陽子を叩き起こしたのは、無骨な声だった。泣きつかれた目に、朝の光が染みる。
 麻理亜はこの場にいなかった。一人になった。それだけで、気分が何倍も落ち込んだ。
 麻理亜は何処へ行ったのだろう。大丈夫だろうか。そして今縄を掛けられている自分は、何処へ連れて行かれるのだろうか。不安が渦巻く。
 外へ押し出され、建物から出たそこは、広場になっていた。一台の馬車が、陽子達の到着を待っていた。
 その中に、既に縄を掛けられた麻理亜もいた。心配そうに陽子の顔色を伺っている。
「大丈夫? 昨日、一口でも手をつければ良かったのに……。警戒を怠らないのは良い心構えだろうけど、それじゃあもたないわよ」
「何か食べられるような気分じゃないから……」
 陽子は辺りを一通り見回すと、周囲を視界に入れぬようにして馬車に乗り込んだ。
 広場やその周辺には、大勢の見物客が集まっていた。顔だけ見れば日本人と何ら変わりない。だが、その髪は多種多様で、酷く奇妙な光景に感じられた。
 人々の表情に浮かぶのは、嫌悪感や好奇心。陽子達はまるで、護送される罪人であるかのようだ。
 陽子は、隣に座る麻理亜をそっと盗み見る。東洋人の顔に、奇異な髪の色。それは、彼女も同じだった。この世界に来て変貌した自分の姿も同じと言えば同じだが、少なくとも陽子は今まではこのような容姿ではない。
 麻理亜は髪を下ろしたままだ。当然、自分の真っ白な髪の色は視界に入っているだろう。だが、彼女がそれに驚いた様子は無い。彼女は元々、この容姿なのだ。
 御者が手綱を引き、馬車はゆっくりと動き始める。
「どうしたの?」
 自分を見つめる視線に気づき、麻理亜は陽子を振り返った。
 陽子は「何でもない」と首を振る。麻理亜だって、同じ仕打ちを受けているのだ。麻理亜は、以前にも同じく異世界へ行った経験があると行っていた。今の陽子には、彼女を頼るしか術が無い。
 家へ帰りたい。風呂へ入りたい。何故、こんな目に遭わなければならない。老婆の言葉なんて、信じるものか。なんとしても、陽子は元の世界へ帰るのだ。
 再び涙を流し始めた陽子に、麻理亜は胸を痛める。このままではいけない。このまま馬車に乗り、行き着く先は分からずとも、良い結果でない事は確かだ。
 麻理亜は両腕を後ろで縛られている。剣を出す事は可能だが、このような狭い場所では危険だ。陽子までも傷つけかねない。
 広間へ連行される間ならば広さはあったが、あの場は人が沢山いた。縄を掛けられる前にしても、逃げ出すには人を切らざるを得なかっただろう。

「あの……何処へ行くんですか?」
 陽子がおずおずと切り出した。男は目を丸くする。お前も喋れるのか、と。
 この男は、乗り込む頃にやってきた。麻理亜が一言「どうしたの?」と言ったのは聞いたが、二人の会話は聞いていない。
 これから連れて行かれる先、そこで待っているものを聞き、陽子は絶句する。
 麻理亜はやはり、と唇を噛んでいた。何としても、この護送中に逃げ出さねばならない。
「県庁までは、どれくらい?」
 麻理亜は、陽子の向こう側に座る男に問いかける。男は半日と答えた。
 半日。その間に、自分達は逃げ出さねばならない。県庁がどのような所にせよ、人が多い事は確かだろう。配浪と同じか……または、それ以上。
 逃げ出す自信はある。一人ならば。だが、陽子を置いていく訳にはいかない。何かを守りながら進む事は、難しい。敵に犠牲を出す事になるだろう。
 陽子が考えているのも、殆ど同じ事柄だった。逃げなければならない。今、この護送中に。
「あたしの荷物はどうなったんですか?」
 陽子の質問に、男は疑り深い視線を送る。
「海客が持って来た物は、届け出るのが決まりだ」
「剣も?」
「……聞いてどうする」
 明らかに、男が警戒するのが分かった。
 麻理亜は言い繕おうと頭を回転させたが、その前に陽子が自然に切り返していた。
「あれは大切なものなんです。
あたしを捕まえた男の人が、とても欲しそうにしていたから。ひょっとして彼に盗まれたんじゃないかと思って」
