波の、音がする。
 潮の匂い。空には満月。空と海面は闇の中で混ざり合い、その境は判然としない。
 堤防を兼ねる土手の上。舗装されていない、硬い土の道。町から外れた暗闇の中に、少年は立っていた。
 思わず、麻理亜は足を止めた。一緒にいたアルバスも、リチャードも。
 何故、こんな時間にこんな所に子供が。沸いた疑問は、当然のもの。その違和感からか、リチャードは杖を握った。アルバスも、杖こそ握らぬもののその青い双眸を油断無く彼に向けていた。
 麻理亜はただ、佇んでいた。
 少年は、じっと麻理亜を見据えていた。彼の顔に浮かぶのは、戸惑い。
「……リンか?」
 彼は自信無げに呟いた。麻理亜はきょとんと小首を傾げる。
 誰かと人違いでもしているのだろうか。
「私は麻理亜よ」
 名乗ると、彼の表情は困惑から驚嘆へと転じた。目を見開き、猶の事麻理亜をまじまじと見つめる。
「こちらに流されていたのか」
 彼が何の話をしているのか、解らなかった。
 リチャードが、何の用かと語気鋭く問うた。アルバスは、麻理亜の知り合いかと問うた。
 一方的に知っている――名前を聞いた事があるだけだ。そう、少年は答えた。その代のホグワーツでも色々な事があったが、その件で知っていると言う訳では無いようだった。
 根拠は、彼の言った台詞。
「――記憶が無いんだな」
 今度は、三人が目を見開く番だった。
 記憶を失う前の麻理亜を知っているのか。何故、君のような少年が。麻理亜は、確かに麻理亜と言う名前なのか。家族は。出身は。
 麻理亜らの質問に、彼は答えようとしなかった。乱雑に頭を掻き、困ったように言う。
「覚えてないなら覚えてないで、いいんじゃねぇか? 思い出さなくても、今の仲間がちゃんといるみたいだし」
 彼はアルバスとリチャードに目をやる。
 麻理亜は答えられなかった。事ある毎に見る、記憶の断片。それは、麻理亜の過去が決して穏やかではない事を物語っていた。
 それを受け入れる覚悟が、無かった。
 少年は背を向ける。麻理亜は慌てて声を掛けた。
「あのっ」
 彼は足を止める。
 過去の手掛かり。それを掴むために、日本へ来た。なのに、ここで臆病心から逃げ出すなんて出来ない。
 しかしやはり、彼は何も語ろうとしない。
 せめて、名前を。その質問に、漸く彼は答えた。





No.6





 薄闇の中、麻理亜は目を覚ました。
 乾いた土の上。久しぶりの野営に、身体の節々が痛む。辺りに、人や獣の気配は無い。腕を大きく伸ばすと、ぽきぽきと関節の鳴る音がした。
 じっと暗闇に目を凝らす。
 まだ、陽は昇っていないようだ。背にした樹の方向に街道がある筈だが、何処までも薄闇が続くばかりだ。頭上を仰ぎ見ても、やはり木々の間から見えるのは暗闇だけだった。
 しかし目が慣れたのを差し引いたとしても、寝ついた頃に比べれば薄明るい。早朝なのかも知れない。麻理亜は、立ち上がり窪みから這い上がった。
 木立の間からそっと街道を伺い見る。まだ門は閉ざされている。衛士は、夜中の内に別の者と交替していた。昨晩、麻理亜が剣を振りかざしながら門を抜けた時とは別の人達。今なら行ける。顔を覚えられている心配も無い。
 やがて陽が昇り、門が開いた。朝一で出発する者達が、街から出て来る。まだ早い時間。街に入ろうとする者はいない。
 麻理亜は街道に流れる人々に視線を走らせながら、じりじりと木陰で時を待つ。街に入る者の少ない今では、人ごみに紛れる事が出来ない。街から出て来る者達の中に、陽子の姿は認められなかった。
 無事、街を出てこの場を去ったのだろうか。それとも、まだ門の内にいるのか。門の内にいる場合、朝一で出て来ないとなると捕まった可能性が非常に高くなる。
 麻理亜は街道の向こう、河西の街に目を凝らす。遠目からでも、門の内で衛士や役人と思われる者達が往来しているのが見えた。達姐は、麻理亜らが海客だと言う事を話したのだろうか。道端で会い、河西で届け出る予定だったとでも言えば、責任逃れは造作無い。例えこれまでの街で麻理亜らと一緒にいるのが目撃されていても、騙すために信用させるために時間をかけて親しくしていたとでも言えば良いだろう。実際、そうしていたのだから。
