「……そっか、外に出てるんだっけ」
シンの書物は、朝早い内に読み終えてしまった。結局、書物からは西の賢者以外の情報は何も掴めなかった。ただ、西の賢者に関する歴史物語があと二つほどあり、彼が再び西へと去ったところで話は完結してしまっていた。
一先ず結果報告をしようと美沙はマスタングの席へと向かい、そして彼がタッカーの件で出ている事に気が付いた。部屋にいるのは、ファルマン、フュリー、それから名を知らない軍人達が数名だ。
「あれ。どうしたんですか。美沙さん」
美沙の存在に気付いたフュリーが、書類から顔を上げる。
「本を読み終えたので、大佐にご報告をと思ったのですが……まだ帰っていませんよね」
「はい。――っと、失礼します」
外からの連絡が来たらしい。フュリーはそれに応答する。利用の仕方としては電話のようだが、大きな機会にヘッドフォンと、美沙が知る電話とはまるで違った形をしている。美沙は、ぼんやりと彼が仕事をする様子を眺めていた。
「――はい。……はい。了解しました」
話を終えると、フュリーは配線の組み合わせを変えていく。
「何の連絡だったんですか?」
何の気無しに、美沙は尋ねた。
外部に漏らしてはいけない情報ならば、話さなくて良い。そんな、気軽な気持ちだった。
しかし、フュリーの返答は予想しないものだった。
「そうですね、美沙さんも知っていた方が良い」
美沙は目をぱちくりさせる。
フュリーは作業の手を止めずに、言った。
「中央での指名手配犯が、この辺りへ来ている可能性があるとの事です。特徴は、額に大きな傷痕。凶悪な連続殺人犯で、特に――」
「美沙さん!?」
ファルマンが叫ぶ。美沙は、特徴を聞くなり駆け出していた。
額に大きな傷痕。それは、美沙の良く知る人物の特徴ではないか。彼は、指名手配されていたのか。殺人。そして、一昨日彼と出会った時の会話。感じた胸騒ぎ。
――飛んでも無い事をしてしまった……!
彼は、エドの話に興味を示した。命の恩人である彼を、疑いたくは無い。
けれど、エドが危ない。そんな気がしてならなかったのだ。
No.10
「『スカー』?」
本名と思えない名に、マスタングは尋ね返す。タッカーら殺害の容疑が掛かっている犯人の話だった。黒尾は彼らの話に気付き、その場に立ち止まって耳を傾ける。
ヒューズが頷く。
「ああ。素性が分からんから、俺達はそう呼んでいる」
「素性どころか、武器も目的も不明にして神出鬼没。ただ額に大きな傷があるらしいという事くらいしか、情報が無いのです」
アームストロングが付け加えた言葉に、黒尾は何やら奇妙な引っ掛かりを感じた。何処かでそのような特徴のある人物を見た事があるような、既視感。
彼らの会話は続く。
「今年に入ってから、国家錬金術師ばかり中央で五人。国内だと、十人はやられてるな」
「ああ。こっちにも、その噂は流れてきている」
「ここだけの話、つい五日前にグランのじじいもやられてるんだ」
「『鉄血の錬金術師』グラン准将がか!? 軍隊格闘の達人だぞ!?」
「信じられんかもしれんが、それ位やばい奴がこの街をうろついてるって事だ。悪い事は言わん。護衛を増やして、暫く大人しくしててくれ。これは親友としての頼みでもある」
「すみません、ヒューズさん」
黒尾は会話に割って入った。
「それってつまり、国家錬金術師が狙われているって事ですよね……?」
「ああ。――って、黒尾じゃねーか。お前さんがいるって事は……」
ヒューズの顔に焦りが表れる。
マスタングが、手近にいる憲兵を捕まえる。
「エルリック兄弟がまだ宿にいるか確認しろ。至急だ!」
「いませんよ。私、彼らと一緒に出てきましたから……!」
「私が司令部を出る時に、会いました。大通りの方まで歩いて行ったのまでは、見ています」
黒尾の言葉に、リザが口添えする。
「こんな時に……!!」
舌打ちし、そしてマスタングは大声で指示を出した。
「車を出せ! 手の空いてる者は、全員大通り方面だ!!」
