夕暮れが訪れようとしていた。西日は木々に遮られ、ただ空へ高く突き出す木々の先が赤みを帯びている。
 陽子は脇に置いた剣を引き寄せ、ゆっくりと眼を開いた。何か、物音が聞こえたような気がしたのだ。敵襲か。だが、ジョウユウが警戒する様子は無い。
 今度は確かに音が聞こえ、陽子は上体を起こし隣を振り向いた。
 茶色と言うには赤みの強すぎる瞳が、陽子を捕らえる。彼女は、長い白髪を肩の後ろへと払う。
「ごめんなさい。起こしちゃったかしら」
「ううん。いいの」
 何にせよそろそろ起きねばならないから、と陽子は答える。そして、麻理亜の手元を見やった。
「それ、何をしてるの?」
 麻理亜が座り込む傍らには、幾つもの石が転がっている。片手で握って余るほどの石がいくつか。窪みがあったり尖っていたりと歪な、やや大きな石が二、三個。
 片手は歪で大きな石を押さえ、片手は手の平サイズの石を握り、石と石とを打ち付けている。
「……こうしたら、窪みをもっと大きくなって、コップの代わりにならないかなって」
 そう言って麻理亜は苦笑する。
「人目を盗んで人里へ行けば、水は手に入るでしょう? 田園だもの、川ぐらいあるわ。それを何とかして貯める方法はないかと思ったの。
でも、駄目ね。当然だけど、石ってそんな簡単に崩れてくれないわ」
 ふと、臭気が漂う。日々血をすすって生きる獣の匂い。麻理亜は油断無い視線を夕闇に向ける。
 陽子の方も、ジョウユウが反応し、腕を上げ剣を構える。
「来たみたいね……」
 張り詰めた麻理亜の声。陽子は緊張した表情で頷く。
 木陰から、黒い影が飛び出した。麻理亜と陽子の身体が瞬時に動く。次の瞬間には、血飛沫。さっと身を引き、それを避ける。
 装飾の見事な鋭く長い刀剣と、金文字の掘り込まれ立派な太い刀剣と。どちらも、その持ち主の身体に比べ不釣合いなまでに大きい。彼女達はそれを振るい、突き立て、払い、切り落とし、応戦する。
 陽子が麻理亜に眼で合図し、駆け出す。麻理亜は襲い来た獣を峰で打ち木に叩きつけると、陽子の後を追って駆け出した。





No.4





 馬車から逃げ出した後、ようやく眠りに就けたのは日が昇ってからだった。草むらに隠れるようにして、落ち着かない睡眠をとる。夕方には眼を覚まし、再び戦って夜を過ごす。
 食事は、昨日起きた時にとった僅かな木の実だけだった。麻理亜が、陽子が眠っている間に見つけてきたらしい。
 一握りほどしかないそれを二人で分け、気休め程度に食べるとポケットにしまった。夜、戦いの合間、獣を倒すか逃げ切るかして安全な内に、それを口に含む。
 陽子の持つ珠のお陰で飢え死ぬ事は無いが、それでも空腹を感じない訳ではない。
 二人共空腹を通り越し、限界に達していた。

「――このままじゃ、もたない」
 林を当ても無く歩き回って四日目、陽子が言った。
「ケイキを探す必要がある。でも、こんな人気の無い所を歩いていて、人探しなんて出来る筈が無い。街に行かなきゃ」
 麻理亜は傍らの木に背を預け、ただ無言で頷く。
「だけど、この姿で街に行けば、自ら捕まりに行くようなもの……」
 陽子はそこで、口を噤む。
 所持金は無い。
 方法は、一つしかない。
 その事にはずっと気づいていたが、その方法をとる勇気が無かった。決心して口火を切ったものの、やはりそれを口にするのは躊躇われる。
「つまり、衣服を変える必要がある……。私達はこんな容姿だもの。服装さえ着替えれば、この世界の人達に溶け込めなくもないわ。
だけど、分かってる? この世界の人達の対応を見る限り、手助けなんて望めない。そうなると、方法は窃盗のみ……」
 麻理亜は眼を伏せたまま、顔を上げない。
 最初の内は魔法界の話を色々と明るく話して聞かせてくれた麻理亜も、疲れの為か、次第に黙りがちになっていった。長い白髪は、破れたローブの裾を紐にして縛っている。疲労し俯いた小さな姿は、まるで年老いた老婆のようだ。
「――このままじゃ、例え捕まらなくっても、力尽きてしんでしまう」
 麻理亜は顔を上げる。陽子は、翡翠色の瞳で麻理亜を正面から見据えた。
「大丈夫。盗みを働く覚悟は出来てる。……生死に関わるもの」
 陽子はキュッと口を真一文字に結び、真剣な瞳で頷いた。