 完璧な理由だった。麻理亜は自分の置かれた状況も忘れ、思わず感心する。
 男は「くだらない」と鼻を鳴らした。きちんと届ける、と。
「そうかしら。あれは飾り物だけど、とても高価なものなんです」
 陽子の思惑は叶った。男は膝の上に抱えた布袋を開く。中にあるのは、紛れも無く陽子の剣だった。
「飾り物なのか、これは?」
 陽子は頷く。
 男は疑りつつ、宝剣の柄と鞘に手を掛けた。柄と鞘が離れる様子は無い。
 麻理亜は目を瞬く。昨日、陽子はあっさりとこの剣を抜いた。なのに、何故。村の男には抜けなかった。若しかして、陽子にしか使えないような魔法か何かが施されているのだろうか。
「へぇ。本当に飾りもんだ」
 男も、たまげたように呟く。剣の装飾は見事でありながらも無駄に華美という訳でもなく、まるで何処かの王様が振るいでもしそうに見えた。
 陽子は返却を頼んだが、流石にそれは叶わなかった。男は届けるのが決まりだと言い、頑として譲らない態度だ。
 どうしたものか。いっそ、この場で剣を出すか。
 窓の方に背を向ければ、剣を出しても陽子に当たる事はないだろう。そのまま後ろに落とし、刃が上を向いているその一瞬に縄を切る。そして、剣を拾って男を脅す。
 一か八かの勝負だ。誤ってタイミングを逃せば、麻理亜の剣まで奪われてしまう。剣を手放せば、逃げ出せる確率は一気に下降する。麻理亜一人でさえ難しい。
 その時、陽子が麻理亜に重なるようにして窓の方へと身を乗り出した。

「止めて!」
 陽子は、林の一点を見つめている。
「ケイキ! 助けて!!」
「こら」
 男が陽子の肩を掴み、今にも飛び出しそうな彼女を押さえる。
 麻理亜は目を丸くして、林に目を凝らした。そして、見た。林の中に佇む人影。着物のような服を着た、金髪の者。
 麻理亜がそれを目に留めたのは一瞬だった。瞬きをし再び目を開けた時には、その人影は既に無くなっていた。否、いる。だが、それの髪の色までは分からなかった。人影が二つ。獣らしき影が一緒だ。
 陽子は、男に必死に叫ぶ。
「馬車を止めて。知り合いがいるんです!」
「お前の知り合いはここにはいねえよ」
「いたの! ケイキだった! お願い、止めて!!」
 馬車の速度が遅くなる。陽子はケイキの名を呼ぶ。
 麻理亜は思わず腰を上げかけた。影が消えたのだ。あの影がケイキならば、味方の筈。何故、陽子を助けに来ない。
 男は陽子を強い力で引き戻す。陽子は尻餅を着き、再び顔を上げ、ケイキがいなくなった事に気づいた。
「ケイキ!?」
「いい加減にしろ!」
 今度は麻理亜を引き倒しながら、男が叫んだ。
「何処に人がいる。そんな事で騙そうたって、そうはいかねえぞ」
「いたの!」
「私も見たわ。貴方がそちら側にいるから見えないだけでしょう。確かに、そこの林の所に――」
「喧しい!」
 麻理亜は黙り込み、林を振り返る。しかし、そこにはもう何も見えなかった。緑の木々が立ち並ぶばかり。
 陽子も困惑した表情で、林をじっと見つめていた。麻理亜は声を潜め、陽子の名を呼ぶ。振り返った陽子に尋ねた。
「今のがケイキ? でもそれじゃあ、どうして助けに来ないの?」
「分からない……」
 陽子が答えたのと同時に、林の中から声が聞こえた。陽子も麻理亜も男も、声がした方を振り返る。
 赤ん坊の泣き声だ。男は困惑したように、無言で馬車を走らせる御者に声を掛ける。御者はちらりと陽子や麻理亜に目をやり、手綱を繰り出した。馬の足が速まる。
「赤ん坊が」
「構うな。山の中で赤ん坊の声がしたら、近付かない方がいい」
「しかし、な」
 言っている内に、泣き声は更に大きくなる。切迫した、見過ごせないような泣き声だ。
 男が泣き声の根源を探すように、馬車から身を乗り出す。御者はそれを強い声で制した。
「無視しろ。山の中で人を喰らう妖魔は、赤ん坊の声で鳴くそうだ」
 麻理亜は全身を強張らせ、陽子と顔を見合わせた。妖魔。陽子を追っていた異形の獣と同じものだろうか。ここまでも、彼らは追って来たのだろうか。
