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黒板に向かい、等間隔に置かれた席。背後から感じられる、圧迫感。いつもとは違い、たくさんの大人が並んで立っているのだ。席に着く子供たちは、そわそわと後方や扉の向こうを振り返っている。
弓槻は、引き出しの中のプリントをぐしゃりと握る。渡せなかった、授業参観のお知らせ。
『僕らは、家族だよ』
同じ孤児院の少年の言葉が、脳裏をよぎる。
『そうだね、ありがとう』
反発や否定はせずに、弓槻はいつも、笑顔で返した。そんな事をすれば、皆を困らせてしまうだけだから。
でも、口では何と言っても、本当の家族になんてなれない。普通の家庭には当たり前にあるものが、弓槻にはない。
弓槻は拾ってもらった。衣食住を与えてもらった。赤の他人にそこまでしてもらっておいて、これ以上の事なんて望めない。孤児院には、まだ学校に通っていない子供もたくさんいる。その子達の面倒を見なければならない院長先生に、授業参観に来てほしいなんて言えるわけがない。
来てもらったって、ただ後ろに立って見ているだけだ。親がいても、来ていない子だっているだろう。これぐらいは、我慢して当たり前。
「ねえ、何だろ、あの子」
「子供? 親と一緒に来たのかな。でも、僕たちと同じくらいの年だよね」
クラスメイト達がざわめき出す。
「大人と一緒って訳じゃないみたいだけど――」
見かねた教師が、教室の後方へと声をかける。
「僕、誰かの兄弟かしら? ご両親は? 迷子?」
「あ、気にしないでください。弓槻の家族として、見に来ただけですから」
弓槻はパッと後ろを振り返る。クセのある金髪の少年がニコニコと笑顔で手を振っていた。
「ミ……ミカエラ君……!?」
「えへへー、来ちゃった。駄目だよー、授業中なんだから、前向いてないと」
授業が終わるなり、一度廊下へ出る保護者達を弓槻は追った。
「あれ? 弓槻ちゃん、これから帰りのホームルームじゃないの?」
「そうだけど……でも、なんで、ミカ君が……!」
「院長先生に頼めれば良かったんだけど、忙しそうだったからさ。あ、僕の学校なら心配しなくていいよ。今日は短縮授業だったから。まだ別の学校で良かったよー」
「そうじゃなくて……!」
「だって、言ったじゃない。僕たちは家族だって。授業参観って、家族が来るものでしょ?」
我慢するのは、当たり前。口ではどんなきれい事を言っても、実際には本当の家族になんてなれないから。
そう思っていた。いつも、自分に言い聞かせていた。
ぽろぽろと、弓槻の目から滴が落ちる。
「あはは、弓槻ちゃんは泣き虫だなあ」
ポンポンと、優しく頭をなでられる。
未知のウイルスが世界を襲い、人間が吸血鬼の家畜に成り下がるほんの数か月前。
弓槻が、本当の家族を得た日だった。
+++白夜の少年
まるで、どこか異国にさまよい込んでしまったのかと錯覚するような街並み。暗い天井に覆われた空。煉瓦造りの建物は、青い光に照らし出され幻想的にさえ思える。
弓槻は、共に世界に保護された家族を探し、街を歩いていた。曲がり角の向こうをその人物が横切り、弓槻はぱあっと表情を明るくする。
「ミカ君!」
駆け寄り、角を曲がった弓槻は、ミカエラと一緒にいる者達を見てぴたりと足を止めた。
「あ……」
白いマントに長いブーツ。長い白髪を、リボンで結んだ大人の男性。
人間はもう、子供たちしかいない。普通の吸血鬼は皆、フードを被っている。彼が何者なのか、弓槻にはすぐに分かった。
「おや? ミカ君のお友達かな?」
「あ、フェリド様。彼女は……」
フェリドは、立ち尽くす弓槻へとツカツカと歩み寄ると、腰をかがめた。
「いい匂いだ……君の血も、美味しそうだね」
「え……あ……」
震える弓槻の腕を、ミカエラが引いた。
「彼女、身体が弱くって。今日はもうフラフラなので、あまり飲めないと思いますよ」
弓槻を横へ押しやり、ミカエラは媚びるようにフェリドを上目遣いで見上げる。
「僕の血だけじゃ、ご不満ですか……?」