 麻理亜は木に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。夕刻になれば、街へ入る旅人で門前はごった返すだろう。それまで、時間がある。
 空腹に腹が鳴った。思えば、昨日は食事にありつく前に飛び出して来てしまったのだ。もう少し乗っかる振りをして、食事だけでも取った方が良かっただろうか。考え、麻理亜は首を振る。どの道、あの後妖魔が街を襲ったのだ。食事どころではなかっただろう。
 街道を、子供連れの一家が歩いて行く。別段、珍しい風景ではなかった。巧国の隣国、慶は今国が乱れているらしい。妖魔が跋扈し、内乱が勃発する。それらから逃れるべく、国を捨てて逃げて来た浮浪者が街には多くいた。大体の者は内壁の下にテントのようなものを立てて生活しているが、一所に留まれない者もいるのだろう。難民なのだから当然、大人も子供も男も女も関係無い。
 街道を行く長い黒髪の少年に、麻理亜はふと今朝見た夢の内容を思い出す。
 どうして今更、あんな夢を見たのだろうか。もう何十年――否、若しかすると百年以上前かも知れない。まだアルバス達が卒業する前の事なのだから。麻理亜の過去の手掛かりを掴もうと、三人で訪れた日本。そこで出会った不思議な少年。見た目は何ら奇妙なところの無い、普通の日本人だ。なのに、何故。同時に、河西や護送車で見た金髪の人影が思い起こされる。背丈も、髪の色も、何ら重なる部分など無いと言うのに。
 言うなれば、気配と言うものだろうか。何となく、ケイキと呼ばれるあの人物は少年と似た雰囲気を纏っている気がした。だからかも知れない。外を見難い馬車の中、右往左往する人ごみの中、会った事も無く気付きようも無い筈の人物に目を留める事が出来たのは。
 少年の名前は、何と言っただろう。この世界のような変わった響きでなく、極々普通の和名だったと思う。何せ、もう随分と昔の事だ。それ以来彼と出会う事は無かったし、もう彼もこの世にいないかも知れない。
 記憶を失くす前の麻理亜を知っている素振りだった、彼。もう二度と会えないならば、あの時麻理亜は何としても彼から情報を引き出すべきだったろうか。
「リン……って、誰かしら」
 麻理亜と間違うと言う事は、余程似ていたのだろうか。姉妹か、はたまた親か。時代を考えるなら、甥や姪から続いた子孫だろうか。麻理亜を知っていたのは、自分の友達の先祖だから? 彼は、麻理亜の名前を聞いて目を丸くした。顔は知らなかったのかも知れない。
 ――待って。
 どくん、と鼓動が脈打つ。
 彼は麻理亜の名を聞いて目を丸くした。しかし彼の驚きは、あっさりしたものだった。
 彼は、麻理亜の存在をすんなりと受け入れた。
 記憶を失くしているのか。ただ、それだけ。麻理亜が記憶を失くしたのは、もう何百年も前の事なのに。何百年前の人物が今も生きている事に、彼は何ら疑問を抱いていなかった。彼は、普通の少年ではないのか。一体、何者だったのだろうか。
 今更考えたところで、答えなど分かろう筈も無い。あの時聞き出せなかった事で、麻理亜は手掛かりを逃してしまったのだ。
『覚えてないなら覚えてないで、いいんじゃねぇか? 思い出さなくても、今の仲間がちゃんといるみたいだし』
 確かに今、麻理亜には大切な人達がいる。かけがえの無い人達がいる。何百年と生きていれば、幾つもの別れもある。だがしかし、同じ数だけ出会いもある。例え過去が分からずとも、今の仲間達がいる。
 だが、それでは過去の仲間達はどうなるのだろう。
 彼の言いようでは、記憶を失う前麻理亜が独りぼっちだった訳では無さそうだった。誰か、いたのだ。家族かも知れない。友達かも知れない。若しかしたら恋人かも知れない。誰か、麻理亜の仲間がいた。大切な人達がいた。その人達は、どうなるのだろう。今更もう、生きていないかも知れない。会って話す事なんて出来ないかも知れない。でも、だからと言って切り捨てる事は出来ない。彼らは麻理亜を探しただろうか。心配しただろうか。せめて、墓前に花を手向けるぐらいはしたい。
 ……謝りたい。
「――え?」
 麻理亜は目を瞬く。
 謝る? 何を?