 男はやはり困惑したように、林と御者とを交互に見る。
 これは、先ほど見えたケイキの仕業なのだろうか。陽子を助け出すべく、何か手立てを考えてあるのだろうか。
 だが、麻理亜が周囲から感じるものは殺意ばかりだった。安心するのはまだ早い。
 そして、一つの疑念を抱える。
 何か、おかしくはないだろうか。
 陽子の学校に、ケイキが現れた。妖魔に追われ、こちらへやって来た。
 そして先ほど、ケイキの姿を目にした。次いで、現れる妖魔。
 ケイキは、本当に陽子の仲間なのだろうか。

 そうしている内にも、泣き声は段々と近付き、その大きさを増す。数も増え、四方八方からの泣き声が馬車を包み込むようになっていた。最早、赤ん坊の泣き声とは言い難い。
 麻理亜は油断無く辺りを見渡す。いつ、林から獣が飛び出してくるか分かったものではない。
 男は身体を硬直させている。選択の余地は無い。麻理亜は、右手を軽く握り閉める。
 次の瞬間、麻理亜は後ろ手に剣を握っていた。一般的な剣に比べ、刃が平たく幅の広いそれ。男は妖魔に怯え、麻理亜を取り押さえるどころか身動きする事もままならない。
「あっ」
 馬車がガタンと大きく揺れ、麻理亜は手を滑らしてしまった。剣は麻理亜の手を離れ、ガタガタと揺れる馬車の上を、後方へと滑っていく。
 危機一髪、馬車を飛び出す前に片足を伸ばして剣を踏みつける。だが、不味い。伸脚のようなこの体勢では、縄を切る事は愚か、剣を拾う事も出来ない。
「縄を解いて!」
 陽子が、男に言う。しかし、男は恐怖の張り付いた顔のまま、首を振るだけ。
「襲われたら身を守る方法はあるの?」
 やはり、男は首を振るだけ。
「縄を解いて。その剣をあたしにください」
 泣き声と馬車との距離は徐々に短くなってゆく。馬車は、乗り手を振り落とさんばかりに何度も跳ねる。麻理亜は、必死に足で剣を押さえつけていた。
「早く!!」
 陽子の怒鳴り声に、男はようやく身動きした。
 しかし、同時に走る揺れとは比べ物にならぬほどの衝撃が、馬車を突き上げた。
 地面に投げ出され、陽子は馬車が転倒した事に気がつく。赤ん坊の声は、既に林の縁まで迫っている。
「お願い! 縄を解いて!!」
 陽子の声に、馬の悲痛な泣き声が重なった。馬の一頭に、大きな黒い犬が襲い掛かっている。白い鼻面が、一瞬の内に赤く染まった。男達の悲鳴が上がる。
「これを解いて剣をよこして!」
 男には陽子の声など届いていなかった。陽子の剣を抱えたまま、坂を駆け下る。
 林の中から、数匹の黒い獣が飛び出す。後に残ったのは、首と片腕の無い男の姿だった。
 陽子は、馬車に身を寄せた。隣では麻理亜が、ずっとその場に座り込んでいた。脇には、麻理亜の剣。
 陽子の肩に何かが触れた。御者だ。手には、小刀を握っている。
「逃げな。今なら奴らの傍をすり抜けられる」
 御者は陽子、そして麻理亜と順に、腕を縛る縄を切った。
 麻理亜も陽子に続いて立ち上がろうとしたが、それは叶わなかった。右の足首に鋭い痛みが走る。
「麻理亜?」
 陽子は疑問符を浮かべて振り返り、そして麻理亜の足元に目をやり表情を強張らせた。
 麻理亜の足は、馬車という重石によって拘束されていた。そして、麻理亜の着る長いローブの裾は、新しい血が滲んでいる。
「麻理亜……!」
「私の事はいいから、逃げて! 私なら、何とでもなるわ」
 麻理亜は切羽詰った声で怒鳴る。今にも、獣が襲いくる事だろう。
「でも……」
「早く! 死ぬわよ!!」
 陽子は気圧されたように頷くと、御者に促されるままに坂の下へと駆けて行った。獣達と死体を前にし、離れた所で小石を集め出す。そんな物で、何が出来るというのか。投げ付けでもするつもりか。
 獣の一頭が顔を上げるのが分かった。それにつられる様にして、他の獣達も次々と顔を上げ陽子に対峙する。
 陽子は駆け出した。麻理亜の想像通りだった。陽子の手を離れた小石が、獣の鼻面に直撃する。だがもちろん、それで獣を倒せる訳ではない。動きを一瞬止める程度。
