目が覚めた時、まだ辺りは薄暗く夜明け前だった。ジョウユウの反応は無い。近くに妖魔はいないようだ。
妖魔はいない。しかし、陽子は一人ではなかった。少し先の地面の上にある、蒼い猿の首。
「馬鹿だよなァ。あの女に、自分の行方について手掛かりを残すなんてよォ」
「……うるさい」
陽子は街道沿いに立つ一本の木の根元に横たわっていた。河西を出てから二日、陽子は当ても無くただひたすら街道沿いに進んでいた。途中いくつかの街を通り過ぎたが、何処も門の警備が厳しくなっており、人入りの少ない小さな街では紛れ込む事が出来なかった。海客が河西にいたと言う事が、知れ渡ってしまったのかも知れない。
眠ってしまおうと目を瞑るが、そうするとキャラキャラと言う嗤い声は尚の事耳についた。
「もしかしたら、妖魔に食われたかもしれないってその内死亡扱いにしてもらえたかも知れないのにナァ。あの女は、衛士にお前の無事を話したぜ。だから、警備が固くなってるのさァ」
麻理亜に残した、「ブジ」の二文字。
喧騒の中、二人ははぐれてしまった。あの後、麻理亜は上手く逃げ切れただろうか。ジョウユウが憑いている陽子と同じように、妖魔と渡り合っていた麻理亜。彼女の腕ならば、そうそう殺される事はないだろうとは思う。あの混乱の中、妖魔から逃げつつ海客を捕まえられたとも思えない。
問題は、彼女が陽子を探して河西に戻る可能性。
もし、もしも麻理亜が陽子を騙していないのであれば、当然陽子の安否を気遣うだろう。合流出来る可能性に縋って、警戒の強まる街に舞い戻る事もあるかも知れない。だがそれは、決して賢い行動とは言えない。
「……あれで良かったんだ。私が無事だって分かれば、麻理亜は直ぐにもあの街を出て行くだろうから。街の中を探し回っていたら、その分だけ彼女の捕まる確率が高くなるだけだから」
「それは、あいつが心配していたらの話だろう? あの女が騙そうとしていたなら、お前は追っ手に手掛かりをくれてやっただけだぜ」
「麻理亜は、騙そうとなんてしてなかった。きっと私を心配してる」
「どうだかなァ」
「麻理亜は私と同じなんだ。そりゃ、色々と違う条件もあるけれど……でも、突然おかしな世界に来てしまって、追い回されているのは同じ」
「だとしたら、お前は薄情な奴だナァ。だってそうだろう? 一緒に逃げていた仲間の安否を確かめようともせず、伝言だけ残して一人だけ逃げて来たんだからよォ」
陽子は口を噤む。
返す言葉など無かった。事実、陽子は麻理亜の安否を確かめようとは、河西の街に戻ろうとはしなかった。ただ街を出る間際に、書置きを思いつき残しただけで。
麻理亜は陽子を騙しているのかも知れない。達姐と同じように、親しげなふりをして売り飛ばす算段なのかも知れない。その疑念が拭いきれなかったのも事実。
「怨んでるかもなァ。泣いてるかもなァ。同じ境遇だと思っていた仲間に疑われて、置いて行かれてさァ」
信じきる事も出来ず、疑いきる事も出来ず。危険を冒し安全を確かめる事も、見捨てて逃げ出す事も出来なくてとった、中途半端な行動。それは、確かに蒼猿の言うとおり良い手段とは言えなかったかもしれない。彼女が裏切り者だったならば陽子は自ら危険を招いた事になるし、彼女が信用に足る者だったならば今頃陽子の裏切りに絶望しているだろう。
ただ、どうして良いか分からなかったのだ。また騙されるのは恐ろしく、しかし同じく海客だと言う彼女を信じたい気持ちもあった。海客ならば、陽子と同じ立場にあると言うのが真実ならば、きっと陽子を裏切らない。
――まさかその翌朝、同じ海客に裏切られる事になろうとは微塵も思っていなかった。
No.7
道無き道を、麻理亜は突き進んでいた。陽が木々に遮られ、辺りは薄暗い。妖魔と戦う間に街道からは随分と離れてしまったらしい。河西からどれ程離れたのか、東西南北どちらへ向かっているのかさえ、分からなかった。
妖魔は、血に引かれるらしい。肩の怪我が治るに連れて、妖魔との遭遇率も低くなった気がする。武器が効果を示したと言えども治りが良いのは相変わらずで、河西から逃げ出して三日目には痕も無くきれいに治っていた。