美沙は軍部を飛び出し、大通りの方へと駆けて行っていた。雨に濡れるが、構っている場合ではない。
駆けながら、美沙はポケットから携帯電話を取り出す。プロフィールから自分の番号を選択し、通話ボタンを押す。普通ならば、即座に留守番サービスへと繋がるところだが、この世界に来てからは違った。呼び出し音が鳴り、やがて自分と同じ声が電話の向こうから聞こえて来る。
「何? 聞いた? 殺人犯が――」
「聞いた。あんた、今何処? エド達は一緒にいる?」
「いない。今、大佐達の車に乗って探し回っている所。中尉が、大通りに向かうのを見たって」
「私もちょうど、大通りに向かってる。今、大通りに入った。軍部からここまではいなかったよ」
電話の向こうで、黒尾が他の者達に美沙からの情報を伝えているのが聞こえた。
美沙は慎重に尋ねる。
「……それじゃ、やっぱりエド達が狙われてるんだね?」
「うん。国家錬金術師ばかりが殺されてるって。将軍もやられてるらしいよ。
――私達、時計台が見えてきた。ここから東の間はいなかったよ」
「了解。それじゃ、また何か情報増えたら――」
「美沙!」
切ろうとした途端、黒尾が叫んだ。
美沙は立ち止まり、時計台の方を振り返る。
「どうした!? いた!?」
「エドとアルはいない。憲兵の死体が……」
「……っ」
美沙は言葉を詰まらせる。
そして、遠くにぶつかり合う影を見とめた。雨で分かりにくいが、二人分の人影が見える。大きな物と、小さな物。鎧は見当たらない。
「……レストラン前!」
携帯電話に向かって叫ぶと、美沙はそちらへと駆けて行った。段々と、二人の輪郭がはっきりしてきた。間違いない。エドと、彼だ。
エドは両手を合わせ、自身の機械鎧に刃を錬成する。そして、彼に挑みかかる。しかしあっさりと、エドの右腕は彼に捕まった。美沙は、ただ只管走る。
目の前で、エドの右腕が破壊された。信じられない光景だった。美沙の命を救ってくれた人物が、今、目の前でエドを殺そうとしているのだ。
右腕を失ったエドは、膝を着き頭を垂れた。二人が何やら話しているのが聞こえる。アルの怒鳴る声が聞こえる。男の手が伸びる。
「駄目ええぇぇぇぇぇっ!!」
間一髪。美沙は、エドと男の腕との間に滑り込んだ。驚いた表情のエドと眼が合う。美沙は、その頭を抱き込んだ。そして、背後に立つ男に叫ぶ。
「どうして!? どうしてこの子達を狙うの? この子が何をした!?」
「そこを退け」
そう言った彼の声は、とても冷徹だった。
美沙はエドを抱いたまま顔だけ振り返り、彼を睨み上げる。
「退かない!」
「美沙、やめてくれ」
言ったのは、エドだった。美沙の腕が少し緩む。
エドは俯いたまま、振り絞るような声で言った。
「こいつが狙ってるのは、俺だけだ。邪魔をしなければ、殺されない。美沙まで巻き込みたくは――」
「馬鹿。だから、あんたをみすみす死なせろって? 何が巻き込むだよ。私は自分の意思で関わってるの。全責任を負うみたいな、生意気な事言ってんじゃないよ」
言って、美沙は再びエドを強く抱きしめる。
頭上から、声が掛かった。
「自ら死を選択するか」
彼の手が近付いてくるのが分かった。
美沙はぎゅっと目を瞑る。
アルの叫び声が聞こえる。
……通りに銃声が響いた。
「そこまでだ」
聞こえて来たのは、マスタングの声。振り返れば、マスタングを筆頭に軍の者達が周囲を取り囲んでいた。
男の注意が逸れ、美沙はエドを放す。そして、彼から身を引いた。
「危ないところだったな」
「大佐! こいつは――」
エドの言葉の後にマスタングは続ける。
「その男は一連の国家錬金術師殺しの容疑者……だったが、この状況から見て確実になったな」
美沙は複雑な表情で、男を見つめていた。
美沙達の命を救ってくれた恩人。それがまさか、殺人犯だったなんて。
マスタングは続けて問う。
「タッカー邸の殺害事件も、貴様の犯行だな?」