 御者はというと、陽子と反対方向に駆け出していた。陽子を囮にしたのだと、麻理亜は理解する。
 だが、それ以上他の者達の様子を眺めている訳には行かなかった。視界の端に、黒い影が映る。麻理亜は咄嗟に、傍らの剣に手を伸ばす。
 地面に座り込んだまま剣を振り回し、何とか我が身を守る。
 この姿勢で、一体どれほど持ち堪えられるだろうか。黒い犬は、絶える事無く襲い来る。一体、何匹いるのだろう。この場で戦い続けるのは、圧倒的に不利だ。
 右へ左へと剣を振り回し、獣を薙ぎ払う。身体を動かすのと共に足に走る激痛に、麻理亜は顔を歪める。
 その一瞬に、正面から獣が襲い掛かってきた。咄嗟に、剣を突き立てる。獣の腹から鮮血が噴出す。獣はそのまま馬車へと突っ込み、麻理亜の足枷を外してくれた。
「……ラッキー」
 麻理亜は次に来る獣の首を落としながら、すっくと立ち上がる。足に重心を掛ければ、痛みが走る。だが、我慢するしかない。
 絶対に、あの世界へと帰るのだ。ここで死ぬ訳にはいかない。
 麻理亜は剣を振るいつつ、陽子の方へと駆け出した。





 陽子は一人、林の中で膝を抱え座り込んでいた。
 否、一人ではない。二メートルほど先に、ぼんやりとした光があった。薄青い燐光のような毛並みの猿だ。丈の高い雑草の間から首だけを出し、歯茎をむき出しにしている。それはまるで、陽子を嘲笑っているかのようだった。
「喰われてしまえば、一瞬だったのにサァ」
 陽子は柄を握り締め、巻き付けた制服の間から抜き出す。
「……貴方、何?」
 猿は甲高い声でキャラキャラと笑った。
「オレはオレさァ。あんたの味方さァ。馬鹿な娘だよ、逃げるなんてヨォ。あのまま喰われてれば、辛い思いをせずに済んだのになァ」
「何者、なの?」
 陽子の問いに、猿はからかうような返答しかしない。
 ジョウユウが緊張する様子は無いので敵ではないのだろうが、味方にも見えなかった。この猿の言葉を鵜呑みにする訳にはいかない。
 猿は、帰れないと断言する。笑い声を上げながら、陽子が帰れる事は決して無いのだと。
 そして、陽子は騙されたのだと。
「だま……された?」
「馬鹿な娘だよ、ナァ? お前は、そもそも罠にはめられたのサァ」
 陽子は息を飲む。
 否定する言葉が思いつかなかったのは、思い当たる節があったからだ。
 何故、ケイキは助けに来ない。何故、ケイキが現れると妖魔に襲われる。
「思い当たる節があるだろう? お前は、こっちに連れて来られた。二度とあっちに帰さない罠だったのサァ」
「やめて!」
 どんなに剣を振り回そうとも、ジョウユウの力を借りぬ切っ先が猿に当たる事は無い。
「そうやって耳を塞いでも、事実は変わらないよォ。そんなもんを後生大事に振り回しているからさァ、死にぞこなっちまうのサァ」
「やめてっ!」
「せっかくいいもんを持ってんだから、もっとマシなことに使いなよォ。――それでちょいと自分の首を刎ねるのさァ」
「黙れぇっ!!」
 剣で払った先に、猿はいなかった。少しばかり遠ざかり、やはり首だけが覗いている。
「いいのかい? オレを斬っちまってサァ。オレがいなかったら、お前、口を利く相手もいないんだぜ」
「それぐらい、麻理亜がいる」
 陽子が麻理亜の名を出した事に、猿はまたしてもキャラキャラと大声で笑った。
「あの白髪の女か。あいつは信用ならねえよォ」
 陽子は眉を顰める。
「……どういう事」
「だってそうだろうよォ。お前、あの女の何を知ってるんだい? あの女は、自分の話を全然しないだろうよォ。あの女は、ホントに海客なのか怪しいもんさァ」
「何を馬鹿な事を」
「それじゃあ、あの容姿はなんだい? まるっきり、この世界の人達と同じじゃないかよォ。お前みたいに突然変わった訳でもないみたいだしナァ。
以前にも異世界へ飛んだことがあるなんて、自信あるような事言ってさァ。結局、あの女が何をしてくれた? 村の方へ行こうと言い出したのも、あの女だったよナァ」
