僅かな物音に、麻理亜は目を覚ました。日は既に昇り、暖かい日差しが窓から差し込んでいる。
 部屋を出て行こうとしていた達姐が振り返る。
「ああ、起きたかい。よく眠れたかい?」
「ええ。ありがとうございます」
 陽子はまだ眠っている。随分と疲れ切っている様子だった。無理も無い。連日、妖魔と戦い野宿を続けていたのだ。騎士団の一員として戦い慣れている麻理亜は兎も角、ただの女子高生だった陽子には厳し過ぎる。
 達姐が用意してくれた衣服に着替えると、部屋を出て行く。達姐は、家を出るところだった。途端に、疑念と不安が湧き上がってくる。
 しかし、達姐は笑い言った。
「暫く離れるからね。畑をきちんとして行かないと。一緒に来るかい?」
 麻理亜は頷き、ついて行った。
 彼女の言葉は事実で、手には既に作業の為の道具があった。麻理亜は、一瞬でも疑った自分自身に恥じ入る。
 畑から帰って来て、朝食の準備を手伝う。手伝うと言っても大した工程は無く、あまり役には立たなかった。
 出来上がっても陽子は起きず、麻理亜達は陽子の眠る部屋へと行く。達姐が彼女の肩を揺すった。
「目が覚めたかい? 疲れてるようだけど、兎に角起きてご飯をお食べ」
「……すみません」
 陽子は慌てて上体を起こした。
 麻理亜は目が合い、「おはよう」と笑いかける。
「謝る事はないさ。どうだい? 出かけられそうかい? それとも明日にしようかね」
「大丈夫です」
 陽子は起き上がる。
 達姐は自分の寝台に置いた衣服を指し示し、部屋を出て行った。陽子は寝台を降り、衣服を手に取る。
「麻理亜は、早くに起きてたの?」
「ええ。畑へ行くのについて行ったりね」
 麻理亜は部屋を出ようとしたが、陽子が困惑気味なのに気付き引き返した。
「これがスカート。この二枚が上で、こっちを下に着て、その上にこれを重ねるのよ」
「……慣れてるみたい」
 陽子は目をパチクリさせて、麻理亜を見つめる。
「達姐さんに聞いたの?」
「いいえ。着る時、特に迷う事はなかったわ……」
 記憶を喪失しても、言葉の発し方は忘れていなかった。食器の使い方、井戸の組み方、文字の書き方、呪文――それら生活に関わる事は、記憶に残ったままだ。
 こちらの衣服も、同じなのだろうか。
 麻理亜は、達姐の寝台に広げられた衣服に目を落とす。やはりこの世界は、麻理亜の記憶と深く密接している。





No.5





 達姐の家を出たのは、昼過ぎだった。
 麻理亜も陽子も、達姐の助言で髪を染めた。二人の彩度の強い髪色は、特徴として知れ渡っている。染めたところで、こちらの染色では多少元の色は残る。それでも、幾らか地味になれば溶け込むのは容易だった。こちらの世界はイギリス以上に様々な髪や目、肌の色をしていて、顔立ちは東洋人。それは、麻理亜や今の陽子の特徴と同じだ。
 河西までの道のりは、楽しいものだった。誰にも追われる事も無い。妖魔に襲われる事も無い。当然、血を流す事も無い。
 達姐も共に旅をする中で、麻理亜は徐々に元気を取り戻していった。前方に看板を見つけ、麻理亜は明るい声を上げる。
「あったわよ、次の看板! 早く、早く!」
 二人を振り返り、麻理亜は軽い足取りでそちらへと駆けて行く。
「あんまりはしゃいでたら、次の町まで持たないよ」
 苦笑しながら言う達姐の声が、背後から聞こえていた。
 長閑な風景だった。ホグワーツの辺りのような大自然とはまた違うが、穏やかな田園風景は何処か懐かしささえ感じる。
 走りながら、麻理亜は深く息を吸う。血の臭いとはかけ離れ緑に囲まれた空気は、麻理亜の胸をいっぱいに満たす。
 三叉路まで辿り着き、麻理亜は立ち止まり振り替える。陽子と達姐は、ゆっくりとこちらへ歩いて来ていた。
 角に置かれた石碑には、「成 五里」と書かれている。以前日本の世界へトリップした際、里と言う単位は覚えた。しかし、この世界の一里はそれよりもずっと短い。五里ならば、大して遠くないだろう。
 石碑の傍には、小さな雑草が花を咲かせている。暖かな気候と言い、こちらは春のようだ。
「――でも、戻れるんでしょうか。配浪の長老さんは、戻れないって」
「来れたもんなら帰れるさ。きっとね」
「……そうですね」
「そうさ。――こっちだよ」
 麻理亜の所まで辿り着き、達姐が左を示す。
「何度も走ったり歩いたりして、疲れないのかい」
「平気よ。体力には自信があるの」
「やっぱり、若さって奴かね」
 そう言って、達姐は笑う。
 道中、達姐は様々な事を麻理亜と陽子に話して聞かせてくれた。こちらの住居の仕組み、旅芸人の存在、初めて知る筈の事だが、どうにも麻理亜は既視感を覚えて仕方が無かった。以前トリップした同じようにマグルで東洋系が一般だった世界でも、こことは違った社会制度だったのに。