 真っ青な田園風景が眼下に広がっている。青々とした田圃、そこで作業をする人影。
 昨日は早くに眠れた為、今日は普段よりも早く起きた。日はまだ高く、点々とした集落に人影は見えない。
 田圃にある人影は、かろうじて人だと分かる程度。顔は愚か、服装さえも見えやしない。この世界の人々の視力が自分たちと同じくらいならば、この距離で気づかれる事はないだろう。
「行くよ」
 麻理亜はそっと声をかけ、林を出る。陽子がそろそろと後に続く。
 コンクリートなどで整備はされていない道を、一番近くの家へと足早に向かう。塀は無い。小さな畑に囲まれた、貧しいたたずまいの家。
 麻理亜は眉間に皺を寄せる。不味い。家の周りに畑があるという事は、この家の主はそこで作業をしている可能性が高い。いつ戻ってくるか、分かったものではない。
 だが、今更引き返す事など出来なかった。何も得ずに林へ戻れば、目撃される可能性が高い。異形の獣だけでなく、役人からも林で逃げ回るなど、勘弁だ。
 白髪と赤毛が、窓から中を覗く。中に人影は見えない。物音もしない。
 剥げかけた白い土壁に沿って注意深く歩いていく。井戸の傍に板戸を見つけ、手をかけてみる。板戸は難なく開き、二人は再び中の様子を伺うと、するりと中へと滑り込んだ。
 六日ぶりに眼にする「家」を懐かしそうに見渡す陽子を、麻理亜は厳しい顔つきで仰ぎ見る。
「この家の人がいつ戻ってくるのか分からない。時間は無いわ。二着。最低限それだけ見つけたら、さっさと逃げるわよ」
 そう言って、たった一つの扉へと真っ直ぐ歩み寄る。部屋の中に耳を傾け、気配が無いのを確認すると音を立てぬようゆっくりと開いた。
 陽子は小走りでそちらへ行き、麻理亜に続いて中に入る。
 部屋は、寝室のようだった。寝台は二つ。棚や小卓や大きな木箱が、床の上に置かれている。
 窓は開いている。それを確認し、そっとドアを閉じた。
 麻理亜は、真っ直ぐに棚へ向かう。陽子は、木箱の蓋をそっと開いた。棚を一通り覗き、麻理亜は首を振る。
「ここには目当ての物は無いわ。そっちはどう?」
「布は入ってるけど……衣服の形をしてるものはないわ」
 麻理亜は「そう」とだけ呟き、室内を見回す。しかし、他に着る物の入っていそうな家具は無い。陽子は更にその箱の中を漁り続ける。
 何の気無しに寝台の方を見、そしてハッと思い出した。別の世界にトリップした時の事だ。寝台の下に引き出しの付いたホテルがありはしなかったか。
 予想は当たった。広げっ放しにされた布団を捲る。木製の引き出し。音を立てぬようにそっと開ければ、中には薄い布地で出来た衣服があった。
「陽子」
 ここに、と言いかけて、麻理亜は顔を強張らせる。
 隣の部屋から、扉を開く音が聞こえてきたのだ。
 軽い足音が、隣の部屋を動き回る。麻理亜は血相を変え、すっくと立ちあがる。
 窓、隣の部屋、自分の足元へと目まぐるしく視線を移す。せっかく、衣服を見つけたのに。一刻も早く逃げ出さねばならない。窓へ走るのだ。
 しかし、足元を見るとそれが惜しく思われる。これさえあれば。これさえ手に入れれば、行き先の無い旅からは逃れられる。人の手だって借りられるかもしれない。
 麻理亜は、一番上に重なった衣服をむんずと掴み、広げた。手にしたのは、三枚の着物。長さからして、上着だろう。辿り着いた村で見かけた農民たち、彼らが着ていたような下も何処かにある筈だ。
 引き出しの中を引っ掻き回し、引っ張り出しては広げ、広げては放り出し、放り出しては引っ掻き回す。鼓動は波打ち、隣の部屋の足音がやけに大きく聞こえる。暑くもないのに、汗が頬から顎を伝って滴り落ちる。
 ようやく下に履く物と思われる衣服を見つけ、麻理亜は身体を起こす。
 陽子は、ドアをじっと見つめたまま固まっていた。足元には、木箱から引っ張り出した布の類が散乱している。
 ドアが開いたのは、突然だった。