達姐に会う前のように、夜は妖魔と戦いながら歩く日々が戻ってきた。眠れる時間と言うと妖魔の出現が少なくなる昼間しか無いのだが、麻理亜は昼間も歩き続けた。眠ろうとすると、記憶の断片だろうか。不安な夢ばかりを見た。この世界に来て、陽子と別れてから、よりいっそう失った記憶に心ざわつく事が多くなった。
夢の中の麻理亜は、時には農村に、時には豪奢な建物の中にいた。
農村の夢では、麻理亜はいつも虐げられていた。冷たい目を向けられ、なじられ。麻理亜自身の容姿も、今とはやや異なっているようだった。今よりずっと細く、腕は骨に皮が付いている程度。髪の色も、薄くはあるがかろうじて黒髪――せいぜい、銀髪と呼べるか否かと言った程度だった。少なくとも、今のような混じり気の無い白髪ではない。
豪奢な建物にいる時の麻理亜は殴られこそしなかったが、いつも泣いていた。傍にいるのは、いつも同じ女性。けれども目を覚ますと、彼女の顔には霧がかかり思い起こす事が出来なかった。麻理亜は彼女に何かを訴えていた。しかしそれを彼女が聞き入れる事は無く、いつも最後は何処か別の場所へと麻理亜は赴いていた。そして、緑色の閃光と轟音で夢は終わるのだ。
人を殺す夢を見るくらいなら、虐められる夢の方がずっとマシだ。しかし、麻理亜自身の意志で夢を選ぶ事など到底不可能。次第に麻理亜は、眠るのを恐れるようになった。
いくら体力に自信があれども、睡眠も録にとらず食事もせずに妖魔と戦う日々を続けて、身体がもつはずもない。
四日目の夕刻、麻理亜は林を抜け、街道に出た。全身が悲鳴を上げていた。これ以上、妖魔と戦う事は出来ない。今夜このまま林を進み妖魔と遭えば、夜を越える事は出来ないだろう。城壁の内で、安全な場所で休息をとる必要があった。
重い足を引きずるようにして、人の流れの多い方へと道を進む。人がいる。道を急いでいる。幸運な事に、街は近いのかも知れない。日が暮れれば、門は閉ざされてしまう。何としても、その前に街に辿り着かなければ。
気が急くほどに、陽の落ちるスピードは速くなっているように感じられた。みるみると影は伸び、麻理亜の行く先を翳らせる。人々の足は速まり、次々と麻理亜を追い越して行く。
間も無く、街が見えて来た。河西ほどでないにせよ、そこそこに賑わっているのがここからでも見て取れる。
ある程度まで近付いて、麻理亜は足を止めた。
門に立つ衛士は、旅人を念入りに検めていた。駆け込む人全てと言う訳にはいかない。しかし、女性、特に赤毛や銀髪、白髪の者は必ず引き止められていた。荷を開けさせられ、何かを提示している。提示の出来ない者は、何処かへ連れて行かれていた。
――通れない。
河西での騒動が、伝わったのだろう。衛士は、明らかに麻理亜と陽子を探していた。赤い髪と白い髪の女性。髪色については、染めている可能性も有。そう伝えられている事は、明らかだ。提示しているのは、身分証明書のような物だろうか。そんな物、麻理亜は持っていない。それらしき物と言えば、ホグワーツ城で目覚めた時に持っていた木札ぐらいだ。まさか、それを出す訳にもいかない。当然、疑わしき人物として連れて行かれる事になるだろう。
見つめている間に、門は閉まりだした。駆ける人々から、「待ってくれ」と懇願の声が上がる。麻理亜は一歩も動く事が出来ず、ただ呆然とその光景を見つめていた。
陽が木々の向こうに隠れると共に、門は閉じきった。陽も、門の内からの灯りも無くなり、街道は暗闇に包まれる。辛うじて、城壁を越えた弱々しい灯りが光源となっていた。
閉門に間に合わなかった人々は、城壁に可能な限り近付き、互いに身を寄せ合っていた。ぽつり、ぽつりと、其処彼処で火が焚かれる。
麻理亜は背後を振り返る。闇に消えて行く街道が、そこにはあった。遠く後にして来た林の木々が風に揺らされ、ざわざわと音を立てる。陽は暮れた。これからは、妖魔の時間だ。陽子とはぐれてから、妖魔との遭遇は格段に少なくなった。とは言っても、夜に山の中を歩けば必ず一度や二度は出くわす羽目になる。
再度、衛士へと視線を向ける。衛士は門を守るだけなのだと、達姐は言っていた。事実、彼らがその場を動く気配は無い。ただ形式として、押し入る者が無いよう、その場で監視をしているように見える。
麻理亜はそろそろと、道を外れた。門前を反れ、入り損ねた人々が集まる一角へと紛れ込む。城壁の下に集まる集団の中には、女子供も多くいた。むしろ、そのような人達の方が、閉門に間に合わない可能性が高いのか。そのまま集団を通り過ぎ、城壁に沿って歩く。火の光がギリギリ届く辺りまで離れ、城壁に背を預けるようにして腰掛けた。