 陽子は言葉を失う。猿の言葉は、確かに事実だ。
「でも……だけど、麻理亜だってあたしと同じよ。同じように捕まって、同じように縛られ護送された」
「分からないぜェ。若しかしたら、あの女もお前を捕らえるのに加担してたりしてナァ。この世界の奴らの仲間だったりしてナァ。
なんで来ないのかねェ? 今頃、県庁とやらに報告に行ってるのさァ。お前をどの辺りで取り逃がしたのかをナァ」
「麻理亜は来る」
「例え来たとしたって、信用は出来ねえよォ。お前に懸賞金が掛かるのを待つとか、せいぜいそんな所さァ。
あの女は、名前を名乗る時に何て言った? 『一応、そう名乗っている』――随分と妙な言い方じゃないか。村の男に郷里を聞かれた時だってそうさァ。『住んでいた所なら』――なんで、そんな妙な物言いをするのかねェ」
「貴方はどうしてだって言うの?」
「さあナァ。オレはただ疑問を述べているだけさァ。あいつが何か隠してる事は確かだ。あいつは得体が知れねえよォ」
 陽子は震える拳を握り締める。
 これ以上、聞きたくない。
「可哀相になァ。こんな所につれて来られて」
「……どうすればいいの」
「どうしようもないのさ」
「……死ぬのは嫌」
 それはあまりにも恐ろしく、選択する事を憚られる。
「勝手にするがいいさ。オレはお前に死んでほしい訳じゃないからさァ」
「何処へ行けばいいの?」
「何処へ行っても同じだ。人間からも妖魔からも追われるんだからヨォ」

 ガサガサと草を掻き分ける音がし、陽子はハッとそちらを振り返る。
 出てきたのは、麻理亜だった。麻理亜は陽子の無事を確認し、ホッと安堵の息を吐く。
「良かったわ、はぐれたままになるかと思った。貴女の声が聞こえてきて……誰と話していたの?」
「誰って……」
 陽子は振り返り、言葉を失った。
 辺りの何処にも、あの薄青い燐光は見えなかった。
「特に重症はないみたいね」
 麻理亜の言葉に、陽子は思い出し、振り返る。
 麻理亜の足に目をやったが、特に大きな怪我は見られなかった。切り傷があり、出血はしているようだが、先ほど馬車の傍らで見たときと比べ、格段に小さな物となっている。
「麻理亜……足の怪我は……?」
「見た目ほど大した事無かったみたい。ごめんなさい。心配かけちゃって」
 そう言って、麻理亜は微笑う。
 他にも、麻理亜の身体に特に重症は見られなかった。あれほどの獣と戦ったというのに。猿の言葉が思い出される。
『あいつは得体が知れねえよォ』
 違う。重症が無いのは、陽子だって同じだ。麻理亜だけの話ではない。
 陽子は、麻理亜の持つ剣に目をやる。だが、これは一体どうだろう。この剣は、一体何処から現れた? こんな大きな剣、麻理亜は何処にも持っていなかった。突然、何処からか出てきたのだ。
「麻理亜……その剣は、一体……?」
 陽子はおずおずと尋ねる。
 麻理亜は「ああ」と自分の手に目をやる。
「こんな事を言うと突飛で信じられないだろうけど、私が元々いた世界って魔法界なのよ。私は魔女なの。これは、魔法みたいなもので出したのよ」
「魔女……?」
「ええ。でも、運の悪い事に杖は置いて来ちゃって……戦闘手段は、この剣だけ」
『よく出来た言い訳だよナァ。魔法が使えるなら、もっと簡単に逃げ出せただろうにヨォ。なんでこいつは、何もしないんだろうナァ』
 脳内にあの猿の声が聞こえるかのようだった。陽子は頭を振り、それを追い出す。
 杖を持たないと言ったではないか。この剣しか、戦う手段が無いのだと。これほどにも大きな剣だ。そう簡単には出せまい。
 再び、ガサガサという音が聞こえてきた。麻理亜は剣を起こし、身構える。ジョウユウも反応を見せていた。
「何……」
「……どうやら、夜に眠る事は出来ないみたいよ」
 麻理亜と陽子は月明かりを求め、同時に駆け出した。


Back  Next
「 Different World  第7部 居場所 」 目次へ

2008/01/26