 それはあまりに唐突な感情だった。一体何を謝ると言うのか。自分は何をしでかしてしまったと言うのか。
 襲い来るのは虚無感。胸の内にぽっかりと穴が空いて、そこに大切なものを落としてしまったような焦燥。これまでにも幾度と無く感じてきた事。思い出さなければいけない。しかしそう思う度に、怖くなってしまう。恐ろしい記憶の断片の数々。これらが一つの糸で結ばれたら、どんな恐ろしい過去が露になるのか。それを知るのが、怖い。
 膝を抱え、麻理亜はその中に顔を埋める。目だけは出して、街道の方や林の奥に気を配っていた。人に見つかれば、逃げねばならない。妖魔が現れれば、逃げねばならない。
 思えば昨晩林に入ってから、結局一度も妖魔に襲われなかった。これまでは夜に街の外にいると必ず一晩に何度か襲撃に遭ったのに、何と言う運の良さだろう。
 陽子は無事だろうか。行き着く先はやはり、彼女の安否だった。衛士から身を隠す事に夢中で気付かなかったが、麻理亜達の敵は人だけではないのだ。一夜が過ぎた。それは、妖魔の時間が間にあった事を意味する。バフクと呼ばれる虎の妖魔からは逃げ出した。これまでの例に従えば、一度妖魔が現れるとまるで連携しているかのようにまた別の妖魔が現れる。集団が根絶やしになり、完全に遠ざかってしまわない限り、妖魔の追跡は続いた。だから猶、あの後襲われなかった麻理亜は運が良い。
 久しぶりの空腹を感じながら、不安に押しつぶされそうになりながら、それでも耐え抜き漸く夕方を迎える。門へ流れ込む人は増え、押し合い圧し合いしながら何とか日が落ちる前に街へ入ろうとする。
 麻理亜は、木陰から躍り出た。俯き加減になり、黒く染められた長髪で横顔を隠す。目を伏せるようにして、人ごみの中に紛れ込んだ。衛士は朝の者達と交替していたが、それでも昨夕の者とは違った。剣を振るっていた海客だとは気付かれぬまま、麻理亜は首尾良く門を通り抜ける。日の暮れかかった街には灯りが点り、通りは人でごった返していた。
 麻理亜はキュッと口を真一文字に結ぶと、暮れかけた街を歩き出した。右に、左に、人ごみの中に視線を走らせ陽子の姿を探す。にぎやかな街だった。現代の都会に遠く及ばない幽光は、何処か懐かしささえ感じさせる。達姐が案内してくれたのが女郎宿などではなく、本当にこの街で腰を落ち着かせて働く事が出来ていたならば、どんなに良かっただろう。
 麻理亜は雑念を振り払うように、頭を振る。余計な事を考えても仕方がない。事実、達姐は麻理亜達を騙していたのだ。案内されたのは女郎宿だったのだ。やはり海客では、この世界で平穏に暮らす事など出来ない。何としても、帰る方法を見つけ出さないと。そのためにも、ケイキと言う男を捜さないと。
 門から離れる毎に、人通りは少なくなって行く。麻理亜は踵を返した。昨日来たのとは反対側の路地に入って、再び門へと戻って行く。門まで戻ると、内壁に沿って歩く。ちらりと門に目をやると、そろそろ閉じようかと言うところだった。衛士が立つ後ろの壁に、引っかき傷のような物が見えた。昨日の妖魔の爪痕だろうか。
 内壁に沿って少し行くと、浮浪者達のテントがある。麻理亜は注意深く、それらの間を見て回る。陽子が麻理亜の安否を気遣ってこの街に戻ったとして、堂々と宿を使うとは考えにくい。金は達姐から奪った物があっても、見つかるリスクが高過ぎる。となれば、難民に紛れ込む可能性の方がずっと高いように思えた。
「お姉ちゃん、なにかさがしてるの?」
 声を掛けられ、麻理亜は振り返る。
 そこに立つのは、小さな女の子だった。衣服や髪こそきちんと洗われているものの、靴は磨り減ってぼろぼろになっている。彼女も旅をして街を渡り歩いて来たのだと、一目で判った。