 戸口に立った女は、硬直し震える。陽子も、そして麻理亜も、ただ黙って呆然と立ち尽くしていた。
 見つかってしまった。衣服を諦めれば、逃げる事も可能だった。今、突然駆け出して、窓から脱走できるとも思えなかった。それをするには、あまりにもこの部屋は小さすぎる。
 この後、一体何が麻理亜達を待ち受けているのだろう。県庁へ連れて行かれた麻理亜は、どうなるのだろう。いっそ死ぬ事が出来れば楽なのに、と麻理亜は思った。麻理亜の皮膚は、並大抵の刃物では貫く事が出来ない。この世界で、麻理亜を死刑にする事は可能なのだろうか。麻理亜を待つのは、永遠に終わる事のない拷問になるのだろうか。
「うちには盗む値打ちのあるものなんて、無いよ」
 そう言った女の声は、震えていた。
 この女は、人を呼ぶだろう。外の田畑で作業をしていた男たちだ。麻理亜と陽子は先日のように組み伏せられ、そして連れて行かれる。
 帰る、と思っていた。絶対に帰るのだと。
 だが実際、帰った所で何になるというのだろう。恐らく、自分は死んだものとして扱われている。ヴォルデモートの魔手がリリーとジェームズに伸びた今、他の仲間達も無事でいるとは限らない。
 麻理亜は疲れ果てていた。死喰人との攻防、妖魔との連戦。殺さずに済む時には、出来る限り命は奪わない。だが、殺さずに済む場合など滅多に無い。人や獣に死を告げ続けた腕は、酷い死臭を放っている。
 もう、終わるがいい。殺すなら、一思いに殺してくれ。拷問も、いずれは命尽きるだろう。
 女は、麻理亜と陽子を交互に見る。彼女の一声が、麻理亜に死を告げる。
「……それとも着る物? 着物が欲しいのかい?」
 二人の足元に散らばる物を見て言ったのだろう。麻理亜は眼を瞬く。女が叫びだす気配は無い。
 女は、静かに部屋へと入ってくる。
「それじゃあ、上着の下に着る物が無いよ」
 麻理亜が手にした衣服に眼をやり、女はきびきびと言う。
 近づいてくる女に、麻理亜は警戒して後ずさる。女は苦笑しながら、先ほどまで麻理亜が立っていた所に膝をついた。そして、陽子の方をちらりと振りかえる。
「その箱の中は使わないものばかりなのさ。死んだ子供の着物とかね。
どんな着物がいい? あたしのものしか、ありゃしないんだけどさ」
 そう言って、麻理亜と陽子を振りかえる。
 困惑して何も言えずにいると、女は再び背を向けて着物を広げ出した。
「娘が生きてりゃ良かったんだけどね。どれもこれもあんたたちにゃ、地味かね」

「……何故」
 呟いたのは、陽子の声だった。
 麻理亜も同じ気持ちだった。何故、彼女は逃げ出さない。人を呼ばない。何故、そこまでしてくれる。
「なぜ?」
 女は振りかえる。
 陽子はその先を続けようとはしない。麻理亜も、言葉が出なかった。
 女はまだ僅かに強張った顔で笑う。
「あんた達、配浪から来たんだろう?」
「……ええ」
「海客が逃げた、って大騒ぎさ」
 麻理亜は陽子に眼をやる。やはり、自分達の話は伝わっているようだ。知らない訳ではないらしい。
 陽子はじっと女を見つめたままだった。女は苦笑する。
「頭の固い人間が多くてねぇ。海客は国を滅ぼすだの、悪い事が起こるだの。蝕が起こったのまで、まるで海客が起こしたと言わんばかりだからお笑いさ」
「貴女は……そう思わないの?」
 麻理亜はやっとの事で、声を振り絞る。女は眼を瞬き、それから笑った。さっきよりも、自然な笑みになっていた。
「どうやって、あんた達みたいな女の子が蝕を起こすって言うんだい。単なる迷信さ」
 それから、麻理亜、そして陽子をまじまじと見つめる。
「……あんた達、その血、どうしたんだい?」
「山の中で、妖魔が……」
「ああ、妖魔に襲われたのか。最近、多いからね。よく無事だったねぇ」
 女は手に持った衣服を置き、立ち上がった。
「とにかくお座り。ひもじくはないかい? ちゃんと物は食べていたのかい。二人共、酷い顔色をしているよ」
 麻理亜はただ眼を伏せる。陽子が左右に首を振った。
「とにかく何か食べる物をあげようね。湯を使って汚れを落として。着物の事はそれから考えよう」
 女はそう言って、隣の部屋へと戻ろうとする。ドアの所まで行くと立ち止まり、振りかえった。
「あんた達、名前は?」
「……麻理亜、です」
 陽子の声は後に続かなかった。
 麻理亜が眼を向ければ、陽子はその場にうずくまっていた。涙が褐色の頬を濡らしている。
「かわいそうに」
 女は部屋に戻ってきて、陽子の背をそっと叩く。
「かわいそうに、辛かったろうね」
 陽子の喉から嗚咽が漏れる。
 麻理亜は直視する事が出来ず、眼を伏せる。陽子はまだ十六だ。この五日間が、どんなに辛かった事か。だけれど、麻理亜は自分の事で精一杯だった。
 ――ありがたい。
 何百年生きていようと、自分は万能になり得ない。なるとすれば、それは人の心を失い、何も感じなくなった時だろう。それは、ある種の死を意味する。麻理亜はまだ生きている。生きている限り、麻理亜が万能である事は無い。
 第三者の力が必要なのだ。そして、それはこの世界では望めないと思っていた。皆、海客である麻理亜達を恐れる。皆、海客である麻理亜達を捕らえんとする。
 自然、頭が下がった。
 思いを言葉には出来なかった。言葉では言い表せなかった。