その言葉に、エドが反応を示す。彼を睨みつけ、立ち上がれる体勢を整える。
「……錬金術とは、元来あるべき姿のものを、異形の物へと変成する者……それ即ち、万物の創造主たる神への冒涜。我は、神の代行者として裁きをくだす者なり!」
美沙は一歩下がる。
美沙にとって宗教とは、冠婚葬祭で都合良く触れる程度だ。とりあえず、葬式は寺を呼ぶ。結婚式は教会のイメージが強い。クリスチャンではないが、クリスマスは祝う。そんな美沙にとって神などと言う物は眉唾物であり、それを語り犯罪に手を染めるというのは気味悪くさえ感じた。
「それが分からない。世の中に錬金術師は数多いるが、国家資格を持つ者ばかり狙うと言うのは、どういう事だ?」
「……どうあっても邪魔をすると言うのならば、貴様も排除するのみだ」
「……面白い!」
言って、マスタングは拳銃をリザに投げ渡す。リザの静止も聞かず、懐から出した発火布を手にはめる。
「マスタング……国家錬金術師の?」
「いかにも! 『焔の錬金術師』ロイ・マスタングだ!」
「神の道に背きし者が裁きを受けに、自ら出向いて来るとは……今日はなんと佳き日よ!!」
言いながら、男は前へと一歩踏み出す。
「私を焔の錬金術師と知って猶、戦いを挑むか! 愚か者め!!」
しかし、彼の焔を見る事は無かった。咄嗟にリザがマスタングの脚を蹴飛ばし、こけたマスタングの頭上を男の腕が通り抜ける。続いて放たれたリザの銃撃に、男は身を引いた。
「いきなり何をするんだ、君は!!」
地面に尻餅をついたまま、マスタングはリザに怒鳴る。
「雨の日は無能なんですから、下がっていてください。大佐!」
リザは標的から目を逸らさずに答える。
ハボックが手の平を上に向け、空を仰ぎながら呟く。
「あ、そうか。こう湿ってちゃ、火花出せないよな」
そんな暢気な会話を繰り広げている軍部とは裏腹に、男は殺気を露にしていた。
「態々出向いて来た上に焔が出せぬとは、好都合この上ない。
国家錬金術師! そして、我が使命を邪魔する者! この場の全員、滅ぼす!!」
「……っ」
美沙はただ言葉を失って、男を見つめていた。
アームストロングが男の背後を取り、殴りかかる。男はそれを避け、身構える。
二人の戦闘を見つめながらも、美沙の頭の中ではぐるぐると疑問が渦巻いていた。呆然としていた美沙は、憲兵に手を引かれ戦場から離れる。
何故。どうして。
何故、エドが命を狙われなければならない。国家錬金術師を軍の狗だと言って、良く思わない者は多い。だが、だからと言って殺されねばならないような事か。
……彼は、美沙の命は救ったと言うのに。
その事さえ無ければ、そういう奴なのだと割り切れる。だが、美沙の命は救った。けれど今、エドを庇う美沙を殺そうとした。どちらも自分自身。一体何の違いが、彼にあると言うのか。
彼は錬金術は神への冒涜だと言ったが、アームストロングの指摘によると彼自身も錬金術師。まったく、話が噛み合わない。やはり、国家資格を持つ者ばかりを狙うと言うのが、鍵なのか。現に、エドは狙えどもアルは邪魔をしない限り殺さないと言ったと言う。
男とアームストロングは、激しくぶつかり合う。錬成反応の青い光が瞬き、地面が揺れる。
銃撃が、彼を襲った。
銃を構えるのはリザだ。男はよろめき、それでも倒れる事は無かった。弾丸は続けて放たれ、彼のかけていたサングラスが落ちる。
「やったか!?」
「速いですね。一発かすっただけです」
男は顔を上げ、軍の者達を睨みつける。赤い瞳には、憎悪が篭められていた。
その瞳の色に、アームストロングが声を上げる。
「褐色の肌に赤目の……!!」
「イシュヴァールの民か……!!」
続けて言ったのは、マスタングだった。
美沙は、困惑した表情でその場に立ち尽し傍観しているしかなかった。
外ではまだ、雨が降り続いている。
イシュヴァールの民は、イシュヴァラを絶対唯一の創造神とする、東部の一部族だった。