 麻理亜は微笑み、頷く。
「ええ。褐色の肌で緑色の瞳の女の子、見なかった? 私より少し背が高いくらいなんだけど……」
「それは、昨日一緒に逃げ出した子かい?」
 掛けられた声に、麻理亜は弾かれたように振り返った。
 そこに立ち並ぶのは、四人の男達――昨日、達姐の母の店で絡んできた者達だ。麻理亜は彼らに目を向けたまま、背後の少女に向かって「行け」と言う風に手を振った。少女の足音が慌てたように駆け去って行く。
 男達は、ニタニタと下劣な笑みを浮かべていた。
「昨日の足抜けと言い、嬢ちゃん、肝が座ってるなあ」
「まあ、俺達はあんな餓鬼には用が無いからどうでもいいんだけどな」
 向けられる野卑な視線に、麻理亜は顔を顰める。男の手が伸びてきて、麻理亜は逃れるように距離を取った。
「まあまあ。どうせ行く宛無いんだろ? 俺達が面倒見てやるよ」
「遠慮するわ。お気持ちだけで結構」
 麻理亜は冷たく言い放ち、じりじりと後ずさる。
「逃げ出したものの、行く宛が無いから戻って来たんだろう。どうしても店の方がいいって言うなら、ちゃんと送ってやる」
「若しかしたら、お友達もそこにいるかもな」
 再び手が伸びる。麻理亜は更に逃れ、構えた。右手に剣を握る。
「近付かないで」
 男達は怯んだ。麻理亜も陽子と同じ手に出るとは思わなかったのだろう。
 切っ先を向け、彼らに向かって正面から駆ける。男達は背を向け、散り散りになって逃げ出した。
 駆け去る男達の背中を見送って、麻理亜は足早にその場を離れる。彼らの言動。麻理亜らが海客だと言う事は、知られていないのだろうか。ただの足抜けだと思われている?
 再び門前へと戻る。既に日は暮れ、門は閉じていた。門の前には、衛士が二人。その内の一人が、麻理亜に目を留めた。ハッとしたように目を開く。
「お前、昨日の……」
 皆まで聞かず、麻理亜は踵を返し通りの人ごみの中へと駆け込んだ。
 気付かれた。麻理亜は振り返らず、人ごみを縫うようにして駆けて行く。通りを抜け、路地に入る。駆けて行くと、正面の角から二、三人の衛士が現れた。一人が麻理亜を指差し、後の二人に何事か叫ぶ。麻理亜は別の曲がり角へと駆け込んでいた。
 ひたすら、路地を走り続ける。行く先々に衛士が現れ、その度に麻理亜は方向を転換した。捕まる訳にはいかない。右も左も判らない街。達姐に連れられて歩いた大通りと宿のあった通り以外は、全く分からない。何処へどう逃げれば、彼らを撒く事が出来るのか。街にいる限り、麻理亜は袋の鼠だ。門を出ないと。しかし、門は閉じられてしまった。外壁は高く、とてもではないが飛び越えられそうに無い。
 ふと、麻理亜は足を止めた。背後からは、追っ手の足音が迫っている。右手に見えるのは、寂れた茶屋。その軒下に、古びた竹箒が一本立て掛けられていた。
 麻理亜は背後を振り返る。追っ手は直ぐそこまで迫っている。迷っている暇など無い。今にも壊れそうなそれを、麻理亜は咄嗟に掴んだ。その場で跨り、強く地面を蹴る。
 ふわりと頼り無げに、身体が宙に浮き上がる。衛士達がうろたえるのが分かった。柄の先を、上に持ち上げる。箒は更に、高度を上げた。高く、高く、屋根の上まで。飛んで来た矢を、麻理亜は剣で払う。束ねられた箒の穂が、ぽろりと一部零れ落ちた。麻理亜はキュッと唇を引き締める。
 ――お願い、もって。
 再び飛んで来た矢を逃れ、麻理亜は上体を前に傾けた。箒は大通りの方へと向かい、滑り出す。
 下方から騒ぎ声や悲鳴が聞こえた。飛んで来る矢は、箒の動きを読めず追いつかない。高い位置を飛ぶ箒は、ぐらぐらと揺れぼろぼろと崩壊していく。こちらの世界は、麻理亜が今まで過ごして来たどの世界よりも貧しい。この古びた箒では、高度にも速度にも限界があるのだ。
