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部屋は、数多の書物で溢れ返っていた。部屋に入れられる際限まで置かれた本棚の数々。塞がれていないのは、扉と窓のみ。部屋は本棚の間の通路で入り組み、何処も彼処も人ひとりがやっと通れるような有様だった。
部屋の奥に、一人の女がいた。彼女の手には文庫本。開け放した窓の縁に腰掛け、頁を静かに捲る。窓の外では風がそよぎ、木々を揺らしている。家を取り囲むように生えている低い茂みの向こうは、全て草木だった。彼女の他には、人の気配さえ無い。
ふと彼女は手を止め、顔を上げた。読みかけの頁に栞を挟み、立ち上がる。本棚の間の狭い通路を通り、部屋を出た。
彼女が向かった先は、玄関だった。そこにいるのは、今し方入って来た一人の男。
「エミ」
男の色の無い唇が動き、名前を呼ぶ。エミ、と言うのが彼女の名前だった。
男は非常に奇特な姿だった。蝋のような白い顔で髪は無く、鼻は蛇のように切れ込みが入っているのみ。瞳はまるで、血走っているかのように紅い。
奇異な外見など一切構わず、彼女は彼に微笑みかけた。
「お帰りなさい、あなた」
「よく気付いたね」
「そんな気がしましたから」
おっとりとした、穏やかな笑み。
いつも、こうだった。いつでも、帰宅したリドルを笑顔で出迎えてくれる。それは、リドルがどんなに血生臭い事を行って来ても変わらなかった。
決して、リドルの行っている事に気付いていない訳ではない。そうだろうと、リドルは思う。彼女は勘が良い。理論立てて説明する事は本人にも出来ないようだが、何かとよく気付いた。
「この家を引き払う事になった」
マントを脱ぎながら、リドルは早口で言った。
エミはにこにこ笑顔のまま尋ねる。
「あら、まあ。いつですか?」
「直ぐだ。荷物を纏めろ」
「毎度毎度、あなたは唐突ね」
エミの口調に苛立ちは無く、寧ろ楽しげだ。
「ワームテールが行った先ですか」
「否、違う。奴は監視に向かわせた。八月まで、そこに置いておくつもりだよ」
「スネイプさん、戻って来たのね」
「ああ」
エミとは対照的に、リドルの声色は苛立ちと緊張が滲み出ていた。
魔法省での失態。裏に隠れるのは、これまでだ。魔法省は、リドルを追わざるをえなくなった。こんな森の奥へ頻繁に通い詰める事は出来なくなるだろう。……エミを、連れて行かなくてはならない。
エミを、安全な地に置いておきたい。いつでも柔らかな笑顔でいて欲しい。
しかし同時に、その笑みでいつでもリドルを迎えて欲しかった。
これは、リドルの甘えだ。自分のために、彼女を手元に置こうとしている。若しかすると、そのために彼女は笑顔を失う事になるかも知れないと言うのに。マルフォイの屋敷に連れて行っても、戦えない彼女をずっと傍に置く事は出来ない。リドルを慕う者達が、彼女にどんな視線を向ける事か。もちろん、危害は加えさせない。そんな事は、リドルが許さない。それでも、エミの重圧になるであろう事は避けられなかった。
エミは楽しげだった。まるで、新しい家にわくわくしている子供のよう。うきうきと弾んだ足取りで、家の奥へと引き返して行く。
リドルはその背を見送り、彼女とは別の部屋へ向かった。準備と言っても、然程荷物は無い。衣食住は手配してあるし、寧ろ私物を手放しておきたくない。重要な所有物も、幾つかは既に隠してある。
リドルは食器棚の奥からマグカップを一つ取り、懐に忍ばせる。それから、隣の部屋を開けた。奥にあるケージに入っているのは、五、六匹のふっくらとした兎。
ケージを開けると、何匹かが外へと出て来る。足元に群がる兎に背を向け、リドルは廊下へと呼びかけた。
「ナギニ」
ズルズルと引きずる音がする。
リドルは扉を開け放したまま、その部屋を出た。これで、荷物は全て片付いた。後は、エミだ。
寝室にエミはいなかった。衣服も食事も手配している。ここから持って行く荷物など、本当に無いに等しい。
……無い筈、なのだが。
廊下の突き当たりに、ダンボール箱が積まれていた。本棚の立ち並ぶ部屋の前。嫌な予感がしながら、部屋に入る。案の定、エミはこの部屋で本に囲まれていた。新しく組み立てたダンボール箱の中に、一冊一冊、本を手で詰めていっている。
「……何をしているんだ」
リドルはうんざりした声を出す。
エミは変わらず、笑顔だった。