今頃、陽子はどうしているだろう。街の警備が厳しいのは、ここだけではないはずだ。河西での騒動から、五日。陽子は達姐の荷物を持っている。街に入る事さえ出来れば、暫くは衣食住に不自由しないだろう。……街に入って、捕まらなければ。
――否、大丈夫。陽子は捕まってない。
夕刻の門前を思い出す。衛士は、赤毛の女性も確認していた。陽子が捕まったのであれば、捜す必要があるのは白髪の海客だけのはずだ。
ぎゅ、と膝を抱え込む。誰も、助けてくれる人はいない。同じ境遇にあると思われた子にも、信頼を得られなかった。今までの世界で出会った人達が、どんなに優しかったのか改めて身に沁みる。ゴドリック達、紅子、阿笠……住居を、居場所を与えてくれた彼らの他にも、たくさんの温かな人々に囲まれていた。いつも、何処の世界でも恵まれていた。「異世界から来た者は捕まえて役所に突き出だせ」などと言う慣習は無かった。
「帰りたい……」
小さく、麻理亜は呟く。五日間飲まず食わずで誰かと喋る事も無かった喉は、酷く掠れた声を発した。
帰った先で麻理亜を待つのは、大切な仲間達の死。仲間の裏切り。愛する人との闘い。それでも。
「帰りたいよ……!」
その晩、麻理亜が夢に見たのは、リドルがジェームズとリリーを殺し、ハリーにも迫るあの光景だった。
昼には当ても無く街道を進み、夜には街の直ぐ外、大きな街で人込みに紛れる事が出来れば難民に紛れて城壁の下で眠る。夢見は相変わらず酷いもので、麻理亜は睡眠時間を最低限に削って歩き続けた。
街道沿いに小川を見つければ、そこで水分を補給した。泥の混じった濁り水だろうと、迷うような余裕は無かった。そもそも、そう頻繁に小川に出会える訳でもない。貴重な水分補給源を逃す手は無かった。水だけで腹は膨れない。空腹に負けて草を食んでみたりもしたが、それを続けて何日目かに腹を壊してからはやめた。
睡眠不足と空腹から来る過労。身体は鉛のように重く、一歩一歩が気だるかった。それでも麻理亜は、歩き続けた。ホグワーツに帰る。捕まるものか。殺されるものか。ただ、それだけを胸に。
女一人の旅となると、トラブルに遭う事も度々あった。その度に麻理亜は剣をちらつかせ、時には怯えさせる程度に怪我を負わせ、場を凌いだ。そうして剣を振りかざした翌日は、街の警備がいっそう強まり、街道さえも歩く事が出来ず、妖魔の跋扈する山道を行くしかなかった。怪我を負わせた罪悪感と嫌悪感、同じく陽子も街に寄れなくなっているであろう事への申し訳無さに苛まれながら。
一体どれほどの間、そのような生活を送っていたのか。二十日を超えたところで日数を数えるのも億劫になり、やめてしまった。足元もおぼつかなくなり、麻理亜はその場に崩れ落ちた。
夕刻の街道。門へと急く人々は、麻理亜など見向きもせずに門へと駆けて行く。邪魔だと罵声を浴びせる者もいた。皆、誰しも他者に構っている場合ではないのだ。早く街へ入らねば、閉め出される事になる。妖魔の出現も、街の中の方がずっと少ない。
誰も助けてくれるものなど無い。ここは、そう言う世界なのだ。
皆、自分が生きて行くのに精一杯で。あまつさえ、海客は憎しみの対象となる世界で。
帰りたい。帰れると、思っていた。昔同じように別世界へ行ってしまった時も、帰って来られたから。今回も、同じだと思っていた。
立ち上がる事はおろか、最早指一本動かす事も出来ない。麻理亜はそっと、目を閉じた。視界が閉ざされたと共に、四肢に伝わる固い地面の感覚もすうっと消え失せて行く。疲労も、飢餓さえも無くなるかのようだった。闇に吸い寄せられるように、麻理亜は安穏に身を委ねる。
死後の世界は、何処で亡くなっても同じ場所だろうか。失ってしまったかつての仲間達にまた逢えるのであれば、それも良いかもしれない。
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Different World
第7部
居場所
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2012/07/01