 朝には里を出て、夕方までに次の里へと長閑な風景の中を歩く。門には衛士がついていて、赤毛や白髪の若い女は呼び止められていた。配浪に現れた海客の話は、ここまで届いているのだ。達姐の話によると、衛士の普段の仕事は門を守るだけらしい。
 この世界は治安が悪く、ガラの悪い者達に囲まれる事も度々あった。その度に達姐が啖呵を切って二人を守ってくれた。宿は達姐が手配してくれたものに泊まった。
 幾つかの里を通り、多くの人々とすれ違ったが、魔法界に繋がるようなものは見つけられなかった。
 畳の上に布を敷いたような感触の寝台の上で、麻理亜は遠い世界へと思いを馳せる。魔法界は今、どうなっているのだろう。シリウスまでもが、ヴォルデモート側についてしまった。アルバスは、彼にも容赦しないのだろうか。リーマスやピーターは無事だろうか。今日も、多くの人々が命を落としているのだろうか。ジェームズは死んでしまった。リリーとハリーも恐らく……。麻理亜は、何も出来なかった。あの場にいたのに。セブルスと約束していたのに――
 元の世界へと思いを馳せれば、最後に行き着くのは後悔と自責の念だった。
 アルバスは、いつ迎えに来るだろう。迎えに来られるのだろうか。「海客」と言う名で異世界からの流れ者が今までにも訪れ、しかし帰った例は無いこの世界で……。
 不意に、横の寝台で起き上がる物音がした。
 麻理亜は薄目を開ける。陽子が寝台の上で身体を起こし、布を巻いた剣を引き寄せていた。視線は、壁の一点を睨んでいる。
 剣を引き寄せる動きは、林の中で見たものに比べぎこちなかった。ジョウユウの動きではないのだろう。
 麻理亜はそっと、陽子の視線の先を追う。しかしそこには、何もいない。
「……黙れ。彼女達は、そんな事しない」
 それはまるで、自問自答しているかのような姿だった。見えない何者かと話をしているようにも見える。
「――麻理亜が嘘を吐く理由なんて無い。麻理亜はあたしと同じ、海客だ」
 麻理亜は目を見開く。
 ぎゅっと目を瞑り、寝返りを打った。陽子がハッと息を呑むが、麻理亜はもう動かなかった。
 ――陽子は、麻理亜を疑っている。
 妖魔による最初の襲撃以来、陽子の態度はいまいちおかしかった。何処かよそよそしい。知り合って間もない、陽子も不安を抱いている、だからだろうと思っていた。陽子はマグルだ。成り行きで魔女である事を告げたが、彼女にとっては眉唾物だろう。それも理由の一つだと思っていた。
 けれど、違う。
 陽子は、麻理亜の正体を疑っているのだ。陽子と同じ、海客だと言う事自体を。
 麻理亜は、信用されていなかった。





