bool(true) 対話

 地が鳴り、辺りが赤みを帯びる。鳥が一斉に飛び立ち、家畜が蹄を鳴らして騒ぎ出した。近くの家からは、赤ん坊の泣く声が聞こえる。
 少女は、母親の服の裾にしがみ付いた。言い知れない不安。何かが始まる。それが何だか分からないが、怖いものである事は確か。
 地面から、黒い帯のようなものが伸びてきた。それは、人の手のように何かを掴もうと蠢く。
「いやだよ……」
 母親の手が、少女の背中を包み込む。
 突然、息が苦しくなった。くるしい。こわい。いやだ。たすけて。こわい。いやだ――

 現在より約四百年前、クセルクセスは一夜にして滅亡した。





+++対話





「助けて」
「怖い」
「嫌だ」
「助けて」
「ママーぁ」
「助けて」
 辺りに満ちる叫び声。何も見えない真っ暗な世界。
 あるのは、悲鳴と息苦しさ。
 少女はただ、ひたすら泣いていた。一緒にいた母親も何処かへ行ってしまった。帰りたい。早く、家に帰りたい。ここは怖い。
 怖い。助けて。
 ただそう泣き叫ぶ。他の思考なんて、もう失われてしまった。狂ったように泣き続けるだけ。
 助けて助けて助けて。お母さん……。
「――君は、名前は?」
 突如、聞こえてきた低い声。
 叫び声ばかりの中、その声だけやけに落ち着き払っていた。しゃくりあげる少女に、声は更に話しかける。
「大丈夫だ。怖がらなくていい。俺は、ただ君と話したいだけなんだ……そう、そういい子だ。泣かなくていい……」
 若し今も少女に目があったなら、パチクリさせていた事だろう。
「……おじさん、だあれ?」
「ヴァン・ホーエンハイム――昔は、23号と呼ばれていた。奴隷だったんだ。お嬢ちゃんは?」
「リコ」
 少女は、自分の名を告げる。
 何も見えない空間の筈なのに、彼が微笑って頷いたのが見えた気がした。
「ねえ、ホーエンハイム。お母さんは? わたし、お母さんといっしょにいたの。ずっと、みつからないんだ。お父さんがおべんとうわすれてね、もっていってあげなきゃいけないの」
「そうか……。うん、そうか……。お父さんとお母さんも、運が良ければこっちにいるかも知れない。一緒に探そうな」
「ほんとう!?」
 突然、真っ暗になった。突然、一人になった。
 怖かった。
 狂ったように泣き叫び続けていたリコにとって、ホーエンハイムの存在は漸く昇った太陽のようだった。
 太陽はやがて全てを照らし、叫び声は聞こえなくなった。
 自分達はどうなってしまったのか。クセルクセスに何があったのか。フラスコの中の小人の所業。そして、奴がこれからやろうとしている事。ホーエンハイムは、どう止めようとしているか――幼いリコでも解るように、彼は懇切丁寧に説明した。
 もう、リコ達は元に戻れないのだと言う事も。
「やだよ。かえりたいよぉ……」
 最初その話を聞いたとき、リコはそう言ってすすり泣いた。
「……だよなあ。ごめんな。俺が止められなかった……」
 そう言って、ホーエンハイムは黙り込んだ。けれども耳を塞ぐでもなく、リコが泣き止むのを待っていた。
 アメストリスの人達を、同じ目に合わせない為にも。もう、クセルクセスの悲劇を繰り返さない為にも。
 泣き止んだリコに、ホーエンハイムは作戦を説明する。
「協力してくれるかい?」
 リコは、頷いた。
 ――ホーエンハイムの頼みだもの。





 時は流れ、リコは三、四人の仲間達と共に僻地に残されていた。ホーエンハイムは遥か遠く、セントラルで戦っている。
 辺りは暗くなり始めていた。
「……そろそろね」
「ああ。しかし、このちっこいのが名乗り出るとはなあ」
 ちっこいの、とはリコの事だった。もう何百年も一緒に過ごしているが、年を取る訳でもないこの状態でリコが年少である事は変わらなかった。
「あんなにホーエンハイムに懐いていたから、てっきり戦いの方に一緒に連れそうと思ってたよ」
 確かに、昔のリコならばホーエンハイムにくっついてばかりだったろう。
「……でも、誰かがこっちもやらなきゃ」
 ホーエンハイムの前に現れた一人の女性。ホーエンハイムの、大切なひと。
 ――寂しかった。
 結局、リコらはもう生きていないのだ。「石」となってホーエンハイムの中にいるだけ。彼女のように、ホーエンハイムに笑いかけたりする事は出来ない。
 ならばせめて、ホーエンハイムの力になろう。自分に出来る事をしよう。
 ホーエンハイムに出来た、大切な人々。彼らを守りたいというならば、自分もそれに協力しよう。
 日は完全に覆われた。真っ暗な世界が、赤みを帯びる。地面から伸びてくる手のような影。あの日と同じもの。
「とうとうやりやがったな……」
 一人が、呟く。
 フラスコの中の小人。奴の野望――何のためだか知らないが、アメストリス国土全てを使っての賢者の石の精製。
 日食が過ぎ、次に来るのは地球に落ちる影。声が、聞こえた気がした。
「――皆、頼む」
 セントラルにいるホーエンハイム。
 数百年間、ずっと彼と一緒にいた。気が狂いそうな渦の中、リコ達一人一人を見つめ、せめてもの苦しみを緩和してくれた。
 ――ホーエンハイムの、頼みだもの。
 彼は人間だから。例え賢者の石を仕込まれても、人である事には変わりない。だから、リコがずっと寄り添うなんて事は出来なかった。
 けれども、リコにとって彼が大切な存在だと言う事は変わらない。
 彼の大切な人達ならば、リコ達も守ろう。彼が守りたいと言うならば、リコ達も協力しよう。
 このアメストリスの人達を守り切って。大切な人達を守り切って。
 そして、どうか貴方自身も幸せになりますように。長い間、本当に長い間、十分に苦しんできたのだから。
「先に行くよ、ホーエンハイム」


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2010/06/20