「まさか。何しろ、たくさん集められた中から僕自身が目を止めた血だからね。一番奥の席で採られた血。そこに座っていたのはミカ君、君だった」
「え……」
弓槻はパッとミカエラに視線を移す。
ミカエラは笑顔で、フェリドの手を引く。
「行きましょう、フェリド様! 今日もお願いします」
「ま、待って……!」
か細く震えるような弓槻の声は、二人には届かなかった。大きな館の中へと、二人の姿は消える。
「待って……おかしいよ……ミカ君は、いつも優君の隣じゃない……その席は……」
一番奥。端の席。
――そこは、いつも弓槻が座っている席だった。
「弓槻! なあ、ミカ見なかったか?」
家へと帰った弓槻を迎えたのは、優一郎だった。白夜孤児院の家族の一人。もっとも、本人は「家族なんていない」と言い張り続けているが。
ミカエラと同い年で、彼とも最も親しい男の子。
「優君……」
「あいつ最近、よくいなくなるんだよなー。どこ行ってんだろ」
「……優君、強くなるんだよね? 吸血鬼をぶっ飛ばしてくれるんだよね?」
「ああ! 吸血鬼の奴らをぶっ殺して、人間の王国を作ってやる!」
「私も、協力する……!」
弓槻は身を乗り出し、優一郎の手を取った。いつになく積極的な弓槻に、彼は目を瞬く。
「私にできる事があるなら、何でも言って。私も、吸血鬼をやっつけるのを手伝いたいの……! 準備はどのくらい整っているの? こっちの武器は? 敵の戦力や配置の情報は? 私も、鍛えなきゃだよね。何をすればいい? 優君はどうやって鍛えてる?」
「え……えーっと……」
優一郎は気まずげに視線をそらす。
「腕立て一万回……とか?」
「分かった!」
弓槻は強くうなずくと、優一郎の手を離した。床にうつ伏せになり、両手をつく。そしてそのまま、動かない。
「……えーっと、弓槻……腕立て伏せって、膝から胸まで、全部地面から離さないと……」
「分かってる……!」
どんなに力を入れども、身体は持ち上がらない。
ぽろりと、弓槻の目から涙が落ちた。
「え……っ!? そ、そんな、別に、できないなら無理しなくても……! 嘘だよ、嘘! 俺だって一万回もできないし、そうだ、弓槻には情報収集とか、そう言うので手伝ってもらって……」
優一郎は慌てた様子で、弓槻の前に膝をつく。その服の裾を、弓槻は握りしめた。
――弓槻は、無力だ。こんなにも、弱い。これでは、吸血鬼に抗うなんて到底無理だ。
「優君お願い……! 吸血鬼をやっつけて……ミカ君を助けて……!」
「え……ミカ……? ミカに何かあったのか!? ミカに会ったのか? どこにいたんだ!?」
優一郎は必死の形相で弓槻に問う。
弓槻は泣いてばかりで、彼の質問に答える事はできなかった。
地下の世界には、朝も昼もない。頭上には、ごつごつとした天井があるだけ。時間に合わせて街灯の色や明るさが変わる事で、時間帯を表している。陸橋から見渡す街は、赤く染まっていた。
陸橋の欄干に手をつく弓槻の隣に、並んだ者がいた。同じように街を眺めながら、彼はぽつりと言う。
「……弓槻ちゃん、優ちゃんに何か言ったでしょ」
ミカエラの声は責めるでもなく、後ろめたそうでもなく、淡々としたものだった。
「大変だったよー……。まあ、弓槻ちゃんに見つかった時点で予想はしていたから、何とか誤魔化したけどね」
「なんで……?」
弓槻は、ミカエラを振り返る。
「なんで、嘘ついたの? ミカ君は、一番奥の席で血を採った事なんてない……! その席に座っていたのは――」
トン、と人差し指が弓槻の唇に当てられる。
「しーっ。大きな声で話したら、どこで吸血鬼が聞いてるか分からないからさ。フェリド様に知られたら、僕が怒られちゃう」
「私を、かばって……?」
震える声で、弓槻は問う。
――フェリドが目を付けたのは、弓槻の血だった。どう言う経緯かそれを知ったミカエラは、その血は自分のものだと嘘をつき、自ら犠牲となった。
「違うよ」
きっぱりと、ミカエラは言い放った。