 河西までの旅は短かった。三日目にはまるでビル街のような街が現れ、麻理亜達は感嘆を漏らしながら門を潜った。
「この辺りで河西以上に大きい街となると、郷庁のある拓丘ぐらいしか無いね」
 達姐は笑いながら言った。
 郷は、県より更に大きな一区切りらしい。里の上が県、県の上が郷だ。
 通りに並ぶ店は、この世界で今まで見てきたどの街よりも、豪華で大きい。まだ時間が早い事もあり、人通りは少なめだが、活気がある事には変わり無かった。ここで働く事を考えると、わくわくして来る。
 達姐は大通りから外れて、大通りよりは小さな店々が並ぶ通りに入った。店が小さいと言っても、やはり賑やかな街だ。達姐はその通りの中でも比較的立派な、鮮やかな緑の柱が特徴的な建物へと入って行った。
 戸口の所で、麻理亜はふと足を止める。
 この胸騒ぎは、何だろう。
「麻理亜?」
 陽子が足を止め、振り返った。達姐は、何とも形容しがたい視線を麻理亜に向けていた。
「……どうしたんだい? 当ては無いんだろう?」
 何処か、恐る恐ると言った口調だった。
 麻理亜は静かに首を振る。
「ごめんなさい。何でも無いわ」
 言って、麻理亜は達姐の後に続き建物の中へと入って行った。
「女将さんを呼んでくれるかい。娘の達姐が来たと言ってくれりゃ、分かる」
 達姐は従業員の男に言い、麻理亜と陽子を傍のテーブルに座らせた。
「ここに座っておいで。何かもらおうね。ここの物は、結構おいしいよ」
「……いいんですか?」
 陽子が尋ねる。
 これまでの宿屋よりも、この店は大きい。その分、値段も張る事だろう。
「構うもんか、おっかさんのおごりだ。何でも好きな物をおあがりよ」
「えっと……オススメは?」
 出来る限り不自然にならぬように、麻理亜は尋ねた。ここで海客だとばれてしまっては、達姐に迷惑が掛かる。
 達姐は察してくれたようで、二、三の品を注文すると、店の奥から出てきた老婆と共に奥へ入って行った。
「達姐って本当にいい人よね、あんな人に会えて良かったなあ」
「うん。他の人だったら今頃、死んでるもんね」
 そう言って、陽子は笑みを見せる。……ぎこちない笑顔だった。
「……ね、陽子」
 麻理亜は恐る恐る話しかける。
「陽子……私の事、疑ってる……?」
「え……」
「昨夜、独り言を言っていたでしょう? 私はこんな容姿だもの。無理も無いと思うわ。でも、信じて欲しい。私は貴女と同じよ」
「『同じ』では……ないじゃない」
 陽子は一度目を伏せ、それからキッとその深緑色の瞳で麻理亜を見据えた。
「あたしだって、麻理亜の事を疑いたくない。でも、麻理亜は本当に初めてここへ来たの? 麻理亜は、容姿が変わったりしなかったの? 元々その姿なの? 外国人でも、髪色は兎も角そんな瞳の色あたしは見た事無い……。魔法なんて言われても、そう直ぐに信じられない。――この世界なら、何があっても不思議じゃないけれど」
 視線が集まっているのを感じる。麻理亜はそれに気付き、話を打ちとめた。
「……続きは後にしましょう。これから、同じ所で働く事になるんだし。私から持ち出しておいてなんだけど、人の多い所でする話じゃなかったわ」
「……」
 二人は黙り込む。

 黙っていると、尚更周囲からの視線が気になった。店は、客も店員も男ばかりだ。
 特に客の視線は野卑で、近くのテーブルに陣取り何事か囁き合う者達もいる。その内の一人が立ち上がり近付いてきて、陽子は立ち上がった。
「あの……達姐さんは何処に行ったんでしょうか」
 声をかけて来ようとした男を無視し、陽子は店員に尋ねた。店員は黙って奥を指差しただけだった。
 陽子は達姐の荷物を抱え、麻理亜を振り返る。
「行こう」
 麻理亜も、黙って立ち上がった。声をかけようとしていた男には目も向けず、二人は奥の細い廊下へと歩いて行った。
 廊下の先は、店の裏へと通じていた。辺りに人はおらず、自然と忍び足になる。
 奥へと歩いて行くと、綺麗な彫り物の施された扉があった。扉は開いていて、衝立の向こうから達姐の声が聞こえている。
「そうオドオドしないでよ」
「だっておまえ、手配されてるあの海客達なんだろう」
 麻理亜と陽子は足を止め、顔を見合わせた。
 老婆は渋っているような声色だった。海客が見つかれば、匿った方もただでは済まない。改めて、自分達が歓迎されざる存在なのだと認識する。
「海客がなんだい。ちょいとこちらに迷い込んだだけじゃないか。悪い事が起こるだの、そんな迷信をおっかさんも信じてるのかい」
「そういう訳じゃないが、役人に知れたら」
「黙っていればわかりゃしないさ。あの子達だって、自分から言いやしないよ。そう考えりゃ滅多にない掘り出し物だろう? 器量だっていいし、年頃だって手ごろなのが二人もだ」
「けどねぇ」
「育ちだって悪くないようだ。ちょっと客の扱いを教えれば、すぐに店に出せる。それをこれだけで譲ろうってんだ。どうして迷うのさ」
 麻理亜は目をパチクリさせた。
 達姐の話し方は、何か妙だ。
「だって海客じゃ……」
「あとくされがなくていいじゃないか。親や兄弟が怒鳴り込んでくる事も無い。最初からいない人間と同じなんだから、色々と面倒も減るだろう?」
「……それで、あの子達は本当にここで働く気はあるのかえ」
「あるって本人が言ったんだ。あたしはちゃんと宿だって言った。下働きか何かと勘違いしてるなら、そりゃあの子達が馬鹿なのさ」
 胸騒ぎがする。
 ここは駄目だ。いてはいけない。
 ただ漠然と、そんな思いが胸中で渦巻く。
「でも」
「緑の柱は女郎宿だって決まってる。それを知らない方が悪い――さ、分別をつけて代金をおよこし」
 麻理亜は陽子の腕を引っ張っていた。
 衝撃を受けた様子の陽子を引っ張って、元来た道を足早に戻って行く。
 ――達姐は、あの男と同じだった。
 あの男と言うのが誰なのか、麻理亜には判らない。けれど、予想はついた。きっと昔、記憶を失う前に、同じように売られたか売られそうになった事があったのだろう。
 信じていたのに。
 良い人に巡り会えたと思っていたのに。
 微塵も疑わなかった自分が、馬鹿みたいだ。

