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夏休みのダイアゴン横丁は、新学期の支度をする親子連れで賑わっている。通りの喧騒をよそに、クララとシリウスは静かな喫茶店に腰を落ち着けていた。
クララの端正な横顔は、珍しく唖然とした表情をしている。
シリウスはにやりと悪戯っぽく笑った。
「まあ、そう言う訳だから。もう家を気にしなくていいぜ」
ブラック家を出て行った。
シリウスの話は、そんな突拍子も無いものだった。今は、ジェームズの家に転がり込んでいるらしい。
クララは、感嘆とも呆れとも取れる息を漏らした。
「貴方はいつも、一人で勝手に決めてしまうのね」
「これはあくまでも俺の問題だ。別に、お前に相談する事でもないだろ。元々嫌だったんだよ、あの家が」
「知ってるわ」
知っている。彼がどんなに、親の意向に反抗していたか。
知っている。彼がどんなに、束縛を嫌い自由を求めていたか。
そして、彼がどんなに、そこへクララを巻き込む事を嫌がっていたか。クララは、ブラック家に嫁ぐ事になろうと構わなかった。流されるつもりも無ければ、無意味に対抗する気もない。
「ただね、シリウス。覚えておいて欲しいの。
私は、貴方がどんな立場だろうと必ず受け入れるわ」
+++ずっと、ずっと。
行き交う人々は、黒いマントを身に纏っている。地下にも関わらず、外の情景が映し出される窓。エントランスへと向かうクララに、紫色の髪の魔女が話しかけた。
「あれ、今帰り?」
「ええ、ニンファドーラ」
呼ばれた名前に、彼女はわざとムッとして見せる。
「その名前で呼ばないで、って言ってるじゃない」
「ごめんなさい。でも、素敵な名前なのに」
「自分に付けられたら、そうも思えなくなるわよ」
ニンファドーラ・トンクスはつい最近、クララたち闇祓いの仲間に加わった。けれどもクララは元々彼女を知っていたし、門の狭い闇祓いの中で、今となっては年が近いのは彼女くらいであった。それでも、十年は離れているのだが。
クララは鞄の中から缶コーヒーを一つ出すと、トンクスに差し出した。
「今から入る貴女に、差し入れ。なかなか帰れないから、覚悟した方がいいわよ」
「……それじゃ若しかして、クララは昨日から?」
「ええ。吸魂鬼が大失態を犯した後じゃない? だから、何としても成果を出したいのでしょうけど……」
「ホグワーツで目撃されてから一ヶ月も経ったら、もう国外に出てるわよね」
「……そうね」
クララは静かにうなずく。
そうだ。もう、いる筈がない。例え国内にいたとしても、クララが会う事は出来ない。
彼を捜す事が仕事であっても、仕事の中で見つけたくはなかった。それは、彼の逮捕を意味する。
「今でも信じられない。彼、そんな人には思えなかったのに。うちの母も彼はそちらへは堕ちないだろうって思っていたみたいだし――」
「堕ちてないわ。貴女の思う通りよ。彼はそんな人物じゃない」
トンクスは、憐れむような表情をする。
誰しも、そうだった。クララが何度彼の無実を主張しようと、心から聞き入れる事は無い。昔の恋人を信じ続けるクララを、憐れにさえ思う。
誰も、シリウスの無実を信じてはくれない。
同じく彼と親しかったリーマスでさえ、クララは騙されているのだと、いつまでも縛られる必要は無いのだと説得してくる始末だ。
不意に、エントランスホールに僅かなざわめきが走った。コーネリウス・ファッジ、魔法省大臣のお出ましだ。こんな中途半端な時間に彼が姿を現すのは珍しい。すれ違う人々は軽く一礼する。
ファッジは真っ直ぐに、クララとトンクスの所へとやって来た。背後に従えるのは、これまた珍しくもマッド−アイ・ムーディ。
「こんばんは、大臣。いかがなさいましたか?」
上司に当たるのだから、顔ぐらいは知っている。それでも、相手は魔法省大臣。直接話す事は滅多に無かった。仕事で彼と関わるのも、大体はムーディやシャックボルトの役目だ。
ファッジは気難しい表情をしていた。
「これから帰るところかね、フライ。間に合って良かった。
ムーディが、君の帰宅を護衛する。君はブラックと近しかっただろう。奴が先日、ホグワーツに侵入したのは知っての通りだ。万が一にも、襲撃にあってはいけないのでね」
口実だ、と直ぐに解った。
ブラックが最後に目撃されてから、もう一ヶ月になろうとしている。国際魔法協力部では、ブラックの指名手配協力など忘れ去られワールドカップやその次の一大イベントに向けて忙しなく動いているほどだ。クララたちが徹夜を余儀なくされるのも、そろそろ終わる事だろう。それなのに今更、護衛も何も無い。
クララに向けられているのは、心配ではなく疑いの目。襲撃ではなく、接触をファッジは疑っているのだ。藁をも掴む思いで。
「彼に家まで同行してもらう。良いかね、フライ?」