 大通りの上空へ来て、麻理亜は一気に高度を下げる。逃げ惑う人々。地面すれすれの所を、麻理亜は一直線に門へと飛ぶ。やがて前方に堅く閉じられた門が見えて来た。その前にはやはり、矢を番える衛士達。タイミングを見計らおうと彼らを見据え、麻理亜はその背後にある傷跡に気が付いた。
 門の直ぐ横にある、何本かの傷跡。昨日の妖魔の爪痕か何かだと思っていた。一つ一つが人の肩幅程もあるそれは、二つの文字になっていた。
『ブジ』
 刀傷だった。こちらの世界の人々には、適当な線の羅列としか見られないだろう。片仮名二文字。そんなメッセージを残せる者と言えば、麻理亜には一人しか思い当たらなかった。
 陽子も、麻理亜が河西に戻る事を案じたのだ。麻理亜の素性を疑っていた陽子だが、麻理亜なら陽子を心配し街に戻るかも知れないと考えた。彼女はもう、この街にいない。だから、ここにメッセージを残して立ち去った。信用に足るか否か判断し難い相手。捕まる危険を冒してまで街に留まる事はしなかったのだろう。
 壁の文字に気を取られていた麻理亜は、矢への反応に遅れた。咄嗟に高度を上げたものの避けきれず、左肩に激痛が走る。痛みに顔を歪めながら、麻理亜は高く舞い上がった。門を越える麻理亜を、何本もの矢が追う。突然の加速と上昇に、箒が悲鳴を上げているのが分かった。小刻みに揺れ、ミシミシと嫌な音がする。
 門を越える。外に構えていた衛士達が、一斉に矢を放った。箒を加速させつつ剣を振り払う。一直線に、林へ。街を離れ、闇へと飛び込んで行く。矢の追撃が途切れた。背後から聞こえるは、喧騒だけ。
 逃げ延びた。麻理亜は背後を振り返る。足元には、真っ暗な木々。街は、ずっと後ろに遠のいていた。ホッと息を吐く。
 安堵も束の間、酷使していた古箒は空中で大破した。
「えっ、わ……」
 宙に身体が投げ出される。咄嗟に剣を握り締めた。急降下。枝葉が腕や足を引っ掻く。しかしこの木々がクッションになり、衝撃は和らげられた。
 起き上がろうとした途端、肩に電流のような痛みが走る。矢が刺さったままだった。右手で引き抜き、辺りに放る。血液と共に、体力も流れ出ていくかのようだった。身を捩って傍の木に這い寄り、荒い息を落ち着かせるように木にもたれかかった。
 投げ捨てた矢に目をやる。この矢は、麻理亜を貫いた。珍しい話だった。多くの武器は、麻理亜に傷をつける事が出来ない。物理攻撃は効かないのだ。今までに効果があったのは、ゴブリン製の剣や銀の弾丸が精々。この世界には当然ゴブリンなんていないだろうし、見たところ銀製と言う訳でもない。麻理亜は歯噛みする。姿くらましも使えない。異世界から来た者はただそれだけで処刑される。武器は効果を示す。この世界は、何処までも麻理亜と相性が悪いようだ。傷の治りが早いのが、せめてもの救いか。
 カサリ、と離れた位置から物音がした。麻理亜は木の幹から身を起こし、剣を構える。木立の間から現れたのは、大きな犬のような獣だった。――妖魔だ。
 怪我をしたのが利き腕でなかったのは、不幸中の幸いだった。飛び掛ってきた影に剣の平を叩きつけ、麻理亜は林の中を駆け出す。唸り声と共に、妖魔は麻理亜の後を追って来た。
 木々が途切れ、月明かりに照らされる。闇の中に浮かぶ、銀色の月。波の音が、聞こえた気がした。
 ――ああ、そうだ。
 妖魔に向き直って剣を構えながら、麻理亜は今朝見た夢を思い出す。ずっと昔に日本で出会った少年。麻理亜の過去を知っている風だった少年。
 彼の名前は、六太と言った。


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2011/09/05