 陽子の腕を放し、毅然とした態度で店を横切り外へ出る。戸口を出た所で、陽子は立ち止まった。一拍遅れて麻理亜も立ち止まり、振り返る。毒々しい緑色の柱や梁、窓枠がその目に映った。
 戸口で足を止めた時、達姐は妙な反応を見せた。思えばあれば、麻理亜が気付いたのではと訝ったのだろう。
 麻理亜は、陽子の腕に抱えられた物に目を留める。
「達姐の荷物……持って来ちゃったわね」
「……構わないでしょ」
「ええ。行きましょう」
 その時、二階の窓が開いた。
 女は艶やかな着物を着ていて、その襟元は大きく開いている。ここがどう言う宿なのか、明らかな物となった。
「行きましょう」
 麻理亜は窓から視線を外し、再度陽子に声を掛けた。ここでゆっくりする必要なんて無い。
 しかしそこへ、話しかけて来た人物があった。近くの席でひそひそ話していた四人組の一人だった。
「譲ちゃん達、ここの者か?」
「違います」
 麻理亜も陽子も、即答だった。
 そのまま行こうとすると、陽子が腕を掴まれた。
「違うって、おまえ。女がこんな所に飯を食いに来るもんかい」
「連れがこの店の人と知り合いなんです」
「その連れはどうした。おまえ、売られてきたんじゃねぇのか」
「違う。触らないで」
「気が強いなぁ。なぁ、俺とどっかに飲みにいかねぇか?」
「嫌です。手を離して」
「本当は売られてきたんだろう? 逃げようってのを見逃してやってもいいて言ってんだ。え?」
「あたしは」
 陽子は、男を振りほどいた。
「こんな所で働いたりしない。売られてきた訳じゃない」
「行こう」
 麻理亜は陽子の腕を引く。
 しかし、男達が肩を掴む。二人は身を捩ってそれを逃れ、また掴まれる前にその先へ逃げた。
 陽子は柄に手をかけ、立ち止まっている。
「そんなもん、お前に使えるのか?」
「彼女、強いわよ。怪我をしたくなければ、店に戻った方がいいわ」
 陽子は、切っ先を男の喉下に突きつけている。
 ――お願い、店に戻って。不要な血を流させないで。
 麻理亜は剣と男を無表情で見つめ、祈る。
 男達はじりじりと後ずさりし、身を翻した。男が駆け込もうとした店から、女が飛び出てきた。彼女は、甲高い声で叫ぶ。
「その子! その子達を捕まえとくれ!! 足抜けだ! 捕まえとくれ!!」
 麻理亜は冷たい瞳を女に向けていた。
 静かな気持ちだった。彼女に対して、激しい怒りは沸いて来なかった。かと言って、当然、以前のような感謝の気持ちなど微塵も感じられない。
 ただただ、騙された事が悔しく、そして悲しかった。
 疑う事は嫌いだ。そう言って、開心術を嫌っていた。約千年にも及ぶ日々、学べば会得できただろう。しかし麻理亜は学ぼうとしなかった。魔法で嘘を見破るのは、嫌いだった。
 野次馬が集まり、人垣が出来ている。甘い事など言ってられない。どうせ、麻理亜は既に血に汚れている。今更躊躇う必要も無い。
 麻理亜は剣を取り出した。陽子と背中合わせで立ち、周囲を睨む。
「誰か! 礼は弾むよ、捕まえとくれ!」
 その時、人垣の向こうから悲鳴が聞こえた。それは、段々とこちらへと近付いてくる。
「どうした」
「足抜けだとよ」
「違う、あっちだ」
 人垣が揺れた。
 遠くから、人の波が押し寄せて来ている。
「――妖魔」
「妖魔が」
「バフク」
「逃げろ!!」
 願ってもみないチャンスだった。
 切る相手は、人では無くなった。迫ってくる獣を切り倒し、麻理亜達は駆ける。
「どいてっ!」
「妖魔が来るわよ!!」
 二人の叫ぶ声、そして背後から迫り来る妖魔の姿に、人々は逃げ惑う。
 崩れた人垣の先、大通りの外れに麻理亜は目を見開いた。そこに立つのは、金髪の人物。
「ケイキ!」
 陽子が叫んだ。そして、そちらへと走って行く。
 後を追おうとした麻理亜との間に、人の波が押し寄せた。陽子の姿は人波に消える。
「陽子!」
 人の波に続いて現れたのは、巨大な虎だった。紅い斑の人面をしている。
 麻理亜は、剣の平たい面で獣を地面に叩きつける。しかし広い面で振るっていては獣の動きに追いつか無い。止むを得ず、手首を捻り剣を横へ薙ぎ払う。鮮血が飛び散った。
 返り血を避け、麻理亜は通りを見回す。
 逃げ惑う人々。襲い来る妖魔。染めてしまった髪は、一目で見分ける事は出来ない。
「――陽子!!」
 答える声は無い。
 再び虎が襲い掛かってきて、麻理亜はその場を逃げ出した。