「はい」
クララは、うなずいた。
拒否する理由など何も無い。彼が案じるような事は何も無いのだ。――残念ながら。
「お前の事だ。わしが護衛についた本来の目的は、解っているのだろう」
クララの家の前まで来て、ムーディは言った。
クララは頷く。
「大臣は、私を疑っているのでしょう? それで貴方を、家宅捜査に向かわせた……と。隠し物を探し出すのに、貴方以上の適任者はいないでしょうからね」
「わしの目など必要無いだろうがな」
「ありがとうございます」
「それでも、奴が君へ接触を図りに来るかも知れんと言う彼の意見には、賛成だ」
「……」
――そうであってくれればと、何度願った事だろう。
鍵を開け、扉を開く。そして、ムーディを振り返った。
「どうぞ」
ムーディは無言で頷き、家へと上がった。
リビングへと入ると、テーブルの上に二日分の新聞と共に一枚の封筒が置かれていた。留守の内に、ふくろう便が来たらしい。
クララが封筒を手に取る前に、ムーディが言った。
「……リーマスからか」
クララは封筒を引っくり返す。そこには、親しい友人の名が書かれていた。
ムーディは部屋の奥を示す。
「見て回っても構わんか?」
「はい。どうぞ、ご自由に」
ムーディは一つ一つ部屋をのぞいて行ったが、どの部屋も戸口から少し覗き込むのみだった。当然見つかる物など何も無く、ムーディはあっさりと帰って行った。
家に一人になり、クララはリーマスから送られた手紙の封を開ける。
どうせ、いつもの内容だろう。クララの身を案じてくれる。それは良い。けれども、これはリーマスに限った事ではないが、口を開けば「そろそろ他の人を探せ」とそればかり。クララならば、引く手数多だろうにと。彼がホグワーツに就職してからは、ハリーの近況も含まれるようになったのがせめてもの救いだ。シリウスがホグワーツに侵入したと知った時は、どんなに会いに行きたかった事か。けれどもそのために警備は強化され、闇祓いの仕事も増える事となった。シリウスに近しい立場であったクララは、当然ホグワーツ城から遠く離れた事務処理だ。
便箋の一行目に書かれた文章に、クララは思わず息をのんだ。
『シリウスと会った。君の主張が正しかった事を知ったよ。』
その時、玄関の扉に何かがぶつかる音がした。誰かがノックするような音ではない。何か、大きなものがぶつかる音。強いて言えば、突進で突き破ろうとするような。けれども突き破ろうとするにしては、小さく弱めな音だ。
クララは手紙を置き、恐る恐る玄関へと歩いて行った。再度、何かが突進するような音。続いて、カリカリと引っかくような物音。近付くにつれ聞こえてきたのは、ハッハッと言う荒い息づかい。
クララは目を見開く。――まさか。
そっと、扉を押し開く。視線の高さには誰もいない。下に目を落とせば、黒い大きな犬がクララを見上げていた。疲れきったようにくたびれた毛並み、憐れなほどにやつれた姿。
クララは言葉も出ずに、ただ無言で大きく扉を開く。黒犬は、ひょこひょこと家の中へと入って来た。
クララが扉を閉めたのを確認すると、黒犬の姿が歪んだ。手足が伸び、立ち上がるような体勢になる。耳と口元は引っ込み、後頭部の家がみるみる伸びていく。
そしてそこには、一人の男が立っていた。
長い逃亡生活で疲れきった様子だが、面影は残っている。ずっと、ずっと会いたいと思っていたひと。無事を祈り続けていたひと。
彼は、軽く片手を挙げ、少し微笑って口を開いた。
「クララ――」
シリウスの言葉は、飛んできた玄関先の置物によって遮られた。
シリウスはぎょっとして口を噤む。続けて飛んできたのは、壁に掛けられていた時計。シリウスはそれを、ひらりとかわす。
「……何よ、今更!」
クララの怒りを察知し、シリウスはリビングに逃げ込んだ。赤い光線が後を追う。
ソファを盾に、シリウスは慌てて叫ぶ。
「落ち着け、落ち着いてくれ、クララ。な? 俺じゃないんだ。全て話す――」
叫びながらも、無駄だと解っていた。大人しい人物ほど怒ると怖い。クララは、その典型例だ。
再び呪文が飛んできて、シリウスはソファの後ろに頭を引っ込めた。
「どうして頼ってくれなかったのよ! どうして何も言ってくれなかったの!? ……私、ずっと待っていたのに!!」
学生時代はジェームズと首席を争っていただけあって、呪文の正確性は折り紙付だ。時間が経てば落ち着くのは解っていても、落ち着くまでの間逃げ切るのは至難の業だった。
「私がアズカバンへ貴方を突き出すとでも思った!? 私の事、そんなに信用出来なかった!? 私は貴方の味方よ! 貴方がどんな立場だろうとそれは変わらないって、私、言ったじゃない!!」
シリウスは思わずその場に棒立ちになる。次の呪文が飛んできて、間一髪横っ飛びに避けた。