国側とはしばしば衝突を繰り返していたが、十三年前、軍将校が誤ってイシュヴァールの子供を射殺してしまった。その事件を機に、大規模な内乱へと爆発した。暴動は暴動を呼び、いつしか内乱の火は東部全域へと広がった。七年にも及ぶ攻防の末、軍上層部から下された作戦は――
……国家錬金術師も投入しての、イシュヴァール殲滅戦。
戦場での実用性を試す意味合いもあったのだろう。多くの術師が、人間兵器として駆り出された。
「――私も、その一人だ」
スカーは、取り逃してしまった。スカーがいなくなった途端、黒尾はいても立ってもいられなくなって車から飛び出して行った。万が一人質に取られれば、厄介だ。そう言う事で、車内から出させて貰えずにいたのだ。
兄弟の元へと駆けて行き、強く抱きしめた。エドは人前だからと嫌がっている様子だったが、構わなかった。二人共、無事だった。どれ程安心した事か。美沙の切羽詰った声が携帯電話から聞こえた時、どれ程恐ろしかった事か。
それから一行は、軍部へと向かった。そしてマスタングからイシュヴァール人についての話を聞き――今に至る。
「……イシュヴァールは、無くなってしまったのですか?」
ぽつりと、美沙が呟くように尋ねた。
室内に、重い沈黙が訪れる。マスタングは、ゆっくりと頷いた。
「簡単に言えば、そう言う事になるな。だから、イシュヴァールの生き残りであるあの男の復讐には、正当性がある」
「くだらねぇ」
そう吐き捨てたのは、エドだった。
「関係無い人間も巻き込む復讐に、正当性も糞もあるかよ。醜い復讐心を『神の代行人』ってオブラートに包んで、崇高ぶってるだけだ」
黒尾はエドの言葉に無言で頷いた。
ニーナやアレキサンダー。あの子達が殺される理由など、何処にも無かった筈だ。
そして黒尾は唇を噛む。結局自分は、何も出来なかった。それが悔しくてならない。
彼らの会話は続いていた。ヒューズが息を吐き、話す。
「だがな、錬金術を忌み嫌う者が、その錬金術をもって復讐しようってんだ。形振り構わん人間ってのは、一番厄介で、怖ぇぞ」
「形振り構ってられないのは、こっちも同じだ。我々もまた、死ぬ訳にはいかないからな。
次に会った時は、問答無用で潰す」
パッと視界の端で動いた者がいた。黒尾は視線をそちらに向ける。
美沙だった。彼女の表情は、どう表現して良いか分からなかった。困惑したような、悲しそうな、それでいて不安げな、複雑な表情でマスタングを見つめていた。
――……?
黒尾は僅かに眉を顰める。エド達の身を案じるのは、美沙も同じ想いだろう。だが彼女は、自分とは違った感情も抱いているようだった。
「さて!」
ヒューズがぽんと膝に手を置き、立ち上がる。反射的に、黒尾はそちらへと目を向けた。
「辛気臭ぇ話は、これで終わりだ」
そう言って彼は、黒尾達を順々に見る。
「エルリック兄弟達は、これからどうする?」
「うん……。アルの鎧を直してやりたいんだけど、俺この腕じゃ術を使えないしなぁ……」
「我輩が直してやろうか?」
「遠慮します」
何故か再び上着を脱ぎ隆々とした筋肉を見せ付けるアームストロングに、アルは即座に返答した。
黒尾は、机の上に座るエドを振り返る。
「それに、アルの魂を鎧に定着する方法って、エドじゃないと分からないんじゃない?」
「うん。だから、まずは俺の腕を元に戻さないと」
「そうよねぇ……。錬金術の使えないエドワード君なんて……」
「ただの口の悪いガキっすね」
「くそ生意気な豆だ」
「無能だな、無能!」
「ごめん、兄さん。フォローできないよ」
リザの言葉に続けて口々に言うハボック、ヒューズ、マスタング、アルに、エドは「いじめだー!!」と泣き叫ぶ。黒尾はクスクスと笑っていた。先程までの重苦しい空気が一転、微笑ましい光景だった。
エドはふっと溜息を吐く。
「しょーがない……。うちの整備士の所に行って来るか」
そうエドが口にした頃には、雲の隙間から晴れ間が覗いていた。
2009/07/19