 林の中で、麻理亜は途方に暮れていた。
 混乱に乗じて河西の町を出たものの、麻理亜は一人だった。陽子はいない。
 陽子は無事、逃げ切れただろうか。
 彼女にはジョウユウがいる。それに、麻理亜より先にあの場からいなくなっていた。きっと大丈夫だろう。
 そう自分に言い聞かせるものの、不安は募るばかりだ。
 街に戻ってみるべきだろうか。陽子が何処へ行ったか、手掛かりが掴めるだろうか。
 自問し、麻理亜は首を振る。
 恐らく、陽子はあの街に戻る気など無いだろう。危険を冒してまで戻る理由が無い。
 でも、麻理亜を心配したとしたら?
 達姐の荷物は陽子が持っている。彼女は暫く、宿や食事に困らない筈だ。けれどその代わり、麻理亜は何も無い。陽子は、麻理亜の先を行ってしまった。後ろにいた麻理亜の無事など、知る由も無い。
 麻理亜の無事を案じ、危険を冒して河西に戻って来てしまったら。
 若しくは、別れた後に何処かで捕まっていたとしたら。
 麻理亜は木々の陰から、遠くにある門を見つめる。夕刻が近付き、人々は急いで街へと入っていた。
 衛士に顔を覚えられているかも知れない。あの混乱の中では誰が出入りしたかなど確認出来ていないだろうが、万が一と言う事もある。
 街の様子は、それなりに覚えている。街に入って直ぐの大通り。今あそこに出れば、直ぐに人ごみに紛れる事が出来るだろう。
 麻理亜は木の幹から手を離す。その場で回転しようとしたが、途端に妙なざわめきが体中を駆け巡った。
 この世界で姿現しをしてはいけない。
 また、取り返しのつかない事になる。
 浮かんだ思いに、麻理亜はしゃがみ込む。激しい動悸がした。
 麻理亜は逃げ出したのだ。絶望と悲しみに狩られて、逃げ出した。結果、長い喪失の中に身を置く事となった。
「嫌、だ……」
 頭を抱え、麻理亜は呟く。
 記憶の無い過去。自分が何者なのか、自分の居場所は何処にあるのか、知りたくない筈は無い。事ある毎に、失われた記憶の欠片を探っていた。
 けれどこの世界に来て、麻理亜は記憶を呼び起こす事に怯えている。
 思い出したくない。
 思い出すのが怖い。
 地面に手をつき、林の向こうを見つめる。日は沈み、門は封鎖してしまっていた。林の奥からは、夜の獣達の立てる物音が幽かに聞えて来る。
 夜が明けたら、もう一度街に戻ってみよう。その頃には、衛士も交代しているだろう。
 街道脇の林を少し行った所に窪みを見つけ、麻理亜はその中に蹲る。妖魔の気配に怯えながら、不安な夜は更けて行く。


Back  Next
「 Different World  第7部 居場所 」 目次へ

2010/01/15