テーブルの下に潜り込み、向こう側に逃げる。テーブルを挟んでぐるぐると回りながら、シリウスは叫んだ。
「解った。解ったから、杖を降ろせって」
「解ってるもんですか! いっつもそうよ! 貴方は一人で決めて、一人で全部済ませて……どうして頼ってくれないの!? どうして話してくれないの!?」
光線がぴたりとやんだ。
クララの頬を、雫が伝う。
「どうして頼ってくれなかったのよ……どうして何も言ってくれなかったのよ……。私、貴方の恋人じゃないの?」
震える声で言い、手のひらで涙を拭う。
ずっと待っていた。彼が助けを求めれば、喜んで力を貸すつもりでいた。けれどもシリウスがクララに会いに来る事は無く、耳に入ったのはホグワーツへ侵入したと言う情報。クララは行く事も出来ずに、ただ彼の無事を祈るしかなかった。何も、出来なかった。それが悔しい。
「待ってたのに……。ずっと、ずっと怖かった……! 貴方がまた捕まってしまうんじゃないかって。吸魂鬼の接吻の施行まで決まっちゃって……! 貴方がそんな事になったら、私……私……っ」
シリウスが歩み寄って来たかと思うと、ふっとクララは抱き締められた。痛いほどに固く、強く。
「悪い……。ありがとう、信じてくれてたんだな」
「当たり前じゃない……」
「大切だから、巻き込みたくなかったんだ。それに、直ぐにホグワーツへ行く必要があった――」
シリウスは、ホグワーツで何があったかを話した。ホグワーツで、そして十二年前、何があったのか。
十二年前、ジェームズとリリーの秘密の守人になったのは、ピーターだった。追い詰めたのはシリウスで、ピーターはさも追いつめたかのような台詞を発し自ら姿を消したのだ。ねずみの姿で、ハリーの傍に潜んでいた。だから、シリウスは直ぐにも彼を捕らえにいかなければならなかった。
しかしシリウスの計画は失敗に終わり、一度は捕まった。ハリーとその友人の助けがあって、ヒッポグリフと共に逃げてきたのだと言う。
「あいつは目立つから、隠れ家を探すのに手間取った。それに、お前の周辺もがっちり見張られていただろ? それで、来るのが遅くなっちまった。悪かったと思ってる……」
「それじゃ、ピーターはまだハリーの傍にいるの?」
クララは紅茶の入ったカップを、ソファに座るシリウスの前に出した。そうして、自分もその隣に腰掛ける。
「いや、奴も逃げ出した。多分、もうホグワーツには戻らないだろ」
「そう……」
クララはそっと、シリウスの肩に頭を乗せた。
「……無事で良かった……」
シリウスの腕が、クララの肩に回される。そして、優しく抱き寄せた。
「私だって、貴方の事が大切なのよ……」
シリウスは、クララの目の横に口付けた。涙の跡を辿るようにして、キスを連ねる。
「ありがとう。信じていてくれて……」
僅かな物音で、クララは目を覚ました。ぼんやりとした頭で、部屋を見回す。クララの他に、動くものの姿は無い。物音は、玄関の方から聞こえていた。
クララはベッドを抜け、玄関へと向かう。窓の外にはまだ暗闇が広がっている。夜が明けるまで、もう暫くあるだろう。
玄関まで行くと、ちょうどシリウスが出て行こうとするところだった。クララの存在に気付き、シリウスは動きを止め振り返る。
「……行くのね」
「ああ」
毅然とした眼差し。その強い瞳が好きだった。彼はいつも、クララに話す事なく一人で決めてしまう。けれども迷いの無いその姿は、クララにとっても誇りであった。
クララはぎゅ、とシャツの裾を握る。
「連れて行って」
そう言ってしまえれば、どんなに楽な事か。逃亡生活だって、クララ自身は構わない。彼と一緒にいられるのならば。
しかし実際問題、二人とも日陰者になれば困った事になる。シリウスが何らかの行動を取るには、表の世界で生活する者の手が必要不可欠だ。クララはその才能故に幾つもの役立つコネを持っていたし、闇祓いと言う立場も彼の逮捕を阻むには絶好のポジションだった。
それに、シリウスとも一緒にいたいが、他の人々だって大切なのだ。リーマスやトンクス、スタージス、ムーディ、シャックボルト。
天秤に掛ける訳ではない。それは出来ない。けれども今後の事や他の仲間たちの事を思ってしまうと、容易に言葉は出なかった。
シリウスはクララの心情を察し、ポンと彼女の頭に手を載せた。そして、くしゃりと撫でる。
「お前は、ここで待っていてくれ」
クララは彼の灰色の瞳を見つめ返す。
二人の唇が重なる。
深い口付けの後、シリウスは再びクララの頭をくしゃりと撫でた。そして、犬の姿へと変わる。クララは、玄関扉を押し開いてやる。黒犬は階段を下りた所で一度立ち止まり、振り返った。
「いってらっしゃい」
まるで勤め先へ送り出すかのように、クララは微笑って手を振った。
――待っている。ずっと、ずっと。
大きな黒犬は、夜闇に溶け込むように消えて行った。
2011/01/11