「フェリド様は、血を提供したら何でも買ってくれるんだ。むしろ、弓槻ちゃんから横取りしちゃったみたいで悪いなって思うぐらいだよ。でも、僕、どうしても欲しいものがあったからさ」
弓槻はキッとミカエラを見据える。
笑顔で話す彼。ミカエラがそんな自分本位な理由で吸血鬼に媚を売ったりするような者ではない事は、よく知っている。
「じゃあ、返して。あの吸血鬼が吸いたかったのは、私の血なんでしょう。私が一人で、あいつの館に行く。ミカ君はもう、行かないで」
「だーめ」
ミカエラはふいと背を向け、橋を渡って行く。
「弓槻ちゃんより、僕の方が上手く活用できるからね。弓槻ちゃんが行っても、怯えて委縮しちゃって、何もお願いできずに吸われ損になるだけだよ」
「そっ、そんな事……!」
弓槻は声を荒げるが、ミカエラはそれ以上弓槻の話に耳を傾けようとはしなかった。
ミカエラは、毎晩のように家を抜け出した。あの吸血鬼の所へ行っているのだろう。貴族に目を掛けられているためか、優一郎がどんなに吸血鬼に歯向かおうとも、子供たちが何かヘマをしようとも、ミカエラが仲裁に入ればたいていは丸く収まった。その度に弓槻は、何とも言えない暗い気持ちになった。
彼は、身をていして皆を、弓槻を守ってくれている。なのに、弓槻には何もできない。弓槻には、彼を守れるだけの力がない。
「私だって、ミカ君の事助けたいのに……」
いつも守ってもらってばかり。いつも与えてもらってばかり。
「――弓槻ちゃん!」
駆けられた声に、弓槻は顔を上げる。ミカエラが、腕いっぱいの紙袋を抱えて走って来た。
「はい、これ!」
「え……? 何……?」
袋を受け取りながら、弓槻は目を瞬く。
「じゃがいもにー、にんじんにー、お肉……あと、ルーも。お米は重いから、先に家の前に届けてもらったよ。いっつもゼリー食ばかりで、味気ないでしょ? だから、これで皆にカレーを作って欲しいんだ」
「え……」
「あれ? 弓槻とミカ? 何してるのー?」
「茜ちゃん。ちょうど良かった。弓槻ちゃんと一緒に、カレーを作って欲しいんだ」
茜は首をかしげる。
「カレー? でも、吸血鬼からの配給じゃそんなもの……」
ミカエラは、弓槻の抱える紙袋から、じゃがいもを一つ取り出す。
「じゃーん。材料なら、ここにありまーす」
「えーっ。何これ、すごーい! どうしたの?」
紙袋の中を覗き込み、茜は声を上げる。
「裏のルートで見つけたんだよ。これでカレーを作って欲しいって、弓槻に頼んでたところだったんだ」
「作る作るー! いつも院長先生が一緒だったから上手くできるか分からないけど、頑張るね!」
「あ、それと僕は今日、帰るの遅くなるから取っといて欲しいんだ」
「了解であります!」
茜はおどけるように言って、びしっと敬礼する。そして、弓槻の手を取った。
「行こっ、弓槻!」
「あっ……」
茜に手を引かれながら、弓槻はミカエラを振り返る。背を向け、階段を上って行くミカエラ。今夜もまた、吸血鬼の所へ行くのだろう。
ミカエラが入手した材料で作ったカレー。
それが、弓槻の最後のまともな食事だった。
四方をアーチ形の門に囲まれた、がらんとした白い大広間。門の形と同じアーチ状の屋根は、まるで教会のようだ。
ミカエラが得た地図を頼りに、弓槻達は外へと向かっていた。
「これが、目的だったんだね」
ミカエラの手元に広げられた地図に目を落とし、弓槻は言う。
「まあね。言ったでしょ? 欲しいものがあるって」
「弓槻、お前、知ってたのか?」
優一郎が驚いた顔で振り返る。それから、ハッと思い出したように言った。
「そうか、ミカを助けてって言ってた、あれって……!」
「ミカ兄ィ、何かあったの?」
「んー? 何もないよー?」
ミカエラはニコニコと答え、牽制するように優一郎と弓槻に視線を送る。
優一郎が気をとりなすように一歩踏み出し、皆を振り返った。
「さあ、行こうぜ」
「ああ」
この門を抜ければ、あとは外まで一本道。もう、こんな世界とはおさらばだ。弓槻達は吸血鬼の檻を抜け出し、家畜から人間へと回帰する。
コツ、とブーツの固い足音が広間に響いた。
「あはぁ〜」
門の上。そこにある窓に現れた男の姿に、弓槻達の表情が凍る。