「お引越しの準備をしているんですよ。ここの家も、残して行った物も、消してしまうのでしょう?」
リドルは溜息を吐く。そして、懐から杖を出した。
「魔法はやめてくださいね。あなたは何でもかんでも魔法で片付けようとし過ぎだわ」
「僕は、直ぐにここを引き払うと言った筈だよ」
「まだ大丈夫だわ」
「知らなかったな。君には予言能力があるのかい?」
リドルは苛々と嫌味を放つ。
それでも、エミの笑顔は変わらなかった。
「あら、信頼から言ってるんですよ。あなたが尾行けられたのでもない限り、誰もここを見つける事は出来ない。例え見つけても、あなたの魔法はそう簡単には破れないでしょう?」
そう言って、おっとりと微笑う。
のほほんとした調子で、だがテキパキと本をダンボール箱に詰めていく。リドルは暫く戸口に立って彼女の手元を見つめていたが、やがて深く溜息を吐いた。空になった本棚に立てかけられているダンボールを手に取り、折り目にそって箱を組み立てる。
エミは顔を上げてリドルを見た。
「手伝うよ。一人より二人の方が、いくらかマシだろう」
「ありがとうございます」
驚く顔も見せず、エミは微笑んだ。
「言ってる間には手を動かせ。日が暮れる」
「はいはい」
全く手を止めてなどいなかったが、エミはにこにこと頷いた。
リドルはふと顔を上げた。手元には開かれた書物、窓の外には夜の幄が降りている。
窓枠には、エミがいつもの定位置に腰掛け、同じく本を読んでいた。
「エミ」
リドルは棘のある声で彼女を呼ぶ。彼女はふっと顔を上げた。
「本を読むのは後だ。本当に日が暮れるなんて……」
リドルの声には、後悔の念があった。エミだけを責める事は出来ない。自分も、同じように本に夢中になってしまったのだから。
リドルは時計を確認する。エミはくすくすと笑っていた。リドルは眉を顰めて彼女を振り返る。エミがこんな笑い方をするのは、珍しい。
「久しぶりですよね、こういうの」
エミは、読んでいた本をダンボール箱に丁寧にしまいながら言った。
「まるで昔に戻ったみたい。あなたも私も、本ばかり読んで。一緒にいるのに、何を話す訳でもなくて」
リドルは無言だ。
ここ最近、リドルが家にいる事は少なかった。寝食さえ、まともに取らない。当然、エミと二人でいる時間は殆ど無かった。
エミは次の本棚に手を伸ばし、ふとその手を止めた。エミの白く小さな手がゆっくりと背表紙に触れ、その本を抜き取る。
「……懐かしい。ホグワーツの教科書だわ」
エミが抜き出したのは、魔法史の教科書だった。版は違えど、リドルも使っていた教科書。
「新しい版の改訂点を写したいからって、あなたに貸した事もありましたよね」
「歴史は新しい事実の発見で変わるからね」
「ホグワーツは、本当に面白い場所だったわ……いつになっても、不思議なものを見つけて驚くばかり。動く階段やたくさんのゴースト達って、魔法界は何処もそうなのかと思ったわ」
「確かに、あれはホグワーツぐらいでしか見なかったね。ゴーストは他にもいるけれど……。それに、興味深い部屋もたくさんあった」
答えるリドルの声に、棘は無かった。エミは頷く。
「階段が動くせいで、迷子になってしまう事もあったわよね」
「それは君だけだろう。僕がそんなドジを踏むと思うかい?」
「あら。でも、あの時はどうです? 物がたくさんあった部屋で……あれは絶対、出入り口が移動して来てくれたんだと思いますよ。入った所にあった筈の外套掛けが無かったもの」
「あの時は、君も一緒じゃないか」
思わず、リドルは表情を緩める。
いつぶりだろう、こんな穏やかな気持ちになったのは。
ああそうか、とリドルは思う。だから、リドルにはエミが必要なのだ。彼女を傍に置く事を選んだのだ。
いつでも笑顔で迎えてくれる。明るく素直で、それでいて芯が強く決して何者にも流されない。そんなエミだから、ここまで連れて来た。そして、これからも。
リドルの姿を目撃した魔法省は、必死で策を練っている事だろう。ダンブルドアは狂っていなかったと認められ、再び主導権を握る。事態は深刻化していく。
エミは再び本を箱に詰める作業に戻りながら、暢気に鼻歌なんて歌っている。魔法省での戦いがほんの十数時間前の事だなんて、嘘のよう。
「ほら、あなたも手が止まっていますよ」
エミは明るく言う。リドルは微笑った。
……たまには、こんな時間も良いかも知れない。
2010/10/31