 女は達姐といった。
 小豆の入った甘いお粥を食べて、盥に張った湯で身体を洗って、清潔な寝間着に着替えて。そうしてようやく、陽子も落ち着いたようだった。
 達姐は、この国の事を教えてくれた。国は十二あり、北の山を越えると慶国がある。ここは巧国の五曽。麻理亜達の流れ着いた配浪は、ここから東に五日ほど歩いた所らしい。
 神仙の存在や、陽子を襲った妖魔たち。今や麻理亜は、例え何が起こってもこの世界では不思議ではない気がしていた。
 達姐は、仕事まで案内してくれるという。河西で、彼女の母親が宿を営んでいるそうだ。麻理亜と陽子は、ありがたく紹介してもらう事にした。
 ケイキの事は、何も分からなかった。

 疲れている筈なのに、麻理亜はなかなか寝付けなかった。
 ここ数日、そうだった。浅い眠りに就いては、大して時間が経たぬ内に眼を覚ます。
 林にいる時は、妖魔を警戒しているからだと思っていた。このような険しい旅では警戒するのが常になってしまって、寝付く事が出来ないのだと。
 だが、安全な屋根の下にいても、どうにも眠る気がしない。隣にいる陽子も、向かいの寝台の達姐も、静かな寝息を立てている。決して、彼女達を警戒している訳ではない。
 なのに、どうして。
 眠るのが怖い。
 麻理亜達は、本当にここにいても良いのだろうか? 達姐の世話になっても良いのだろうか?
 それは、達姐を信用しないだとかそういった話ではない。自分達を匿った事を知られたら、達姐はどのような仕打ちを受ける事か。

『――この道を真っ直ぐいきなさい。そうすれば、町を出られる。私達も、後から行くから』

 ――え?
 麻理亜は上半身を起こし、部屋を見渡す。部屋にいるのは、麻理亜と、陽子と、達姐のみ。陽子と達姐は眠っている。それに、今の声は陽子とも達姐とも違った気がする。
 気のせいだろうか。そう思い直し、再び布団に寝そべる。
 自分達は、達姐の元から離れるべきではないだろうか。見つかるのは時間の問題だ。彼女たちも、麻理亜を匿った。大丈夫だと言っていた。
 大丈夫だと言ったのに、彼女達が来る事は無かった。麻理亜を匿ったが為に捕らえられたのに、麻理亜はあまりに無力で助ける事も出来なかった。
 そこまで思い、麻理亜はハッとする。
 今のは一体、何の話だろう。彼女達とは、誰の事か。
 「大丈夫だ」と言った人物――別の世界で出会った今は亡き友、明美が脳裏に浮かんだが、直ぐに切り捨てた。彼女は違う。匿ったという訳ではない。そもそも、「たち」が思い当たらない。
「過去の記憶……?」
 麻理亜は、声に出して呟いてみる。声は、闇に吸い込まれるようにして消えてゆく。
 そうなのだろうか。これは、過去の記憶なのだろうか。今までにも、何かにつけて既視感のようなものを覚える事は幾度と無くあった。記憶が戻りつつあるのだろうか。いつか、全てを思い出す日が来るのだろうか。
 いざそう思うと、喜ばしさよりも恐ろしさの方が強かった。
 思い出したくない。
 何故そう思うのかは分からないが、ただ怖かった。昔、アルバス達との学生時代に見た、記憶の欠片の所為かもしれない。
「……」
 あれを記憶として思い出すのは、末恐ろしい。
 麻理亜は布団を頭の上まで引っ張り、潜り込む。そのまま、不安な眠りへと堕ちていった。


Back  Next
「 Different World  第7部 居場所 」 目次へ

2008/03/02