白いマント。長いブーツ。長い白髪をリボンで一つに結んだ姿。――吸血鬼。
「待ってたよ、哀れな仔羊くんたち」
絶望に満ちた子供たちの表情に、彼は満足そうに笑みを浮かべていた。
身動きする間もなく、一人がその毒牙にかかる。吸血鬼はさらった子供を、ゴミのようにその場に投げ捨てた。
「あれー。一気に吸ったら、もう死んじゃった」
床に倒れ伏したまま、身動き一つしない小さな姿。足元から、震えが這い上がってくる。
駄目だ。助からない。弓槻達は、失敗したのだ。
「くっそおおおおおお!!」
優一郎が手にした銃をフェリドに向かって撃つ。弾は、あっさりと避けられた。
「あれぇ、それ僕の銃じゃない。地図だけじゃなく、銃も盗ったのかあ」
吸血鬼は笑う。ただただ、この場を楽しむように。
「じゃあ、もう一つ希望をあげよう。実はその地図、本物なんだ。だから、君たちの後ろのその道をまっすぐ走れば、外の世界に出られる」
弓槻は背後の門を見やる。白い大きな門。階段、そしてその向こうに続く、薄暗い上り坂。
吸血鬼は、にっこりと笑う。
「希望と絶望のはざまで、君らはどんな声で鳴くのかなあ?」
「逃げろ!」
優一郎が弓槻達を振り返り、叫んだ。
「皆、走れ! 逃げるんだ! 出口まで! 早く!!」
足をすくませている年下の子達の手を取り、弓槻は少し遅れて駆け出す。そして、駆け出す様子のない最年長の二人を振り返った。
「優君達も、早く……!」
二人の間を風が吹き抜けた。
何が起こったのか、解らなかった。
一瞬の内に目の前に迫った、吸血鬼の笑み。飛んで行った、家族と繋いだ手。背中への衝撃。
「弓槻!!」
弓槻は、その場に倒れ伏す。白い床に、真っ赤な色が広がっていく。
次々と殺されていく家族。茜が、子供たちが、そして、ミカエラまでも。
「ミ、カく……」
腕を失い、腹から血を流したミカエラに、弓槻は肘から先のなくなった腕を弱々しく伸ばす。
『僕らは、家族だよ』
そう言って、いつもニコニコと笑っていた彼。
いつも弓槻を守ってくれた。いつも弓槻を助けてくれた。
彼は、弓槻の希望の光だった。
伸ばした腕は到底届かず、パタリと血溜まりの上に落ちた。
白い肌に、歯を立てる。柔らかな子供の首筋は、何の抵抗もなく弓槻の牙を受け入れる。
ふらりと子供の身体が揺れ、弓槻は牙を離した。
「おっと……これ以上吸ったら、死んじゃうわね」
解放された子供は、ふらふらと立ち去ろうとし、その場に座り込む。
コツ……と足音がして、弓槻は振り返らずに背後の人物に話しかけた。
「ミカ君も食事? やっぱり、直接飲んだ方が美味しいよね。あ、この子は駄目よ? これ以上飲んだら、死んじゃう」
「……僕は、人間の血は飲まない。人間を手にかけたら、僕は優ちゃんに顔向けできなくなる」
弓槻は振り返る。
ミカエラは、睨むような視線で弓槻を見ていた。
「まだそんな事言ってるんだ? でも、血を飲まないと力、出ないでしょ? クルル様とまた会えるまで、日もあるだろうし……」
「……弓槻は、変わったね」
忌々しげに吐き捨て、ミカエラはふいと背を向ける。白いマントに長いブーツ。――彼も、弓槻も、今はもう、人間ではない。
フラフラと立ち去るミカエラの背中を、弓槻は見つめていた。
彼は、弓槻の太陽だった。どんなに薄暗い世界でも、彼さえいれば夜にはならない。彼がいる限り、弓槻の世界には白夜が続く。
人の血を吸う弓槻を、彼は蔑んでいる。彼の目にはもう、優一郎しか映っていない。
優一郎を汚い人間たちの手から救う事。それだけが、今の彼に生きる意味を与えている。
「いいよ……あなたはそれで。優君は、ミカ君が守る。ミカ君は、私に守らせてね」
今の弓槻には、その力がある。吸血鬼になる事で、彼を守れるだけの力を手に入れた。今の弓槻はもう、あの頃の無力な弓槻ではない。
ミカエラ本人に蔑まれても、嫌われても、構わない。大切な家族である彼を、守り続ける事ができるならば。
「ミカ君……」
弓槻は、愛おしそうにその名を呟いた。
2015/04/26